歴史物のページだよ☆

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本のタイトル作者出版社・その他備考点数
勝者こそわが主君神坂 次郎新潮文庫65点
尾張春風伝清水 義範幻冬舎80点
小説十八史略陳 舜臣講談社文庫75点
トゥパク・アマルの反乱寺田 和夫ちくま文庫65点
明治の人物誌星 新一新潮文庫70点
悪名高き皇帝たち塩野 七生新潮社90点
黒船襲来檜山 良昭JOY NOVELS(実業之日本社)70点
危機と克服塩野 七生新潮社90点
東郷平八郎田中 宏巳ちくま新書80点
昭和史の論点坂本 多加雄文春新書80点
すべての道はローマに通ず塩野 七生新潮社90点



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『勝者こそわが主君』
 よく歴史物を読んで歴史に学ぼう! なんて人がいるけど、そんな人にはこれをおすすめしたいです。はっきりいいます。三国志を読んでも役に立つ人は日本の国の中でもひとにぎりのエリートだけです。曹操のまねができる人は、まずいません(笑)。劉備のまねをすれば、彼ほどの度量がない限り、黄巾の乱くらいのあたりで死にます(笑)。やらなきゃわからないかもしれないけど、彼らが成功したのは独創的だったからであり、決して歴史に造詣が深かったからではないと思います。
 この短編集に登場するのは粒ぞろいの……まあ、あんまり有名ではない武将たち。細川藤孝なんか、山科けいすけのマンガ「SENGOKU」で見て以来どんな生き方をした男か知りたくてしかたがなかったけれど、よくわかった。イメージ通りでした(笑)。「戦国の風見鶏」というタイトルも笑えます。これは、現代の人物を意識してつけたタイトルなのでしょうか? 読書のページなのでこのへんでやめておきますが、なんだか妙にイミシンな作品です。
 まあ、でも欲を言えば少し短すぎるかもしれません。根来軍団の話であれば、そのうち発売されるであろう、日経新聞に連載されていた「海の稲妻」を読めば充分読みごたえを感じるだろうし、「宿命のライバル」紀州吉宗と尾張宗春の話ならば、あの清水義範が「尾張春風伝」(後述)を書いています。ページと同時に内容も薄くなるのはいたしかたないのですが、残念です。
P.S.あ、「風見鶏」が別人の綽名だということは重々承知しています。念のため。












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『尾張春風伝』
 妙に文章が軽くて、この人の作品は好きなのですが、この「尾張春風伝」は何かいつもの軽さがない。あれ、同姓同名の別人かな……と思って読みすすめていくと、途中でポロリと尻尾が見えたりして、なかなか楽しいです。いや、時代物だからわざとそういう文章にしたのだろうけど、主君に「あーっ!」などと叫ぶ家臣が登場するのはこの作品だけでしょう(笑)。大阪の自己主張はよく聞く(「大阪学」なんて本もありましたっけ)けど、名古屋人の自己主張がこめられているような作品です。
 吉宗の緊縮財政にあえぐ日本の中で、唯一華やかだった名古屋、というだけで何か胸がすくような気がするではないですか。特に、「暴れん坊将軍」をはじめ、あらゆる時代劇(水戸黄門でも、ですよ。反体制は水戸も尾張も同じだと言うのに)でボロクソの悪役を演じるあの「尾張殿」がですよ。
 ちなみに、「偽史日本伝」でも、この宗春と吉宗、出てきます。吉宗の謎にせまる(笑)宗春の推理がなんか楽しくていいです。
















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『小説十八史略』
 もし、あなたが高校生で、世界史を選択しているのなら、読みましょう。中国史の初めから元(げん)までの流れが一冊の書物になって、しかも現代文で注釈までついて読めるのはこの本しかありません。1冊700〜800円が6冊という量(1冊が普通の文庫の1.5倍の厚さはある)も値段もちょっと高校生にはきついかもしれませんが、まあ親にねだりましょう。それくらい、高校の時点で読む価値がある本です(と、高校生のころ読まなかったことをくやしがりながら力説する私)。
 これだけの活字を使いながら、タイトルの通り略であるというのがすごい。中国四千年などと軽く言う人がいますが、まあその重いこと重いこと……。で、内容は――国を興す。宦官やら外戚やら官僚の台頭。遊牧民族の侵入。滅亡。気持ちいいまでにこの繰り返しです。ああ、「歴史は繰り返す」という陳腐な言葉の途方もないリアリティ。その上、漢字がやたら面倒くさい人名やら(高校のころ、音で名前を覚えていながら漢字が書けず、点が取れなかった……)、通史の教科書には添え物とでしか扱われない文化人たち(書で有名な顔真卿が軍勢を率いてあの安禄山(本来は禄は旧字体ですが、気にしないように)と戦ったなんて、教科書に載ってないぞ、こんな面白い対決!)だのが無理なくストーリーに入っています。
 高校の先生が紹介してくれれば……と思い出すだけでもくやしくて腸が煮えくり返りそうになる作品です(註:先生の名誉のために書いておきますが、先生は面白いキャラクターの人でした)。












