出前講釈師 緩急車 雲助 10.03.14 更新

久保宏之氏と愛妻の美津子女史 くれぇ版の木戸編集長と 居酒屋「迷亭」にて

口 上 演 目 プロフィール 雲助の 口演日程 近況等  05/12/18

雲助のゴミ箱


   2010 NPT再検討会議 ニューヨーク行動
うたごえ代表団 日程表 (予定)
'10/3/14

'10/4/29~5/5 (7日間)

日時 都市名 行程
4/29 成田空港
ミネアポリス
デトロイト
ニューヨーク
成田空港集合


ホテルへ
4/30 ニューヨーク滞在 午前:団会議。練習
午後:自由行動(市内観光等)
5/1 ニューヨーク滞在 NY市内各地で街頭パフォーマンス。署名行動
夜:うたごえ交流会
5/2 ニューヨーク滞在 NY国際行動
国連前ハマショルド広場 集会 演奏予定
7番街デモ行進
ハマショルド広場で野外フェスティバル 演奏予定
5/3 ニューヨーク滞在 NPT再検討会議開会
午後:リバーサイド教会で反核・平和コンサート予定
夕刻:国際シンポジウム参加
5/4 ニューヨーク
ミネアポリス
帰国の途へ
5/5 成田空港 帰国

   巷談(紙芝居 蟻の崇り(たたり)について '10/3/14

“緩急車雲助” とユニークな芸名で 幅広いテーマの講談を語る久保浩之さんは 元国鉄の職員だった。
労働組合運動の傍ら 演劇や文芸活動に熱心な活動家で “緩急車” は彼の職場である “貨物列車の最後尾の車掌車” で、 その乗務員だった。
 <筋書き>は米国が軍をあげて原爆放射能が 人体へ与える影響を極秘裡に しかも強引に調査し、その遺伝的影響は未だに隠し 虚偽の宣伝を続けている事実を伏線にした怪談噺だ。

 披爆した中学生の火傷に出来た瘡蓋(かさぷた)を食べた蟻が 「調査を拒否すれば軍法会議にかける」と 脅して強引に調査につれて行った ABCC配属の軍人に噛みつき 湿疹にかかる。
痒くて冷静な判断が出来ないくらい キツイ湿疹は 不治で伝染する。
帰国後、被爆者調査の功績が認められた彼は 大統領から勲章をもらい 英雄として沢山の要人と握手やハグ等の接触をし、次々に湿疹をうつして行く。要人は広島の地を踏んだことのある ニクソン、カ−ター以外の歴代大統領を初め、原爆製造投下を指示し 核兵器を増強した人達だ。
被爆者の怨念が招く祟りの湿疹に感染した要人は 「痒い,痒い」と 苦しみながら余生を送る。
荒唐無稽の創作講談か?と言えば、満更そうでもない。
 彼は女学生として動員中に被爆した妻がABCCに協力させられ、自分逮の子供を産む過程で知った 被爆二世の後遺症や健康問題で 多くの事例を知り 悩み苦しんだ経験がある。被爆女性が妊娠・出産すると 県内の産婦人科医は ABCCと協定して報告し、奇形児を取り上げた助産婦が報告すると 大きな報奨金が出た… 事実等を知っている裏付けがある。

被爆者は今や米国に恨みや妬みや仇封の気持はない…と 一般的には言っている。
はたして、そうなのかと言えば、決してそうではないと言う人達は多い。恨み、辛みの一つも言えないまま逝きたくないと言う人は 多く 『蟻の祟り』はそんな被爆者の 心の底をすくった巷談(紙芝居)・・・と受け止めた。 

* 投稿者不詳

 

 

09/10/11  世界に伝えようヒロシマ庶民の想いプロジェクト
雲助紙芝居 「蟻の祟り」

原爆に泣いた人々の怨念が蛾にのりうつり、時の権力者を崇る物語
三十余年ヒロシマを語り続けた原爆講釈師 緩急車雲助が積年の想いを込め唸る一作


紙芝居 「蟻の祟り」

被爆した妻の体験と怒りを受けとめた自作講談「蟻の崇り」を元に いくまさ鉄平が絵を加えた紙芝居。
被爆した少年のかさぶたを食べた蟻の子孫が、被爆者の放射能影響調査に加わった米軍人にかみつく筋立てだ。
発疹、痒さにもだえ苦しむ軍人。
軍人の功績をたたえて握手した歴代の大統領、要人にも耐えがたい痒さが伝染する。
語りは原爆を投下されたうえ、人体への影響調査の協力を強制された被爆者の無念、怨念の深さをすくい取る。


届けようヒロシマ庶民の想いプロジェクト

世界的な核兵器への関心の高まりの中、核廃絶を願うヒロシマ庶民の想いを世界に広げる取り組み。
絵本「よろこびのうた」、映画「想うカ」や紙芝居「蟻の崇り」などがある。




●●● 
紙芝居「蟻の崇り」完成披露パーティー

▼と き : 2009年11月6日(金)午後6時半から
▼ところ : ピースカルチャー通称 「ピカ」
      広島市中区大手町5丁目8−6(サロンシネマ2階部分)
▼会費:3千円(飲み食い付)

 ※要事前申込:申込先 いくまさ鉄平 090-9734-9389、緩急車雲助 090-7505-4195
 ※収益の一部は「届けようヒロシマ庶民の想いプロジェクト」の活動資金に充当します。

●●● 紙芝居 「アリの崇り」 制作に闘わって (談 : いくまさ鉄平)


 講談「アリの崇り」のシナリオを最初に見せていただいたのがいつだったか旨く思い出せない。
ただ「被爆者のアメリカへの恨みを切々と訴える講談なんじや」と揚々と話されるのを聞きながら
「エエんかいのう」 と思ったのをはっきり覚えている。
 ポスターを作ってくれとの依頼があったのが、1年前だっただろう。
そこでも 「ニエんかいのう、エエんかいのう」 と悶々とした思いを抱えながらデザインをした。
そんなポスターを雲助さんは、地元の呉はもとより広島市内にも張りまくり、講談を始めた。
そんな様子を遠目で見ながら 「エエんかいのう」との思いはさらに強まっていく。
 ある日のこと、ステイーブンリーパーさんがポスターを自身の入口のドアのまん前に張ってくれたんじゃと報告にこられた。
リーパーさんと言えばいわずと知れた平和文化センターの理事長、ヒロシマ発信の旗振り役のアメリカ人である。
すっかり気をよくした雲助さんはたたみ掛けるように
「来年のNPT核拡散再検討会議でやりたいんじゃ」 と話された。
 するとリーパーさんは
「アメリカ人にとって大統領というのは天皇にも匹敵する存在、その人が崇られるという話は空想話とはいえ、許しがたいものです。貴方、つるし首にあいますよ」 と話された後、最後に
「でも、まあ面白い」と付け加えられたらしい。
 その話を聞いたとき、私の中でも 「エエんかいのう」 という思いを 「面白いやないけえ」 との思いが凌駕した。
次の瞬間、ほぼ反射的に 「私が『アリの崇り』を紙芝居にしましょう」 と返してしまった。
いやはや、まったく酷い性格である。

「作りましょう」 と言ったのが夏前だっただろうか。
しかし一向に制作は進まなかたった。
いざ描こうとすると、どうしても 「エエんかいのう」 との思いが大きく首をもたげてくる。
加えて、何枚か描いて思い知ったのだが、なんとも描く絵描く絵がエグイ絵になるのだ。
 これまでピカドンやはだしのゲン、あるいは被爆者の絵を通して被爆直後がどうだったのか目にしてきた。
気の弱い私である。
その度に目をそむけ、やりすごしてきた。
ただ、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
皮膚が焼けただれ、手首あたりでポロ布のようにたれさがる様子を描かなくてはならない。
数枚描いた時点でこりゃイケンわいと筆をなげだした。
 話の後半から描こうとしても、そこはアリの崇りでカイカイがうつった人々の様子である。
思い浮かべただけで、これまた気持ちが悪くなる。
「エエんかいのう」 との思いに 「やれんのう」 との思いが加わった。

 そして再び何もせぬまま1ヶ月がたった。
7月の半ばだっただろうか、いつものように雲助さんがトボトボと現れたが、話はいつものように揚々とした話だった。
何でもマスコミ9条の会というのがあり、そこではだしのゲンの中沢啓一さんと原爆について対談されるという。
雲助さんの持ちネタは 「アリの崇り」 だ。
無かったことにしたいとの淡い期待は立ち消えた。

 客席で二人の話を聞いている最中、どんどん 「エエんかいのう」 との思いは高まっていった。
二人ともアメリカに対する恨みがパワーだと言ってはばからない。
確かに大切な親や子、友人を焼き殺され、以後も放射能の影響に苦しむ被爆者がアメリカを恨むのはもっともな話だ。
 じゃがしかし、それでもそうだろうけど、被爆者は高い見地に立ち、すべてを許し、恨みを忘れ世界平和のため右のほほを差し出す誉高き人々ではないのか。
そんな人々の崇高な思いを差し置いて、被爆者でもなければ原爆のゲの字も知らない戦後生まれの小僧が被爆者に代わって”恨み”を描いちゃいけまあとの想い、頂点に達した。
 座談会の最後、時間がないのでこれ以上、質問は受けられないという中、私は無理やり手を挙げ発言した。
そしてその後の懇親会でも隣に座る人を捕まえては 「ワシが描いてエエんでしょうか」 と迫った。
 色々な意見があったが、それらをミキサーにいれかき混ぜ出てきた一言が 「エエんじゃ」 だったと思っている。
今回その一言を信じ、どうにかこうにか 紙芝居 「アリの崇り」 を作りあげた。

 今となっては多くの人に見て聞いていただきたいと思うし、アメリカ公演、是非、実現してほしいと願う。
ただ「エエんかいのう」との想い完全に消え去ったわけではない。
その答えは、この紙芝居を見る被爆者が・・・、 そしてアメリカ人が出してくれるのだろう。

 凶とでるか、吉とでるか。
凶と出たとき 私も雲助さんの横に吊るされるのだろうか、何とも えべせえ紙芝居を作ったものである。



09'5'2 毎日新聞  平和 ひろしま 欄より

広島の発言 2009

『 核廃絶 息子へ唯一の償い 』


「昨年、新作『蟻の祟り』を作りました。
被爆者のかさぶたを食べたアリが米兵に原因不明のかゆい病気をうつして、
核政策を推進した米大統領らを苦しめるというストーリーです。
恨みを因果応報で晴らす話でした。
しかし、先月、オパマ米大統領が『核兵器廃絶はできる』と演説したので、話の最後にそれを付け加えました。
報復の連鎖はやめようと。世界か変わる潮目だと思いました」 
 
戦時中、海軍予備練習生として愛媛県にいたが、終戦後の8月19日に広島に帰った。
呉行きの汽車に乗り換えるために広島駅で降りた。街が、丸々消えていた。
 
「汽車か来るまで川辺で、死体を引き上げては土手で焼く作業をボーッと見てました。
原爆ドーム近くに昔、大きな履物問屋があって、そこの子とよぉ遊んだ。
そんな懐かしい広島が無いなっとるわけでしょう…」

 翌年、国鉄に就職。時折仕事を休む何人かの同僚は被爆していた。その人たちは昇給などで冷遇されていた。

「さぽってるんじゃない、本人はそうしとうないんで」。上司に直訴した。原爆差別は許せなかった。
 
59年に妻(80)と結婚。妻は南区段原地区で被爆していた。
翌年2月、長男が生まれた。
出産直後、長男の唇が腫れていると聞いた妻は大声で 「殺して」 と叫んだ。
当時は、そうした障害を持って生まれる子がいた。

 「息子を身ごもった時、妻は 『おろそう』 と言ったんです。
でも、
『どんな子かできても育てていくことが、原爆を投下したあの残虐な米国を見返すことになる』と説得したんです。
敵討ちに近い発想でした。妻は不安を感じながら産んでくれました。幸いにも息子に障害はありませんでした」

終戦から10年たっても、世間には「広島の人と結婚する時は被爆者かどうかを調べろという考えがあった。
長男が結婚する時には、被爆のことを言うべきか悩んだ。
長男には今も自責の念を感じている。
被爆者である妻に強引に子を産ませ、孫子にも被爆の因縁を負わせている、という思いがある。
核廃絶への行動に取り組むことが、父としての唯の償いだと思っている。

 国鉄時代、読書に没頭し、演劇や歌声サークルに入った経験から、講談で反戦反核の話をするようになった。

 「世界では劣化ウラン弾などで新たに被爆する人もいる。地球を核で汚した米国を弾劾しながら、オバマ大統領が優れ
た合衆国にすることを賛美する紙芝居を作り、ニューヨークの国連本部で上演したい。これが被爆者息子とそのファミリ
ーたちへの最後のご奉仕です」


緩急車雲助談 : 記事 矢追健介


* 略歴 : 緩急車雲助 本名・久保浩之
1931年、呉市生まれ
85年頃から講談で反戦反核を訴えている。
05年には、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、ニューヨークで紙芝居をした。


新作講談 『蟻の祟り』 口演と予定 '09.2.25

 お蔭さまで新作講釈『蟻の祟り』あ17回めの口演にこぎつけました。

 この講談はアメリカの官,.軍,学の複合体が原爆放射能の人体に与える影響を

極秘裡、且つに強引に調査した事実を伏線に描いた怪談話です。

 廣島のジェノサイド(集団殺戮)に関わったアメリカの軍人たちが、

被爆した中学生の火傷瘡蓋(かさぶた)を食べた蟻によって不治の湿疹に感染、終には歴代大統領まで感染してしまう。

ホワイトハウスやペンタゴンの執務室で狂ったように掻き毟るクダリで秘かに起こる被爆者・聴衆の冷ややかな含み笑い。

 この『ヒロシマもののけ噺』 それは、核兵器製造、保有国の権力者、要人すべてが

「痒い!かゆい!」と不治の湿疹に悶え苦しむという殺された側からの怨念晴らし、日本流の因果応報のオチでもあります。

 それは、生き残った被爆者や曝し被爆者の無念をカタルシスでもあります。

 核のもたらす放射能被害の隠蔽は、より巧妙に、欺瞞は一層、強められている現状の中で。

'08/03/08. 広島駅南口地下広場 市南区町おこしイベント  1- 55 稲生伝説と「蟻の祟り」概要を20分で紹介
         
         
      中     略    
'09/03/19 呉市森沢ホテル 呉三樹会恒例勉強会 17- 25  

広島南区・妖怪、怪談物語  口演・脚本 緩急車雲助   2008/3/8 広島駅南口下広場にて口演台本

 日本もののけ噺の白眉に 『 百物語 』 という仕来り(しきたり)がございます。
 この 『 百物語 』 と申しますのは 行灯の灯心を 百本用意し、
その地方に伝えられた怪談・妖怪話を参加者が交互に語り合い、その都度、行灯の灯心を消していく遊び?です。
 百話になると 灯心が無くなり 灯りが消えて暗闇になり、本物の妖怪・幽霊が現れるとの言い伝えがあります。
参加者一同はその妖怪、幽霊の供養、あるいは廻向をすると言う趣向でございます。

 さて、本日は広島市南区がらみの妖怪、怪談の話を紹介いたしたいと存じます。
 その一つは備後の国、三次藩に伝わる 『 稲生武大夫 物怪(モノノケ)録 』 で御座います。

 今から数えまして 260年前、寛延二年(1749)四月のこと 備後国三次藩の侍で 稲生武大夫と 隣に住んでおりました相撲取りの権八は
互いに勇気のあるなしで口論となり 色々な肝試しをいたしますが、決着がつかない。
 では 『 ひゃくものがたり 』 で現れる妖怪・幽霊への対処により勇気の有無を決めることにしようとしたが、何事もおこらない。

(稲生武太大夫 もののけ噺の台詞は 省略)

 こうした摩訶不思議な 魑魅魍魎の妖怪が 30日にわたり
稲生武太夫、幼名、平太郎の邸宅に出現したのは 彼16才のときだったといわれています。
 彼の噺は 三次藩のお抱え絵師により 見事な絵巻物として残されています。
 先程も申し上げましたが、後年、彼は 広島藩に引っこ抜かれまして 御広式御錠口を勤めています。
御錠口というのは 大名邸内 表と奥との境界、その出入口のこと、杉戸を立て 時を定めて錠を下ろす係のこと、
まあ奥方やその御女中からのご下命で 三次時代の百物語など面白可笑しく語って聞かせたのでしょうか。
 そうした関係からでしょう。改名して 稲生中左衛門と名乗った彼は
現在の南区京橋町と 稲荷町の境に建立されていた 稲荷神社に祀られたのではないかと思われるのでございます。

 さて、もう一つ 南区に関わる怪談話、これはごく最近、耳にした 原爆に纏わる因縁噺でございます。
 人間の怨念、つまり殺された恨みというものは、凡そ50年くらいの間、殺した側がその罪を謝罪し 供養をいたしますと、
その復讐願望は断ち消えて参ります。
放っておくと怨霊・幽霊になって 崇りをするというのが 仏教系の俗説になっています。

