津川雅彦

 私がN響から移ってNHKの会長になったのは平成3年(1991年)である。島会長の「やりたい」放題の施策によりふり廻され、おまけに衛星の打ち上げ失敗時の島君の国会虚偽答弁によりNHKはゆれにゆれていた。

 のり込んでみると、中は予想以上に混乱していた。それはもうガタガタであった。どこにどう手をつけたらいいか、呆然とする程であった。

 まず乱暴な計画を殆ど、中止した。GNN(グロ−バルニュ−スネットワ−ク)のような必要性も成功性も殆どないプロジェクトなど直ちに中止した。

 番組の売買を中心とする新経営論も封じこめてしまった。

 何よりも、どう進んでいいのか迷っていた。職員に方向を確実に指示する必要があった。

 士気を鼓舞するためにNHKの進むべき方向をきちんと指示した。「三つのた」、NHKの目指すのは(1)たよりになる(2)ためになる(3)たのしめるという三つの旗を揚げた。

 全体の経営論、グロ−バルネットワ−クに示されるような世界的規模の放送網構築論など、明らかに現実を無視したものは直ちにとりやめる。

 そして部内の制作者のたぎるようなエネルギ−の噴出を期待したのだ。批判が続いてどんどん落ち込んでいたNHKの財政も早く立て直さねばならなかった。何しろ不払いが日を追って増加していた。

 この頃、大河ドラマは「八代将軍 吉宗」を放送していた。勿論吉宗が主役だったがそのスタ−トから3ヵ月の主人公は何といっても五代将軍綱吉だった。

 この綱吉役者が、津川雅彦さんだった。

 何しろ脚本がジェ−ムス三木である。実にこった構成で意表をつく人物が次々に出てくる。その第一番に登場して、いきなり人々の心を奪ったのが「綱吉」だった。そしてこの綱吉をウ−ンとうなされる演技を作りだしたのが津川雅彦さんだった。

 7月31日に会長になってからも、綱吉だけはかかさず見ていた。

 会長の緊急な仕事も概ね片づいた10月、ある日、私は手紙を書いた。津川雅彦あてである。「あなたの綱吉にはびっくりしている。すばらしく面白い人物像を創り上げてくれてありがとう。益々たのしい人物を創り上げてほしい。だいたいこんな内容だった。

 折返して返事がきた。

「会長さんがじきじきに手紙をくれたことは何よりの光栄です」とある。

 私はすぐ手配をした。NHK近くの料理屋さんを手配して、ここにジェ−ムス三木、津川雅彦、西田敏行の三人をお招きした。話は久しぶりに楽しかった。作劇の話が出た。綱吉の役づくりの話が出た。私も久しぶりに「もの作り」に間接ながらタッチ出きる幸せを語った。

 何日かして津川さんからお招きがきた。「六本木のバ−でどうですか?」

 行った。そしてたっぷりと津川さんとサシで話をした。それまでの津川さんはどちらかといえば、ヤサ男、二枚目、としか見られていなかったが私はこの人の中に逞しい野性の男の影を見た。二人は意気投合した。会うことは余り出来なかったから、専ら手紙が二人の間をとりもった。

 そして津川さんはどんどん大きな役者になった。テレビだけではない、映画でも東条英機というむつかしい役を見事に演じた。

 私の妻が亡くなったのは平成6年の暮だった。その翌年の8月16日津川さんは私を京都に招いてくれた。京の大文字、−送り火の日である。あかあかと燃えてやがて真の闇にかえって行く送り火の一夜は、私にとっては何よりの妻への送り火の日だった。

 役者は役者としての風格をこうやって作ってゆくのだナと思わされた。

 以来、津川さんはどんどん大きな役者になった。まだまだ60ちょっとすぎである。大成を期待したい。