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『トゥパク・アマルの反乱』
 歴史物といってもいろいろある。中国や日本ばかりが歴史的大人物の産地ではないのに、なぜか「歴史物」の小説で諸外国の人物のものはみつかりにくくなっている。(まあ、作家が日本人で、日本語以外の文献をあさるのが苦手だからだろうとも推測できるのだが……。)エリザベス1世なんてけなげに強い人生を送っているのに、なんか小説やマンガに出てくると権力志向タカビー女にされちゃうんだね。
 王族の娘に生まれていながら(女好きの父親のせいで)母親は処刑。入ったら無事には出てこれないロンドン塔に幽閉されるという青春を過ごす。女王の座に就くも、宗教戦争を回避するために常に中道政治を取らざるをえなかった。当時の二流国・イングランドを維持するため、なみいる求婚者の求愛をはねのける(女好きの父親が梅毒に感染していたため、生まれつきの不妊だったという説もある――どちらにしろ、彼女は直系の子孫を残さなかった)。
 派手好き男好きという話も残ってはいるが、ここまで自分の身を削って王位を全うした人物もいまいと思う。それなのに、教科書には数行の記述――エリザベスは絶対王権時代のイングランドの黄金期を築き、ないしは後の「太陽の沈まぬ帝国(スペインもそう呼ばれた)」イングランドの基礎を築き、「よき女王ベス」と呼ばれた――通史だからと譲歩するにしても、後半の教科書のイングランド史一辺倒の端緒にしては、ちょっとそっけないんでないんかい?
 失礼、脱線修正。トゥパク・アマルも、もう少し見直して欲しい人物だから、この本をここで紹介したい(あ、この本は小説ではない。念のため)。前述の通り、教科書は18世紀に入ると英米仏で塗りつぶされる(まあ、ほぼそんなものだと思う)。いわゆる帝国主義の時代に突入して、太平天国の乱やらマフディの乱やらセポイの乱やら、植民地各地で反乱が起きるわけだが、そのページで(もしくは「中南米の歴史」という1ページくらいで)ちょこっと紹介されるだけの扱いしか、この「トゥパック・アマルの反乱」は受けていない。いわゆる植民地の反乱とは、様相を異にしているにも関わらず、だ。他の植民地の反乱は、白人対現地人という明快な構造を持っているのに対し、この中南米においては白人も現地人の仲間であったという複雑な構造を持つ。最終的にはインディオ対白人にまで簡略化されるこの反乱も、当初は現地の白人(クリオーリョ)をも巻き込んだ反乱であった。そもそも、トゥパック・アマル――本名ホセ=ガブリエル=コンドルカンキ自体が、スペイン語を流暢に喋る、インディオの中でもインテリに近い部類に属していることが、他の反乱の指導者とは大いに異なる。
 ホセは、1780年11月4日、彼の住むティンタ郡を治めていた悪代官アリアガを急襲処刑し、決起する。当時、本国生まれのスペイン人とそれ以外の現地人が複雑に対立し、中南米は不穏な状況にあった。反乱は遼原の火のごとく広がり、ホセはインカ王の末裔、トゥパック・アマル2世を名乗る(ちなみに本人はインカ皇帝を、さいごのどん詰まりまで名乗っていない。あくまでスペイン国王の忠臣を名乗り、国王の命に背き悪逆を続ける代官たちを一掃することを旗印にしている。彼の思惑はどうあれ、少なくとも反逆の反逆たる要素を否定している点が、この反乱のミソである。この特色が薄れていくにつれ、事件の展開は荒っぽくなってゆく)。結局、彼の戦術戦略的致命傷で、あっさり反乱は収束に向かうのだが、「インカ皇帝トゥパック・アマルの命における」反逆はしばらくくすぶり続けることになる。
 ツパマレカ、と言えば裏切り者、反逆者を意味する。ペルーのテロ組織、あの日本大使館人質事件を起こした連中も、トゥパック・アマルを名乗っていた。何かと血生臭い、マイナスイメージの響きを持つ彼の名前だが、それが彼の真実の姿を写しているのか? 例えば、あの「コンドルは飛んでゆく」と言う曲も、もともとはペルーの民族歌劇で(異説もある――ボリビアでは独自の起源が主張されており、歌詞も違う)、四つ裂きにされた(文字通り。彼は黒馬に両手両足を繋がれ、じわじわと裂いていくという処刑を受けた)コンドルカンキ(ケチュア語で「汝はコンドル」という意味)の魂が死後コンドルとなって空に登り、インディオたちを見守っているという伝説に基づく。コンドルカンキやトゥパック・アマル、インカ(インカ帝国の王族もそのままインカと呼ぶ)を偲んだ歌は数多い。テロリズムという卑劣な手段は肯定しえないにしても、かつての1960〜70年代の、中南米の軍事独裁政権の苛烈さ、卑怯さ、残虐さを思えば、その名前がもたらした(今や過去形かも知れない)ものは、一体何だったのであろう。アルゼンチンやチリでは、多数の歌手が銃殺されたり追放にあったりした。歌を歌うことすら、罪である時代があったのだ。その時代、有名なアーチストたちは国外に逃れ、主にヨーロッパを中心に活動した。当時、フォルクローレ(民族音楽)が流行し、「コンドルは飛んでゆく」がサイモンとガーファンクルによってヒットしたのは、このような背景による。
 結局、中南米の国々が置かれた立場が貧しいことに、過去から現代まで連綿と続く事件は由来しているのだろう。ひずみの構造を押しつけられただけの国々は、それをぶち壊し独立することで安定を保てた。だが、ひずみの構造を持ったまま人々が根づいてしまった国、恣意的に民族がいじられてしまった国では、そのひずみを解消することもできないまま、潜在的に、あるいは顕在的に不安をかかえて生きざるをえなくなっているのだと思う。