 原爆も、そろそろ 俗説に基づく怪談が 生れてきてもよいと思っています。

 60年あまりの昔、南区比治山橋の東詰めに 軍の命令で移転をした 広島商学校の校庭で被爆し、
背中に大火傷を負った中学生が 東広島の親戚に避難、療養していました。
 少しずつ治っていく火傷のかさぶたを庭に捨てたところ、蟻が寄ってたかって 巣穴に運び入れます。
ところが二三日たった或る日、あれほど沢山、出入りしてた蟻が一匹も巣穴から出てこなくなったのであります。
 不思議に思ったこの中学生は 園芸用のスコップで巣穴を掘ってみるんです。
すると働き蟻は全滅、 女王蟻と卵が二つ三つ出てきただけ。
彼はその女王蟻と卵を 小さな紙箱に少しの砂を入れて 
ヒロシマの段原仲町、爆風で瓦がずり落ち 軒が傾いた自宅に帰り、猫の額みたいな庭に 埋めてやるのです。
親戚の都合で 未だ火傷は全治しないまま帰宅した彼と姉。三歳年上の姉も的場町で被爆し左腕にひどい火傷を負っていました。
 この姉弟に対し ABCC ( 原子爆弾障害調査委員会 ) が 執拗に 調査に出頭を命令してきます。
承諾を拒否する二人に対し ジープでやってきたアメリカ二世の下士官通訳が
「 敗戦国のお前たちは 調査命令に背くと 軍法会議に回されるぞ 」 と脅すのです。
 仕方なく 泣き泣き出向き 裸にされて写真を撮られ 血液を採られるわけです。
弟の中学生は 「 もう一本牛乳をやるから 骨髄液もとる 」 といわれ、太っとい畳針のような注射針で 痛いのを我慢して協力させられる。
 この米軍通訳が 段原の住居を訪れた際、庭先で、あの 東広島カサブタを食べて全滅した蟻、そのタマゴが孵って成長した、
まあ 被爆蛾の二世、その蟻ン子が ABCC米軍通訳のズボン下から太股へ這い上って噛み付き刺すんです。
この刺された痕が もう痒いといったら 他に言い様もないくらい 痒い。
これが基で 通訳の下半身は掻き毟る度に酷い湿疹が広がっていったのであります。
しかも、この湿疹はどんな治療をしても完治しない。
その痒みのため 常時イライラしながら 彼は被爆者を怒鳴り付け脅しては ABCCへ連行するんです。
原爆占領都市ヒロシマから 本国アメリカヘ帰国した彼は、大量の日本人被爆者調査に対する功績が認められ 多くの勲章を受賞、
一躍、国家の英雄、有名人となり、沢山の要人とも握手や ハグ などで接触いたします。
その要人たちにも 彼の不治湿疹が伝染していく。 
その要人たちは、何れも原爆を製造、投下を指示し、核兵器を容認する人々だったのであります。
まあ、こうして被爆死者、祟りの湿疹に感染、余生を 『 痒い痒い 』 に苦しみ、惨めに送った人は 沢山います。
「 ええっ、名前を云うてみい、ですって 」
そう 一番偉い方は 何といっても 原爆の製造を決めた総責任者だった米国のルーズベルト大統領これは天何か頓死しましたね。
日本への、その投下を命じたのがトルーマン大統領。この人は原爆の数千倍の威力を待った水爆の開発と実験を命じました。
この二人は 地球を滅ぼす武器を 製作、使用を命じた 超悪人として 人類の途絶える瞬間まで 祟り捲られる救いようもない方でしょうね。
 もっとも 今後この二人に成り代って 米国の大統領が ヒロシマ・ナガサキの被爆死者に謝罪し 国を挙げて供養すれば 怨霊蟻の崇り 『 痒い痒い湿疹 』 は無くなるでしょうがね。

<B案>

 まあ、こうして 被爆死者祟りの湿疹に 感染、 余生を 『 痒い痒い 』 に苦しみ、 惨めに送ったのは 沢山います。
中でも 大統領の何人かは、そう 例えば ケネディ、二クソンといった方の 末路はご存じのとうりです。
軍の要職にあった連中では 原爆製造システム、マンハッタン計画の 総指揮者だった グロウズ将軍や スチムソン陸軍長官、
さらに、広島に原爆を投下した B29爆撃機の機長 チベッツ大佐、そう、この方は
「 原爆投下は正しかった 」 と 死の直前まで 主張して 全米を公演して回った男でした。
でも 広島への来訪は 恐ろしくて 最後まで来れなかった。
罪悪感にさいなまれ 恐怖感から逃れるため 狂ったように口演活動を続けて 一種の悶死をされたと 聞いてます。
ひょっとすると 彼も あの湿疹の痒さに 終生、悩まされていたのかも。 ああ、 痒い痒い・・・


元旦恒例 原爆死没者はだし供養

 原爆がヒロシマに投下されて 63回目の元旦を迎えます。
 爆心「平和公園」の地下に埋まる犠牲者の骨は
「核兵器と原発の存在するかぎり、地球と人類の未来はあり得ない」と叫び続けているに違いありません。
 新年の初頭、この骨の声=悲願を足裏から確かめ 「核廃絶」への誓いと行動を新たにする
14回目の 「元旦はだし供養」
ご一緒に爆心を裸足で歩いてみませんか。

     記

と き  ’08/1/1(火) 朝 8:15〜10時頃まで
集合場所  広島平和公園 供養塔前
行 程 供養塔に献花黙祷、韓国人碑、義勇隊碑、県立二中前での献吟の後、
本川橋を渡り 本川公園内の集会所で 新年を寿ぎ、
恒例 雲助の新作講談、参加者の新春抱負などで 歓談し解散

会 費 : 500円(会場費、献花、祝杯などの雑費)

問い合わせ 「元旦はだし供養の会」 (TEL) 0823−22−2454(久保浩之)


 「学ぶ権利保障しよう - 夜間中学校研究大会はじまる − 広島」
 07/12/7 赤旗 記事

 第53回全国夜間中学校研究大会(同大会実行委員会主催)が6日、広島市東区で始まりました。
132人が参加し、7日までの2日間、夜間中学校を取り巻く現状について研究や交流を深めます。
 全国夜間中学校研究会の斎藤盛久会長のあいさつの後、纉c裕司大会事務長が
「夜間中学校が開設された原点と変遷を踏まえ、平和への願いを持ち、これからの夜間中学校の教育の課題を明らかにし、義務教育未終了者の学ぶ権利を保障しよう」と主題提起。東京、大阪、広島の夜間中学に通う生徒ら4人が「いくつもの苦しみを乗り越えて」 「学び続けられることの喜び」などのテーマで体験を発表しました。
 元広島市長の平岡氏が 「核と人間」と題して記念講演をおこない、原爆講釈師として知られる緩急車雲助さんが講談 「石に影を灼き付けた男」を朗読。教科書別の4つの分科会や、広島市立二葉中学校の学校見学・授業参観がありました。引き続き7日は、領域別の4つの分科会や、文部科学省や厚生労働省などへ提出する要望書を採択する全体会などがあります。 < 
以上記事引用

 

● 「ハンディキャップを越えて」
 
語り伝えるということは技術じゃない。どうしても伝え訴えたい、という意欲が底に脈打っておれば必ず伝わるものだ! これは反原爆の緩急車雲助の経験信条だった。
 今回の全国夜間中学校研究大会で体験報告をした生徒4人の語りは将に我が信条を地で行くものだった。
 日本人と結婚、タイ国から未知の国、日本へきて出産、育児と家事など急変した暮らしへの適応順化のなかで日本語の学習を強いられる体験を綴った若い外国人主婦の報告。
 生来の言語障害(吃音)疎外と差別に苦しみ悩み不登校を繰り返し、文盲のまま社会の底辺で暮らしきたった高齢者が一念発起し夜間中学に学び我が姓名を自らの手で書き住民票を請求できた喜びと誇りを報告した。
 小学校なかばに孤児となり親戚をたらい回しにされた娘が家出して食堂や居酒屋の雑役を転々、40才過ぎて学習に目覚め、夜間中学校で暮らしに直結する九九や漢字を知った喜びの報告。さらに、中国残留孤児が夜間中学から定時制高校へ進学し奮闘報告など拝聴しながら、人が人間になるための学習は、深刻で重いハンディキャップと闘い、それを克己するときにこそ中身の濃い人生、その価値と喜びが生まれるのだと、熟づく思った。夜間中学校生徒と教師に栄光あれ!
 

 老いてなを読み書き算盤冬北斗

 三通りに我が名書けたり冬夜学

 苦苦五十路九九くちずさむ冬のレジ


「宮崎市への被爆体験記朗読行・雑俳録」 '07/09/10



● 核背負い廃れいく国火蛾の舞う

七月は個人的な原爆講談、紙芝居などの依頼が三件あった。
月初め夏風邪を引き込み微熱が続いていた。
その所為もあって持病の腰痛が困じて跛を引きながらの口演。
しかも、この月は被爆手記・朗読会が五回も入った。

十三日は広島市内学校など三箇所、そしてこの県外出張の宮崎市原爆展での公演である。
前泊三日にわたり二回の朗読会というハードなスケジュールになってしまった。
余生を反核・反戦の語り部活動に懸けている私にとっては このハードな日程は将に天が与えてくれた絶好のチャンス、全力投球で望まねばという決意のもと宮崎市朗読会を迎えた。

時、あたかも参議院選挙投票日、前々日のことであった。
前泊の夜、青島観光ホテル周辺の田園では青白い誘蛾灯の点在が見られた。

● 蒲葵樹 蜂窩の礁や群れ秋津


宮崎市では原爆展被爆体験記の朗読は午後一時からだった。
広島からのJR乗り継ぎの関係上、前泊した。
宿は青島を見下ろす海岸の一画にあり六階の部屋から一キロ先の青島の全景が展望できた。
窓から見る鬼の洗濯岩と呼ばれる暗礁(蜂の巣穴のような穴のある奇形波浪浸食岩)に囲まれた原生林の生い茂る青島は絶景だった。
翌朝、島を前景に遠く霞む水平線から昇る朝日を浴びながら散歩した。
夏祭りの準備におわれている島の神社に詣で、ビンロウ樹とビロウ樹などの亜熱帯性植物が密生する細道を辿ってみた。
広島や呉の街では見られない赤とんぼが群れなして飛んでいた。

日向(宮崎の旧称)は神話の世界では日本国(秋津島)の始まりを意味している。
蜻蛉の飛びかうこの国を核の汚染から守りぬき、核兵器保有国を一刻も早くこの地球から無くする声を広げねばならぬと反核教条主義の雲助は密かに祈ったものである。

● ヒロシマしかと聴きぬ吾元特攻兵たり


原爆展=被爆手記朗読の会場は宮崎市のほぼ中央部にある九階建てビル『カリーノ宮崎』の八階フロアーだった。
初日は桂幾子の司会で沖野智子と久保浩之が体験記を読んだ。
子どもの詩は例によって三人が読み、林幸子『ヒロシマの空』を久保が読んだ。
聴衆は意外に少なく二十人ちょっとだった。
引受主催者の市側や舞台のスタッフも『朗読』舞台になれない模様。観客動員への取り組みも他人ごとの感じで少々、気合い抜けがした。事前に出演者の我々が向こうのスタッフと細部の打ち合わせなど真剣に提起するなど熱意を示し、一人でも多くの呼び込みなど協力しなかったっことが悔やまれた。

二日目の公演は前日の比し八十人をこえる聴衆を迎えることができた。
司会は桂幾子、体験記も沖野が西岡愛子さん、久保は男性の湧島滋さんのものを読んだ。
原爆体験詩も大人の詩を四編読んだ。
久保が読んだ『しずかに歩いてつかさい』は男性の書いた広島弁丸出しの作品。
沖野の読んだ『息子よ』は原爆死した息子を悲しむ母親の叫びを歌った長詩で深い感銘を与えることができた。

朗読会への感想を尋ねたとき、その最後に一人の老人が久保に向かって
「儂は松山の航空隊にいて特攻隊員だった。今日はヒロシマの惨状を一人一人の感想文で詳しく知ることができた。戦争は虚しいことだ。儂は生き残ったが戦友の多くは死んだ。あんたも元気で語り続けてほしい」といって強い握手をして去った。

握手といえば岡野が朗読終了後「先人たちが守り続けた平和を今後はあなた方や私たちの世代が創っていかねば」と訴えた。
そのとき、七十代の老婆が
「私は父を戦争で亡くしました。二度とこんな悲しみを子や孫に味あわせてはなりません」と涙ぐんで握手するシーンも印象的だった。

司会の桂も朗読会ラストを
「ヒロシマから七時間かけて着いた宮崎は街も人も優しく熱いところでした。これからの子供達に人を苦しめるものを造るのではなく、助けるものを創ってほしい」と会場の子供たちにも解る優しい訴えをして大きな拍手と共感を得た。
ヒロシマの心を伝える被爆手記朗読者として宮崎まで歩を運んで本当によかった。

● 夏祭り蜻蛉羽の羅ひるがえし


朗読会の二日間は丁度、宮崎市の夏祭りと重なった。
新しい県知事、東国原氏を迎えて県都での夜祭りは熱気に溢れていた。
県庁はライトアップされ主要な大通りは、様々な連が意匠を凝らした装いと工夫を積んで群舞する舞台である。
何箇所かその通りを塞き止め俄か仕立ての屋台ならぬ仮席亭が出来上がり市民が楽しげに飲み且つ食らっている。
被爆体験記の県外公演の重責を果たした私たちも、その熱気と雑踏にもまれながら平和な庶民のシンボルである『祭り』を楽しみ満足感と開放感に浸っていた。

● 檳榔樹(フェニックス)の葉先銀河に大宴


原爆展を引受け、二日間二回の朗読会では百人をこえる参加者を得て、朗読者ともども宮崎市市民の反戦・反核への誓いを新たにする機会を与えてくださった地元主催者に心からお礼を申し上げ、雑俳記の筆を置くことにする。

 


 <信州佐久・小諸、口演雑俳記>
       原爆で消された広島弁を信州佐久平で


 昨年の夏、長野県佐久市御馬寄、在住の高橋なを子きんから電話があった。
 「トルコの詩人ナジム・ヒクメットの 『死んだ女の子』 を基に創作した独白劇 『扉をたたく少女』 を広島弁で語らせたいので、
その旨を広島市役所にお願いしたら貴方を紹介された。ご面倒だけど是非、引き受けてほしい」 との訴え。
私は二つ返事でひきうけた。
 今では滅多に聴かれない広島の町なかで使われていた言葉や訛り、その多くは原爆で失われてしまった。
 あの懐かしい広島言葉を原爆で殺された女の子の台詞によって再現できる。
これは願ってもないチャンスではないかと思ったのだ。
 
最近、映画や芝居で評判になった井上ひさし作 『父と暮らせば』 の娘主人公の喋る備後訛りの広島弁と言葉使いが、
私にはどうしても承服できなかったからでもある。

 県立女子専門学校(高等女学校卒業者が入学)を卒えた妙齢の娘が父親を呼ぷのに
「おとっつあん・・」 なんて呼ぶだろうか、呼ぷはずがない。
 城下町広島の爆心周辺の町衆が使っていた言葉や訛りは知的で優雅なものだった。
 それは、転封された浅野家から伝え来たった柔和でたおやかな京都訛りが、ながい歴史のなかで古い広島の風土に順化(風化)されできあがったものだ。
 原爆は老人、女、子供を皆殺しにして広島の町言葉まで消してしまった。
その広島言葉(広島弁)を信州の少女に語って欲しかったのである。
 ところで台本製作者でコンサートの企画者でもある高橋なを子さんは、長野県の小、中学校で教職にあった方だ。
20才代後半から体の自由を失う難病を発症。40才で退職。
以降10余年間、病状は一層進行し、今では全くの寝たっきり状態である。
闘病の傍ら口述筆記で作詞、作曲、さらに、辛うじて動く手で詩絵画を描き、
2000年頃からはコンサート、個展などを若いサポーターの熱い支援で開催し続けているとのことだった。

  ●
竜潜る千曲の淵の非核談

 そんなご縁とこだわりのなかで、今年10月15日13時、佐久市交流文化館浅科でのNahokoコンサート・プログラムに、前述の一人芝居『扉をたたく少女』 に続いて雲助の原爆講談とを差込んでくださることになった。

 さて、Nahokoコンサートと個展が開催された佐久市交流文化館のギャラリーに
昼すぎから若い層を中心とした100名を越える観客が集まった。

私にとっての関心は広島言葉で演ずる若い高橋洋子の独白劇 『扉をたたく少女』 であつた。
彼女のモノローグ、広島の幼児言葉は、原爆炸裂前後の15分間を見事に語りつくしてくれた。嬉しかった。広島が蘇った。
彼女の広島弁による一人芝居は、雲助の被爆体験紙芝居・講釈と相俟って、
原子爆弾の惨と悲しみ、憤りを伝播し佐久平の若者の心に核廃絶の思いを刻んだ。
反核・反戦の小さな石、それは、企画者・高橋なを子の長年の強い念願でもある礎石の信州佐久の地に積むことでもあった。

● 
非核説く小諸坂街月明かり

ヒロシマからの二人のサポーターと雲助らは、コンサート前日14日昼すぎ 佐久平駅に着いた。
その夜19時からも 小賭市<ほんまち町屋館>で被爆紙芝居の口演が企画されていた。
開演迄の時間をなを子さんの見舞いと打ち合せ、元タクシーの運転士だったTさんと夫人お二人で 要をえた小諸市内の案内を頂いた。
若き日の藤村旧栖地を紡ね『破戒』や『新生』などに絡むエピソード、戦時中に疎開してきた虚子の寓居、俳風の変化など知的で豊富な話題は如何にも長野県人らしいガイドであった。

浅間山の瀬野に拡がる小諸は緩やかな坂の町並みだった。
紙芝居の口宴会場は北国街的沿いの旧本陣などが建ち残る一面で古い商家を改造した建物だった。
20畳ほどの部屋に数人の子どもと20数人の観客が溢れ、初めて聴見する原爆被爆のファミリー達の惨状道 今だに続く苦悩と生ざまに熱い視線を送ってくれた。

" 破戒"練る旅籠の雑魚寝や秋灯し

佐久・小諸の口演ツアーでは結局、小諸で二泊した。宿は高橋なを子さんが予約してくれていた。
一泊目は元信越線の、今 『しなの鉄道』 小諸駅にちかいキヤッスル・ホテルだった。
表玄関から浅間山の眺望が素晴らしく設備も接遇も低料金の割に選れた宿だった。
 二泊目は小諸城址懐古園下の千曲川沿い、出湯のある中棚荘という古い旅籠だった。
初秋の休日、無理をいって予約した由、
かって島崎藤村が 『破戒』 などの想を練ったという如何にも文士好みの奥まった部屋に泊めてもらった。
厠や洗面も共用で部屋を出て ぎしぎし鳴る廊下を渡り 急勾配の階段を上下するのである。

