元の持ち主に返った机

「これ、馬篭の藤村記念堂に納めたいんです、新聞社からやってくれませんか」と癌だと思って開腹手術をしたら胃潰瘍だった久保田万太郎が、毎日新聞の狩野近雄に依頼した。

 それは松の一枚板の机である。その裏をひっくりかえすと、藤村の署名がしてあった。この机は「破戒」「春」「家」などを書いたもので大正二年フランスに行く時、籾山仁三郎に贈られ、大正十三年、籾山仁三郎から、前年の関東大震災で凡てを焼失した久保田万太郎に贈られたものである。

 この机は、藤村が7年間の小諸義塾の教師を辞して、明治38年背水の陣で上京する時に、義塾の教師と生徒が記念に贈ったものである。

 島崎君、小諸の町を去りて東上の砌義塾の教員生徒等いたく別れを惜み、茶話会を開きなどし、尚心計りの記念のため近津の森より伐り出せし松の板もて、粗末なる机一脚を作りて贈る。

 君が行く東の空は遠けれど、近津の森に心留めよ

征露第二年四月      不自棄生

 不自棄生とは藤村の「貧しい理学士」(大正9年)の中の斎藤先生である。筆蹟は藤村自身。その次に

 春雨はいたくなふりそ旅人の道ゆきころもぬれもこそすれ

 大正二年    渡欧の途に上る日  籾山兄ののぞみにまかせこの机をおくる

 これには藤村、と自筆あり。そしてもう一つ

 春寒や机の上のおきこたつ

 大正十三年甲子歳九月  更に久保田兄に比のつくえをおくるとて敢えて旧吟を書きつけ侍る   梓月

 梓月は籾山仁三郎の雅号である。

 久保田万太郎はこの机で「寂しければ」「短夜」など数々の作品を書いている。戦災で焼け出されて時にもこの机一つ、子息の耕一の手で二階から難をまぬがれたのである。

 かくしてこの由緒ある机は厳重に荷作りされて、小型トラックで馬篭の藤村記念館に運ばれた。実に56年ぶりに元の持ち主の生家に戻ったのである。