(昭和2年発行の下関案内パンフレット)




===下関名勝地誌(昭和2年9月5日駿々堂発行)===

〜〜〜「総説」〜〜〜

*下関市*    下関市は山口県の西南端に位し又中国の西南端たり、南方は一葦帯水を隔てて福岡県所管の門司市に対し、北方は丘陵を負い、瀬戸内海の西口をやくして軍事上且つ交通上最も枢要の地点を占め今や特別輸出港として本邦主要の良港たり、殊に山陽線は東より来たりて此の地に止まり連絡船を以て対岸門司市を基点とする九州各線に接続し又関釜は連絡船は朝鮮釜山との間を運行して朝鮮総督府鉄道京釜線に連絡し其他支線として幡生駅より分岐し県内豊浦郡滝部に至る小串線又私設鉄道は幡生より東下関に通ずる長州鉄道の通ずるあり水陸交通の利便なる益々市況を繁栄たらしめ今や中国に於いて広島市につぐ都会たるは決して偶然にあらず、のみならず山光水色の佳なる稀に見る処、若しそれ史蹟を辿らば平家の悲史とり維新当時志士の活躍或は明治二十七八年戦役の際は清国大使が講和談判の締結地としたる等頗る偲ぶべきもの多し此の地古来赤目の津と称し赤馬が関と称え、更に赤間が関を以ってし今はまた馬関或いは下の関と呼べり、赤馬が関と改めしは今の赤間町なる対帆楼付近に昔時硯の料として採掘せし一大巨石ありしが其の形状馬の如く其色赤色なりしより以って地名となし赤馬を赤間と改めしは馬の草体間に酷似せしのみならず其の音訓亦た相通ずるより何日の程よりか遂に書き誤るにいたりしものなりとか云う、又た下の関の称は防長三十六灘を三等分して三津あり上なるを上の関、中なるを中の関と呼び此の地は其の下に位するを以って斯く名付けしものにして明治三十五年六月一日市名を下関と改称すまた馬関の称は頼山陽此の地に遊びし時赤間の関の名を雅ならずとして其の古名に則りて名とく。


*沿革*     古往のことは確かなる記録伝わるものなきを以って詳かにする能ざるも口碑によれば貞観年間阿弥陀寺の創建されし頃より同寺付近を中心として漸次一区をなせしものの如く、封建時代の当初九州の諸大名が江戸参勤の節は五司町を過ぎたりと云えば市の西部は徳川氏の中世以後より開けしものと見るべきか、又た此の地の歴史上著名となりしは寿永の昔、平家の一門攝津一の谷に敗れ、更に讃岐の屋島に敗れて此の地に来たり遂に燼滅したることより降っては嘉永安政のころ、英米蘭仏四国の戦艦我が国にはじめて渡来し天下に開港攘夷の二論沸騰するや長州藩は勅命を奉じて壇ノ浦に砲台を築き、国司信濃を総督に、来島又兵衛を補佐として攘夷の旗幟を明らかにし殊に元治元年、欧米の艦船十八隻、硯海を覆うて来航せし時の如き、高杉晋作が家老宍戸刑馬と称して鎧直衣姿の厳めしくも杉孫七郎、渡辺内蔵太の両名を従え英国旗艦コラヤルス号を訪ねて談判を試みたる、更にまた高杉が西郷隆盛、坂本龍馬等と会見を遂げ、樽俎折衝の裡に薩長連合を画したる勤王攘夷の急先鋒たる奇兵隊、さては遊撃隊の義挙、七卿の流寓等の事蹟は何れも明治維新の枢軸地たりしや論なく、明治二十七八年の戦役に際しては清国の全権大使李鴻章講和のために来朝し当時我が国内閣総理大臣伊藤博文、外務大臣陸奥宗光等其衝に当たりて此の地に会見し所謂馬観条約によって世界の史上に光彩を印せるは特に世に著し。

*交通*     交通の概要は既に述べたるが如く水陸共に完く、陸には九州連絡の主要点として山陽本線之を、司れる外、国内に通ぜし長州鉄道の起点たりまた海路に於いては対岸さらに門司港を控えて瀬戸内海の咽喉をなし然も水深く、且つ北方に丘陵を負い以って風波の難を凌ぐに可なれば特別輸出港として瀬戸内海に出入りの船舶は、悉く寄港碇繋し関釜連絡船のまた当港を基点として朝鮮釜山港に航行する等、旁た運輸の利、四通八達を得て旅客の来往、貨物の集散夥しき実に中国唯一と云うべし、尚、文化三年、吉田重房が草したる筑紫紀行に此の港のことを記して曰ふ「そもそも此処は北国、西国の廻船の津にして日毎に入船出船数を知らず、誠に西国第一の大湊なり」云々と、然れども又更に記して「空よく晴れたれど汐あしくして船出さず、すべて是より船出する事満汐にあらではかはり難き由なれば今日は此湊の東の端より西の方伊崎迄一里に余れる海浜に繋り居る船大小其数を知らず」云々とあるは当時の水深左程までも無かりしものか或いは潮流の激しき為め潮の干満の期を計りて船路を定めしものならんかとも思はるれど其の何れにもせよ関西の要津として其の当時に於いても殷賑を極めしことは同紀行に見えたり。


〜〜〜市及び付近の名跡勝地〜〜〜

[下関駅]
市の西南端にありて南方は関門海峡に面して連絡船桟橋を控え以って関門及び関釜連絡船乗降客の便に備え駅の北面には鉄道院の直営になる山陽ホテルあり、以って旅客の宿泊及び少憩の用に充つ、駅前より北方に辿れば東西に通じたる通路あり、海岸通りと称し、西すれば豊前田、今浦、新地等の各遊郭を経て小門海峡に、東すれば大道りを経て、市の中央地に至るべし、大道り東端より西南部に至れば[大福寺]あり回日山と号し大同年間の創建にかかり始め天台宗なりしも嘉暦年間京都南禅寺の平田均和尚を請して臨済宗に改め爾来南禅寺派に属せり、寺内に観音堂あり    




===下関の溜池(鉄道省貯水池)===

下関市立関西小学校は小高い丘の上に建っているがその西側下に今はないがかなり広い溜池があった。
大人になって古い地図をみて知ったのであるがこの池は国鉄(現JR)の所有で上水道が十分発達していないときは機関車の水、客車などの洗車に使っていたようである。
溜池は小学校側の土手と本町12丁目の通りと関西通りにはさまれたところで、季節のよい日はみんなの遊び場であった。鮒、鮠、鯉を釣ったり、かめ、とんぼ、げんごろう、みずすまし、おたまじゃくしなどをつかまえたり、天気のよい日は大賑わいであった。
溜池は2つに分かれていて、南側は浅く水草や蓮が生えていたが、北側の池はかなり深そうで大きな魚も、たまに見かけた。その昔は水青く子供たちは泳いでいたそうですが、終戦前に私の見た池はいつもにごっていた。
本町通りに面し、裏がこの池である二階家で、私は生れた。
昭和16年に太平洋戦争がはじまり、昭和20年には下関にも敵機が飛んでくるようになり、東西を結ぶ重要な幹線道路である本町道りは、軍用道路として拡幅されることとなり、家は疎開になり倒されたが道路は完成せずに終戦をむかえた。戦後復興で溜池は埋められて道路は広がり、公園や住宅が建ち並び今は溜池の痕跡はない。



昔の本町12丁目付近の現在で手前の公園が池の一部のあとです。