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『明治の人物誌』
 星 新一の父・星 一の伝記。というか、星 一を軸とした、彼に関係ある明治〜昭和の偉人の列伝。やっぱ星 新一は文章がうまいです。伝記なんて、子供のための有害図書程度にしか思っていなかったけど、彼の文章なら伝記特有のクセがない。目いっぱい生きて、時にはハメもはずす、親しみやすい人物伝に仕上がっている。但し、軸はあくまで星 一なので、読んでいてもどかしくなる部分もある。しかし、明治の留学生はどうして借りた大金を渡航前に全部浪費して、再び借り直すようなことをするのだろう? やはり、外国に行くということは、宇宙旅行並みの壮大で悲壮で決死の暴挙(かなら〜ずここへ〜かええ〜ってくるとぉ〜☆)だったのだろうか? 伊藤博文の話は聞いたことがあったが、まさかあの野口英世がおんなじコトをやってるとは……わはは、野口先生もなかなかお好きですなぁ。

















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『悪名高き皇帝たち ローマ人の物語Z』
 元・一国の主、橋本龍太郎氏も(……確か)読んでいるシリーズの第7作。確かに、日本の政治家諸氏には読んでほしい作品です。司馬遼太郎読むよりも絶対にためになる……などと書くとあちこちから猛反発喰いそうだけど、あえてそこまで推します。その風味たるや、歴史というさながら松阪牛一頭を丸焼きにして切り分けるがごとき豪快かつ贅沢なおかつキメ細かい舌触り、とでも表現しましょうか。これは、日本の作家には絶対に出せない味です。歴史といううねりを、所詮うじうじとした一人称でしか語れない(比喩の話です。日本の歴史小説は、どうしても事実(歴史)よりも情感(小説)を重んじるでしょ?)歴史小説には、ほとんど食傷ぎみなので、この舌触りは新鮮でいいです。
 ただし、むちゃくちゃ専門的なわりには歴史初心者まで読者層をカバーしようというサービス精神が仇になることも。ヴェルキンゲトリクス、と通常標記される人物(高校歴史レベルで触れる可能性あり=入試に出る可能性あり)を、「ヴェルチンジェトリクス」とイタリア語風に標記する人は、多分彼女だけだろう。そして、ローマ海軍が当時最強のフェニキア海軍を破った秘密兵器、白兵戦用スパイクつきはねおろし橋、コルヴィスを「カラス」と直訳した――しかもそれが有名になり、いまや「世界不思議発見!」やうちの父(笑)までそれをカラスと言うようになったのも珍しかろう。だが、考えても欲しい。戦闘シーンがあなたの頭の中で始まる。ローマ指揮官は声を大にして叫ぶ――「カラス、落とせ!」
 ……食害に逆上する権兵衛さんじゃないんだから(笑)。やはりコルヴィスのほうがかっこいいな。