● 
夜の出で湯うかぶ林檎の流灯譜

 文士湯と銘打った温泉の浴槽までは、いったん旅籠の母屋を出て 屋根付きの丸太のきざはしを三十段ほど上って入湯するという古風で野趣に満ちた仕掛けだ。
ごつい木作りの湯舟には 移動できるよう両端に刻みを入れた丸太が一本わたしてあり、枕替わりに頭を乗せたりできる。
 深夜、独り、丸太を枕に湯に浸かり 目の前をゆっくり回る赤い林檎の群れをを眺める。
 甘酸っぱい香りを漂わせて 湯槽を回る十数個の早生林檎。それは原爆忌、爆心の河に浮かぶ流灯・・・。
いで湯の近くを流れる千曲川は月光に白く輝き、遠く霞む流れはヒロシマの大田川に溶け込んでいる。

「雲助様、大丈夫ですか」
宿の若衆が浴室の灯りを付け幻覚に耽る私を呼び覚ました。

秋信濃出自は部落と老ガイド

 前述した小諸ガイドの老夫妻、その内儀は案内の途次、藤村の 『破戒』 挿話を語り、我らも意を同じくした。
サポーターで帯同していた我が妻女も感激、出版したばかりの著書 『被爆短篇集=私のあしながおじさん』 をお礼に奇贈した。

 翌朝、その内儀は楽屋に漬物や果物を差し入れてくださった。
その際 「被爆者も私達と同じ苦悩、差別を受けてきたのですね」 と、
寄贈本の読書感をかさねた 自分たちの苦労談を控え目になされ、きっぱりと自らの出自を明かされた。

原爆の被爆者の多くは、その体験を家族、特に子や孫に語らないまま死を迎える。
被爆体験を語ってメリットはないこデメリットぱかりなのだ。
放射線障害=遺伝的な影響のもたらす健康上の深刻な不安と悩みに苛まれるのは 自分だけでよい。
孫、子にまで不安や悩みを与えることはない。そう考えて被爆体験をじっと抱えたまま死んでいく。
 T夫人の出自表明は、その苦衷に自らの差別体験を重ねてみての共感、共闘宣言だったのではないかと意を強くした。嬉しかった。

どっさりと生きる凄みの佐久さやか

寝たっきりの体を 発作と痙攣が交互に襲いかかる酷い逆境を逆手にとって、
平和と人間の勇気と 生きることの素晴らしさを表現し訴え、戦い続ける 高橋なを子。
身近な地元の若い健常者ばかりか、雲助らヒロシマの老いたる反核の語りべにまで 励まし勇気付けようと 遠くをコンサートに招聘してくれた彼女。彼女こそ 『業』 を背負いていきぬいてきた 被爆者の最たる同志だったのだ。
 佐久・小諸の高橋なを子を支える数多くの 『同志』 たちに心からの感謝を表明し、
ヒロシマから老骨雲助を身銭きってサポートしてくれた木村雅子、久保美津子 ご両人にお礼を申し上げ駄筆を置くことにしよう。

06'12/17 update


雲助巷噺 No.77 '06.2/12

冬の被爆体験紙芝居
園児百人、熱い眼差し
ばっちり一時間 注視の中で


 二月初旬、霙混じりの雨がふる寒い日だった。
広島市東区矢賀幼碓園の室内で紙芝居『昭ちゃんの原子爆弾、被爆体験記』を口演した。
 故 山口昭治 制作のこの紙芝居は絵数35枚、口演時間45分の作品である。
3才から6才までの幼児に小・中学以上の大人向けの紙芝居が理解してもらえるだろうか。
100人をこえる園児にはスクリーンに拡大したマイク・スピーカーなどの拡声装置が必要なのではないか、さらに、難解用語の解説や説明も幼児言葉に作り直す必要はないのか。
 事前にそんな質間を園長にしてみた。
「園児たちには演者の姿や仕草を見せ、そのナマの声を聴かせたい。絵柄も実物を見せたい。説明もいつもの口調、内容でよろしいと思います」
そんな応えがかえってきた。
 一抹の不安を抱えながら70年前の紙芝居屋の風采よろしく拍子木を打って「紙芝居屋だよおー  紙芝居が来たぞ−」叫びながら部屋に入った。
 ぴっしりと低い椅子に座った二百の瞳が私を注視、拍手で迎えた。
 紙芝居の冒頭 「昭ちやんが小学校に入学、最初に習った国語の本で覚えたのは
『ススメ ススメ ヘイタイ ススメ』この絵と、このカタカナの字だったのです。
一番はじめに歌った唱歌は
『ぼくは軍人大好きだ/今に大きくなったなら/勲章付けて剣吊って/お馬に乗ってハイ ドウドウ』でした・・・」 
紙芝居の導入郡で当時、流行っていた軍国歌謡を三曲ばかり絵に合わせて歌った辺りから、子どもたちは首肯きながら手繰る絵柄に釘づけとなる。以降45分の長丁場、園児たちは私語 一つなく身じろぎもせず絵と語りに集中した。
驚きだった。 
もっと驚いたのは、紙芝居の口演が終わって園長が子供たちに
「折角の機会だから雲助さんに質間する事はないか」と間いかけた。
十数人が挙手をし回答ごとに順番で無作為に三人の子が指名された。その子たちの質間内容に驚嘆したのである。
 「原子爆弾は、なぜ、落とされたんですか」
 「昭ちゃんやお母さんも火傷や大怪我をして、沢山の人が死んで 馬も死んだ原子爆弾は どんな爆弾ですか」
 「どうして国と国は喧嘩したり、戦争をするのですか」
 質疑応答に残された時間は15分だった。
でも、この原爆(核兵器〉と、その戦争と平和に対する基本的で本質に触れた的確な質問に胸を熱くした。私は全力を尽くし質間に応えた。
  あとで園長に対し事前こ質問内容を決めていたのかと尋ねた。
「とんでもない、紙芝居を見て聴いて子どもたちが自発的に感じ考えた質問です」と園長は答えた。
返答を受け、さまざまな思いが頭をよぎった。
 敗戦後の60年間、曲がりなりにも平和で自由、民主的かつ潤沢な社会のなかで、この幼い子たちは生まれ育ってきた。
家庭環境や経済的格差など不平等の矛盾のあれこれはあっても、豊富な情報量に揉まれ物事や事象の把握力や理解力、感受性が育ち豊かで鋭敏な知性、感性が備わってきたのだ。子どもたちから発せられた三つの質間は、私の胸のなかに熱い思いを滾らせた。
 この子たちがもっと、のびのびと育ち豊かに暮らす平和な世の中にするためにも、反核平和を訴え歩く草の語りべ活動、そう、故山口昭治氏が紙芝居に託した 『二度と軍歌を歌い銃を担がされてはならぬ』 願いを共に訴え歩こうと、つよく、つよく思った。

 ありがとう、矢賀幼稚園の100人の子どもたちよ!

 

● 追加掲載

『 小さな世界』 平成18年2月13日 No.11  広島市立矢賀幼稚園 園長 山野井敏子 

立春を迎えると、卒園や修了をぐっと身近に感じるようになります。
 先日は平和学習で緩急車雲助さんのお話を聞きました。
拍子木を打ち鳴らしながら入場され「昭ちゃんの被爆体験記」と言う手作りの紙芝居を読んでくださいました。
戦時中の学校や家庭生活がまさに戦争一色だった事や原子爆弾の投下によって、多くの人が亡くなったり苦しんだりした。事実を突きつけられるのです。
今の子供たちが、どれだけ理解し学びにつながるだろうかと言う思いもありました。
所が45分に及ぶ長い紙芝居を全園児が終始食い入るように見つめ、語りに引き込まれます。
家の下敷きになった昭ちやんとお母さんが呼び合う場面では、子ども達だけでなく教師も日を潤ませました。
この紙芝居を描かれた昭ちゃんは長らく被爆について語られる事は無かったそうですが、晩年になってご自身の体験をこうして伝えずにはいられない思いに駆られたのでしょうか。一昨年他界され、ご遺族が緩急車雲助さんに届けられたという事です。
終わった後
「どうして原子爆弾を落としたのか」
「どうして喧嘩になったのか」
と言う子ども達の素朴な質問には平和を愛する、守っていく事の大切さをしっかり心に刻んだ事が伺えました。
1時間に及んだ平和学習、終始熱心に話を開いた子ども達の姿は卒園、修了に向けて成長を実感した時間でもありました。
<生きていてよかった!>

* 紙芝居ってご存じですか

 辞書によると、物語の場面を連続的に描いた絵を順次1枚ずつ出して劇的に説明するもの。飴売りなどが主として子ども相手の客寄せに街頭で演じた。 昭和初期の大恐慌で失業者が輩出、その生計手段のために多用された。太平洋戦争後、戦災で娯楽がない時代もテレビが家庭に蔓延する十二、三年間、街角や路地裏などで演じられた子どもを対象にした芸能。


元旦恒例 原爆はだし供養

 ヒロシマに原爆が投下されて61回目の元旦を迎えようとしています。
しかし、世界の核兵器をめぐる諸情況は、その当時と比べ、より一層の深刻な危機をはらんでいます。
 爆心、平和公園の地下に埋まる原爆死没者の骨
「核兵器が存在するかぎり、地球と人類の未来はありえない」 と叫び続けているに違いありません。
新らしい年の初頭、この被爆犠牲者の悲願を足裏からしっかりと確かめ、
核兵器廃絶への誓いと行動を新らたにする『元旦はだし供養』
 爆心を裸足で歩いてみませんか。

                         記

と き : 06年1月1日 8時15分 〜 11時頃まで

集合場所 : 広島平和公園の供養塔前

コースなど : 供養塔に献花、黙祷後、韓国人碑、義勇隊碑を経て県立二中碑前で吟詠を受け、
本川橋を渡り本川集会所で新年を祝賀、
恒例の雲助新作講談や浜田からの成道流吟詠連による構成吟『百の棺一つ残して』を聴き、
新春抱負など語り合って解散。

会 費 : 500円


問い合わせ : 『元旦はだし供養の会』 電話 0823−22−2454 (久保浩之)

被爆60周年の今年はNPTの再検討会議なが開催されましたが、
世界の『核』状況はアメリカやイスラエルなどの理不尽な行動によって逆風下にあります。
今回で12回目にあたる『元旦はだし供養』少々ストイックな行動ですけど、
ヒロシマにかかわる私たち庶民としては、平和と反核への止むに止まれぬささやかな一歩だと存じております。
どうぞ、ご一緒くださいませ。 (雲)


  「被爆紙芝居 絵本で継承」 緩急車雲助さんが出版 '05.8.3 中国新聞掲載

 
● 被爆紙芝居の上演を続けている緩急車さん(73)=呉市=が五月に米国ニューヨークで披露した作品が、「昭ちゃんの紙芝居」のタイトルで絵本になり、このほど広島市内などの主要書店に並んだ。
昨年三月に七十三歳で死去した三次市の被爆者、山口昭治さんが作った紙芝居が原作。主人公の昭ちゃんが爆心地から約1.7キロの病院で母親とともに被爆し、遺体やがれきを越えて逃げ、母親が出産するまでの様子を計三十六枚水彩画で表現している。
 緩急車さんは昨年春、山口さんのおいから紙芝居を預かって以来、中区の平和公園などで計四十五回、約二千五百人に山口さんの被爆体験を伝えてきた。今年五月には核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて訪米し、ニューヨークで上演した。
A4版、四十六ページ。一冊千八百円(税別)で三千部刷った。原爆資料館などに寄贈した。問い合わせは呉市の木戸出版(TEL)0823(32)6107



● 「原爆の悲惨 次世代に」 呉の講釈師 , 作木で紙芝居上演

呉市の講釈師、緩急車雲助(本名久保浩之)さん(73)がこのほど三次市作木町で、ニューヨークでも上演した紙芝居「昭ちゃんの原子爆弾被爆体験記」を演じた。
まちづくり大学受講者五十五人が参加。緩急車さんの心を込めた語りに聞き入った。十五才で入市被爆した同町の門田ミユキさん(75)は「原爆の体験を忘れたらいけない。子どもたちに見てもらいたい」と話していた。
昨年、七十三歳で亡くなった三次市の山口昭治さんが作り、小学校や公民館で語り続けた。緩急車さんが遺志を継ぎ、広島市中区の平和記念公園などで上演している。五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて、ニューヨークでも披露した。
緩急車さんは、紙芝居を原作にした絵本「昭ちゃんの紙芝居」を山口さんの遺族に贈った。

 


  被爆の実相 講釈で 非核平和講演会に市民100人 〜鳥取 05'6.29 赤旗新聞 


行政と民間で組織する非核平和都市宣言推進鳥取市実行委員会(池原範雄実行委員長)は二十五日、鳥取県民文化会館で「被爆六十周年にあたって、市民のみなさんに非核平和の大切さや、原爆の悲惨さを知っていただきたい」と広島の出前講釈師の綾急車雲助(本名久保浩之)さん、作家の児玉辰春さんを迎え、非核平和講演会を開き、市民ら約百人が参加しました。
 雲助さんは、ニューヨークで五月に行われた核不拡散条約(NPT)再検討会議への要請行動に参加。
「NPT会話は結論を先送りしたが、世界の百八十九ヵ国が核廃絶を願っていることを実感した」と話し、アメリカでも「原爆紙芝居」と「原爆講談」を実演し、未来への希望を託してきたことを紹介し、原爆で石に灼(や)きついた人影が霊魂になり、原爆を告発する「石に影を灼きつけた男」を臨場感あふれる語り口で講釈しました。
 教員をしていた児玉さんは、退職前に中学生による「原爆とシゲル」の劇をみて深く感動。退職後シゲルの母、折免シゲ子さんを何度も訪ね、今も広島の原爆資料館に展示されている「まっ異なお弁当」を本にした経過を話し、折免シゲ子さんの秘められた悲しい話があ、ったことを紹介しました。



● 「戦争をしない大人になって」 鳥取市内6校で非核講演会 〜'05.6.24 日本海新聞

原爆の悲劇に児童ら涙 気高・逢坂小


小学校高学年を対象にした原爆の悲劇を理解するための非核平和講演会が二十三、二十四の両日、鳥取市内の四小学校とニ中学校で開かれた。このうち、気高町山宵の逢坂小学校(土井則子校長)では、講釈師の緩急車雲助さんによる講談が演じられ、児童らは熱心に聞き入った。 
広島と長崎の被爆六十年を機に非核平和都市宣言推進鳥取市実行委員会が企画。同校で演じられた講談「まっ黒な弁当」は、旧制中学一年生のとき原爆で死亡した折免滋さんと原爆投下後に必死で滋さんを探し回った母親シゲコさんの実話を基にした物語で、この弁当
箱は広島市の平和記念資料館に展示されている。
 同校の講演会には高学年三十三人が出席。雲助さんは身振り手振りを交え、滋さんのいつもと変わらずに家を出たこと、旧制中学校の校庭で被爆した滋さんを必死で探し回り、黒焦げの弁当箱を持ったまま死んでいた滋さんを見つけて泣き崩れるシゲコさんの心情など
を熱演した。
 雲助さんが語る原爆の惨状や子どもを失った母親の悲しみの描写に、思わず涙ぐむ児童の姿も見られた。
 講談終了後、雲助さんは児童らに「皆さんは核兵器を使うような、戦争をするような大人になってはいけない。戦争ほど辛く、悲しいものはない」と核兵器の根絶を強く訴えた。
 砂原衣里さん(12)=同小六年=は「私には滋さんと同年代の兄がいて、もし滋さんと同じようなことになったらと思うととても悲しい気持ちになるので戦争はもうしてほしくない」と話していた。




● 核の悲しみもう二度と
久保さん 児玉さん 鳥取でヒロシマ語る 〜'05.6.26 朝日新聞


 
核兵器の悲惨さ、平和の大切さを考える非核平和講演会が25日、鳥取市尚徳町の県民文化会館であった。原爆をテーマに国内外で活動している広島県呉市の講釈師、緩急車雲助さん(73)=本名久保浩之さん=と、広島市の作家、児玉辰春さん(77)が講演した。
 市民約100人が参加。久保さんは原爆をテ−マにした講談を400回以上、上演している。
この日の演題「石に影を灼きつけた男」は、原爆の熱線で石段に影を残して亡くなった男が、霊魂となりさまよう物語。被爆直後に、がれきとがらくたの山になった広島の様子を臨場感たっぷりに語ると、会場はしんと静まりかえった。
 元教員の児玉さんは、絵本「まっ黒なおべんとう」の作者。児玉さんは「今の日本は心配でならない。これからも書き続け、戦争をおこさせない運動を起こしていきたい」と話した。




● すっかり、鳥取 おっとり、鳥取
  さすがは、鳥取 さきゅうは、鳥取
 

鳥取砂丘を俯瞰する国民宿舎の宿泊客は児玉辰春さんと雲助の二人だけだった。
朝6時、薄曇りの東天に深紅の円盤を置いたような太陽が『馬の背』と呼ばれている砂丘の斜め上にあった。
日本海と砂丘と朝日の綾なす見事なロケーションである。
 昨夜「砂丘の上で朝日を拝みながらの野点は如何ですか」誘って戴いたのは今回の非核平和講演会ですっかりお世話になった市の平和都市宣言推進実行委員会の副委員長である伊谷周一氏。
長丁場の口演ツアー、疲れへの不安から辞退したことが悔やまれる早朝の砂丘風景だ。
 今回の原爆講釈紀行は、講師への推薦も三泊四日の口演日程中の厚い接待、鳥取市の歴史や文化、気質などの懇切な説明や案内見聞なども皆な氏によるものだった。
 加えて副市長や市の職員、口演先きの校長や教師の私たちへの応対も、老いたヒロシマの語り部への優しさと敬意にあふれていた。  雲助の場合、一つの小学校と二つの中学校合わせて二百五十人ばかりに『黒焦げの弁当箱』を読み、最終日に県民文化会館で百人ほどの市民に『石に影を灼き付けた男』を聞いてもらった。
口演のマクラでは五月に訪米したニューヨークでのNPT再検討会議への要請行動などの経過報告を述べた。
 聴者の反応は『砂地に水』反核平和、ヒロシマの心がすべて吸収されていくの感じ、誠に嬉しい砂丘の街鳥取市の学校と県民文化会館での口演紀行であった。(雲)


  「英語で口上、原爆の紙芝居」 毎日新聞掲載記事は >>> こちら '05/05/15

 

