夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総

 鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。

 土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。

 日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ−に出会わなかった。

 鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。

だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。

 終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。

「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」

 おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。

 道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ−トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。

 交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ−ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。

 田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。

 田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。

 服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ−事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。

 この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ−の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。

 戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ−ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ−ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。