それらはもはや本来の形を失い、渾然一体となって佇んでいた。見た目はもはや苔むした岩山だ。 不死を獲得した巨大な生命が悠然と、広大な円形を描いて壁のごとく連なる。刺激的なまでに 森の芳香漂う空気は濃厚に潤い、息を押し殺していてさえ、肺腑に浸透してゆく。むしろ、 呼吸を抑えないと、かえって胸が圧迫されるようだ。  その「アリーナ」の中央に、「それ」はあった。      *     *     *  激情の嵐は過ぎ去り、抜け殻の俺だけが取り残された。  無力だった。あまりにも、俺は無力だった。  いつだって、俺には何一つ変えることはできなかった。そして、その度にひとつずつ、 大切なものを失ってきた。  そして、今……。  不思議なものだ。こうやって胡乱になってしまうと、かえって穏やかなままにいられるものだ。 偽りの平穏と静謐の中、俺は呆けたまま地面に崩れ落ちていた。それから何時間が 経ったのだろう。あるいは何分なのだろうか。 いずれにせよ、虚ろな心に時間などいらない。  だが、禍禍しくもそれは、俺を現実へと引き摺り戻した。ざらついた擦り傷を灼けた砂面で 削られるような痛みを、罰として俺の心に刻みながら。 『……よ……』  それは、果たして本当に現実のものだったのだろうか? この静寂の中で、その「声」は 透き通るような響きを残しながら、俺を取り巻く森の中を疾駆していった。だが、 そのよく通る澄んだ語尾とは裏腹に、言葉自体は焦点を持たず、不明瞭だった。 『……には、……は……ない……だが……』  そして、徐々に声はそのぼやけた輪郭をはっきりとさせてゆく。まるで山川の急な流れが 俺の周りで突然淀み緩やかな流れに変わったがごとく、それは不可解な非現実味と、 妙に納得のゆくリアリティを持っていた。 『私にはトレントを抑える力はない……だが、あなた……人間なら……』  突然、俺を取り巻いていた数万本の音の線が、あたかもぴたりと一本の線に 収束したかのように、「声」は意味を持って語り出した。俺は密かに感銘を受けていた。 混沌が調和に取って代わった瞬間、人は妙に美への感受性をくすぐられるものだ。 俺は思わず叫んだ。さっきまでの負け犬ぶりが嘘のようにはつらつとした声で、 当の俺が思わずぎょっと身をすくめた。 「俺は、ここだ! ……どこにいる!」 『コッチ……こっちよ……』  俺は、声のする方角を探ろうとした。だが、なぜかできなかった。こんなにも よく通る声なのに、どうしても方角がつかめない。剣を取る者にとっては、 致命傷ともいえるこのていたらくに、俺は再び、少なからず現実味を失いかけていた。 ……そして、気づいた。  この声は、音ではない。強いて言うならば、それは直接心に語りかけているのだ。  俺を呼ぶ声は、どこから聞こえてくるのだ?  とりあえず、俺は適当にそのあたりをうろついてみた。すると、体を ある方向以外に向けると意識が遠のくことに気づいた。いや、意識ではない。 ある方角以外を向くと、その「声」が聞こえなくなるのだ。静寂は、 今や俺の非現実となりつつある。俺はとにかく、歩いた。すがるべきものか破滅の罠か、 ともかく俺にとって、残された現実はそれだけだったのだから。  そして、急に森が開けた。      *     *     *  それは、果たして木と呼んでいいものだろうか? それは、かつては別々の生命を持った、 一本一本の樹木だったにちがいない。だが、既に個としての形は崩れ、すべて 渾然一体となってしまっていた。だが、混沌とした雰囲気はない。むしろ、 それはあらゆる混沌を経て、究極の秩序を実現した姿だった。あえて言うならば、 それは森だった。森の全てが、この「アリーナ」に凝縮されていた。  俺は声の主を探した。あの声がもし現実のものならば、その主はここにいるに違いない。  だが、声の主はなかなかみつからなかった。俺は少し不機嫌になった。そして、 無数の木の葉によって天蓋の主導権を奪われた空を、仰いでみた。  そして……  それは、そこにいた。 「……あなたが……あなたは……」 『……私は……コルネリア……この森の……具現者……ハマドュリアッドの……コルネリア ……しかし、今の私には……』  木の幹の中途ほどにいる、裸体の少女が言った。……少女? 確かに、風になびく緑の髪、 非のつけどころのない美しい顔、しなやかな上半身は絶世の美少女のものである。 だが、手首から先、腰から下はない。そこから先は、木の根のように無数に分岐し、 木から生えているのだ。木に宿っているのか、木から抽出されてきたのか、 まるでそんな風情だ。つまるところ、人間の姿をしてはいるが、異形のものだ。  そのうえ、彼女に表情はない。