  奨励賞3件決まる 〜広島国際文化財団〜 呉の講釈師久保さんら '05/2/10 中国新聞記事より転載

● 広島国際文化財団(広島市中区、山本信子理事長)は九日、国境を越えた草の根活動に贈る、第七回国際交流奨励賞の受賞者・団体に日米の二人と一団体を選んだ。
受賞したのは、広島の被爆少女 佐々木禎子さんがモデルで、腕の部分を壊された米国シアトル市内のブロンズ像の修復に尽力した現地の音楽家、美智子パンピアンさん(49) ▽ 手弁当の原爆講談ツアーで米国ハワイ州に三年連続で渡った、呉市の出前講釈師「緩急車雲助」久保浩之さん(73) ▽ 米国国立スミソニアン航空宇宙博物館による原爆役下機エノラ・ゲイの修復、展示を機に渡米し、真意を同館や米国市民に問いかけた「スミソニアン博物館に対する渡米団」(代表・坪井直 広島県被団協理事長、七人)。
パンピアンさんは日米を往復し、像修復の募金を両国の市民に提唱。昨年八月、復元した像の除幕にこぎ着けた。久保さんは「報復ではなく、核兵器廃絶の道を選んだヒロシマの哲学を伝えたい」と、原爆犠牲者の無念を込めた自作を巡演してきた。坪井さん(80)たち被爆者や被爆二世の「渡米団」は、博物館を訪ねる一方、米国市民の原爆被害の実相と核兵器廃絶を訴えた。一行の行動は、昨年一月、中国放送のテレピ番組「エノラ・ゲイ 高度9600m そして原子雲」として放映された。
 受賞者には、それぞれ賞状と奨励金十方円を贈る。受賞者・団体の候補は毎回、中国新聞と中国放送が最近の一年間に報道、制作した記事、番組の中から選ぷ。

奨励賞2人1団体表彰 〜広島文化財団

広島国際文化財団(山本信子理事長)が、国境を越えた地道な市民活動に贈る「国際交流奨励賞」の表彰式が二十八日、広島市中区の中国新聞ピルであった。
米国在住の音楽家 美智子パンピアンさん(49)、呉市の出前講釈師「緩急車雲助」久保浩之さん(73)、「スミソニアン博物館に対する渡米団」(代表・坪井直 広島県被団協理事長)で、それぞれに表彰状と奨励金十方円を贈った。
 日米の市民に募金を呼び掛け、破壊された米国シアトル市内の被爆少女の像を修復させたパンピアンさんは運動を通じて親交のある宮本慶子さん(53)=広島市佐伯区=が代理で出席。中国新聞の電話取材に、「小さな力が集まり、行動につながったのがうれしい」と振り返った。
 久保さんは三年連続で米国ハワイ州に渡り、原爆に材をとった講談を披露した。「米国であまり知られていない劣化ウラン弾の怖さも訴えていく」と意気込みを語る。
 原爆投下機エノラ・ゲイの修復展示を機に渡米し、現地の市民と語り合った坪井さん(79)は「テロ犠牲者の遺族と痛みを分かち合えた。命の大切さを見つめれば、日米の市民は手をつなげる」と希望を託した。<転載終わり


● おこがまし受賞されど嬉しき

「こちらは広島国際文化財団です。あなたに国際交流奨励賞の受賞が決定しました。詳しくは明日の中国新聞をご覧ください」 二月九日の夕刻、こんな電話が架かってきた。「えっ、その国際文化財団って何処のどんな団体ですか。なぜ私が? 受賞にはお金が必要でしょう。私は金を払ってまで賞をもらう気はありません」と素気なく断る私。「違います。逆です。広島国際文化財団は中国新聞とRCCが報道した国境を越えて地道な平和活動、草の根の市民活動家を奨励し贈る賞です。財団は・・・」と、担当者が説明。「そう、その財団と選考基準などをFAXしてください。受賞の諾否はそれからに」 送られたFAXにより財団や賞の概要を知り驚いた。三年続けてハワイヘ手弁当で原爆講釈ツアーをした事が選考対象になったというのだ。しがない雲助の屁呆講釈が受賞するのは烏滸がましいかぎりだ。 されど地元のメディアと国際文化財団が草の根の平和活動に目を掛けてくれたのは嬉しい。しかも副賞の拾万円は、五月、ニューヨークで開催される『NPT再検討行動』への渡航費用に充当できるではないか。「有難く受賞を承諾します」と返事をした。      雲助


講釈師 久保さん 24日出発 4会場巡演 『原爆講談』三たび ハワイへ '05/3/10中国新聞より転載記事

 出前講釈師「緩急車雲助」を名乗る呉市清水、久保浩之さん(72)が24日、米国ハワイ州での「原爆講談」ツアーに向け、出発する。
 「広島出身の移民が多いハワイで、演じたい」と、2002年に始めたツアーは今年で3回目。1度聴いた現地の日系人たちが、昨年から巡回ツアーのおぜん立てをしてくれている。
 今年は、ハワイ、マウイ、オアフの3島を回り、ハワイ大など4会場で巡演する。演目は、おはこの「石に影を灼(や)きつけた男」「黒焦げの弁当箱」「ヒロシマの川は黒かった」の3つ。
日本語で演じ、知人に英訳してもらった粗筋を会場で配る。
 久保さんは講釈の傍ら、市民運動で一昨年末、イラクを訪問。1991年の湾岸戦争で撃ち込まれた劣化ウラン弾の影響とみられる障害にあえぐ子どもたちに会い、衝撃を受けた。帰国後は1人、広島市内の繁華街でプラカードを掲げ、無言で歩くなど、軍拡路線を走る米国の独善に異を唱えてきた。
 久保さんは「被爆者は、報復より核兵器廃絶の道を選んだ。米国民に今こそ、ヒロシマの哲学を伝え、暴力の愚かさを悟らせたい」と張り切っている。< 転載終わり

● 昨年の三月十六日付け中国新聞(右のコラム記事)が広島文化財団の主催する今回の国際交流奨励賞の選考になったとか。歯切れのよい要を得た記事で雲助の諸行動を紹介し写真も自然体の表情を好くとらえている。
 あの日から六十年、ずうっと抱え続けてきた被爆『核家族』のもつ内面的な苦悩を、沈黙せざるを得なかったの被爆者になりかわって語り続けねばならない。
 受賞をバネに放射能兵器の悪魔たる由縁を、地球の生物絶滅の危機を一人でも多く知ってもらう行脚に余生を尽くしたいと強く考えている。 

二〇〇五年三月 雲助


 今年も 反核、平和を叫び続ける

御降りの爆心あるく裸足の行

 被爆六十周年の今年『元旦はだし供養行』は 回を重ねて十一回目となった。大晦日からの厳しい寒波の到来で夜半の降雪は明け方には霙混じりの雨になり平和公園(爆心)の地面は凍みていた。 
ここ数年来、常連となっていた山陰浜田市の詩吟グループは、積雪、凍結のためか顔を見せなかった。でも、NHKの取材記者を含め十八名の地元勢が、ややストイックなこの『はだし行』に参加した。 
供養塔前で裸足になり献花、黙祷し韓国碑、観音像、義勇隊碑と巡って県立二中碑に献花、痺れ悴んだ足裏から爆心地底に埋まった骨の声を確かめ、ヒロシマを伝える草の語りべたらん決意を新たにした。
 この『行』の由来や意義、現状などは事前取材を受けた際、喋った中身が見事に要約され、元旦の中国新聞一面のコラム『天風録』に掲載されたとうりだ。(下段に切り抜きコピー添付) 今回は裸足で歩いた後の新年懇親会では故 山口昭冶氏制作の紙芝居『昭ちゃんの被爆体験記』を雲助が口演、久保美津子氏創作の掌編小説 『<一月一日>の歌と赤い鼻緒の下駄』 を風邪を押して参加した河合ヨネ氏が朗読し参加者一同、新年の抱負など語り合って散会した。 
今回の『はだし行』余話だが嬉しいことがいくつかあった。
献花に用意した水仙の三十把は近所の知人、安藤和雄氏が訳を知っての差し入れで、一分足らずの立ち話に意気を感じてくれたものだった。
 嬉しいことと言えば『天風録』を書いた難波記者が参加してくれたことだ。昨年末、来宅取材での彼は裸足供養の由来を二時間余りにわたり聞きただした。元日『天風録』掲載記事のことなどには一切触れず「何故、あなたは原爆を語り続けているのか。何故、裸足にこだわるのか」繰り返し繰り返しての質問だった。さらに、元旦当日の裸足供養に付き合った彼は、前々日にも私たちが歩いたコースを独り、裸足で実際に歩いてみたという。なぜ裸足なのか、と…。
 一介の名もない草の原爆語りべたちの少々、自虐的でもある『はだし行』を七十万部もの発行部数をもつ地方のメディアの論説記者が、自らも一人で歩いたうえで記事にする姿勢を私達は尊く嬉しく思った。
 半世紀を超えて反核平和の悲願を持続、訴え続けてきたヒロシマビトのささやかな隠れ『行』の積み重ねに、つまり、戦争も平和も庶民、なかんづく生き残った被爆者の生き方、考え方の細部に宿るという確信。
その五十余年をかけて到達した私どものヒロシマの哲学に気付いてくれたのは、もう一人のメディア記者、NHK広島のアナウンス制作の土方氏だ。彼も元旦『はだし供養』の取材にきてその模様をカメラに収め、参加者一人一人への丁寧なインタビューを録音した。
 「ヒロシマの草の根・反核行動をラジオの全国放送で紹介したい」
 元旦早朝、広島局アナウンサーが独り寒気を衝きカメラを担いで十数人の『隠れ行』を取材する。これまた一行にとっては嬉しい励ましだった。最後にもう一つ、鳥取市の平和活動家、伊谷周一氏が鳥取の銘菓を陣中見舞いとして送ってくれたことだ。嬉しく皆で頂戴した。


【天風録】中国新聞 2005年 1月1日 記事引用
被爆六十年の節目の年が明けた。きょう午前八時十五分。爆心地にある広島平和紀念公園をはだしで歩く人たちがいる。呉市の講釈師緩急車雲助さん(73)が呼びかけた「原爆はだし供養」の参加者たちだ
▲年配者に交じり、島村洋介さん(26)と諒さん(23)兄弟の姿もある。
二年前にイラク反戦デモで雲助さんと知り合い、行動を共にする。「戦争のこと、原爆のこと。少しずつ知り考えるうちに大国のエゴや理不尽さに我慢できなくなった」 「もう気持ちのふたをとって噴き出すのに任せたい」
▲あの日、広島は焦土と化した。歩くと、靴底が溶けてへばりついた。一方、真冬の土は、はだしに痛く、しびれて感覚がなくなるほど冷たい
▲十年前のことだ。雲助さんは南アフリカから来た歌舞団と平和公園にいた。「この土の下にはおぴただしい数の遺骨が眠っている」。そう伝えた時、彼女たちは靴を脱ぎ、はだしで歩き始めた。十年前に始めた「はだし供養」のきっかけだった
▲テロと戦争、相次ぐ災害や自殺者の増大…。「時代は未曾有の濁水の中にある」と表現す作家もいる。若者は希望を失い、老人は不安を抱え、女性は結婚して子を育てるのが難しいと感じる社会になった
▲被爆の事実を風化させまいと年に一度、平和公園をはだしで歩く人たち‥被爆者とのつながりを持ち続けたいと願う若者。世代を越えたきずなが、冷たい土の中から平安な世界を芽生えさせるよう願わずにはいられない


毎日新聞 2004/12/12 掲載記事引用

NYで原爆紙芝居 呉の久保さん、来年5月 「ヒロシマの心伝えたい」


 今年3月に亡くなった被爆者が子どもたちに披露していた「原爆紙芝居」が来年5月、核夜拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて、ニューヨークで披露される。今年5月に復活させ、修学旅行生らに披露している講談師の久保浩之さん(73)。=呉市清水2=は、「米国の子どもに平和を願うヒロシマの心を伝えたい」と話している。
 紙芝居の題名は 「昭ちゃんの原爆被爆体験記」。入院していた広島市内の病院で被爆した山口昭治さん(享年73才)が約2年前に作り、住んでいた三次市などの小学校で上演していた。
 大やけどを負って歩く市民の列や、死体が浮かんだ川の様子など、避難中に目にした光景を40枚の絵にしている。
 米国上演は、海外での原爆の講談の経験もある久保さんが計画。先月末に広島を訪れた米アトランタ在住の平和運動家、スティーブ・リーパーさんに持ちかけた。
 NPT再検討会議のNGO会合のスタッフでもある、リーパーさんは、「インパクトのある絵だ。原爆被害の実情を知らない米国の市民に見せて」と、台本の翻訳や上演の準備を引き受けたという。
 紙芝居は、同会議の会場となる国連本部ロビーや学校、教会で上演される予定。久保さんはスラム街での上演も希望している。
 久保さんは「会議の結果は非常に厳しいものになるだろうが、僕は紙芝居という原始的な方法でニューヨーク市民の心に平和の尊さを伝えたい」と話している。【遠藤孝康】


雲助巷噺 No.61 '04.11.26

 ニューヨークで原爆紙芝居を
      鳥取県原水協代表 伊谷周一氏への手紙

 いつもいつも草の根 原爆講釈師へのご高配を有難うございます。
 来年6月下旬に開催予定の「鳥取市非核宣言都市・被爆60周年記念集会」での講談『黒焦げの弁当箱』もし<は紙芝居『昭ちやんの原爆被爆体験記』口演仮依頼の件、承知いたしました。
 参考までに同封した 『雲助巷噺』No.59/60 は、5月から半年間、製作者の故山口昭治氏への供養もかねて懸命に取り組んだ紙芝居口演報告記です。
 学校、平和公園、公民館、特別養護老人ホームや趣味グループなど小集会での口演は、1500名を越え老若男女を問わず大きな感動を呼びました。
 「一途に、自分の体験したことを何としても訴えたい気迫が充満したこの作品は、日本では無論のことアメリカでも、例えばスラムの街角で屯してる子供たちや教会、学校でも受けるんじやないの」
 「最も原始的で素朴な、ただ、ひたすらに被爆体験を知ってもらいたいという訴求方法で、最も現代的科学の粋をきわめた原子力の惨を弾劾、告発する被爆体験紙芝居だ」こんな感想をいくつも頂きました。
 本当にアメリカでも通用するだろうか。この紙芝居は!
 そうだ、旧知のステイーブ・リーパ氏(米国の平和運動家、定評のある名通訳)に観せて確かめることにしました。
彼は来年5月、ニューヨークで開催される国連のNPT=核不拡散条約再検討会議の打合せで来広してる。グッドタイミングだ。
忙しい打合せの合間を縫った昼飯の席で披露してみました。
 「これは大変なインパクトを持った作品だ。素晴らしい。5/1のNPT行動では参加して口演したらよい。
国連本部の 『被団協スペース』その他での口演機会を私としても実現に努力したい。
説明はブロークンでも英語でしたら一層アツピールするよ。翻訳英文にカタカナでルピを振ってでも」
と、彼は好意に満ちた評価と示唆をしてくれました。
 渡米しての紙芝居口演に拍車がかかってきました。
 古希を過ぎてからは、これで柊わりになるかもと一回一回の原爆講釈や碑めぐり案内を一期一会で勤め、
草の語りべは『平家』を語り歩いた 乞食琵琶法師と同じ野ざらし行脚だと思うようになりました。
今後とも宜しく。  頓首再拝


雲助巷噺 No.59 04'10.29

 被爆者・故山口昭治さんの描き残した紙芝居
  『昭ちやんの原爆・被爆体験記』由来

 今年、四月下旬、呉市のシングソングライター菊池レイ子さんの紹介で一人の男が訪ねてきた。
大きな風呂敷包みを抱えたこの若者は、庄原市に住む山口啓二だと自己紹介をした。
そして、おっとりとした口調で「突然のお麻いですが、実は今年3月、73歳の伯父が亡くなりました。
当時14才で広島の軍需工場で働いていた伯父の山口昭治は、赤痢にかかり船入病院の隔離病棟に入れられ母親が看病に行っていました。
伯父の昭治は母親とともに原爆で被爆、その被爆体験を紙芝居に描き、二年ほど前から三次市周辺の小学校などで口演していました。
できることなら伯父の衣鉢を継いで原爆の語りべをなさっておられる貴方が口演してくださると嬉しいのですが…」と語った。
 風呂敷包みの中身は手製の段ボールを張り合わせた紙芝居用の携帯舞台箱と昭治氏が描いた水彩画40枚の作品だった。
 その画面はいかにも素人っぽく素朴なものだった。絵の裏面には見たまま、感じ思ったままを簡潔にまとめた説明書きが記されていた。
声をあげて読んでみると私と同年齢の被爆した男、六十余年の思いが胸に突き刺さった。

紙芝居のあらすじ

 作者の山口昭治氏が産まれた昭和6(1931)年、日本軍は中国東北地方へ侵攻、いわゆる満州事変がはじまった。
小学校へ入学した昭和12(1937)年には中国への本格的な侵略、日中戦争の勃発、昭和16(1941)年には太平洋戦争。
 作品は、その辺の情況が『ススメススメ ヘイタイススメ』など戦事一色となった教科書の紹介や軍事教練風景で描かれる。
出征兵士の見送りなど国民の暮らしぶりも当時の流行歌や軍歌などを挿入して紙芝居は始まる。
 敗色濃厚の昭和20(1945)年夏、赤痢で入院した主人公の看病にきた母親。
 そこへ原爆が投下され負傷した二人は逃げ惑う。原爆炸裂直後の壊滅的情況や被爆者の悲惨な実態が克明に描かれていく。
傷ついた母と共に爆心を経由し県北の庄原市までの逃避行の鬼気迫る描写。妊婦だった母がその年の暮、無事出産、喜ぶ家族。
故昭治氏は妹の兄となる。
戦争と原爆に翻弄されながらも辛うじて生き残った一家の生活模様が十四歳だった少年の日を通じありのまま四十枚の絵に描かれている。
彼の衣鉢を継ぐ雲助の紙芝居口演は夏から秋口まで14回、学生を中心に1450名に鑑賞してもらった。