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『黒船襲来』
 いわゆる架空戦記である。本来なら、歴史物に含めるには抵抗がある。
 あえて言わせてもらえば、この人の右翼風思想、偏った表現、そして架空戦記ならではの人物描写の貧困さはあからさまにマイナスポイントである。
 だが、それは枝葉末節に過ぎない。この本の凄いところは、一貫してシビアな視点と思想が貫かれていることだ。「幕府軍が黒船に勝てるわけがない。だが、ペリー艦隊も人員弾薬の面で補給に難をかかえており、局面は膠着状態に突入する」が本書のテーマである(太平天国の乱や義和団事変のことを考えれば、それでも楽観的な分析だと思うのだが……)。そして、驚くべきことに、あからさまに作者は幕府びいきで本書をつづっているにもかかわらず、幕府軍はことごとく負けまくるのである。技術的・経済的に開発不能な新兵器と、偽善と自己欺瞞じみた正論が跋扈する、トンデモ本の巣窟・架空戦記というジャンルにおいて、ここまで冷静な本も珍しいと思う。IFの部分が非常に少ないのである。ペリー艦隊と日本が衝突、というシチュエーションについて、非常に納得できる話の展開を構築している。
 オチも、一見非常に都合良く見えるだろう。だが、これも史実である。外国人がこの事件に遭遇、大被害とならなかったのは、単に偶然に過ぎないのだ。逆に、このオチを思いついたからこそ、筆者はこれを執筆したのだと思う。読みやすい1冊なので、ぜひ読んでいただきたい。










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『危機と克服 ローマ人の物語[』
 着々と巻数を重ねる人気シリーズ。しかし、いくら塩野七生の文章といえども、素材が歴史ゆえに、つまらない時期はどうしてもつまらない(笑)。これからローマにとっても塩野七生作品にとっても最大の試練、五賢帝と軍人皇帝の時代がやってくる……あ、軍人皇帝の時代はそれなりにエキサイティングか(笑)。
 今回の素材はローマ内乱、ヴェスパシアヌス即位とガリア(というかゲルマン)・ユダヤ反乱、ドミティアヌス帝である。普通の人が書けば多分キリスト教の浸透とかユダヤの反逆など、後世のヨーロッパ人にとっては重要だが当時のローマ人には大したことではない事跡の記述にとどまるだろう時代を、例によってまあ、あきれるほどに生き生きと描写している。
 次の巻を読んでみないことには結論は出せないが、ヴェスパシアヌスの業績の方を、筆者は五賢帝の業績よりも高く買っているのではないだろうか? 高校の歴史では名前が出るか出ないか程度のこの皇帝の業績を、事細かに評価するあたりに何か筆者の入れ込みようが伺われる。もっとも単に、この時代には他に焦点になるような事件もなかったのかもしれないが(笑)。
 そして、この作品が巻を重ねるごとに、日本の政治家さんたちもその業績に注目し、彼女に興味を持ちつつあるのだろう。本文中で、某政党のM氏との会話が載っている。もっとも、M氏、また男を下げてしまったようであるが(笑)。単に話の枕としてこの様子が使われているところが笑える(笑)。
 このシリーズを読んでいると感じる点がある。ヨーロッパ人がローマを「文明の故郷」と考えるということは、ある意味傲慢なことだと思えるのである。確かにヨーロッパはローマによってその土台を築かれた。だが、中世の暗黒時代を経るうちに、もともとの「古代ローマ」の持っていた要素というか精神を、ヨーロッパはすっかり失ってしまったように思えるのである。ローマの死体を養分に、ヨーロッパは成長したと言ってもよい。
 なぜなら、ヨーロッパ人がもう一つ挙げる心の支え、キリスト教によって、両者の視点は決定的に違ったものとなってしまっていると思うのである。塩野七生の言うところの「寛容(クレメンティア)」(=ローマ的要素)と、啓蒙思想(=現ヨーロッパ的要素)。似てはいるが、大幅に違うものである。また、「文明人の条件は何らかの宗教を信仰していることである」という考え方。この帰らざる古代帝国について物思うとき、文明の普遍性という点では、我々は未だかつてのローマほどには成熟していないのではないかと思えてくる。




