二人の友の死

 ことしの6月は私にとって極めてショックな月だった。私は旧制高校、第七高等学校に入ったのだが、それが1944年(昭和19年)の4月だった。今から数えるともう58年も昔のことになる。

 1937年に始まった日中戦争は底知れぬ長期戦と化した。その最大の象徴は1941年(昭和16年)12月10日の太平洋戦争開始だ。この戦いを始めることによって、日本は世界を相手にすることになった。

 旧制中学の3年だった私は自転車通学の途中でその報を聞いた。村に2、3台しかないラジオからその報を聞いた学友が耳うちしてくれたのである。一瞬、全身を身震いが走った。

「いよいよ世界中を相手にして戦争が始まる。そして私も又その戦さに一兵士として狩り出されるのだ!!」それは戦慄に似たものだった。何しろ私にはたった一人の祖母だけがあった。そのその祖母は戦争の話を聞くと「又、いくさが始またちよ。(始まったそうな)おまい(お前)が兵隊に行ったなら、あたしは生きちょらんでよ。(私はいきていられない)と嘆かれたのだから。このたった一人の祖母をどうしてあとに残して勇敢な兵士になれるだろう。勝ってくるぞと勇ましく、、、、、などと進軍出きるはずがない。いざとなったらそれでもこの祖母を一人残して出征するしかない、、、、」私にとってまことにきびしい時を迎えざるを得ない。

 ところが、何ということ!私が1945年1月に徴兵検査をうけ、第一乙種合格、でいつ召集されるか分らない身で、熊本の三菱航空機製作所で働いている時、2月の24日に、祖母は急死したのだ.急性心不全だった。

 伯父から知らせてくれた電報を読んだ時、私の脳裡をかすめたのは「あヽこれでおばあさんを悲しませないですんだ!」という安堵感だった。足腰の悪い、祖母を置いて私は勇躍して戦場へ赴く勇気はなかった。せいぜい「すぐ帰るから元気でいてよ」などとその場限りのウソをついて祖母の下を離れたであろう。そして離れてしまったあといつまでもメソメソと心の中で泣き続けたであろう。

 やはり、3歳から19歳までずっと二人きりですごしてきた祖母との年月は重いものだった。

 だから、私が入営する1ヶ月とちょっと前の2月24日、祖母の死があったのは、何という幸せだったろう。人との死別を「ああ、よかった!」などといえることは恐らくこの一回だけであろう。

 その祖母の死を葬うべく、動員先の熊本から帰郷した私のあとを一人の友人が追いかけてきたのだ。西条嘉一郎、という。

 彼は私と同年生れの小倉出身。小倉中学の出身だった。

 昭和19年入学の七高文科はたった一組三十名だった。(戦時中文科は極端にへらされ、理科240名に対して文科30名だったのだ。理科は戦争に役立つ仕事をするが、文科は直接役に立たぬから一組でいい、という理屈だった。そして理科生は徴兵猶予の特典があったが、文科はそれもなかった。だがそれゆえに文科の30名は一人一人が人生に対して誠実であり、個性的であった。

 西条は、私が西部18部隊への現役入隊の命をうけた時、たまたま航空機工場の庶務の仕事をやっていて地方へ出張していた。

「川口が現役入隊のため鹿児島へ帰った」そうきいて西条は直ちに熊本市の宿舎を飛び出した。そして夜行をのりついで鹿児島県川辺郡の私のところまでかけつけてくれたのだ。「おい!川口、きたぞ!」寒い2月だったが汗だらけになっていた西条に私は胸があつくなっていた。

 戦争が終って帰ってみると、鹿児島の鶴丸城跡の校舎はすべて廃虚になっていた。

 昭和20年10月25日、北薩の出水郡で授業が始まった。出水郡野田村、ここが私の新しい下宿だった。行ってみると、西条も同じ村だった。

 ここで小さな小さな同人雑誌を始めた。

 私は詩を書き、短編小説を書いた。西条はここでも皆の世話役だった。自分のことより人のことを心配した。

 私は東大に入りNHKに入った。

西条はお父上がもう相当の高齢だった。「これ以上父に迷惑はかけられぬ」といって彼は教職に転じた。

 福岡京都(みやこ)高校の先生から始まって福岡県のいくつかの教員をやり、のちに教育委員会の仕事をした。そしてあの同和問題にぶつかる。当時の福岡は同和をめぐる問題が相当に激しかったのである。その中で西条は大変な仕事をした。相手の話をきき、説得をし、又じっくりと話会う。この時の、交渉記録は今も貴重な文献として残っているという。

 定年になってからは彼はまた私立中学の先生にかえった。孫ほども違う若者に彼は一生懸命語り掛けた。

 私たちは毎年同窓会をもった。七高北辰会という。どんどん減ってゆく。だからできるだけ会おうよ。そういって西条は北辰会の幹事役をつとめた。

 ことし5月、医者をやっている友人大久保から電話をうけた。「オイ、西条がガンだよ。」「え!」絶句した。

 我々の仲間では体格もよく体力もあり世話役にすぐれた西条は同級生30人のうち最後に死ぬだろう。最後の弔辞を読んでもらうのは誰だ!などと話しあった。その彼が6月23日死んだ。

 朝いつもの通り奥さんが起こしに行ったらもう死んでいた!という。

 大久保がいう「西条はとうとう誰にも迷惑かけないで逝っちゃたよ。」

 私もそう思う。

 斎場のある北九州市の6月24日は朝から雨だった。300人くらいの弔問客があった。

 私は友人の一人として弔辞を読んだ。58年の交友がよみがえってきた。

 胸があつくなった。こみ上げてくるものがあった。思わず涙声になった。

「西条よ、そんな遠くない未来に我々もそちらへ行く。寮歌をうたって人生を語ろうよ

 ではそれまで、西条よ、さようなら 58年の友情に心から感謝する。ありがとう西条。ゆっくりやすんでくれ」

(もう一人の友のことは次に書く)