雲助巷噺 No.59 04'9.29
 
被爆者・故山口昭治さんの描き残した紙芝居
  『昭ちゃんの原爆・被爆体験記』由来

 今年、四月下句、呉市のシングソングライター菊池レイ子さんの紹介で一人の男が訪ねてきた。大きな風呂敷包みを抱えたこの若者は、庄原市に住む山口啓二だと自己紹介をした。
そして、おっとりとした口調で「突然のお願いですが、実は今年3月、72才の伯父が亡くなりました。当時14才で広島の軍需工場で働いていた伯父の山口昭治は、赤痢にかかり船入病院の隔離病棟に入れられ母親が看病に行っていました。伯父の昭治は母親とともに原爆で被爆、その被爆体験を紙芝居に描き、二年ほど前から三次市周辺の小学校などで口演していました。できることなら伯父の衣鉢を継いで原爆の語りべをなさっておられる貴方が口演してくださると嬉しいのですが…」と語った。
 風呂敷包みの中身は手製の段ボールを張り合わせた紙芝居用の携帯舞台装置と昭治氏が描いた水彩画40枚の作品だった。その画面はいかにも素人っぽく素朴で稚拙なものだった。絵の裏面には見たまま、感じ思ったままを簡潔にまとめたキャプションが癖のある字体で記されていた。しかし、声を上げて読んでみると私と同年齢の被爆した男、六十余年の思いが胸に突き刺さった。作品には原爆の悲惨な実態と戦時下の暮らしの有り様を伝え残しておきたい気迫が充満していた。
当時、十四歳だった少年の体験と思いが、ありの侭に一切の誇張やアジテーション抜きで、そくそくと伝わって<る凄い紙芝居だった。
 初めての紙芝居口演は平和公園、峠三吉詩碑横の木陰、淡路島の小学校六年生、三十余人。40分、真剣な眼差しが集中、涙ぐむ子もいて成功だった。


雲助巷噺 No.60 '04.10.7

被爆の紙芝居聴く若きら汗涙

  9月16日、廿日市西高校の一二年生680人の男女生徒達にデジカメで撮った紙芝居『昭ちゃんの原子爆弾、被爆体験記』原画をPC拡大でスクリーンに映写し口演させてもらった。
学校から送られてきた感想文40枚の一部を抜粋、以下、記してみた。

●「昭ちゃん(長男)の看病にきていた妊娠中の母親は原爆被爆、大怪我をしながら火傷した息子を庇い励まし爆心を通って県北の我が家まで命からがら逃げのびる。そして、元気な赤ちゃんを産む。あのシーンが最も感動的だった」
●「紙芝居は子供が描いたような絵だったが、逆に、とてもリアルでした。広島の原爆が落とされたシーンは心に焼き付けられた」
●「原爆が落とされるまでは皆んな普通に生きて暮らしていたのに、たった一発で全てが破壊されて皆殺しにされてしまった。悲惨すぎる」
●「昔、戦時中の学校は今とはまったく違っていたのに、ぴっくりした」
●「原子爆弾の凄さと戦時中の暮らしがよく解った。大火傷した被爆者に水をあげたら、すぐ死んでしまった描写は衝撃的だった」
●「原爆がどれだけ沢山の人を苦しめたか、よく解った。怖いと思った」
●「戦争は人が起こす一番、重い罪だ。人間の欲が原因なのかな、と思った」
●「紙芝居も講談も全部よかった。お母さんと昭ちゃんに米と野菜を運んでいた父親が助かったのは、ちょっとした偶然だった。人の生死はそんなことで決まったりする。戦争ではそんなことが多くあったに違いない」


五月、平和公園でこの紙芝居の口演したとき、小学生たちの後で杖をついて聞いておられた老人は、59年前の8月7日、野莱と米を運んで来て壊滅した広島に立ち竦み、妻と息子の骨を探して原爆焦土を彷徨い今なお健在のお父さん、九十六歳だった。その横で涙を拭いながら兄の遺作を聴見きれていたのはあのとき産まれた赤ちゃん、今は六十歳の主婦、故山口昭治氏の妹さんだった。
悲惨と苦悩に満ちた多くの原爆体験記や語りのなかで、せめてもの救い『生きていてよかった今』が描かれている被爆体験・紙芝居。故人の衣鉢を継いで読み続けてまいりたい。


清水劇場・支配人 高田博氏の思い出

 人生 意気に感じる

 先日、こんな葉書が来た。「このたび九月二十一日より中国新聞朝刊、連載エッセイ欄「緑地帯」八回読み切りで拙文が掲載されます。お目にかけてください。『原爆と私』のコーナーで少し師匠の事に触れさせて頂きました。悪しからず!滑水劇場 高田博」「芝居小屋人生」という表題で各編ごと気の利いたサブタイトルをつけたエッセイいうよりオムニパス風の随筆、その第四編に雲助の名が掲載されている。
 清水劇場支配人、高田博さんと知り合いになったのは、僕だけの記憶を手繰れば、十年くらい前の初夏、彼の劇場を訪れたときではないかと思われる。
「一面識もない男の突然なお願いですが、今年八月六日の公演幕間いに私の原爆講談を飛び入りで読まして頂けないでしょうか。広島の庶民、観客なら五十回忌にあたるこの日の慰霊鎮魂の講釈を受け入れてくれると思うのですが」
 思い詰めた表情の突飛で非常識な私の申入れに高田さんは門前払いをするかと思いききや「その講釈の梗概、演題を鋭明してほしい。私にも前々から暖めていた原爆もののシナリオがある。座長とも相談して検討してみる」と乗り気の返答をしてくれた。
 しかし、例年八月に決まっていた巡回劇団のその座長は、毎年八月六日は慰霊の催し物を我々一座でやると言いきり、清水劇場での雲助口演は実現しなかった。
 高田さんは三年後だったか刑務所での或る一座の歌と踊りの慰間公演に雲助の原爆談をプログラムしてくれた。支配人高田博の自前興行で刑務所側はノンギャラだったが彼は大入り袋の封筒を出演者に配った。封筒には二千円入っていた。嬉しかった。 雲助



以下、中国新聞より 転載
 緑地帯 芝居小屋人生・1 「二十四の瞳」

私は香川県・小豆島の生まれである。国民学校六年生、毎日空襲のサイレンにおびえ、勉強など滞足にできなかった。校庭は、ほとんど芋畑になり、教科には銃剣術や、なぎなた、手旗信号、モールス通信、唱歌は軍歌に、女子はモンペ、男子はゲートルを巻いて通学していた。その上極度の食料不足で、米は一人当たり二合一勺で配給制となり、育ち盛りの少年にとっては、ひもじい毎日だった。
私の劇場(こや)にはお稲荷さんを祭ってあった。神棚には大入り袋が張ってあり、その中には「十銭」が入っていた。私はある日、大入り袋の中身を全部抜き取ったのである。町に一軒だけ「角店」とい−つ、うどんやが細々と商いを続けていた。店の「いなりずし」を貫い占めて友達におごった。徳次は二日間も、めしを食べていないと泣きながら、いなりずしをほお張った。竹三も、たかし君も、これでB29にやられてもよいと言って食べた。
後日、大入り袋の件は、角店の親父が父に告げ口したため、ばれてしまった。父は私をしからな
かった。ただ一言「おまえは、よっぽどお調子もんよ」と言った。
 時は移って、十五年前に島で同窓会があり、かつての友と再会した。みん白髪が目立つ年ごろになっていた。別れ際、桟橋まで見送ってくれて新聞紙に包んだおみやげをくれた。中身は手作り
のいなりずしだった。 
岬まわりのフェリーの甲坂で私は涙が止まらなかった。まぶたに焼き付いている少年時代の瞳たち…。だんだんとあの世に旅立ったと聞く。
(たかた・ひろし 清水劇場支配人=広島市)


緑地帯 芝居小屋人生・4 「私と原爆」

 私が初めて広島へ来た昭和四十年ごろから、親交のある元広島原爆貿料館長の高橋昭博さんに案内されて資料館へ行った。そこで見たものは今まで持っていた「原爆」という観念を根底から覆させられた。
非戦闘員の人を、幼い子供を一発の原子爆弾で焼き殺し、六十年たっても多くの人が苦しんでいる。忘れかけていた「鬼畜」という言菓を思い出した。まさに戦争は狂気のさたである。
 高橋さんは「平和運動は、むなしくても一人から始める事です。高田3んも広鳥の人になったからには、芸能界の方を一人でも多く連れてきてください」と。それからは、山本薩夫監督、大島渚、吉田喜重さん、岡田茉莉子さん、藤田弓子さんや、清水劇場に来た座長や有名歌手の万をつとめて案内した。
 母の手作りのお弁当も食べず死んでいった十五歳の中学生、折免しげるさんの黒こげの弁当箱は他の展示遺品の中でも、私には強烈な衝撃を受けた。」の弁当箱の内にある母と子の絆。戦争が引き裂いた無垢の青春をどうしても劇化してみたかった。
 念願かない、二〇〇一年、市川ひと丸座長によって上演され好評だった。後年、若葉しげるはこれを脚色「ひとり芝居」にして、各地で百回公演した。
さらに呉市の講談師「緩急車雲助さんは、私のすすめで「黒こげの弁当箱」長講一席の巡回の旅を続けている。また、私のつたない作詞「かあさんの弁当箱」は平成十五年、キングレコードより、リリースされた。
 物言わぬ遺品は今もなお生き続けている。
(清水劇場・支配人=広島市)


2004/5/16 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <1>
4ヶ所、180人と交流
講談による被爆語り部 緩急車雲助

 春疾風 一途に反核 説<旅ぞ

 昨春に続いて今春も、ハワイ三島をめぐって原爆の講釈をしてきた。
 講釈ツアーの日程は
 ★三月二十五日午後、オアフ島ホノルルのYMCAホール。演題『ヒロシマの河は黒かった』
 ★三月二十六日午後、ハワイ島ヒロのナニロアホテル・クラウンホール。演題『石に影を灼きつけた男』
 ★三月二十七日午後、マウイ島ラハイナの浄土院本堂。演題『黒焦げの弁当箱』
 ★三月二十八日午前、マウイ島カフルイの本願寺本堂。演題『石に影を灼きつけた男』

 三島四力所での口演の聴衆は、日系の年配者が中心で平均四十数人、おおよそ百八十人の方々の参加をいただいた。
 今回で二回目となるハワイでの口演は、昨年に引さ続きハワイ在住の教育家であり、地元紙の嘱託新聞記者でもある亀田佳子女史の厚いご尽力によって実現できた。
 さらに加えて今回は、ヒロのハワイ大・太田正文教授(応用言語学)が、若い大学生たちに原爆の実態を『講談』で聞かせたいと、原爆投下直後の広島市街の映写など精力的に取り組みをすすめてくださった。
 当初、大学の教室で口演する手はずだったが、その日はクヒオデーという島をあげての祭日にあたり、ハワイ島の公共施設はすべて休日だったことに気づき、一週間前に急きょ、会場を古くからの名門ホテルの会議場に変更することになった。
そのため、大学構内での口演は残念ながら実現しなかった。

 なお、今回のツアーでは雲助のへぼ講釈の後、口直しに合唱団歴五十余年の連れ合いが懐かしの唱歌や、日本歌謡を歌って、原爆の惨禍へのレクイエムとした。

 四会場とも聴衆のほとんどは日系人だった。
 英語圏での生活だから、英訳のテキスト台本を事前に配布し、日本語で語る雲助の口演スタイル。
『黒焦げの弁当箱』は一昨年、アメリカの三都をめぐつた口演で実験済みで、英訳のフロッピーもある。
今回は新たに、『ヒロシマの河は黒かった』と『石に影を灼きつけた男』の英訳を広島平和文化センター国際・平和連帯推進課とワールド・フレンドシツプセンターのご好意によってフロッピー化していただき、現地でプリント配布して熱演することができた。
 蛇足だが、翻訳された英文にカタカナ・ルビを振って、英語で原爆の講釈を読み上げるのが老雲助の夢である。

 ところで口演した四会場では、本題のマクラで必ず、二年前、イラクのバグダツド訪問の際、見聞した劣化ウラン弾被害についての報告をした。
パグダツドの子供病院を見舞った時見た、白血病の末期で、苦しみもだえて死んでいく多くの幼子たちの状況や介護で付き添う母親や家族の悲嘆を話した。
 英米軍やNTO軍が保有、使用してきた劣化ウラン弾の機能・威力、その人体に及ぼす重金属・放射能被害、着弾地の汚染などを、ヒロシマの原爆投下直後十年間の状況、イラク・コソボでの使用情況を重ねあわせて私見を述べた。
 ほとんどの聴者は、劣化ウラン弾が放射能兵器であり、その被害の深刻な事態などは初めて聴く話だと真剣に受けとめ、国家により秘匿されている情報の恐ろしさをつぶやきあった。 (つづく)

●●● 2004/5/23 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <2>
反戦・反核の心伝える行脚
講談による被爆語り部 緩急車雲助

 スペインの怒りや
 鷹 鳩と化す

 ハワイ講釈の出立を前に「朝日」と「中国」の両新聞が取材。いずれもイラク反戦のプラカードを掲げて歩く雲助のカラー写真入り四〜六段囲みの扱いで、『原爆テーマ・ハワイで出前講談』『原爆講談三たびハワイで』といった見出しを付けての記事だつた。
 さっそくその切り抜きに以下のようなあいきつを書さ加え、知人、友人に配布させてもらった。
「昨春の訪布から一年たった。『真珠湾』の地ハワイではイラク戦争への国民感情、雰囲気はどのように変化しているだろうか。
この目で確かめてきたい。
 プッシユ大統領は有無をいわせぬ先制侵攻で首都バグダッドを陥落させ全イラクを占領、戦争の終結宣言までした。
 しかし、イラク側の激しいレジスタンスで自国アメリカの兵士ばかりか、米国主導の有志連合軍やイラクの国民多数が連日死傷していく。
 最初からの侵攻同盟軍だったスペインの首都も二百人の死者をだす同時列車爆破テロ。その三日後に実施された総選挙での政権交代とイラク派兵部隊の撤退声明。
 合衆国とその大統領を誇りとし敬愛するアメリカ国民が、ウソで固めたイラク戦争突入と泥沼に入り込んだ占預後の情勢、状況をどう分析しているのか、この肌身で感じてきたい。ともあれブッシュのイラク戦争へ反対と怒りが世界に拡がるなか、反戦・反核のヒロシマの心を伝えるハワイ請釈行脚。行ってまいります」

 小鰯三匹 妄語の  海わたる

こんな駄句をひねって 少々高揚した気分で雲助夫婦と妹(雲助の)の三人、五泊七日のややハードなハワイ講釈道中に旅立った。
 このツアーの往路は、広島から福岡空港まで新幹線経由、空路オワフ島のホノルルへ飛ぶ。
現地ではホノルルからハワイ島−マウイ島を地元航空便でめぐる行程。
復路はホノルル−福岡空港−広鳥へ帰着する旅程である。
 航空機代と滞在するホテル代で十九万八千円。
二島内でのホテルや食事代、移動費など併せた一人合計二十三万円は自弁である。
 口演先の会場、宣伝費など交流接待費は現地負担。
もっとも、現地での移動費や食事代の大半は、亀田さんや口演先の寺院の住職に面倒みていただいた。
「本来ならば旅費、滞在費などはわたしたちで負担すべきです。今そのゆとりないので申し訳ありません。
島を回って、自弁で広島の原爆や平和の心を口演してくださる行脚を本当に嬉しく感謝しています」と、
広島県出身でマウイ島カフルイ本願寺の曽我大円開教師。
 前回から親身の世話をしてくださった亀田佳子女史も繰り返し、
「ハワイで原爆の惨状を訴えることに何の躊躇がいるものですか。
世界の平和と地球を守るためには、もっともっと語ってほしい。
私たちは雲助講釈の必要経費すべてを負担してアメリカ本土でも口演してもらいたいけど…」と励ましてくださる。
 オアフ島ヌアヌYMCAの昼食会で会長の柳井定人氏は、「原爆の被害、一過性でない人体への影響など、とことん知りたい、聴きたい。特に劣化ウラン弾については情報が少ないので、イラク訪問の際のお話なども昨年に続いて詳しく話してほしい」と、高齢に似合わない意欲的な注文をされた。
(つづく)

●●● 2004/5/30 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <3>
カナダ人夫妻からの感謝の手紙
講談による被爆語り部 緩急車雲助

 椰子の水 喉うるおして 原爆(ピカ)語る

 昨年の原爆講釈紀行の際、マウイ島カフルイ本顧寺、曽我大円氏の案内で同島ラハナイ浄土院を訪問した。
『白砂青松』ならぬ『白砂青椰子』の浜辺に面したその寺は、花祭りの前日で、その準備に忙殺されていた。
 住職夫妻はこもごも、
「原爆の講釈をなんとしても口演してほしいのですが、今回は花祭りの当番寺のため残念です。
来年は是非、ご来駕ねがいたい。観光も兼ねご夫婦でこの寺に泊まり込みで来てください」
 社交辞令ではない心底からの依頼だった。
住職(開教師)の原源照さんは以降、二回も口演の準備、宣伝チラシの送付など、誠実な対応をしてくださる方だった。
 前夜のハワイ島ヒロでの口演と、深夜の天文台への登頂などで疲れ果てて到着した私どもを迎えたのは原源照さん。
開口一番「日本からようこそおいで下さいました。まずはこの椰子の水で喉を潤してください」と、
本堂裏の海浜に生えている椰子の実を鉈で割って勧めてくださった。