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『東郷平八郎』『バルチック艦隊(大江志乃夫,中公新書)』
 第二の地元・横須賀の駅前書店は、なぜか軍事関係のコーナーがやたら充実している。自衛官とか防衛大学の学生さんが町に多いせいだろうか。まあ、同じ棚にゴーマニズム宣言置くのはやめてほしいが。あれは紙に文字や絵を印刷することによって、紙自体の価値が下がった稀有の例だ。少なくとも日本の有事に防衛の任を担う(であろう)自衛官や、若く多感な前途ある青少年の読むべきものではない。
 うん、この二冊を読んで仰天したのは、今まで史実だと思っていた東郷伝説が、完璧に間違っていたという点だ。小学校以来、東郷の「日本海海戦」は理性的な作戦の勝利として認識していただけに、ダメージは大きかった。
 まず、バルチック艦隊は遠征によりもはや戦闘能力を失っていたのはまあ周知の事実。戦場についた段階で、既にロシアは敗北している。日本が勝って当然である。これは、むしろロシア人=白人=先進国に日本人=アジア人=後進国が勝利した画期的な事件、と考えるほうがおかしい。そんなこと教科書に書くなよ山○書店。高校のときは世話になったけど。
 ショックなのは次の2点。まず、日本海海戦の連合艦隊の戦術は、かの丁字戦法ではなかったという事実。これにはびっくり。いわゆる丁字戦法とは、まあ極論すれば「大砲の多いほうが勝つ」というシンプルな作戦である。丁字の横棒は、縦棒に比べて相手に晒している面積が広い。だが、同時に軍艦の砲塔には仰角の限界があって、敵に対して正面を向いている軍艦は、後部砲塔がまるまるお留守になって無駄になるのだ。あえて側面をさらけ出してでも、動員可能な火力を一点に集中させ、その優位をもって敵の先頭艦を撃滅するという作戦である。双方が単縦陣形を敷いていた場合、後方の艦も同様の火力の優位を得られるので、最終的に敵に勝利する。
 だが、その丁字戦法は日清戦争の黄海海戦であっさり失敗したので、日本海海戦では使用されなかったという。つまり、丁字戦法におおける火力の優位が保たれるのは、丁字に双方が射程圏内で接触した一瞬だけで、あとは「やばい」と感じた敵が味方の艦尾方向に逃走すれば戦いは中途半端のまま終了する。そこで、日本海海戦はむしろ同航戦に近い作戦スタンスで臨んでいる。というのが論旨だ。同航戦とは、敵味方の船が同じ方向に平行に航行しながら戦闘するというもので、相対的に敵が静止、かつ広い側面に相対するので攻撃が容易となる反面、敵にとっても同じ条件になるので、必然的に撃滅戦となる傾向をもつ海戦のことだ。防御を捨てた殴り合い、とも言える。但し、速度においてはるかにバルチック艦隊に勝る連合艦隊は有利な位置を確保しつづけ、常に敵の頭を抑えこむように牽制し、筆者をして「一方的な鏖殺」とまで言わしむる大勝利を収めたのである。
 そして、巷間に流布する「敵前大回頭」であるが、前者が嘘である以上、後者も真実ではありがたい……のだが、史実としては、足並みの揃った敵前回頭によって見事な連携プレーとなり、戦史に残る大勝利をおさめるのである。但し、それは東郷の決断、ツルの一声によるものではないようなのである。参謀が迷いに迷った挙げ句、行き当たりばったりで回頭した……というのが真相らしい。
 明治時代の軍艦の砲塔は、昭和の対空砲と違って、全て敵艦撃滅のためにある。横須賀三笠公園に来れば、その三笠の特徴的な衝角艦首とともに、舷側に突き出た数基の単門砲を見る事ができる。主砲のように右舷にも左舷にも自由に向くというわけにはいかない舷側砲に弾薬を装填するため、弾薬庫から司令部にしきりに催促があったのである。当然敵がいる弦に人員弾薬を送る必要があるからである。  以上の点をもって、小学校の歴史の教科書で東郷元帥を紹介することについては、私は反対である。国語や道徳なら、よかろう。だが、伝説に基づいて歴史教育はなされるべきではない。東郷元帥も日露戦争戦勝後の訓示で、こう言っている。「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」。また、太平洋戦争末期、特攻作戦中の戦艦大和のガンルームで、ある士官がこうも言っている。「進歩のないものは決して勝たない。我々は進歩を軽んじすぎた」。何かあまりに共通するこの言葉に、もう一度歴史というものを学ぶ意味を見出すような気がする。いわんや、前述の某宣言のごときは、もはや既に歴史への冒涜である。部分は正しいだろう。だが、そこを流れる精神があまりにもねじくれまがりすぎている。
 まあ、以上の点のほかにも、元帥府入りした後の彼の言動には批判されるべき点も多い。その意味でも、もう一度見なおされるべきことであろう。




