グラフィックデザイナー |
■仕事の内容
■なるには(資格や適正)
■労働条件など
■私の進路選択
私は高校を卒業してから東京のデザイン学校に入りました。そこで、2年間デザインや美術の勉強をし、その後2つのデザイン会社に勤めてから23歳の時に会社を辞めてフリーランスとなりました。それから、数年間フリーランスを続けたのち自分の会社であるGEON GRAPHIC Inc.(ジオングラフィック)を設立しました。今は、他の2名のスタッフと日立や環境庁、NHK、小学館、マガジンハウスなどの仕事をしています。数ある仕事の中にはホームページ制作の仕事もあり、その合間にこの六島のホームページを見つけました。立志の部屋とはなかなかいい企画だと思います。私自身、小値賀時代はデザインや美術の情報に飢えていま した。今は、インターネットでかなりの情報がつかめるからいい時代だと思いますね。小さい頃から絵を描くのが好きでした。文化祭や体育祭などの行事があるときはいつも燃えていました。劇をやるときはストーリーをまとめたり背景のセットの絵を描いたり、体育祭の時は応援の巨大な旗を徹夜で制作したり、卒業文集などをデザインしたり、小・中・高等学校時代はそれなりに絵的な面で頑張っていたように思います。中学校の2年間は美術の先生にも恵まれ(西村先生!)、2年生の時にはもうデザイナーか美術の教師になることを決めていました。しかし、その後の4年間はデザインや美術の勉強をするにはあまりよい環境ではありませんでした。教えてくれる人が周りにいなかったのです。中3の時には美術の先生に恵まれず、高校の3年間は選択科目にすら「美術」の授業は入ってない。仕方ないので我流で絵や漫画をひたすら描いていました。夏休みになると親が必ず福岡や東京に旅行に行かせてくれたので、その時がデザインセンスを充電する貴重な時間でした。高校3年になって進路を決める時、東京に行って広い世間を見て決心しました。「東京でデザインだ!」。その後は、怖いもの知らずです。職員会議で学校を少し休んで勉強をすることを認めてもらい。東京の美術専門の予備校に通いました。そして、年明けて1月、何とか志望校に受かりました。それから18年間デザインとの格闘の日々です。今は、仕事の合間にデザイン学校の講師も勤めています。小値賀時代に描いていた夢は、とりあえず果たせているように思えますが、デザインの世界はまだまだ奥が深くて毎日が「努力・進化」の日々です。私が、今回こうしてメールを書いているのは、昔自分が相談相手を探していたからなのです。適切な情報を望んでいたからなのです。今は、大好きな故郷の「人」や「地域」の何かの役に立てたらと思うのです。最近、自分らしいデザインの仕事が出来るようになってきて重要だと思うのは、やはり個性です。個性とは、その人らしさなのです。 物を表現するときに自分なりの感性が大事になってくるわけです。島に住んでいるということは、素晴らしい感性を磨くのに役に立っているはず。島で生活していないと吸収できないこと、育てら れないことをしっかり意識して欲しいと思います。広い意味でのモノ作りに必要なのは、そのための教育(学校に行くこと)と自分なりの個性・感性のバランスです。高校卒業後に美術大学・デザイン専門学校に進学しても、まずデザイン科のある高校に進学してもどちらでも問題ないと思います。 進学は家族の支えも大事ですから、学費の件など家の人とよく相談してみてください。
from h.morioka URL> http://www.geon-j.com