 仏陀背に 被爆講釈 大落暉


三月二十七日夕刻、念願だったマウイ島ラハイナ浄土院での口演は、こうして幕を開けた。
境内には丈余の露天の大仏、擬った鐘楼、小振りな五重の塔などを備え海浜に面した本堂をもつ浄土院。
 おそらく移民した日系一世、二世が夢に描いた極楽のモデルとして建立しただろうこの寺院。
その本堂を、二世を含む老若男女で満員にしてヒロシマを語りたい、それは昨年からの念願だつた。
その願いが今、実硯しようとしているのだ。
 海辺の遠く西方ラハイナ島の島影に今まさに夕陽が沈まんとしているとき喚鐘の音が響き、海峡に大きな落日の輝道が投影された。雲助、思わずその輝く道を伝ってきた幻覚にとらわれ本堂に入ろうとすると、妙なる笛の音がするではないか。
 それは、ニューヨーク・ジュリアード音楽大学のジョンシグノアナ博士が奏でるピアノと篠笛独奏だつた。
雲助はその曲に乗って 「黒焦げの弁当箱」を読み上げた。
 口演の後半、ふと目を最前列中央にやると、原源照師が肩を震わせてむせび泣かれているではないか。
師は実直温厚な方だが感激派、涙もろい方でもあったのだ。
 五十人を越す聴衆のほとんどは日系の方だったが、白人の方も三、四人おられた。
そのなかのカナダ人夫妻から届けられた次のような手紙が先日、原源照師から訳文を添えて雲助宛に送られてきた。
 
親愛なる緩急車雲肋先生
 
私と家内は幸運にも二〇〇四年三月二十七日、貴殿のラハイナ浄土院での「黒焦げの弁当箱」口演の聴衆に連なることができました。日本語を理解せぬ私たちですが、事前に配られた英訳テキストを読み、人名や場所名により貴殿の口演を追うことができました。おそらく多くの理解できない部分もあったと存じますが、他の聴衆と同じように深い感動をもって、涙ながらに聴講させていたださました。私たちは貴殿にお会いできて大変幸せでした。
また、光栄に思っています。貴殿の人々の魂にふれる態の詩情に触れ、深い感銘の体験をもちえました。
お礼のことばを表す適切な表現が見つかりませんが、どうか御長寿と御多幸を念じる次第です。貴殿は世界平和のため灯火を掲げる人ですから。貴殿と奥様に深い敬意を払いつつ。

 ツリオ・ビドニィ
 ロレーナ・ビドニィ

 たまたまマウイ島へカナダからバケーションで訪れていたビドニィ博士夫妻は、
ハワイの新聞やラジオで雲助の原爆講談の口演を知り来院した由。
それにしても何とオーバーなほめ言葉であることか。
でも嬉しいではないか。
世界平和のための灯火を掲げる人とは、この雲助が……。
 講釈の後は連れ漆いの独唱、そして海浜の開放された院の食堂で夕食会を兼ねた懇親会。
地元のフラ研究家高橋さんがマウイの古いフラダンスをソロで舞い、
吉田夫妻がマウイの古謡をギターで演奏してくださった。
(つづく)

●●● 2004/6/6 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <4>
本当の広島弁がハワイに残っている
講談による被爆語り部 緩急車雲助

広島弁 罷り通って ピカの惨

 ハワイ諸島の人口は約百二十万人である。
 最も多いのはオアフ島の八十八万人、次いでハワイ島の十五万人、マウイ島の十二万人と続く。
 ハワイが本格的に移民を受け入れだして百数十年の歴史だ。その中で多民族・多文化混合社会になっている。
 民族統計の割合も白人系二四%、アジア系四一%、原住民系九%、二民族以上の混血系二一%といった内客だ。
 従って明治元年、日本人移民百五十人が初めて渡航。百年余の間、三十万人が移民しているものの、その子孫たち二世、三世、いや、もう、今、四世、五世の若い世代は、日系だという特定の意味がないようである。
 広島弁の原爆講釈に広島弁で感想を述べてくれるのは、三世までの人たちだつた。
 四、五年前のことだ。
 NHKテレビの放送番組が、。ハワイでの「のど自慢」を中継した。
ハワイの古老三、四人が歓談していて、その会話を聴いて驚いた。
広島弁、それも今ではほとんど耳にしない城下町の大手町など、繁華街周辺のたおやかで柔和ななまりのものだった。
 「本当の広島弁がハワイに残っている」
 この人たちにこそ、原爆で廃墟と化したヒロシマがゼロからスタートし、半世紀を超える努力によって現代の国際平和郁市をよみがえらせた(もちろん、ハワイなど多くの方々の大きなご支援があってのことだが)。
 とにもかくにもその報告をしたい。
これが、雲助のハワイ原爆講釈紀行の純粋な動機だった。

ピカ説くや
碧眼うるむ青岬

 碧い眼の白人が、原爆に殺された滋君の食べなかった『黒焦げの弁当箱』や、五千度の熱線にやかれた身体の火照りに耐え切れず飛び込んだ死体に埋め尽くされた『ヒロシマの河は黒かった』 の講釈に涙を流して聞き入る(読み入る)風景は、ハワイでは珍しくなかった。
 前号で紹介した、マウイ浄土院でのビドニィ夫妻がそうだつた。
 オアフ島ヌアヌYMCAでの口演後、肩を抱き、長い握手を離さなかった
老白人の眼にも、民族・人種を超えた人間の強いられた生死に対する怒り、
悲しみへの共感が強く込められ、にじんでいた。


 汗の指揮
 親鸞賛歌や 仏桑花


 ハワイの仏教寺院は、押しなべてキリスト教会の様式に似ている。
 マウイ島カフルイ本願寺も尖塔こそないけれど、一見、町の小さな教会風の建物だ。
中二階建本堂の横に寺院付属の幼椎園をもち、広い駐車場のある浄土真宗寺院である。
 雲助の口演は、ちょうど日曜日だつた。
開教師の曽我大円師は四十代後半の開放的で明るい体育会系の引き締まった体つき、声はよく透るテナー、
好男子である。
 日曜サービス (礼拝・御法話)のラストは、五十人程度の信者を前に大円師のタクトで仏教賛歌の合唱である。
大学時代、グリークラプに在席したという師は汗だくでシンコペーションのリズム変化を指揮、まさに打ったり舞ったり、笑いの渦中で大奮闘だ。伴奏のオルガン・ピアノは、夫人とハイスクール在学の娘さんだ。
 広島県上下高校出身で、龍谷大学を出られたという師の家族ぐるみの布教スタイルに感銘を受けながら、原爆講釈『石に均きつけた男』を読ませてもらった。
(つづく〉

●●● 2004/6/13 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <5>
本田教授の熱心な支え受け
講談による被爆語り部 緩急車雲助


劣化にあらず 悪魔の弾 ウランと熱訳す

 マウイ島本願寺や浄土院での口演に先立つハワイ島ヒロ・ハワイ大学では全島が休日。
校舎が使用不能で口演がキャンセルされたことは前述した。
 急きょ設定した会場ナロア・ホテルでは、オーナーの肩入れや本田正文教授の知名度、連日のラジオ宣伝などあり、少なくとも学生、地元日系の方々ら百人前後の参加者を見込み、二百人収容可能のホールが用意されていた。
 教授は事前に来広。被爆直後のスライド写真など演題にあわせた資料を持ち帰り、準備万端ととのえて当日を迎えた。
 この日は日系人主催の、恒例になっている沖縄の歌舞団の公演と重なったこともあり、わが原爆講釈は予定の半数だったが熱聴、雲助も熱演した。
 若い学生に紹介すべく、劣化ウラン弾とアフガン戦争をテーマとしたコミック本などかざし、大義なきイラク戦争の非と愚を長いマクラに振る。本田教授が熱を込めて通訳。
数人の学生の視線が痛く集中する。

雲の『昴』道 にゅっと 装甲車

 この日の夜は、ハワイ島マウナ・ケア山頂の数ある天文台のうち、日本が世界に誇る大型光学赤外線望遠鏡を備えた昂天文台の見学がまっていた。
 昨年のヒロの本願寺口演の際、本田教授がもらしていた言菓を思い出す。
 「天文台関係者は八十人くらい。ハワイ大学の天文台職員の呼びかけで、うまくいけばこの人たちに原爆講釈を聴いてもらう事も考えたい。登頂してみての事だが」
 教授運転の4WDに乗り込んだ一行は、おりからの雨天をついて一路山頂へ登坂疾走。
 標高四〇二五メートル、ハワイ諸島の最高峰マウナ・ケア。急こう配の一本道を三十分も走ったろうか、

車は深い雲の中に突入した。教授が「この道は昴の望遠鏡を運び上げるために拡張舗装された。
でもこの辺りからアメリカ軍の演習地。いつ軍用車が飛び出すかわからない危険地帯」と言う。
救急車がサイレンを鳴らし、猛スピードですれちがい降りていった。
 「地上の楽園」ハワイは、実は世界最強を誇る米軍の総合演習基地でもあった。
 二時間くらい雲の中を登ると急にスピードが落ちる。気庄が低くなって、アクセル全開でも十五キロしか出ないのだ。
やっとの思いで標高二八〇〇いメ−トルのオニズカ・ビジターセンターへ到着。
これ以上は先刻の事故で登坂禁止という。
雲を抜けて星が見えだしたというのに残念。
センターで記念品をもとめ、再び深夜の雲のなかを憤重に降りた。
一介の名も無き原爆の語り部雲肋に、
新進気鋭の大学教授でハワイの日本人センター理事長でもある本田教授が、
こんなにも肩入れしてくださるのは何故なのか。
 先生は、ご両覿が被爆者だとお聞きした。
ご本人は鹿児島大学卒だから、ヒロシマとナガサキ両市の被爆事情には精通されているにちがいない。
研究専門分野は応用言語学だから、現場、実地検分主義が身についた方でもある。
日本人センターでも、移民長老からの聞き取りや生活用具などの収集に力点を置いておられる。
庶民レベルの暮らし、考えを重視される点が、雲助風情への肩入れにつながっているのかもしれない。
(つづく)

●●● 2004/6/20 『広島民報』記載記事を転載

ハワイ3島 原爆講釈俳諧紀行 <6>
人を殺すな、嘘つくな、盗むな
講談による被爆語り部 緩急車雲助

蕃瓜樹「パパイヤ)  喰らいて   講釈仕る

 さて、『広島民報』の貴重な文化欄を六回もの連載で占有した『ハワイ原爆講釈・俳譜紀行』も最終画となった。
 三年前、某テレビ局が『出前講釈・雲助の諸国口演行脚』を製作した。
 国内各地や韓国光州での口演風景などを収録。
 ラスト・シーンはパールハーバー日本海軍の先制攻撃でアメリカ太平洋艦隊が壊滅的被害を受けた軍港)の島、ホノルルでの原爆講釈シーンで締めくくる構成だった。
 太平洋戦争の始まった場所で、その戦争が終わる直前の広島・長崎への原爆投下を口演するという趣向である。
製作は9・11テロの起きた年初から取り組まれた。
 当初、県人会や日本文化センターヘ口演の支援を依頼、協力態勢が出来上がるかに見えた。
 しかし、9・11同時多発テロでアメリカ国民の多くは「リメンバー・パールハーバー」と叫んだという。
当然にも現地の協力態勢はキャンセルとなる。
困ったテレビ局は、急きょ、酒食をもてなしてでも人集めをして口演をと、現地プロバイダーに依頼。
二力所の口演が確保され、日本人商社マンや日系の人たちが聴衆となってテレビの収録は終わった。
 その時、聴衆の一人として参加したのが、前述の亀田佳子女史だった。
 女史は、昨年と今年のハワイ三島での口演を企画してくださった。
八十を越えた被女は体調は健全ではない。しかし、気力、気配りは壮年者をしのぐ。
 ホノルルの日系新聞ハワイ・パシフィック・プレスの敏腕記者でもある。
 五月一日発刊紙の八頁一面には、『広島の原爆講釈師久保氏』『三度目のハワイ口演行う』『三島巡り核兵器廃絶の思い語る』『劣化ウラン弾不使用の訴えも』などの見出しで、五枚の写真を載せた記事を書いている。
 十歳も年長の女史に脱帽、恐縮千万である。

ニ十万の  死にざま伝え  島は虹

一日に何度かの驟雨がくるホノルルは彼方此方で綺麗な虹が立つ。
 昨年の訪島で巡った史跡の一つ、パンチポールにも美しい虹が立っていた。
国立太平洋記念墓地だ。
第一次、第二次世界大戦、朝鮮、ベトナム戦争の戦死軍人、二万余の遺体が整然と埋葬されている壮大な墓地だ。
 翻って現在、広島の放射線影響研究所の敷地外れに寄せ集め こづまれている、あの比治山の旧陸軍墓地の群墓を思うて暗然たる気持ちになった。

 仏陀三戒  戦の非を   話じる暮

 「化教徒の生活規律に不殺生、不倫盗、不邪淫、不飲酒の五戒というのがありますね。
酒飲むな、妻帯するなの二戒律はもう皆さんを含めて破っているので外しますが、
最初の三戒を守ることが今、最も必要なことです。特に一国の元首など首脳連中にとっては」
 「そうでしょう。『人を殺すな、嘘をつくな、盗むな』。ブッシュもシャロンもイラクやパレスチナで、
この化陀三戒律を守らなければ、多くの若い自国兵士が、イラクの市民がもっと沢山死んでいきます。
私は原爆のヒロシマの繁華街で『人を殺すな、嘘をつくな、盗むな』のプラカード。
これはヒロシマの心です。これを担いで歩いています…」 
ハワイ三島原爆講釈会場での雲助は、安芸門徒、妙好人と化して口演のマクラを振った。
(おわり)


2004/5/27 毎日新聞 記事より転載

>>>引用 始

被爆者・山口さんが 描いて残す

原爆紙芝居を ”復活上演”

平和記念公園で 呉の久保さん


被爆者・山口さんが描いて残す
原爆紙芝居を”復活上演”
平和記念公園で呉の久保さん

米国の臨界前核実験に対し、被爆者や市民による抗議の座り込みが相次いだ中区の平和記念公園で26日、3月に亡くなった被爆者が、子どもたちに披露していた紙芝居が復活した。
復活させた久保浩之さん(72)=呉市清水2=は
「今忘れ去られようとしている。原子爆弾のことが。死んだ人のことが。
戦争は天災じゃない。人災です。どうして戦争が起こるのか皆で考えてほしい」と子どもたちに訴えた。【遠藤孝康】

 紙芝居の作者は三次市に住んでいた 山口昭治さん(享年72歳)。
山口さんは学徒動員で働いていた軍需工場で赤痢に感染し、入院先の広島市の病院で被爆。
顔にやけどを負い、看病に来ていた母親も全身にガラスの破片が突き刺さる大けがをしたが、2人とも命は助かった。
紙芝居を描いたのは、約2年前で、庄原市や三次市の学校を回って上演していたという。
焼け焦げた電車の脇に乗客の遺体が無残に転がる情景や大やけどを負った市民が列をなして郊外に避難する様子を描き、「まるで地獄の絵のようでした」と紙芝居を見せながら語っていた。
 久保さんも入市被爆者で、広島市内で原爆の語り部の活動を続けていた。
山口さんの死後、山口さんのおいの啓二さん(42)が上演を試みたが、
「涙があふれ出てうまく話せなかった」といい、久保さんが引き受けた。
この日、久保さんは修学旅行の小学生を前に上演。
「『どうしても伝えたい』という思いを感じる紙芝居だった」と語った。
 立ち会った啓二さんは
「絵の舞台になったこの公園で遺品が上演されることで、
叔父は死んでも紙芝居の魂は生き続ける」と感無量の表情だった。

<<< 引用記事 終わり

●雲助談

私と同齢の 山口さんは、三月中旬、小学校で読み聞かせをして帰宅。
その夜、心筋梗塞で倒れられたと聞く。衣鉢を継いで読みつづけたいと思う。見たまま、感じたままを画き記した凄い作品だ。

核(ピカ)地獄 爆心は若葉 紙芝居
雲助


● 雲助巷噺 No.59 '09.29

 被爆者・故山口昭治三の描き残した紙芝居
  『昭ちやんの原爆 − 被爆体験記』由来

 今年、四月下旬、呉市のシングソングライター菊池レイ子さんの紹介で一人の男が訪ねてきた。大きな風呂敷包みを抱えたこの若者は、庄原市に住む 山口啓二だと自己紹介をした。そして、おっとりとした口調で[突然のお願いですが、実は今年3月、72才の伯父が亡くなりました。当時14才で広島の軍需工場で働いていた伯父の 山口昭治は、赤痢にかかり船入病院の隔離病棟に入れられ 母親が看病に行っていました。伯父の昭治は 母親とともに原爆で被爆、その被爆体験を紙芝居に描き、二年はど前から三次市周辺の小学校などで口演していました。できることなら伯父の衣鉢を継いで原爆の語りべをなさっておられる貴方が口演してくださると嬉しいのですが…」と語った。
 風呂敷包みの中身は手製の段ボールを張り合わせた紙芝居用の携帯舞台装置と 昭治氏が描いた水彩画40枚の作品だった。その画面はいかにも素人っぽく素朴で稚拙なものだった。絵の裏面には見たまま、感じ思ったままを簡潔にまとめたキャプションが癖のある字体で記されていた。しかし、声を上げて読んでみると私と同年齢の被爆した男、六十余年の思いが胸に突き刺さった。作品には原爆の悲惨な実態と戦時下の暮らしの有り様を伝え残しておきたい気迫が充満していた。当時、十四歳だった少年の体験と思いが、ありの侭に一切の誇張やアジテーション抜きで、そくそくと伝わってくる凄い紙芝居だった。
 初めての紙芝居口演は平和公園、峠三吉詩碑横の木陰、淡路島の小学校六年生、三十余人。40分、真剣な眼差しが集中、涙ぐむ子もいて成功だった。


紙芝居『昭ちゃんの原爆体験記』 口演と予定 12/18現在

日 時 場 所 主 催 演 目 参加数
11月 6日13:00 まちづくり市民交流プラザ 自分探し講座 紙芝居(15)講談「広島の海底で」(12) 40
1月1日 8:15 平和公園・本川集会所 元旦はだし供養の集い 新作『川尻裏の九蔵』 or 吟詠『百人の棺』 20
1月17日 13:30 三次市三良坂支所 文化教養講座 『仏さま』84 紙芝居『昭』60 50
4月27日 午前 広島広工大校舎 鳥取大学附属小学校 『黒弁』121 40
5月23日 午後 平和公園 淡路島洲本第一小学校 紙芝居『昭』 17
8月 中旬 広島市ボランティアセンター 広島社会福祉協議会 『仏さま』&『海底』 300
8月 中旬 広島市ボランティアセンター 広島社会福祉協議会 『仏さま』&『海底』 200

