吉田 正

 古賀政男、服部良一ときたら次はやはり吉田 正をあげなければならない。私個人は、現代日本大衆歌謡の作曲家三人をあげよ、といわれれば断然この三人に指を屈する。他にもすばらしい作曲家、たとえば、中山晋平、古関裕而、佐々木俊一、仁木他善雄、松井八郎、吉田矢健治、いずみたく、中村八大、といった名前があがる。

 だが「3人にしぼれ」といわれると、やはり古賀、服部、吉田とならざるを得ない。

 曲の数の多さ、ヒット曲の多さ、それも断然他に比べられないユニ−クな味わい、等を入れると、この三人になってくる。この人選、恐らくは異論ある方は少ないだろう。もっとも作詞家の方になると、これはもう多士済々でなかなかしぼりにくくなるのだが、、、、。

 さて、吉田 正さんと初めてお会いしたのはNHKテレビ開始後の昭和29年頃である。例の「異国の丘」で新聞をにぎわせたあと、吉田 さんはビクタ−入りしてプロの作曲家の道を歩みはじめた。

 ヒット曲の第一号は三浦 一の歌う「落葉しぐれ」である。昭和27年のことである。

 三浦三崎のお寺の息子であった三浦は、マジメ人間だった。殆んど直立不動のままで歌う。声は極めて柔らかい抒情的テノ−ル。吉田のもつ清潔なム−ドがピタリと合ってこの三浦の歌は大ヒットした。

 これから吉田さんのヒットの連発が始まる。

 鶴田浩二で「赤と黒のブル−ス」、松尾和子で「誰よりも君を愛す」かと思うと三浦 一には意表をついた「弁天小僧」なんていう曲もある。

 吉田さんの曲の真骨頂は哀愁を帯びたブル−ス調のしんみり聞かせる曲だと思うが、日本調、演歌調、音頭ものなど行くとして可ならざるはないという多様性も又一つの魅力であろう。

 この多様性を発揮出来た一つの要素に、私は作詞家佐伯孝夫とのコンビがあると思う。

 佐伯さんは実に多様性に富む方だった。飄々としたお人柄でいつもベレ−帽をかぶって、どこからきたのかどこへ行くのは一切不明!といった面があって、まことにたのしいお方であった。佐伯さんとのコンビがなければ、「弁天小僧」なんていう人を食った歌は恐らく生まれなかったに違いない。のちにその倒産で有名になるのだが関西のしにせデパ−ト「そごう」の東京進出の時「有楽町で逢いましょう」という堂々たるコマ−シャル、ソング(?!)を作られたのもこのコンビ。コマ−シャル厳禁のNHKにいた私などには考えられもしない。絶妙な企画であり又、見事な歌詞であり曲であった。

 吉田さんで思い出すのは「黄金の椅子」というNHKテレビのワンマンショ−番組で吉田 正ショ−をやった時のこと。鶴田浩二、松尾和子、三浦 一というメンバ−で組んだら吉田さんが「是非フランク永井をいれてくれ。東京午前三時という歌がとてもいい」とおっしゃる。

「フランク永井?知りませんね」と冷たく答える私。

「これは何十年に一度の素材です。ぜひこれだけは!」

「だめです。黄金の椅子は新人の登竜門ではありません」

「いや、フランクは新人にして新人にあらず。是非みとめてください」

「いいです。そこまでおしゃるなら、、、、ただし一曲ですよ」

 今思えば三十歳そこそこの若僧プロデユ−サ−が何という生意気を言えたことか!

 日ならずして低音の魅力フランク永井は大歌手になった。前述の「有楽町であいましょう」も又佐伯、吉田、フランクのトリオが作り上げた大傑作の一つである。

 もっともこのことがあってから私は吉田さんの真摯な姿勢に心うたれて、深い交りを結ぶことになる。

 吉田さんは、日立生れの日立育ち、終生その朴訥さは変ることがなかった。私も又その朴訥さが好きだった。何でも率直に話せた。 

 吉田さんの一周忌、三回忌に当たって喜代子夫人は二回とも私を乾杯の発声人に指名して下さった。世田谷代田のお宅に何回か伺って、飾らぬお人柄に更に心服して行った私のことを、さりげなく見ていられた喜代子夫人のご指名をうれしく思う。