「勝山御殿」とは毛利長府藩の串崎城が関門海峡の海に面しているため
四国連合艦隊の攻撃から逃れるためにわずか7ケ月で造られた居城です。
「山口県下関市田倉字一の合」に写真のように石崖のみを残しています。

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===勝山御殿の歴史と時代===

1853年(嘉永6年)6月3日ペリー率いるアメリカ軍艦すなわち黒船4隻が浦賀沖に現れ、驚いた幕府は各藩に江戸湾の警備を命令するも、太平の世、何の準備もしてない江戸藩邸の中にあって長州藩だけは火砲や和銃で武装した五百余人の藩兵を出動させ、江戸では評判になるとともに、警備の中心的存在になった。6月9日久里浜にてペリーの携えてきたアメリカ大統領の親書を幕府が受け取ると、湾深くまで侵入しながら黒船は上海に向け出港していった。

翌1854年(嘉永7年)1月ペリーは7隻に増やして再び江戸湾に現れ、修好交易をせまり、ききいれない場合は開戦やむなしと脅され、幕府は朝廷ぬきで、日米和親条約に調印する。その後、オランダ、ロシヤ、イギリス、フランスの国とも、つぎつぎと和親条約と通商条約を結んでいった。

幕府の独断で締結した条約は破約攘夷すべきと長州藩は朝廷に上申し、朝議の結果1862(文久2年)11月に、条約を破棄し、はっきりと期限を定めて外国人の入国を拒否すること等の勅書を、勅使三条実美が将軍家茂に手渡し、後日回答することになった。幕府からの回答は翌年になても出る様子はなく、京都の尊攘はいらだち不穏な動きが横行した。追い詰められた幕府は4月になって、ついに攘夷期限は文久3年5月10日と奏上した。

早くから下関は着々と準備され7つの砲台に28門の砲と軍艦4隻というわずかな装備であったが、長州藩の攘夷決行の場を関門海峡と決めた。長府藩主毛利元周は串崎城が関門海峡のそばで危険なため居館移転の方針を打ち出し、場所選びをし最終的に勝山に決定した。

下関に集結させた兵は、萩から650余人、久坂玄瑞ひきいる浪士隊、光明寺党、長府・清末の支藩をあわせて総兵力はおよそ千人である。攘夷期限5月10日は刻々と近づき、異常な緊張が下関をおおいはじめた。午後4時ごろ田野浦沖に停泊中の1隻の黒船ペンブローク号(米国)を発見、岸から遠いので、11日午前2時に2隻の軍艦庚申丸と癸亥丸で襲撃して追い払った。下関戦争のはじまりである。

5月23日にはフランス軍艦キャンシャン号を砲撃,5月26日にはオランダ軍艦メヂューサ号を砲撃した。ペンブローク号が攻撃されたときいたアメリカ軍艦ワイオミング号は6月1日報復のために関門海峡にあらわれ、壬戍丸、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破した。民家や倉庫が焼失し、砲台も被弾した。この戦いの教訓から大砲50門の鋳造を急ぎ不足を補おうとしたが、間に合うはずもなく4日後の6月5日には、フランス東洋艦隊のうち、タンクレート号と旗艦セミラミス号の報復で、前田に上陸され、民家33戸を焼き尽くし、大砲を使用不能にして引き揚げていった。

1863年(文久3年)6月28日長府藩の新居の工事が勝山にてはじまり、7ヶ月で勝山御殿を完成させ1864年(元治元年)2月1日、藩主毛利元周と供ぞろえで避難先から堂々の入館をした。

下関海峡通航の確保ため、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊が通告して、17隻で1864年(元治元年)8月5日〜7日下関を襲撃、戦力の差は歴然であっさり負けてしまい賠償金300万ドルを請求される。小さな長州藩が払えるような額でなく、幕府におしつけ下関戦争は終わる。

1868年5月7日13代 長府藩主 毛利元周が病没、その子元敏が14代藩主となり長府串崎城に戻ることもなく勝山御殿に居住する。時代は明治へと変わり、1869(明治2年)長府藩が豊浦藩と改称、藩主は知事というようになり、藩主の住まいの勝山御殿はそのまま役所となる。1870年(明治3年)藩の役所と知事の居宅を区別するよう命がでて元敏は勝山御殿を出て、長府侍町の桂一樹邸を借りて住む。1871年(明治4年)7月14日廃藩置県により勝山御殿は取り壊しとなる。建物の一部は了円寺、覚苑寺に移築され今も使われている。勝山御殿跡は石垣だけが残されている。石垣の根元をコンクリートでかためているのはOS観光開発が所有していたときの工事で昔の趣をそいでいる。平成元年・二年に下関市が買い取り、公園になる。 (2002/12/21)




===御殿跡の公園化を追加===

公園の整備が年々すすんでいます。階段や柵やトイレや東屋などできています。写真を追加しておきます。(2007/11/6)