ある軍人国際人= 山本信次郎

海軍軍人と言うと、太平洋戦争では山本五十六、日露戦争では山本権兵衛の名が浮かんでこよう。だがもう一人の海軍の山本信次郎について知っている人は、今では地元でも年配者に限られであろう。現役時代武勇赫赫たる功名を挙げたというよりは、生涯を通じて軍人でありながら信仰篤い国際人であったと言ってよい。

第二次大戦後、平和国家を目指すようになって、国際人と言う言葉が一般に流布されるようになったが、戦前はそれほどポピュラ−な言葉ではなかった。今ここに紹介するのは、近代日本において軍籍にありながら、クリスチャン山本信次郎の知られざる側面を簡約する

山本信次郎は、(1)「日中友好異聞」の常立寺の周辺から片瀬一帯にかけて、土地を所有する地主山本庄太郎(1480年生まれ)の次男として明治10年(1877)誕生。庄太郎は当時の鎌倉郡の郡長を務め、後には県会議員になっている。鵠沼から江ノ島に到る砂浜を払い下げてもらい、独自の植林方法により住宅地の造成に成功した。

庄太郎が偶々明治20年(1891)、海水浴に来たフランス人一行に家を貸した。それが縁で、開校したばかりの東京の暁星中学に信次郎を入学させた。カトリックの宣教師によるこの学校は、寄宿舎制度で授業もフランス語、英語で、信次郎は4年間みっちり鍛えられた。それが後の外交官としての職務におおいに役立った。

それにつけても、言わば実績のない外人宣教師の経営による学校に、よくも息子信次郎を送り込んだものである。明治の中葉に、これからは外国語の習得が欠かせないという先見性は、庄太郎の明察の尋常でない事を物語るものである。信次郎はよく父親の負託にこたえて成績抜群、卒業に際して校長のアルフォンス、ヘンリックのアドバイスを得て、海軍の道に進む。時に19歳。

日露戦争までの数年間は、練習船に乗り込み欧米各地を訪問。山本信次郎は日露戦争の折り、ロシアの敗戦の将軍ロジェストウエンスキ−中将と東郷平八郎の会見の通訳をした。東郷平八郎は人道的立場から、「私怨を超えてなんなりとも遠慮なく申し出られよう。出来る限りの便宜を図りましょうと、伝えたのに対しロ中将は暗涙を堪えつつ、武運拙く祖国のために尽くしたが、敗戦の将とはなったが希代の名将と、あいまみえたことは残念のうちにも、若干の慰安を感ぜしむるものがない訳ではない。」と答えた。語数の都合上、原文を載せる事が出来ないのが残念であるが、名場面を彷彿とさせるに十分である。

山本信次郎は、第一次世界大戦講和会議に主席全権西園寺公望の随員としてパリに赴く。1922年に御学問所御用掛として、少将のまま予備役となる。彼は昭和天皇の皇太子時代の教育にあたるに際して、その任にあらずと固辞する。だが上司らの説得によって、受けざるを得なかった。その頃彼が外人に対する身の処し方を述べているのが残っている。「外人と直面すると、必要なこと迄言うのを遠慮し、正当な権利までも主張することの出来ない日本人とは異なり、外国人に対して余計な遠慮はしない。どこの国の人に対しても、理由なしに一目置かない。いつでも、貧弱ながらも持ち合わせている外国語の知識を出来るだけ完全に発揮して、応対し思う存分のことを言い、自然に激しい議論もする」と見識のある発言をしている。とかく外国人に対して迎合するか居丈高になるかして、バランスの取れた考えがなかなか取れないものである。

若きプリンスの外遊に供奉して、日本の皇室の尊厳を諸外国に印象ずけた陰には、皇太子の人柄もあるが、山本信次郎の外国語教育によって当時の先進国の伝統、風俗、習慣を日ごろ学ばれた事が実際に生かされたためでもあろう。

また皇太子外出のおり、 陪乗の際は常に不測の事態に備えて一身を挺する覚悟を常に持っていた、と言う。臣 山本信次郎ここにありである。

山本信次郎は16歳で、洗礼を受けている信仰篤いカトリック教徒である。世界の教会を通じて、国家間を往来し、元首、国王に謁見し日本の立場をその都度説明し、外交官としての役割を担った。その行動半径は全世界に及んでいる。今と違って、交通機関の発達していない時代のことを思えば驚嘆に値する。バチカンの5人の歴代ロ−マ法王に、謁見を許されているのも異例であろう。

彼は軍人、外交官である前に信仰の人であった。公然と発言するあまり、軍国主義が台頭して来た彼の晩年には、右翼の対象にされた。だが病床にありながらも生涯、信念を曲げる事はなかった。

彼は祈りを生活の中心にすえ、神の摂理を唱えている。「平常の出来事は、いかにも自然に見える場合が多いので、たとえ摂理によって、大きな恩沢を受ける場合でも一向気が付かない。あたかも教外者のように、いわゆる運がよかったとか、うまく回り合せたと言って特に注意をしない場合が多い」と言って自己の生死を左右する事件をはじめ、人生様々の局面の体験から、繰り返し述べている。

父庄太郎から昭和6年受け継いだ片瀬海岸の土地を分譲し、その利益をカトリック教の公教青年会の活動に注ぎ込んだ。外国語習得のために暁星中学に信次郎を入れたが、庄太郎は家代々仏教徒であり、キリスト教に馴染まなかった。しかし最晩年には入信して帰天した。

信次郎が幼い頃の片瀬海岸は、一寒村に過ぎず人家もほとんどなく、かって信次郎が、初めて見た異人達と、楽しく遊んだ風景は痕跡を残してはいない。山本信次郎が65歳で帰天してから、今年で58年ただ変わらないのは、近年とみに、少なくなってしまった砂浜に立って、遥かに望まれる雄大な景色だけは今も昔も変わらない。

なお片瀬海岸を分断して、流れる片瀬川河口と上流にやまもと橋としんやまもと橋が架橋されている。そのやまもと橋のたもとの片瀬カトリック教会に隣接して、山本公園がある。園内には松の大樹が、砂地に亭々とそびえて、庄太郎が植林した往時の一端がわずかに偲ばれる。小田急江ノ島駅から北に7、8分のところである。

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