苦悶に満ちてはいるようだが、どことなく虚ろで、 感情を感じさせないのだ。  その細い頚を、無骨で奇怪な剣が貫いていた。  そして、先ほど言いかけた言葉を終わらせた。 『しかし……私には、今は何の力もない……』 「どうすればよい?」  俺は聞いた。いや、聞くまでもなかった。そう言えば、御伽話に聞いた覚えがある。 この世の始まりからある古い森にはトレントと呼ばれる木霊たちが住みついていて、 森で悪さをするものを木に変えてしまうというのだ。  この場合、どう見ても「悪さ」はあれとしか考えられない。 『剣を抜いておくれ……この剣ある限り……』  言うか言わぬかのうちに、俺は木につかまってよじ登りはじめた。しかし、 木は大きくて足場がない。しかたない。俺は鎧を脱いだ。これで少しは 登りやすくなったはずだ……が、木から落下した場合、今度は傷を癒してくれる リディアはいない。 「…………!」  二、三度手をすべらせ、そのたびに冷汗を流しながら、俺は登った。途中、 ふと下を見た。大地が回っていた。思わずよろめき、それからは俺は下を 見ないようにした。まあ、見ようが見まいが落ちるときは落ちるものなのだが。  そんなこと、考えなければよかった。この森に来てから、俺は落ちてばかりだ! 最初はカエルの背中から。次は竜の背中から。三度目はグリフィンの背中からで、――  とにかく、こうやって次に為すべきことをしている間は、全ての痛みは忘れられる。  俺はあちこちをすりむき、爪を欠けさせながらもなんとかコルネリアのもとにたどりついた。 木の暗褐色に、彼女の白い肌はまぶしかった。さらに登り、頚の剣のところに たどりつくためには彼女に触れざるを得なかった。俺はうしろめたさを押し殺して 彼女の肩につかまった。俺の胸が、彼女の胸に触ったかも知れない。いくら俺が 無骨な野蛮人だとしても気圧されてためらってしまうほど、彼女は神々しく美しかった。  俺はその瞬間、はっと気がついた。彼女の肩は冷たい。彼女の胸は硬い。 彼女は、やはり異形のものだ。彼女の感触は、木そのものなのだ!  だが、気づかないふりをして、俺は剣の柄を握った。首を切断された蛇鱗の女神が、 血を吹き出しているという妙な意匠の飾りが、護拳から柄頭までをかたち作っている。 渾身の力を込めるが、剣はびくともしない。 「…………!」  これを抜くのには両手が必要だ。しかも、うまくやらないと彼女の頚を断ち切ってしまう。 それに、力を込めてこれを抜いたら、俺はまっさかさまに落ちて地面に叩きつけられてしまう。  俺は心を決めた。体重をかけて両手で剣を引き抜……だが、それでも剣は抜けない。 『この剣は魔剣です。腕力では抜けません』  腕力で抜けない剣。他に何か資格がいるのだろうか。だが、俺に何がある? 何が残っている? 俺の心はじわじわと、再び敗北感に苛まれはじめた。  どうせ、失敗したところでお前は何も失わないさ……。  どうせ、死ぬのは他人さ……。  こんな所でこんな木の化け物のために死ぬのか……?  どうせ、お前は負け犬なのだ! 「違う!」  俺は大声で叫ぶあまり、手を放しそうになった。手のひらは汗まみれだ。俺は再び しっかりと剣の柄を握った。  どうせ……。  やめてくれ! 俺は心の中で泣きじゃくった。暴れ出したかった。俺は負け犬なんかじゃ……。  どうせ!  ……いや、負け犬だ。俺は、あの戦いで生き残って以来、ずっと負け犬だ! ホルヘもアリエルも死んだ。部下がいっぱい死んだ。王は俺に責任を押しつけた。  そして、俺はリディアを救えなかった。この木の精も救えないかもしれない。  どうせ……。  だが、俺は……いや、だからこそ彼女だけでも……救けたい! 負け犬でもいいから、 だからせめて……!  だれか、俺の心を支えてくれ! こんなくだらない俺に、無明の闇を永劫さまよう俺に、 ほんのちっぽけな灯火でいい……  生きる理由が欲しい!  俺はいつのまにか泣いていた。俺は、目を閉じた。  目蓋の裏に、暗い空間に、彼女がいた。  古い俺は消え去り、彼女だけがそこにいてくれた。  リディア……  俺は感謝した。  剣が抜けはじめた。剣身が鞘走る、あの懐かしい感触。剣は滑らかに動き、俺の重心が 下へと傾いてゆく。  リディア……!  今、俺は死ぬのか。だが、不思議と怖くはなかった。俺は、かつての 「凶悪な牡羊」でもなく、ましてや「叛逆の悪鬼」でもなく、俺は俺としてある。 そうしてくれたのは、……彼女だ。俺はそのやすらぎに感謝しながら、地表へと落下していった。


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