島崎藤村 青春の漂泊 鎌倉雪ノ下から始まる

「その年の暑中休暇を捨吉はおもに鎌倉のほうで暮らしたが、いまだかって経験したこともないほどの寂しい思いをした。その一夏の間、わずかに彼の心を慰めたものは、鎌倉でしばしば岡見を見たことだ。鎌倉にある岡見の隠れがは小さな別荘というよりもむしろ瀟洒な草庵の感じに近かった。そこへ岡見は妹の涼子を連れて来ていた。捨吉は言いあらわしがたい自分の心持ちをおさえようとして、さかんな蛙(かわず)の声が聞こえてくるような鎌倉のある農家の一間で、岡見が編集する小さな雑誌の秋季付録のために一つの文章をも書いた。」

上記は島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節である。藤村はこの作品の完成に時間を要したことを述べ、それだけに思い出深いものがあった。そして若い読者に読んで欲しいとも希望を付け加えている。

ここに登場する捨吉は島崎藤村、岡見は星野天知、涼子は星野勇子である。藤村と星野天知が巌本善治の紹介で知るようになったのは、明治25年(1892年)である。ここは星野天知が後に「笹目山荘暗光庵」を建てる以前の最初の仮住まいであった。

星野天知は、「女学雑誌」の主筆をしていたので、付録のための文章とはそれえの寄稿をさす。その後天知は「文学界」を創刊し藤村、透谷、平田禿木、戸川秋骨、上田 敏らが参加した。

藤村が明治20年に15才で明治学院に入学し、最初の頃は首席であった。実に浮き浮きして楽しい月日を送り、まるで籠から飛び出した小鳥のように好き勝手に振る舞うことが出来た。高い枝からでもながめたようにこの広々とした世界を眺めた時は、何事もしたいと思うことでしてできないことはないように見えた。

この間に浅見先生(木村熊二)の教会で、神の世界を知り、聖書の研究、若い男女の交歓は若き藤村にとって青春を文字通り謳歌した時代であった。ここで初めて女性と恋愛をする。だが、この恋愛は後に自分の過去の体験から抹消したい様な精神的苦悩に変容する。藤村は、「桜の実の熟す時」で、この女性と別れた後、ある時人力車に乗っているかっての恋人とすれ違うところから起筆している。

教師や周囲から畏敬の目で見られていた藤村は、文学に耽溺するにしたがって、成績は下降して、卒業の時にはどん尻から3番目と不本意なものであった。したがって藤村にとってこの痛手は、その後の人生における苦悩の最初であってただ歓喜の生活は短期間で終息する。

卒業後、寄寓していた恩人田辺(吉村忠道)の横浜の店で帳場にすわる。行く行くはこの鋏屋の店を任せられることになっていたが、藤村は自分に商才が無い事、文学に生きたい情熱が抑え難かったことから、この仕事に打ち込めなかった。そうこうしている時、吉本(巌本善治)から「女学雑誌」に載せる翻訳の仕事の依頼が舞い込む。又木村熊二夫妻の創設した明治女学校の教師となった。明治25年(1892年)、藤村20歳のことである。

この教師をしている間に女生徒勝子に恋慕する。だがその心の中を打ち明けられずに怏々として煩悶の日々を送る。教師と生徒といった関係、以前に恋愛で深く傷心した過去の幻影が藤村を臆病にしたことも手伝ってやるせない気持にさしたのであろう。

冒頭の記述はそうした藤村の心境を表したものである。藤村は芭蕉の漂白の旅に触発されて、一人旅に出る決意をする。職を捨て、恋を捨て、恩人を捨て、教会を捨てる。この作品の主人公捨吉の名前はここに由来する。

旅の最初の日,捨吉は鎌倉にある岡見の別荘まで動いた。そこは八幡宮に近い町の裏手にあって、平らな耕地にとりかこまれたような位置にある。、、、、、、、、、、岡見は捨吉のために、さしあたりの路用の金を用意しておいてくれたばかりでなく、西京には涼子らが姉のように頼む峰子がいる。旅のついでにたずねて行け、不自由なことが会ったら、頼めといって西京あての手紙までも用意しておいてくれた。、、、、、、、明治女学校の教え子達が贈ってくれた綿入れの羽織、脛には脚絆をあてて、木戸の外へ出た。

「じゃ、まあごきげんよう。お勝つさんのほうへは妹から、君のことを通じさせることにしておきました。」と岡見が言った。この餞別の言葉は捨吉にとって、いかなる物をおくられるよりもうれしかった。実にいっさいを捨ててきて、初めて捨吉はそんなうれしい言葉をきくことができた。明治26年、藤村21歳の冬の事である。