おぢかの歴史  小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」8.5.1998

資料:『小値賀町歴史・文化フィールドワーク』資料小値賀町教育委員会 塚原博先生より

1.神ノ崎遺跡(県指定史跡)神ノ崎遺跡

 弥生時代から古墳時代にかけて築造された約30基の墳墓が群集しており,特に古墳時代の墳墓群としては五島列島唯一最大の遺跡である。板状鉄斧を出土した20号石棺(写真下)は通常の石棺より約2倍の規模で,しかも棺材には小値賀に産出しない砂岩を板状に切り出したものを使用している。20号石棺

 

 

 

 

2.牛ノ塔(町指定史跡)牛ノ塔

 現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。
舟瀬海岸潮見様

 

 

 

3.シャラジ中世墳墓群(町指定史跡)シャラジ墳墓

 シャラジは西林寺が訛ったものという。宗派は禅宗の臨済宗で創建時期は不明。小値賀島の古くからの豪族であった城氏・近藤氏・松崎氏が足利将軍義教の菩提を弔うために創建したと伝える。現在境内地は畑となって過去を示すものは何もないが,墓地が残されていて室町時代前半から江戸時代初期に至る宝篋印塔・五輪塔・自然板碑・馬耳五輪塔・無縫塔等がある。

 

4.膳所城趾(平安時代後葉〜戦国時代の城館後)膳所城土塁

 小値賀町内にある城趾二カ所の内の一。昭和61年の確認調査で西部に大規模な空堀,城内に大小の土塁,井戸後,掘っ立建造物の柱穴等が良好な状態で保存されていることを確認。また,同時に11世紀後半代から16世紀代の中国産陶磁器や14〜15世紀代の朝鮮産陶磁器が出土したことから,本城趾は遅くとも11世紀後半代に成立し,16世紀代に遺棄されたと考えられる。

 

4.神方古墳(町指定史跡)神方古墳

 シャラジ遺跡の南側にある浸食谷は,現在は幅6m程の道路となっているが,かつては河原状の河川敷だったところで明治になってから埋め立てられたという。この谷筋の最奥部一帯を通称「神方」といい,五島列島に現存する唯一の古墳である『神方古墳』がある。この古墳は文化庁の全国遺跡地図に長崎県8-58『前方古墳』の名称で記載されているものである。
 古墳はほぼ南に開口する横穴式石室墳である。封土は大半が流失し,周囲も道路や宅地の造成によって削平され,羨道部及び玄室下部を中心とする一部分が残されているにすぎ神方古墳ない。石材の内天井石は玄門部の一個を残して他は全て持ち去られているが,羨道側壁及び玄室下部の側壁は比較的良好な状態で遺存している。玄室の規模は流失土砂で埋没しているため正確ではないが奥行約3.5m,幅2m程度と思われ,羨道は現存長約4mである。ボーリング調査の結果では石室構造は袖無しの単室と思われ,玄門部より羨道部が若干広がる形状を示しているが原状のままか否かは明かではない。墳丘は遺存する石室規模からおおよそ15m前後の規模の円墳であったと想像される。神方古墳が築造されたのは西暦550年から575年の間と考えられる。

 

5.神島神社神島神社

 神島神社は本来前方湾を挟んで本島にある地の神島神社と,その対岸野崎島にある沖神島神社の二社をあわせて一社であった。すなわち本島の本宮(辺津宮)と沖津宮の関係である主祭神は神島大明神(鴨分一速王命)で,志自岐大明神(十城別王命)と七郎大明神(七郎氏廣王)を併祭する。志自岐神社は平戸島南端にあって長崎県本土唯一の延喜式内社として高い格式をもった神社であった。その主祭神十城別王命は鴨分一速王命の兄で七郎氏廣王は二人の部下であったと伝える。この三社は神功皇后の伝説に連なる伝説を持ち,それぞれ『狛剣』と呼ばれる「環頭の太刀」が社宝として伝えられていたが,現存するのは旧七郎宮に伝世し現在平戸城で展示公開されている国重要文化財指定の一振りだけである。

沖神島神社

 

 

6.碇石

碇石 船の停泊に使用する「いかり」の本体は元々木で作られていた。その木製の『碇』を海底に沈めるために装着された錘が「碇石」である。「いかり」が鉄製の『錨』に変わったのは南宋時代末から元代(十三世紀後半〜十四世紀後半)と考えられており,従って「碇石」は十四世紀代以前の中国積載物と判断される。碇石の分布は日本海沿岸の山口県萩市から玄界灘,西海諸島,有明海(筑後川)及び中国泉州と限られ,その中でも特に博多湾内に発見例が多いことから,かつては元寇の際に沈没した元軍船の積載物と考えられ『元寇の碇石』と呼ばれたこともあった。碇石は定型形と非定型形のに種類に分類され,小型品は伊万里湾の鷹島周辺からのみ発見されている。現在定型大型の碇石は中国泉州出土の一例を含めて35本発見され,31本が現存している。その内の6本が小値賀町内で発見されたもので,博多湾の16本につぐ高い分布密度は,いかに多くの中国船が小値賀に寄港していたかを示す証といえる。

小値賀歴史民俗資料館歴史民俗資料館

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