婦人開放運動の先駆者の一人、山川菊江が藤沢の村岡に「うずら園」を経営するために、移住してきたのは昭和11年5月であった。鎌倉を10年転々として、自活の道を考えなければならなくなった結果、住宅地の鎌倉より農村の方が、うずらを飼育するのに便利だと言うので、居を藤沢の外れの村岡に定めたのである。現在の村岡小学校の傍である。土地を借り、9坪の禽舎2棟、孵化、育雛用の建物1棟、孵卵器2台、育雛器3台を置いて始めた。それ以前にイタチ等を飼育してみたが、家畜として事業には適さないことが分かった。

鶏、兎、豚、山羊など家禽、家畜がどんなに長い間かかって、なんとなく人間と共存できるように改良されたものかと、古い祖先の苦心と才能に頭が下がる思いがすると、山川菊江は言う。

長男の病気の療養にも良いことから、藤沢の郊外に腰をすえてなれぬ農業をしなければ筆を曲げることになる。昭和12年の人民戦線で山川均が入獄、14年の出獄まで留守宅を女手一つで守って終戦を迎えた。

昭和22年、社会党が連立内閣を組み、労働省に婦人少年局が創設され初代局長になって、一躍脚光を浴びた。就任して功績の一つが、農村や工場の実体調査であった。男女別の統計。戦前アメリカ合衆国労働省婦人局から送られてきた統計調査資料を見て、日本にもそういう官庁があればいいなと思っていたという事が、現実的になったのである。

明治時代の末期に東京下町の紡績工場に、見学に行きその実体があまりにも過酷なため、若い女工達が羅病し死亡率が高い事を知った。改めて労働条件の改善に目覚めた経験を持つただけに、明治はよい時代だと言う説には組せず、人類の黄金時代は過去になく、未来にしかありえないという持論を貫いた。他界する前、5年間闘病生活を強いられたが、その間これまでの人生で一番良い時はいつであったか問われて、今が一番いいと答えた。常に前向きの志向は終生変ることなかった。

山川菊江は、この藤沢の村岡に来てから、昭和15年に雑誌の対談で知り合った柳田国男の勧めで村の生活、伝説や風習を丹念に聞き取り、柳田国男の研究誌に発表したものを「わが住む村」として出版している。生活が苦しい時だけに、有り難かったと言う。山川菊江はの祖先は水戸の出身であり、菊江は東京生まれであるから農業の生活は知らないので、周囲の農家の年寄りに聞きながら、自作しての生活であった。そうした新鮮さを感じたまま記録した「わが住む村」は「武家の女性」と共に山川菊江の戦前の代表作となっている。

山川菊江は明治23年東京に生まれているが、母方は代々水戸藩で、曾祖父に青山延うがいる。祖父も漢学者で、母親も明治の始めにお茶の水の女子師範一期生といった 高等教育を受けた一人であった。父親は明治維新後、早くもフランス語を学び、通訳の試験を受けて一時は現場に出たが時代が一変し、食肉の研究に転じ養豚事業に従事した。こうした係累を見ても分かるように山川菊江は時代の先端を行く環境に恵まれていた。

山川菊江の父親は、中江兆民と外語学校で机を並べた仲であり、祖父は中村正直と講堂間で一緒に勉強したことから、菊江の母親は一時中村正直の塾で学んだこともあった。中村正直は「西国立志伝」で明治の青年に大きな影響を与え、同人社を開塾したが、経営を担当する人に恵まれず福沢諭吉の慶応義塾のように発展しなかった。

山川菊江が生まれた頃は、鹿鳴館時代で欧化思想が弥漫していた。日本の上流社会では夜毎舞踏会が繰り広げられ、洋装、束髪、洋食、英語と旧時代のものは顧みられなかった。だが表面は華やかであっても意識的には旧態依然であた。女性の人間としての自覚や独立の能力を付けるものではなかった。結婚に関して恋愛はおろか見合いすらしないで、親同士が取り決めた婚姻であった。

山川菊江は少女時代に兄に勧められて「不如帰」を読んで涙したり、福沢諭吉の「新女大学」を読んで胸の晴れる思いがしたり、母親が「病床六尺」を読み菊江に聞かせるといった読書環境にあった。当時の女性の理想像、良妻賢母に反発し、男性と同じ権利を主張する新しい自由な女性をめざしていた。

女学校時代は、テニスに熱中する一方古典文学を渉猟し、祖父の所蔵していた古い新聞を読む習慣がいつの間にか身につき、すでに社会に目を向ける萌芽があった。同級生から木下尚江の「火の柱」、「良人の自白」など読むことを勧められた。学校の教師が「あなたの家では新聞を読むのですか」などと聞く時代の事である。そんな風な状況に我慢できずに一時は中途退学を試みたが、周囲の説得で卒業した。

