映画「山の音」と甘縄神社界隈

山の音」は 川端康成が、昭和24年に「改造文芸」に書きはじめて、断続的に文芸誌に書き継がれ、昭和29年に完結した。

成瀬巳喜男監督の「山の音」は老いの寂寥を感じている信吾(山村 聡)と妻保子(長岡輝子)と息子修一(上原 謙)その妻(原 節子)が鎌倉の山を背にした神社のそばに住んでいる。親子は東京の同じ商事会社に勤めていて、経済的には不自由ない中流階級である。だが嫁いでいる房子(中北千枝子)が夫との不和で実家に帰ってくる。一方、修一には愛人(杉 葉子)がいて、夫婦仲がしっくりいかない。保子は娘の房子と孫のことが心配であり、信吾は、ふしだらな息子のために嫁の菊子の事が気になる。房子は別居していた夫がバ−のホステスと心中を計るという新聞ダネになったのを機に離婚を決意し、自活の道を考える。一方、信吾は修一の愛人が妊娠したので、愛人に会って中絶して新しい人生を歩むことを勧める。しかし愛人はそんなこと言われなくても、自分の責任で子供を生んで、育てて行くと拒絶する。

60歳になって疲労と倦怠を覚えはじめた信吾は、或る夜、家の裏山で風もないのに、不気味な地鳴りのような音を耳にした、自分の耳鳴りかと疑ったがそうではない。それは魔が通りかかって山を鳴らしていったようや異常な響きであった。それは初めて喀血したこともあって、死期を告知されたようで慄然とする。

映画「山の音」は、小説が完結しない前に撮影を開始した。それだけではないであろうが、結末が原作と反対になっている。映画の中でも原作にないところが、監督の演出で創出されている部分がある。菊子(原 節子)が慈童をかぶって、その間から涙の滴が流れでる秀抜なシ−ンはその一つである。お面の中から義父信吾(山岡 聡)を凝視する視線が、最後に夫(上原 謙)と離婚する結末の伏線になっている。嫁と義父の精神的な愛情が一歩逸脱すれば、禁忌の世界に踏み込んでしまう微妙な男女の心理が、品格ある画面によって映し出されている。つつましいが、自尊心の強い、匂うような美しい美貌の菊子役に原 節子を起用したのは適役であった。

映画の舞台となっているのは鎌倉長谷の川端邸である。撮影にはそれと同じセットを組み、撮影された。長谷の通りにある消防署の角を山に向かって曲がると正面が甘縄神社で、隣接したところに川端邸がある。神社の境内は、いついっても、人影がない別天地である。川端康成は、昭和12年から住んでいた二階堂の谷戸にあった蒲原有明が所有していた家から、長谷のこの家に昭和21年転居。ここが終の住処となった。当時と変わっているのは、邸内に川端康成記念館が出来ていることである。

鎌倉は谷戸とか谷(やつ)と言われる所が多い。通りから、引っ込んだ三方が山に囲繞された地形の名称。それが又さらに奥深く山にかこまれた奥谷戸があるところもある。

甘縄神社のひと山、裏は大仏が鎮座している高徳院で、ここは連日内外の観光客で賑わっている。だが、一歩住宅街の小道に足を踏み込むと、様相が一変し、閑寂な住宅地がいたるところにある。生け垣、竹垣に囲まれた家並みは年々減少しているが、かっての面影がまだ残存している。この映画が作られた昭和28年頃は、今のように観光客も多くなく、車も人通りもまばらで町全体が閑散としていた。そういった雰囲気がこの画面からも窺えて風俗史の上からも捨て難いフイルムである。

監督成瀬巳喜男は、松竹から移籍して、1935年にP.C.L.で川端康成の「浅草の姉妹」を「乙女ごころ三人姉妹」の題名で、ト−キ−で初めて撮り、評判もよく幸先の良いスタ−トをきった経験がある。この時に原作者の川端康成は原作の欠点を補なわれていると、賞賛している。映画「山の音」も映像として原作にはない雰囲気が出ていて映画として成功している。おそらく原作者はこういうこともあって、監督に全幅の信頼を寄せて、恐らく映画化に関して注文をつけなかったに違いない。名作だからと言って名画になるとは限らない。その点、名作「山の音」は、名画「山の音」となった。キネマ旬報 昭和 29年度6位