● 雲助巷噺 No.57 '04. 2/22

似而非、安芸門徒、雲助
  日く ブッシュよ、仏家三戒を守るべし  
不殺生、不偸盗、不妄語


 小泉政権の言語道断なイラク『派兵』並びに米英のイラク占領加担の暴挙。
 彼らが既成事実を積上げメディアが肯定報道を繰り返そうが、この暴挙だけは決して認められない。
諦めずにヒロシマの一庶民として『撤兵』を迫り続けたい。
 その日まで一層、闘志を燃やして静かな抗議=サイレントウォークを続けようと秘かに思うている。 
自衛隊、陸・海・空部隊の派遣以降、抗議プラカードの文句は仏教や儒数、墨家の平和文言から抽出したものを借用している。
 先には『墨守非攻』『兵戈無用』の幟を担いだ。「兵戈とは、墨守ってどういう意味かいのう」と尋ねられることが多かった。
 ならば解りやすいものに替えよう。最近作は仏教徒、在家五戒のうち 不飲酒、不邪淫の二戒を省いて『不殺生』『不倫盗』『不妄語』の三戒を墨書した旗幟を掲げて歩いている。
 人間の長い歴史のなかで編み出されたこの三戒律は、建国以来230年の歴史的風土に生きる米国の大統領プッシュやネオコン一味にとっては、豚に真珠、その真価はわからないだろう。
だからこそ今、日本のすべての仏教各宗派はブッシュら一味に五戒律の端くれでも煎じて飲むべしと声を上げねばならんと思うのだ。
 『不殺生』とは殺すなという戒めだ。兎にも角にもイラクの庶民を殺すな、自国の若者や同盟国の兵士を殺すなという最も重要な戒律だ。
 『不倫盗』は言うまでもなく「盗むな」ってことだ。いくらイラクの石油が欲しいからって土足、いや、軍靴で、いや、最新の殺戮兵器を投入、独立国を占拠し石油を盗み取ろうって暴挙だ。
 『不妄語』ってのは「嘘をつくな」という戒律だ。嘘は泥棒の始まりって諺もある。
戦争は真実を犠牲にした嘘で始まり、騙された弱者が血祭りにされるものなのだ。
ブッシュの欺瞞と虚偽に満ちた戦争で、どれだけ多くのイラクの庶民が殺され傷つき、その尻拭いに協力させれた国々の貧しい若者・兵士が命を失っていくのか。
 そして、イラクの自然が、地球そのものが汚染、破壊されていくことか。

 比丘(びく〉 雲助の心意気
 
先年、ハワイでの原爆講釈の際いただいた木の実のレイを数珠かわり、作務衣に三戎を墨書した旗幟かかげてヒロシマの本通りアーケド街を黙って歩けば、背後に百万の浄土真宗・安芸門徒とハワイ十万日系人が同行、後押ししてくださる心地ぞかし。


雲助巷噺 号外 '04/1/12

沈黙行進のコスチュウム アラブ風から仏教徒の作務衣へ

 昨年2月からアメリカのイラク戦争に反対し5月からはその不当占領に抗議、さらには自衛隊の派兵に反対してのサイレント・ウオークを続けてきた。
 バグダッドで日本人通訳から頂戴したアラブ風長衣(ガラベイヤ)を纏い、フセイン髭を付け広島のアーケード街を歩き、諸集会ヘプラカードを担いで参加させてもらった。イラクヘのアメリカ侵攻の情況に即応した川柳もどきのスローガンは、新聞や雑誌の短文芸欄などからヒントを貰ったりして三十数句、達筆?の女房殿の手による墨書でプラカードを飾った。

 投げ遣りな私の80回を越えるウオークとトークの半数は、島村夫人とその二人の息子が共に歩いてくれたから続いたものだ。

 ところで過日、国内の政権反対者を厳しく弾圧したといわれた独裁者フセインが侵略者アメリカ軍によって逮補、拘束されてしまった。
 雲助にとってのイラク大統領フセインは非道な独裁者であると同時に、欧米先進国、中でもその中心アメリカの支配と収奪によって貧困化した中東=イスラム圏の近代化と貧困からの脱出を図ろうとする勢力の輝けるリーダー、つまり反米、反帝国主義のシンボル的存在でもあった。
 だから拘禁され憔悴した彼の姿をニュースで見せつけられたとき、怒りと屈辱、そして、強大なアメリカの軍事支配へのささやかな我が抵抗行動の虚しさ、挫折感のごときものが心の中を過ぎった。さらに一瞬、脳裏をよぎったのは五十数年前、日本の敗戦直後、ピストルの自殺未遂でアメリカ軍に収監されたあの東条英機元首相の姿がダブった。

 弱肉強食、奢る平家の清盛ならぬ米国ブッシュの前に盛者必衰を語って行脚する乞食法師・雲助に徹するしかないではないかと。このショックを越えるためにイラク派兵反対のサイレント・ウオーク、その衣装・コスチュームを替えようと思った。

 巷間、イラク戦争は『文明の衝突』とか『キリスト教とイスラム教の宗教戦争』だといわれることがある。安芸門徒圏で育ち暮らしてきた私は極端なほど争いを避けて生きる習性が身についている。特に暴力を嫌悪、和を以て尊しとするのが信条だ。

 よし!作務衣姿での沈黙行卿・行進を根気よく続けようと思いついた。

 プラカードは 『兵戈無用』 『墨守非攻』

 何処かの僧侶集団がイラク派兵反対の集会で『兵戈無用』のノボリを掲げた、との報道をみて早速、借用した。もう一対の字句である墨子の平和哲学は、一般向きでないので『専守』に替えてみた。いかにも反戦仏教徒らしく署名は安芸門徒雲助と似而非沙門雲助をいれた。さあ友人提供のモンゴルの毛皮帽子を被って出立を!


雲助巷噺 号外 '04/1/10
 
 元旦裸足供養に初めて若者が参加 

回を重ねて10回目の原爆犠牲者『元旦はだし供養』は、総勢25人の参加者でおこなわれた。常連になった浜田市や瑞穂町からの詩吟グループ9人、地元勢16人が元朝8時15分に公園内の供養塔前に集合、献花のあと爆心埋もれ骨の声を碓かめようと裸足になって韓国碑、義勇隊碑を巡り献花、黙祷した。裸足供養の最後は県立第二中学碑前で詩吟グループの東俊風大師範のリードで二中校長の歌碑に刻まれた短歌を献吟した。
 裸足供養のあと 本川集会所で恒例の新年会。当初、雲助の新作 『髭と人参U』 講談の予定だったが、久保美津子作の最近作 『爆心の土筆』 朗読に変更、屠蘇を頂き新春放談会をやって、昼前に終わった。

 一家で初参加した島村家の長男、洋介(25才)君は「朗読『爆心の土筆』を聴いて思ったのは、平和な暮らしを夢見て困難な戦時中を生きていた人達の思いが一発の原爆で永達に砕かれてしまった。生き残った被爆者たちの脳裏には当時の凄惨な情景が刻み込まれ、70年間、草木も生えない原子砂漠なったと思い詰めていた。その広島の爆心荒野に翌年の春、土筆が芽生えたのを見たのだ。それは救いと同時にそれでもなお生きようとするヒロシマビトの意志が歌い上げられていて感銘を受けた」と感想を述べてくれた。
 次男諒(23才)君の感想「恥ずかしながら兎にも角にも足裏が冷たいばかりで、地下に眠る原爆犠牲者の骨に哀悼の念を起こすことすらできない体たらく。来年こそは兎に笑われようとも・・・」 私事ですが、私の租母や大伯父は被爆者です。二人とも多くを語りませんが 『爆心の土筆』 のなかで、父親が娘を捜しに爆心に出掛ける様子は、さながら大伯父が家族を探して市内に入った話と重なって胸が痛くなりました。被爆者の苦しみの、せめて一端でも共感できないものかと被爆体験を聴く度に思います」

 <上記の若者二人は、昨年三月、イラクヘのアメリカ侵攻が始まる前後から始めた雲助のサイレント・ウオークに母親と3人で参加してくれた仲間だ。少々ストイックな裸足供養にも付き合ってくれ、感想を頂いた>


9条守れ、イラク派兵やめて 赤旗新聞 2003/12/29記事より転載

『 師走ウオーク 』 「沈黙の行進」アラビア風に

【広島】「憲法前文ずたずたにしてイラク出兵」。アラピア風の衣装、プラカードを掲げて広島市中区の商店街を歩く「沈黙の行進」が人の目を引きます。アピールは川柳風。広島県呉市の久保浩之さん(72)が取り組んでいる行動です。今年二月から始めて、「月に五回ほどのペース」で歩き続け、二十八日で五十回を超えました。
 久保さんが身を包んでいるのは、イラクを訪問した際に現地で購入した衣装。「イラクの人は日本のことを信頼している人が多い。武装した自衛隊がいけばアメリカと同じと見なされます。求めているのは教育や生活基盤立て直しのための援助です」ときっぱりいいます。
 「自分にできることを」と、久保さんと行動をともにしてきた島村洋介さん(25)=広島市=は、「正当性のない戦争に無条件で追随する日本政府の理不尽さにやりきれない思いがいっぱい」と話します。広島の原爆をテーマにした講釈師としても知られる久保さんは、来年早々にも活動を始め、新作の講談も披露したいといいます。
(転載おわり)


今年最後の無言の抗議 毎日新聞 2003/12/29記事より転

自衛隊派遣

イラク戦争や自衛隊のイラク派遣に反対するプラカードを持ち、今年2月から、繁華街を無言のまま歩く「サイレント・ウオーク」をしている講談師、久保浩之さん(72)=呉市清水2= が29日、中区本通の商店街で今年最後の抗議をした
 アラブ人風の衣装を身にまとい、イラク戦争直前から続けてきたウオークは通算50回。この日は、「憲法前文ずたずたにしてイラク出兵」と書いたプラカードを掲げた。
久保さんは「戦前の反省の上に築かれた平和の国のありようを、小泉首相はまやかしの論理で崩した。イラク派遣をやめるまで続けたい」と話した。【小山内恵美子】


遊女の苦難に合掌    朝日新聞 03/12/8 の記事を転載

豊町 墓100基移築し完成

かつて潮待ちの港として栄えた豊町御手洗に、遊女の墓約100基を移築した「重伝建選定記念公園」(おいらん公園)が完成し、7日に記念式が開かれた。港が見下ろせる公園で町民ら約60人が手を合わせ、遊女の冥福を祈った。御手洗は94年に文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、今も江戸持代の街並みを残す。当時、船乗りらを遊ばせるお茶屋が4軒あり、多いときで百数十人の遊女がいた。貧しい家から売られて来ることが多かったという。
公園建設のきっかけは3年前。急傾斜地の崩落を防ぐ工事中、108基の墓が見つかり、その約半数が遊女のものと分かつた。以前からあった墓と一緒に景色のいい高台に移してあげようと、実行委が結成され、寄付を集める中で山の中腹の土地約300平方bを提供してくれる人も現れた。
完成した公園には、「遊女の叫び」と刻まれた供養碑も建立された。
記念式に参加した呉市の講釈師、久保浩之さん(72)は「春をひさぐことを強いられ、ふるさとに戻ることなくこの世を去った遊女たちを、忘れてはならない」。町内会長の今崎仙也さん(67)は「『人権宣言』豊町のシンボルとして末永く愛されることを熱望します」と話していた。

冬陽さす島の遊女の墓百基  雲助

港町の遊女 供養に公園 豊町御手洗に完成

江戸時代の港町の風情を残す豊町御手洗の小高い丘に「おいらん公園」が完成し七日、住民たち約七十人が記念式典を催した。有志が山すそから移設した遊女の墓約百五十基や建立した供養塔の前で霊を慰めた。
家並みや海が見渡せる公園で法要が営まれ、一人一人が手を合わせた。あいさつした供養碑建立実行委員会の今崎仙也会長(67)は遊女の労苦に思いをはせ、「多くの人々が訪れる場として、人権を守る地域のシンボルとして末永く愛されることを願う」と述べた。
ふもとにある茶屋跡の若胡子屋ワカエビスヤ(県史跡)では呉市の講釈師緩急車雲助さん(72)が御手洗の遊女の悲話を基にした講談を情感豊かに口演した。
 公園の整備は、1996年に工事現場の山すそから墓石や地蔵が出てたのがきっかけ。有志が昨春に実行委をつくり募金を呼び掛け、若胡子屋にちなんだ公園内の「火の車の塔」も修復した。


殺されて憎しみふやす派兵なり 雲助   03/12/6

イラク戦争開戦前夜の昨年十二月下旬、老躯を押してイラクヘ飛んだ。アメリカ・イギリス軍の包囲網下、首都バグダッドの表情は平和を謳歌、庶民は活き活きと生活していた。深夜の大衆レストランや市場は人々に溢れ殷賑を極めていた。我々が日本人であることを知った彼らは忽ち集まってきて握手を求め肩をたたいて親愛の意を表した。「日本を尊敬する。よく来てくれた」「日本は素晴らしい。我々イラクの民衆は日本を目標に国づくりをしたい」などジュースを勧めて語った。国際法を無視、一方的に侵略、不法占領を続けるアメリカに追従、あの親日派で教育熱心な彼らを敵に回す自衛隊の出兵だけはなんとしても避けたい。悪魔と手を組んでも・・・ 雲助記

以下、朝日新聞 03.12.6 記事より転載

「イラクへの自衛隊派遣反対」

「運動、より活発に」

日本の外交官が銃撃されて死亡するなど、イラクの治安情勢が悪化しているなかで、県内の市民団体や平和団体は、自衝隊のイラク派遣中止を政府に要請する運動を活発化させている。
原爆をテーマに活動している講釈師の久保浩之さん(72)は5日、「自衛官殺すな イラク人も殺すな 派兵するな」と書かれたプラカードを持って広島市中区の繁華街を歩いた。久保さんは「外交官が殺された責任は、自衛隊を派遣しようとする小泉首相と、大義なき戦争を始めたブッシュ大統領にある」と話した。
市民団体「有事立法はイケン(違憲)広島県市民連絡会は2日、県内全自治体(県も含む)の首長と議長に対し、米英軍のイラクからの撤退や自衛隊派遣の反対、国連中心のイラク復興支援の実況を求める意見表明や決議採択を要請する文書を送った。要請書では、「自衛隊を派遣することは、『復興支援』の美名と裏腹に米英軍による大義なきイラク占領支配に参加するもの」と訴えている。
 また、県被団協(金子一士理事長)と県原水協は4日、自南隊のイラク派遣の基本計画が近く閣議決定される可能性があるとして、小泉首相に対し、「イラクの状況は米英軍が『全土が戦争状態にある』と認めるなど探刻化している。こうした中での派兵は、自衛隊員を人身御供にしてイラクに新たな敵を作り出すもの」と派遣中止を求める抗議文を送った。


御手洗の花魁公園(遊女の塔)完成を祝って
講談 『 遊女哀歌 』を聴くツアー* 12/7(日)

豊町御手洗の町並の一画に百余年間、ひっそりと寄りあっていた百基ばかりの遊女墓が、町民の熱い願いと有志の配慮によって港を見下ろす丘の中腹に移転された。併せて『遊女供養碑<塔>』も建立。
  その完成記念の式典が12月7日(日)午前10時から現地『おいらん公園』で開催される。
  なお、関連の行事として11時から、由緒深き旧遊女茶屋『若胡子屋』で雲助の講談『港・御手洗、遊女の哀歌』が口演されることになった。
  CD作成時にはBGMを担当くださった十七弦箏の名手、榊記彌栄さんも今回のライブにご一緒、演奏していただく。
  サポートしてくださる方を募集しています。当日の日程、費用負担は以下のとおりです。

< 往復高速艇の時刻表 >

  往  路 復  路 運 賃(片道
宇品港
呉港
豊町大長港
7:10発
7:35発
8:32着
16:53着
16:30着
15:29発
2340円
2590円

*大長港から御手洗までは地元の良鎮寺住職と潮待ち館の車で輸送
*   8:50から1時間、町の重要伝統建造物群の見学(地元研究家の案内による)
* 10:00から移転された遊女墓地での式典参加
* 11:00から旧遊女茶屋の若胡子屋で講談『港・御手洗、遊女の哀歌』を鑑賞
* 昼食。希望者は建立完成祝賀宴(会費2000円)に参加
* 13:00から町並の重要伝統建造物群の見学(地元研究家の案内による)
* 15:00 大長港オレンジハウスで買物など・・・
* 15:29 帰り船(高速艇乗船)出航

潮騒の遊女群墓冬陽さす   雲助

問い合わせ・申し込み連絡先 (TEL) 0823−22−2454  久保浩之


国際平和シンポジウム (*以下、03/8/6 朝日新聞記事転載)

■《天声人語》

 米に大豆と麦とを加えて炊いた混ぜご飯の弁当に、中学1年の滋くんは「やったあ、きょうはおいしいぞ」と大喜びで出かけた。45年8月6日早朝のことだった。防火帯づくりに動員され、広島市中心部に向かったのだった。8時15分、滋くんは被爆、好物の混ぜご飯を口にすることはなかった。

 講釈師の緩急車(かんきゅうしゃ)雲助(くもすけ)さんが語り続ける演目の一つ「黒焦げの弁当箱」である。この弁当箱は広島市の原爆資料館に展示されている。資料館に向き合う会議場で3日に催されたシンポジウム「語り続けよう核廃絶の道を」でも演じた。

 弁当箱をめぐる悲話が本になり、広く知られるようになるには時間がかかった。資料館に弁当箱を寄贈した滋くんの母、折免(おりめん)シゲコさんは「思い出すのがつらいから話したくない」と。

 80歳を超えて、シゲコさんは詳しく語り始めた。原爆投下の数日後、見分けのつかないたくさんの遺体の中から、シゲコさんが奇跡的に弁当箱と滋くんの遺体を探し当てた話である(児玉辰春『まっ黒なおべんとう』新日本出版社)

 滋くんの死後、シゲコさんは夢を見続けたそうだ。最初は「しげる!」と呼ぶと一瞬振り向くが、とぼとぼ去っていく。5年目ごろから滋くんが話し始めた。しかし「夢の中でも息子を抱きしめることはできなかった」と緩急車さん。

