二子山勝治

 栃錦こと春日野理事長のことを書いたから、次ぎはどうしても、二子山さんのことを書かねばならない。「栃−若」と並び称された名力士、現役時代のシコ名「若ノ花」は余りにも有名である。ゲンをかついで、若の花、もしくは若乃花と書いた時代もあるが、私にはやはり「若ノ花」が一番ふさわしいと思われる。

 何しろ、現役の頃は強かった。どんな大きな相手でもつかんで投げてしまった。その大業(オオワザ)は印象的であった。栃錦の方も勿論投げ業は素晴らしかったが、若ノ花の投げ業は一際群を抜いていた。

「よびもどし」という大業は若ノ花によって一躍有名になった。

 私は、春日野親方(理事長)の時にNHKの代表としてNHK盃授与の役を始めたのだが、のちに、理事長が二子山さんとなり元栃錦、元若ノ花この二人の名力士におつき合いしたのだった。

 昭和59年、秋、私は放送総局長として仙台に出張した。地方局のあり方、体制を変える必要があって、仙台放送局に東北管区の放送局長を集めて話をきいたのである。会議も終って土曜日、仙台の町をブラブラ歩いていた。私の目に、「仙台だぐわし」という看板が目に入った。「駄菓子」である。翌日日曜日が大相撲の千秋楽である。「そうだ。この駄菓子をお土産に買って、明日もって行こう。春日野さんも二子山さんもきっと喜ぶに違いない!そう思って私は「仙台だぐわし」の特大の箱を買った。そして翌日曜日その箱を抱えて、千秋楽の場所に行った。

「仙台に用があって行ってました。街の中で見つけましたので一箱買ってきました。どうぞ召し上がって下さい」

 理事長の周辺には、二子山さんをはじめ何人かの理事さんや秘書役の人たちがいた。私はおみやげの箱を二子山さんに差し出した。

「これは、ありがとう。うまそうですな」そういって二子山さんは、そのまま春日野さんの方へもって行った。

 我々の世界でそういう場合は、箱をあけたら「さ、皆でいただこうよ」などといってその場の全員で食べるのが普通だ。だがこの世界は別だった。

「これは珍しい。ありがとう」そういって春日野さんは、一人でムシャ、ムシャ食べ始めた。そして3、4個ほほばると、「これ、いただきものだ。皆でいただきなよ」そういって二子山さんに渡した。

「お−い皆来いや!」二子山さんは皆を集めて残りの菓子を豪快に食べ始めた。

 なるほど!相撲の世界では、理事長断然なのだ!そして他の人たちはその他多勢!となる。かっての大横綱若ノ花も、大理事長春日野の前では一列なのだ。これにはびっくりした。同列であるはずの二子山親方だって春日野理事長の前では、他の人々と一列だった。なるほど!これが相撲の世界の常識なのだ。私はびっくりしながら納得した。それにしても栃錦と並んで横綱を張った元若ノ花の二子山さんもキチンと礼をつくす。私はこの世界の面白さを今更のように眼前に見たのだった。

 さて、その二子山さんは春日野さんの後をついで理事長になった。私たちも全くキャラクタ−の違う二人の理事長の個性に合わせておつき合いを始めた。

 二子山さんは、一見ブッキラボ−であるが、実はなかなか気配りのきいたお方だった。

 初めての夜、「飲みに行きましょう!」そういって外に出た。

 行ったところは上野にあるキ−さんバアであった。ウイスキ−をコップでグツとやったあとは直ちにマイクを握ってカラオケである。少々声はシャガレているが、節廻しはなかなかお上手である。「川口さんは歌はどうですか?」「いえ。私はいつも聞く方で歌う方は不調法で、、、、」「じゃ私が歌います。いいですか」次から次へと歌いまくる。すべて演歌である。

 独りで歌いまくって約一時間。「どうも、一人で歌ってすみませんでした」

「いや、いいですよ、とてもいい歌でした!」「川口さんにそういわれるとうれしいな。じゃこれで、出ましょう」

 さっと歌にケリをつけて店を出た。

 あとで聞くと、私の同行者、国見君に事前に細かいリサ−チをして、「川口は余り飲めない。カラオケも歌わない。短い時間なら楽しくおつき合いする」といったことはご承知だったらしい。それにしても鮮やかな歌いっぷり飲みつぷっり、そして引き際の鮮やかさ!「う−ん、さすが若ノ花!」私はこの一事ですっかり二子山親方が好きになった。