国語伝習所に入学したての頃、九段下の成美女学校で開かれた「閨秀文学会」で5月から7月まで生田長江、森田草平、与謝野夫妻らが講師で教えた。15、6名の聴講生の中に一際人目をひく平塚らいちょうがいた。岡本かの子などもいたが、最後まで残ったのは山川菊江だけであった。平塚らいちょうの回覧雑誌に数年前に経験した競売の風景を書いた。

女学校を出て、1年半後の1908年に津田の予科に入学。入学の時の作文「抱負」に将来婦人解放のために働くと書いている。津田は職業婦人を養成するのが目的であることと語学中心の教育機関であるから、ある意味で山川菊江に合っていたようだ。英字新聞も授業に取り入れられ、国際問題にも関心を持つようになる。それに外人教師が世界の趨勢に通じていて、英米の婦人参政権などを紹介している。この期間に基礎的学問が身に付いたといえよう。

1910年に大逆事件が起き、山川菊江は直感的になにやら非常な無理と不正が感じられたと当時の感想を書き記している。1911年には中国で辛亥革命が起き、在日中国女子留学生が演壇上から気勢をあげている光景は、山川菊江には珍しかった。

上野池の端の観月亭での平民講演会で、山川菊江は警察に一晩留置される。この時まだ菊江と結婚していなかった山川 均も拘引される。山川 均はそれより先に1900年に雑誌「青年の福音」で不敬罪で投獄されている。出獄後、しばらく運動から離れて、上京した矢先であった。

1916年の秋、満26歳で結婚。それまでの森田 姓から山川の姓に変る。結婚に際してペンネ−ムにも実家の姓を使わない事が条件であった。当時 社会主義者というと、ごろつき同様に思われ、親兄弟が失業し、姉妹が離縁される例さえあるほどの異端者であったという。この事は山川菊江には何の痛痒も感じなかった。仲人は馬場孤蝶であった。馬場孤蝶は山川夫妻の終生の師でもあった。

四番町の借家から、山川 均は堺 利彦の売文社に通う。新所帯のとき山川 均から、「今うちにいくらお金がありますか」と菊江は聞かれて10円と答えると、それはすばらしい。月の中頃に10円もあるなんてと言って感心していた。だがそういう生活も長く続かなかった。

菊江が南湖院の高田耕安から結核と診断されたのである。悲観的な宣告を受けたのであるが、堺 利彦の紹介で三田の奥山医師の診察を受けた。大杉夫妻はじめ同志達に評判がよかった。奥山医師は絶対服従を条件に引き受け、命令のまま鎌倉に移り、週1回注射に通院することになった。山川菊江と鎌倉の縁はこうした転地から始まった。稲村ガ崎のミス ハ−ツホン(津田塾の教師)が塾生の静養のために建てた山小屋を無料で借りる。療養しながらも翻訳のアルバイトをした。その頃の社会主義者は半失業者のようなものであったが、なかでも、仄聞した渡辺政太郎夫妻の貧窮の中にあっての一途な夫婦愛は、山川菊江にとって、大きな励ましであり、感激であったにちがいない。

結婚した山川夫妻は「資本論」をゆっくり読もうとか、労働者向けの読みやすい新聞を発行しようとか、青年を育成したいといった夢がもろくも破れ、別居生活を強いられた。山川 均は日昼は売文社で働き、夜はアルバイトの原稿書き。菊江の母親はいつでも迷惑であるから、引き取ると言ったが、山川 均は「われわれの戦いは長いのだ、あせる事はない。今の我々二人の仕事はあなたの健康をとりもどすことだ。ぼくはそのために、どんなことでもするから、そのつもりで身体をなおすことだけ考えていてくれ。」と言ったり、手紙に書いたりしてきた。

こうした最中に菊江の父親が、失意の中に母親や姉にみとられ、死去した。またこの年1917年はロシヤ革命が起き、菊江は稲村ガ崎の江の電のプラットフォ−ムで新聞を広げてアッと驚いた。電車が来るまで呆然と立ち尽くしたという。

発病後妊娠が確認されたが、奥山医師の指示通り分娩に踏み切った。母子無事であった。その時の子が長男 振作であり、振作を少年時代に5年間の療養生活を送り、奥山医師によって全快し後年東大の医学部の教授になった。こうした事から、山川 均は生涯三人の先生の一人として、小学校時代の恩師、馬場孤蝶、奥山医師をあげている。