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『昭和史の論点』
 はっきり言って、最近の昭和の歴史を題材にした本にはカスが多い。いわゆる新しい歴史を作るナントカという馬鹿者どもが、妄想を正当化するようなたわごとを述べ連ねただけの粗悪品のオンパレードである。紙とインクを消費して、かえって原料よりも価値の低いものを作ってしまった、と言ってもよい。
 この本は座談会形式を取っているが、その中に半藤一利という先生が混じっている。この人の関わった本だけは、前述の嫌悪感なしに読めるのだ。この人は非常に冷静に、当時の空気を踏まえて昭和史を分析できる。左右どちらににも偏らず、非常に理にかなった叙述に好感が持てる。さらに、行間からにじみ出る江戸っ子の「べらんめぇ」という啖呵が心地よいというのもある(笑)。
 内容に関しては……まあかなり右に傾いた昭和の歴史の本である。まあ、あの時代が右に傾いた時代であったのだから仕方がない。ただ、軍部の杜撰で対症法的な反応に対する批判は的を得ている。この辺の冷静な分析が、前述の「ただ酔っ払っているだけの人々」とは違う。全然違う。




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『すべての道はローマへ通ず』
 最初手に取った感想は「……逃げたな塩野」。はよ、あのつまらん時代を書き終んかい! と思ったら案外面白かった。
 高校の歴史で「技術史」あるいは「文化史」という、通史とはまた違った観点からの通史がある。それに近い巻である。いや、あの数倍は面白いか。
 要するに、この本は、ローマ時代の技術というものが、 1)どのような設計思想の元で 2)どのようにローマに貢献したかを説いた本なのである。
 技術だけなら現代の方が断然優れているのである。ただし、それがそこに住む人々にとってどのように役に立っているか? 本書には書かれていないが、私には某道路公団に対する皮肉が、特に前半部分に撒き散らされているとしか思えない。総延長何キロ目標! などと仰る現代の道路屋さんと、経済的あるいは軍事的、とにかくそこに必要だから道路を作ったローマ人との意識の違い……。あるいは、同じ道路をほじくり返すにしても、3月で予算消化のためにするのと、不断のメンテナンスを怠らぬためとでは……。ニッポンのお父さんが威厳を失ったのも仕方ない。
 結局、技術屋集団とは、それを使う人間が目的意識を持っていなければ全然有効に活用されないわけである。地味ではあるが、そういった政策決定は政府の責任である。その意味で、コロッセオなどのどうでもよい建築物は外し、ひたすら道路と水道に限ってハードウェアを論じた本は画期的なのではないか。この本は、歴史家からの政策提言の書なのである。その意味では、あと半年早く出てほしかった。小泉改革の理論武装になりえしものを……。
 ちなみに、私の親父の建てたビルは、ランドマークタワーの脇にこじんまりとそびえている(建てたといっても配線の図面設計だけであるが)。それだけで私は親父を尊敬している。あの桜木町を使えない町にしているのは、Y市ならびに国である。ゆえに両自治体に忠誠は誓うが決して尊敬はしていない。




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