考えられない飛び級の話
「塵の中」や「樋口一葉の日記」で知られる和田芳恵は、その晩年を振り返って、何不自由なく一生を送るのは、特殊な家庭に生まれ、育った、ほんのひとつかみほどの選ばれた人だけで、世の中の多くの人は、生きがたい世を生き抜いてきたまでの話だ言って、その少年期に巡り合った人々を感謝の気持を持って回想した。
和田芳恵が札幌の北海中学に編入試験を受けて、二学年の入ったのは大正10年4月のことである。大正8年数えの14才で函館商船学校に入学したが、一年の学年末試験を受けた時、スペイン風邪にかかって、2年に進級することになっていたものの、腹膜炎を起こし一年休学。商船学校は厳しい訓練を課せられるので、初期の志を方向転換して私立の北海中学に入学した。
中学2年を終えた頃父親が脳血栓で倒れ、まだ小さい弟や妹がいるので学校を辞めて家計を助けることになった。そして生まれ故郷の小学校で、代用教員をして、月33円の俸給を貰い、当時本家があったのでただでおいて貰い、その内30円を家庭に仕送りした。
戸津高知氏という校長が、特例を設けて学年末試験を受けたら、4年に進級させてくれることになり、古河寿平氏という教頭は佐藤育英資金が出るように世話をしてくれた。たった一年間在籍しただけでいくら成績がよくても、こうした計らいを考える事が出来ないと言う。
代用教員を辞めて、中学4年生にかえってからも、佐藤育英資金が届くと神棚のそなえてから、すぐに下ろして、生活費にまわす貧乏やつれした母親の顔を見なければならなかった。
和田芳恵は、いつも月謝の滞納者の一人として、教室で名を呼ばれ、謄写の原紙を切る内職などで、どうやら、月謝の払いを間に合わせたが、母の苦労を思えばなんでもないものと考えたものであった。
しかしよく考えてみると、病人の父親とそれに母親、弟と二人の妹の一家が30円で食べていくことは出来ず、代用教員していた時から20円の育英資金を貰っていた。学校は休学したが月謝は収めていた。
中学3年生から昭和6年3月に中央大学法学部を卒業するまで、篤志家の佐藤正男氏の世話になった。大学に入ってからは佐藤家の家庭教師をつとめた。
和田芳恵はこうした篤志家に巡り合わなかったら、大学は卒業出来なかったであろうと佐藤正男を終生徳とした。