 会場近くの国の平和祈念館のパネルに、45年中の原爆死没者は約14万人とあった。誤差は1万人内外とある。「誤差」という言葉が、またその数の大きさが、一瞬にして破滅をもたらす核兵器の異様さを映す。 (*以上、「天声人語」)

● 『原爆供養口談 「黒焦げの弁当箱」』

シンポ第一部で、講釈師の緩急車雲助さんが原爆供養口談「黒焦げの弁当箱」を口演した。
1945年8月6日。広島県立広島第二中学校1年の男子生徒が「建物疎開」に動員されていて被爆した。母親が捜しに出かけたが、黒焦げの死体ばかり。なんとも気になる一体に手を触れると、胸の骨の下から弁当箱が出てきた。開けると、息子のためにつくった大豆、麦、じゃがいもの混ぜご飯が真っ黒焦げになっていた−。その弁当箱はいま、平和記念資料館(原爆資料館)で被爆の実相を伝えている。
雲助さんは「悲劇を二度と繰り返さないために、核兵器をなくすために考え、行動することこそ、少年のまま、少女のまま死んだ生徒たちに応える私たちの義務ではないでしょうか」と話した。さらに、被爆者である妻(74)の「被爆直後はニューヨークにピカを落とさないと、この苦しみは分からないと思ってきた。でも10年後には、それでは私たちと同じ思いの人が増えるだけ、と思うようになった」という言葉を紹介。「報復ではなく、世界中の核兵器をなくすことで本当に被爆者が供養される」と締めくくった。 (*以上、転載記事 終わり)


残暑お見舞い申し上げます

面映ゆさをとうり越して、なんやら凄まじい脚光が当たってドギマギの日々が続いています。
8月3日の国際平和シンポジウムの前座で原爆供養の講釈口演をしました。6日の朝日新聞はシンポの詳細記事を二頁にわたって掲載します。加えて『天声人語』にまで取り上げられた雲助の紹介。
しがないアマチュアの原爆供養講釈が異常にクローズアップされるのは一体どうした訳なのか。

シンポの表題が『語り続けよう核廃絶の道を=力の論理に抗して』だったから、語り部の一途、十数年の実績を買っての人選だとしても「ちょっと過大評価に過ぎるんじゃないの。 アンタより熱心な語り部はゴマンと居るのに」と賢妻殿?の言い分、尤もだ。
ところで雲助奴、イラク反戦のサイレント・ウォークの疲労が重なり、ひどい腰痛に悩まされての送夏と相成り、先約の口演だけは這ってでもと沈鬱な顔での出前。
でも、嬉しいことに原爆講談CDの注文が東京・四国・九州などから4件、25枚もありまして、さすがに朝日新聞800万部の宣伝効果?だと悦に入ってる次第。
近況を申し上げ、猛暑の最中、お見舞いをいたします。 皆様のご健勝をお祈りしております。(*雲助記)


語り続けよう核廃絶の道を- 力の論理に抗して』 * 03.7.7 朝日新聞掲載記事転載「9。11」を契機んした米国の対テロ戦争の流れで、今年3月、大量破壊兵器の脅威を理由に「イラク戦争」が起きました。北朝鮮の核開発問題もあり、核兵器をめぐる国際情勢は緊迫度を増しています。揺らぐ核不拡散体制をどう立て直すのか。日本は何をすべきか。朝日新聞社は、広島市・財団法人広島平和文化センターと共催、広島ホームテレビの後援で、8月3日、広島市で国際シンポジウム「語り続けよう核廃絶の道を - 力の論理に抗して」を開きます。

* 8月3日(日) 10時〜17時
* 広島国際会議場(広島市中区中島町の平和公園内)
* 講師と内容 【第1部・講演会】 原爆供養巷談=「黒焦げの弁当箱」緩急車雲助(講釈師) * 基調講演=「宗教と戦争 - 非暴力への道」山折哲雄(国際日本文化研究センター所長
【第2部・パネル討論】 パネリスト=ヨハン・ガルトゥング(オスロ国際平和研究所創設者)、ウィリアム・ポッター(米国モントレー国際問題研究所不拡散研究センター所長・教授)、天野之弥(外務省軍備管理・科学審議官)、嘉指(かざし)信雄(劣化ウラン弾禁止ヒロシマ・プロジェクト代表) * コーディネーター=中川謙(朝日新聞編集委員) (敬称略)

* 転載終わり

 

イヤー、ビックリしましたね。こんな凄いお偉ら方の講演やシンポの前座で、一介の素人講釈を読み上げることになろうとは。
せいぜい三、四十人を相手に細々と原爆供養の講釈を仕ってきた男を、こんな大逸れた場所に引きだして喋らそうってんですから。剽窃、改鼠を重ねた講釈台本の英訳版まで配布のうえ異国の方々まで聞いてもらおうという趣向。
新聞社も平和センターも、何処かの国の大統領ではないけど核廃絶ゲリラ、サイレント・ウォーカー兼、講釈テロリスト雲助を大恥掻かして抹殺しようと画策なさったんじゃないか?など妄想している昨今でございます。
まぁ、しかし、「原爆即死者は八万人、ならば八万人の方に聞いてもらおう」という『願』をかけての講釈行、一挙に四百人もの前進ですから身に余る機会を身の程しらずながら身の締まる思いで読み上げてみようと思う次第。
どうか、八月三日十時から広島市平和公園内の国際会議場へのご来駕くださいますよう伏してお願い申し上げるものでございます。

朱夏の街 派兵ならじとプラカード


● 雲助巷噺 No。46 ’03.7.3

イラク復興支援措置法は『イラク強奪米軍特措法』だ

自衛隊がイラクで殺される。 もう黙っては居られない

ブッシュ政権の「強い者のみが世界を暴力的に支配できる野蛮な思想と行為」を止めえなかった我々。
しかも、我々の政府はこの暴力的支配者の国家に一層、追従する法体制を問答無用とばかりに国会で強行立法してしまった。
曰く、自衛隊が海外で武力行使ができる。
曰く、米国の先制攻撃・戦争に参戦できる。
曰く、不条理な戦争に国民を強制動員できる。
曰く、これらは全て相手からの攻撃がなくても予測で先制攻撃・戦争ができる。
これが有事法制下での『特措法』なのだ。
だが、衆院で僅か六日間の審議で可決されたからといって戦争体験者の一人として『平和』を守るために諦めてはならぬ。黙っていてはならぬ。
声をあげて街頭へ! 特に我々、昭和一桁、前半以前に生まれた者は、なんとしても自衛隊の海外派兵を目論む『イラク復興支援特別措置法』の制定ごり押しだけは体を張ってでも阻まねばならんと思う。
米国の余りといえば余りの無法、理不尽な戦争が罷り通っている現実落胆、少々、日和見を起こしていた雲助だが、もう黙っては居られない。
7月1日から再びサイレント・ウォークを始めることにした。その手始めにプラカードのスローガンの幾つかを列記してみた。写真は(*文責者注:掲載不能)再開二日目、広島本通り商店街を島村夫人とその息子さんと一緒に歩いている勇姿?である。<関邦久氏撮影提供>
参議院での廃案を訴え日本の若者とイラク、アリババの末裔の命を守るため老後のささやかな余力を振り絞って、沈黙の抗議行脚を続けてみることにした。
= 7/4.5.6.9.10.11.12.13.16.17<いずれも 12:00〜12:40 元安橋東詰から出発。本通商店街を往復。参加歓迎。=

イラク派兵で/日本はアリババの/敵になる

ドームが泣いている/イラクへの/自衛隊派兵

イラク特措法で/自衛隊は/アメリカのポチ

自衛隊が殺される/イラク特措法案/やめてくれ

ドームは許さず/自衛隊が/イラク人に銃射つを

ストップ・イラク派兵!/米国の軍事占領支援

イラク復興は/自衛隊より/国連NGO

イラク派兵で/石油強盗の仲間入り


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東西、とーざいー 緩急車雲助奴の 口上 にございます。

五十七年前、広島に投下されました原子爆弾

あっと声たてる間もなく街頭の三万人が殺され、押しつぶされた家屋の下敷き、

その暗闇の底で五万の悲鳴が絶えた、と言われております。

併せて八万の市民が即死した。その無念、怒りと悲しみを八万人の人々に聞いてもらおう、

それが広島に生きてきた者の、せめてもの義務、無くなった人々への回向ではないか。

そんなことで始めた原爆供養の出前講釈行(ぎょう)でございます。

『石に影を灼きつけた男』 『ヒロシマの河は黒かった』 『黒い弁当箱』の原爆三部作。

いずれも一時間足らずの口演時分、気軽に一声かけて下さい。

お一人から一万人まで、素っ飛んで講釈仕ります。

正統・社会派講釈師を自認する雲助奴、

そのほかにも高齢化社会真っ只中での、生きがい死に様を描いた『午後の遺言状異聞』

政界の風見鶏といわれた中曽根元首相は、好核派の男。

その句碑が広島の財界人たちによって爆心川岸に建立され被爆者のヒンシュクをかった。その声を講談に仕立てた『地の骨叫ぶ!どけてくれ欺瞞句碑』

呉市清水通りの禅寺 神応院の境内にある『禹範善之墓』この墓に秘められた『李朝滅亡』にまつわる日韓現代史の恥部『閔妃暗殺と禹範善父子秘話』etc。

草の根の声を、何よりも地元の埋もれた事実、史実を、一人ひとりの庶民に届けて回る出前講釈。

何とぞ、隅から、すみまで、ずずいっと、おん願い奉りまーす。

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 プロフィール '04.10.1現在

出前講釈師 緩急車雲助 本名 久保浩之
住所 〒737-0022 呉市清水2-14-46 (TEL) 0823-22-2454<F兼> 携帯 090-7505-4195

’31年 呉市に生まれる。
’44年 海軍飛行予備練習生となる。
’45年 敗戦、復員の途次(8/19)広島駅に下車、原爆で壊滅した市街を見聞。
’45年 国鉄に就職。
’50年 呉三津田高校(定時制)卒業。
’61年 『広鉄文化会議』事務局長、機関誌『広鉄文化』編集長。
’69年 国鉄労組広島地方運動史『鉄路燃やす闘魂の歩み』編纂主筆。
’90年 国鉄退職。日本機関紙協会広島県本部事務局長。
’94年 広島市文化振興事業団(現,文化財団)評議員(’99まで)
  原爆供養講談など地元現代史に関わるテーマを講談で口演し始める。
’97年 テレビ新広島『シルバー応援歌』=広島市広報番組=ナレーター (02.3まで)
’00年 世界音楽祭プレイベントで『茶房ムシカ第九伝説』市内30箇所口演。
  第15回国民文化祭で新作「厳島合戦記」など三講釈を読む。
’02年 春 韓国光州市で『閔妃暗殺=禹範善・禹長春』父子奇談=口演。
  1月、ホノルルでニヶ所「黒焦げの弁当箱」口演。
  4月、ニューヨーク、ワシントン、アトランタを反テロ・反核・反戦の平和使節団で行脚。教会、ハイスクールで「黒焦げの弁当箱」口演。
  8月、CD「石影」「黒弁」「閑妃暗殺」を製作頒布。
  12月、イラク反戦市民使節として訪問。劣化ウラン弾被害の子供を見舞う。
’03年 2月、「ヒロシマの河は黒かった」7月「御手洗港遊女哀歌」CD化する。
  4月、ハワイ三島の本願寺、YMCAなど四ヶ所で「黒焦げの弁当箱」口演。
  8月、広島市・朝日新聞社・平和文化センター主催の国際平和シンポジウムで「黒焦げの弁当箱」口演。
’04年 3月、ハワイ三島、四箇所で三回目の原爆供養講釈ツアー。
  4月、庄原市在住の故山口昭治制作の紙芝居「昭ちゃんの被爆体験記」衣鉢を継ぎ口演活動開始。
   

  演 目

石に影を灼きつけた男 45分 原爆で 石段に 灼きついた人影が 霊魂に
ヒロシマの河は黒かった 35分 あの日、上空から見た 広島の 河は
黒焦げの弁当箱 40分 黒焦げになった 弁当箱に まつわる原爆悲話
閔妃暗殺=禹範善父子奇談 90分 朝鮮併合に翻弄された父子の奇談
『午後の遺言状異聞』 40分 愛妻の 死を 演出した男の心情切々
茶房ムシカ第九伝説 35分 原爆砂漠に降る雪中に聴く ”第九”
お客様は仏様・三波春夫外伝 45分 歌心とは何か 永六輔と 三波春夫の交流秘話
港、御手洗・遊女の哀歌 50分 三両二分で 身売りされた少女の哀歌
藤井屋清衛語る厳島合戦記 30分 もみじ饅頭屋主人がみた厳島合戦記
呉レンガ夢物語 30分 水平や職工の夢は煉瓦塀のある我が家だった
紙芝居『昭ちゃんの被爆体験』 35分 故山口昭治氏制作の被爆体験画記(40画)
巷談・かよこ物語 40分 広島で日本最初の乗り合いバス騒動記

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 最近の雲助 原爆巷談などの口演と予定 ’05.8.15 '現在

日 時 場 所 主 催 演 目・回 数 参加数
_8/_6 原爆資料館 中高生と平和を学ぶ会 「昭ちゃんの被爆体験記」47  
_8/_9 川尻中央会館 館主催行事 「昭ちゃんの被爆体験記」48 25
_8/20 倉掛公民館 同 上 「昭ちゃんの被爆体験記」49 55
_8/21 県民文化会館 戦争展 「昭ちゃんの被爆体験記」50 35
_8/26 ○広島文化センター 新婦人平和行事 「昭ちゃんの被爆体験記」51 100
_8/27 呉市社会法人たまご たまご祭り 「昭ちゃんの被爆体験記」52 50

 

日   時 場  所 主   催 演  目・回数 参加数
05 1月 1日 8:15 平和公園。供養塔〜碑巡り 元旦裸足供養 ,碑めぐり・紙芝居(22)朗読など 18
12日18:30 非核の政府求める会事務所 非核の政府求める会常任委員会 ,紙芝居『昭』(23) 10
19日15:15 ,NHK広島放送局 雲助インタービュー 『今だからヒロシマを伝えたい』 録音
22日12:30 横川シネマ 三篠公民館 '04セミナー 雲助の丹下左膳物語 8
2月 1日13:30 広島南区民会館ホール 南区社会祉協ボランティア研修会 『お客は仏』72 『紙芝居』24 53
7日22:55 NHK広島<ラジオ深夜放送> 雲助インタービュー 『被爆60年、私のヒロシマ』 ラジオ広島エリア放送
8日13:45 広島工大広島校舎5階ホール 横須賀総合高校・JTB企画 黒弁』(111)&講話1H 128
18:30 市職員労組女性部 紙芝居『昭』(25) 32
10日10:30 広島工大広島校舎5階ホール 横須賀総合高校・JTB企画 『黒弁』(112)&講話1H 122
19:00 広島市世羅別館 横須賀総合高校・JTB企画 『黒弁』(113)&講話1H 82
17日18:00 呉市椿会館 三樹会 紙芝居『昭』(26)海底で 16
22日15:10 NHKネットワークにっぽん NHK広島の雲助インタービュー 「今だからヒロシマを伝えたい」 ラジオ全国放送
18:00 呉三和町・レイコ・スタジオ 紙芝居のBGM 打ち合せ 紙芝居『昭』(27) 3
25日18:30 呉三和町・レイコ・スタジオ レイコ・七福神雛祭会 レイ子ライブ&紙芝居『昭』(28) 10
28日14:00 中国新聞社8F 広島国際文化財団 ,国際交流奨励賞授賞式 ,雲助ほか
3月 9日10:30 広島市矢野 福本整形外科 ディケアグループ 「仏さま」(73) 17
18日11:00 呉市 三宅酒造・明治蔵 せきプロデュース企画 「呉煉瓦夢物語」&・BGM録音 5
27日13:00 京都弥生会館 口語俳句関西交流会 「石影男」(245) 35
4月 2日14:30 庄原市水越町・『山口きのこ園』 菊池レイ子。山口啓二企画 紙芝居『昭』(29)&レイコ・ライブ  
8日18:30 広島市ロードビル 被爆60周年行動委員会 NPT要請行動・壮行会  
25日10:30 小倉市大手町病院 同健和会・友の会 「黒弁」114・紙芝居『昭』(30) 45
27日10:30 広島工大広島校舎5階ホール 鳥取大附属小学校 「黒弁」115&講話1H 原爆 80
30日15:00 ニューヨーク国連本部など 日本被団協NPT再検討要請代表団 講談 紙芝居『昭』( )など
5月 7日 同  上 同  上 同  上 25
18日 午前中 平和公園(資料館前スタート) 淡路島洲本第1小学校 碑めぐり・紙芝居『昭』( )  
25日10:30 呉市焼山第三集会所 老人大学 ニューヨーク報告と講談 90
6月23日 鳥取市、小・中学三校 非核平和都市宣言推進鳥取市実委 「黒弁」116・紙芝居 200
24日 同  上 同  上 「黒弁」117 100
25日 鳥取市県民文化会館 非核宣言都市・被爆60周年集会 「黒弁」(118) 200
7月27日13:00 広島市アステールプラザ中ホール 『この本大好きの会』全国集会 「黒弁」() 70
8月11日18:00 倉吉市交流せんたー 池原正雄企画 「黒弁」() 90

* 『演目注釈』 「黒弁」=<黒い弁当箱>。 「黒河」=<ヒロシマの河は黒かった>。
「石影」=<石に影を灼きつけた男>。「海底」=<ヒロシマの海の底で>。
「閔妃」=<閔妃暗殺・兎範善父子奇談>。「ムシカ」=<ムシカ 第九伝説>。
「遊女」=<港・御手洗、遊女哀歌>。「煉瓦」=<呉レンガ物語>。
「南峰」=<熊 南峰伝・三段峡開発物語>。
朗読『被爆掌編小説』=見送った電車・爆心の土筆・たか子復活
「紙芝居」=<昭ちゃんの原爆被爆体験記>
「かよ子」=<巷噺・かよ子物語>

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「出前講釈師 緩急車雲助」のページ

(運営&文責 沖村能任)

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