1918年の冬はスペイン風邪で、一家が床に臥す状態であったが、山川 均は離床後、荒畑寒村と労働者に団結と労働組合の必要を説いたタプロイド版「青服」を発行したが、毎号禁止3号で休刊せざるをえなかった。その後山川 均は拘引、入獄中に父親が死去する不幸に襲われる。その間売文社の堺 利彦が経済面で心配してくれる。こうした折り森戸辰男の推薦で、山川菊江は社会政策学界の会合で、婦人問題の話をする。この話を基に「国家学界雑誌」に掲載され、稿料160円を受け取り、時が時だけに忘れられなかったと言う。福田徳三主筆の「解放」の創刊号にメ−デ−の解説を執筆、反響を呼んだ。

1919年の5月に初めて山川 均の実家を親子三人で訪れる。倉敷の生家は300年続いた旧家であったが、13歳で養子に来て、豪放磊落な養父の死去に伴ない、家付きのわがまま娘の養母が采配を振るっていたところに、明治維新によって、没落してしまいその跡地は倉敷紡績の工場になっていた。菊江の祖父青山延寿が「大八洲遊記」の紀行の途次、均の姉が嫁いだ良人の祖父林 翁に、菊江と均が結婚する30年前にすでに会っていたのである。奇縁というべきである。

明治33年5月東宮慶事の最中に皇室を誹謗する記事で不敬罪になった後、均の父親は戸口に青竹をぶっちがえにうちつけて、謹慎し一歩も出なかった。貧しくとも人の世話にならず、最後まで自立の原則をまもり、息子 均の行動に口をはさまず、世の動向には終生関心を持ち続けた。また母親も子を生かすためには均を自由にさせる以外なく、寂しさに耐えたという。当時の風潮からすると、こうした親の子に対する信頼は稀有と言ってよい。

1921年の春、堺 眞柄、九津見房子、橋浦はる子、伊藤野枝などの間に研究婦人団体「赤爛会」を結成した。9月に神田の青年会館で講演会を開催したが、ことごとく中止解散となった。

1923年の関東大震災では大杉 栄と伊藤野枝が殺害された。山川夫妻の一家はその当時大森に家を建てて、住んでいたが大工が手抜きをしていたので、激震で倒壊した。そのために避難していた。あとで分かったことであるが、その跡に警察が行方を捜しにきたが、分からず寸でのところで命拾いをした。もし大工が手抜きをせずに堅牢な家屋を建てていたら、避難先から戻って来ていてどうなったか、薄氷を踏むおもいであった。

1924年1月には病床の山川 均は二度ばかり予審判事が出張して来て取り調べをした。この頃から運動を捨て、反動に走る者さえあり、一般に反省期に入っていった。

1925年に山川菊江は神戸の御影町に移転した。着のみ気のまま転居である。この年は普通選挙法が議会を通過し、抱き合わせに治安維持法が施行された。山川菊江は所属していた政治研究会神戸支部婦人部に次のような綱領を提議した。1、戸主制度の廃止、一切の男女不平等法律の廃止 2、教育と職業の機会均等 3、公娼制度の廃止 4、標準生活賃金(最低賃金)制定の要求については性及び民族(朝鮮人、台湾人)をとわず、一律の最低額を要求すること5、同一労働にたいする男女同一賃金率 6、母性保護(産前産後の保護、妊婦の解雇禁止その他)

1926年に鎌倉に移転。1927年に正統マルクス主義、純正左翼を標榜する堺 利彦、山川 均、荒畑寒村、鈴木茂三郎らによって月刊[労農]が発行され、「労農派」がそれを中心に発展した。

1929年に均の父親が、89歳で人の世話にならず死去した。菊江に言わせると、父親はいろいろな生き物を飼うのが好きで晩年は食用鳩を飼い、均も食用鳩を飼育していて、こんなところも父子共通している所があったと言う。

1930年から5年間長男 振作の病気の治療に三田の奥山医師の近くに間借り生活を続けた。1932年の5、15事件以後は言論の自由がせばめられ、執筆活動が思うようにならなかったので、鎌倉で色々な動物を飼育してみた。山川 均は単に書斎の人でなく、大工仕事始め、大変器用でマメであるので向いていたのであるが、試行錯誤の結果、うずらの飼育に落ち着いた。この鎌倉在住中は社会主義者と言うので、借家を断られ大規模に飼育するには藤沢の外れの方が都合いいということから、村岡に居を移すことにしたのである。

1947年に菊江の母親は「あゆみ来し道にさわりのものすべてわがながき世のかてなりしかも」の辞世の句を遺して死去。1958年山川 均死去、1980年山川菊江死去。山川菊江は社会主義者の山川 均を支え、婦人解放一筋の波乱に富んだ生涯であった。15年ほど前は「湘南うずら園」の周辺に畑があちこち残っていたが、現在は新興住宅が櫛比していてその面影は窺えない。