羊頭狗肉の年か?いや本年の年だ!
なんて寒い冬だ、とぼやいていたらいつの間にか一月も下旬になってしまった。冬でも暖かい!と信じていたが、湘南もやはり世間並に寒いので、寒がりの私にとっては早く過ぎてほしい今年の冬だ。
その寒い中をブックサいいながらあちこち歩いている。
一月二日、三日は例年だと、辻堂の国道一号線まで出て、箱根駅伝の応援をするのだが今年はチラチラ雪まで降ってくる状況である。サッサとテレビ観戦をきめこんで、八時から茶の間に座り込む。
ヨ−イドンでことしは二十人の一区の走者が走り出す。去年もそうだったが、ことしも飛び出す選手がいない。延々と中継点の鶴見近くまで二十人一かたまりだった。
「これじゃ面白くないネ」などとゴタクを並べてみたが、下手に飛び出すと餌食になるのは見えている。ジリジリしながら見ていると中継点近くになると、サ−ツと隊列が崩れる。この分では駒沢の連覇だな!と思う。
箱根駅伝はNHK時代からフアンだった。何とかテレビ中継したいもの、と画策したのだが、当時の状況では余りにもネックが多かった。我々がいらいらしてるうちに、NTVがさっと飛び出した。
箱根までの百キロ余を中継するには余りにも難点が多い。特に山登り山下りでは沢山の中継点の確保が必要だ。勿論要員の手配から不意の事柄への備えまで大変な人、カネ、モノの準備が必要だ。その上、二重、三重に不時への備えがなければならない。
NHKがテレビ中継をあきらめた時点で、かねて準備を進めていたNTVが手をあげた。
そしてあれほどの難点だらけの箱根駅伝テレビ中継をとうとう完全実施したのである。
「さすが民放の雄NTV!」と絶賛が集った。我々NHKも大拍手を送った。
以来、箱根駅伝の完全ナマ中継は、その後堂々と実施された。年始の風物詩ともなった。
私は、そんなわけで、箱根駅伝の大フアンである。タスキをつないで十一時間余を走り抜く。ランナ−も大変だが、バックアップする方も大変である。テレビ陣も準備から実施に至るまでの大変さは想像を絶する。それを見事にやり抜いているNTVには絶賛の拍手をおくりたい。
さてことしの箱根駅伝、二日目からは雪も本降りとなった。往路優勝の山梨学院も上田監督の指導を得て実に見事だった。その山梨を予定通りに復路で逆転した駒沢大学も立派だった。一人一人の力がすぐれていたことは勿論だが、逆転のシナリオをたてそのシナリオ通りに実現した駒沢大学には脱帽したい。箱根もひところの名門大学に代って新興大学が名前を並べている。早大、順天、日体大、日大、昔の名前を恋しく思っている人も多いだろう。又新しい歴史を刻んで欲しいと思う。
一月四日は昼過ぎに吉祥寺まで出かけた。私のひいきの一つ前進座の新春公演だ。ことしの目玉は矢之輔の主演で、「文七元結」である。翫右衛門の昔からこの演目は前進座のお得意になっている。矢之輔も又一応の出来だった。ただこの場合ももう一工夫、もう二工夫して細かいしぐさまで観客を唸らせほしかった。矢之輔の芝居はやはり「大まか」すぎる。でも座の得意とする演目ってあるものだ。皆が一つの目標に向って集中する!それがいい。そうやって芝居は磨かれ魅力ある「お家芸」として洗練されてゆくのである。
一月は例年そうだが十日をすぎると、猛烈に早いスピ−ドですぎてゆく。その一つの理由は、年始に重なる数々の行事である。新年会をはじめとして皆が集って祝杯をあげ乾杯となる。かくして一月中旬はあっという間にすぎてゆく。
その中で一つよかったのは、鹿児島人の会「欣交会」での稲盛和夫、京セラ名誉会長のスピ−チだった。稲盛氏は私の七高の後進、鹿児島大の出身なのだが、さすがに心に沁みる話をされた。
それは元旦のト−ナメント、サッカ−での「京都パ−プルサンガ」の優勝についてであった。彼は京都の産業人の中心となってこのチ−ムの育成に努力してきた。しかし成果は上がらない。皆がこぞってすぐれた人材の導入、入れ替えをいってくる。だが彼はこのチ−ムの将来を既成のスタ−にかけずに、J2から一生懸命に努力してきた若者たちに賭けた。正解だった。ドイツ人監督の不動の自信の下にサンガはぐんぐん勝ち進んで遂にト−ナメント優勝をとげた。稲盛さんは若い力とそれを率いる外人監督の叡智にかけたことを振り返って、あれは「感動でした!」といった。事業だってやはりこの感激がないといけないのです!彼はそういう。現代に欠けつつある、涙−情熱−といったものの大事さをよく分かっている人のとても心にしみるスピ−チだった。