「官僚主義的中央集権制」政党と党内外犯罪

 

 

democratic centralismの起源+分派禁止規定

 

レーニン疑惑と宮本・不破・志位のウソ詭弁・疑惑

 

 〔目次〕

     はじめに−このファイルの目的と方法

   1、社会主義と組織原則の歴史的経過

     1、「陰謀的集権」―ブランキ派の四季協会

     2、「民主主義的中央集権制」=「軍事的集権制」―レーニン・コミンテルン型共産党

     3、democratic centralism+分派禁止規定→官僚主義的中央集権制に変質

       1921年、クーデター政権崩壊危機レーニンによる党内外民主主義破壊・消滅

        1、クーデターという概念

        2、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たち

        3、クーデター政権崩壊危機―1921年

        4、21年、クーデター政権崩壊危機とレーニンによる党内外民主主義破壊・消滅

   2、「民主集中制」の虚構=宮本・不破・志位のウソ詭弁・疑惑とレーニン疑惑

     1、日本共産党「民主集中制」略語=「中国共産党規約第十条」用語と同一

     2、「民主集中制」公式擁護論の虚構と詭弁

     3、レーニンの人格・人間性疑惑と宮本・不破・志位のウソ詭弁・疑惑

        1、〔レーニン〕の人格・人間性に多数の疑惑?

        2、〔宮本顕治〕にも多数の疑惑?

        3、〔不破哲三〕にも多数の疑惑?

        4、〔志位和夫〕にも多数の疑惑?

         1)、彼の異様な党内出世スピード経緯疑惑

         (2)、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件1985年

           志位の「汚れた手」出自=「党中央青年学生対策委員」当時の党内犯罪

   3、「官僚主義的中央集権制」政党と党内外犯罪データ

     1、戦前における党外国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

     2、戦後における党外国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

     3、戦後における党内民主主義抑圧・粛清事件データ

 

 〔関連ファイル〕      健一メニューに戻る

   二〇世紀社会主義を問う

   1、レーニンの連続クーデター 2、レーニン1917・10 3、レーニン1918、19

   4、レーニン1920、21 5、レーニン1922 6、『国家と革命』

 

   共産党の組織体質=3人の体質、粛清システム

   1、組織・体質 党財政 志位和夫 不破哲三 宮本顕治 2、民主主義的中央集権制

   3、世界のコミンテルン型共産党現状 4、粛清・査問 5、逆説の90周年党史

   6、逆説の戦後党史 7、逆説の戦前党史

 

 はじめに−このファイルの目的と方法

 

 1、目的このファイルは、1)党内外民主主義を抑圧・破壊・消滅させた犯罪規約・システム「官僚主義的中央集権制」創設したレーニン批判と、(2)21世紀現在もレーニンの党内外犯罪規約・システム堅持し、党内外犯罪を続けている宮本・不破・志位批判を意図している。

 

 しかし、東方の島国には、歴史的・社会的・地政学的要因もあって、コミンテルン型共産党が資本主義世界で唯一生き残ってる。レーニン崇拝の赤色信者40.6万人から激減→2012年時点、なお21.5万人が残存している。彼らは、ウソつき・ペテン党首志位にたいし、党費納入を続けている。日本政党間の「一強多弱」力関係の中で、一時的軒下雨宿り先としてのみ、共産党選択する有権者もかなりいる。

 

 (党員数のウソ)31.8万人でなく→秘密報告における実質党員数21万5922人

この数値は、2012年8月時点である。2014年1月第26回大会時点、志位は、31.8万人→30.5万人に減ったと公表した。2015年には、さらに減っているか?

 

 2、方法レーニン宮本・不破・志位批判内容のデータは、広範囲で膨大になる。一つの文章では書ききれない。そこで、ファイル中のほとんどを、従来、(宮地)のHPに載せてきたファイル多数をリンク形式で載せる。ファイル〔目次録〕のようになり、読みにくい。興味があるテーマのファイルがあれば、クリックしてください。

 

 

 1、社会主義と組織原則の歴史的経過

 

 〔小目次〕

   1、「陰謀的集権」―ブランキ派の四季協会

   2、「民主主義的中央集権制」=「軍事的集権制」―レーニン・コミンテルン型共産党

   3、democratic centralism+分派禁止規定→官僚主義的中央集権制に変質

     1921年、クーデター政権崩壊危機レーニンによる党内外民主主義破壊・消滅

 

 1、「陰謀的集権」―ブランキ派の四季協会

 

 この内容は、加藤哲郎『社会主義と組織原理』(窓社、1989年)における(P.33〜36)からの一部抜粋・要約である。

 この秘密結社は、ブランキを頂点に、徹底的な上意下達の中央集権制をとる。

 

 (1)、「人民自身による人民政府、すなわち共和制」を目的にするが、「しばらくの間は、人民は革命的権力を必要とする」。この理想社会を少数精鋭の武装蜂起による現存国家の即時打倒・軍事革命政権樹立。それを実現しようとする目的と手段との鋭い緊張関係

 (2)、死をも恐れぬ既存国家・社会体制への憎悪、革命遂行のため厳しい軍事的組織規律

 (3)、家族や友情をも超えた組織への絶対的忠誠・献身と秘密保持義務

 

 (4)、指導者・上級組織への絶対的服従と成員間の匿名性、水平的交通の排除

 (5)、組織決定の絶対性権利なき義務の遂行、自己犠牲精神。

 (6)、厳格な入会資格と秘教的入会儀式脱退権の欠如裏切者への死刑

 

 これらが、「陰謀的集権」型組織の特徴であり、社会主義運動の組織原理の、いまひとつの出発点になる。

 

 レーニンは、これらの一部を削除し、「民主主義的要素」を加えた。党内選挙制、上級組織による報告制などである。それをdemocratic centralismと名付けた。

 

 2、「民主主義的中央集権制」=「軍事的集権制」―レーニン・コミンテルン型共産党

 

 「民主集中制」の歴史的性格と役割を確認しておく必要がある。日本共産党は以下について全く沈黙するか、きれいごとの歴史のみを説明している。

 

 ()、これはロシア革命以前にはなく、レーニン、コミンテルン起源の独特の組織原則である

 

 社会主義運動全体、全歴史に共通の原則ではなく、80年の歴史で組織原理としての生命力を全世界的に喪失したのである。職業革命家の党としての前衛党を創設し、その根幹に民主主義的中央集権制を据えたのは、レーニンとロシアのボリシェヴィキであり、マルクスからではない。

 

 ()、それはナロードニキの系譜をひく陰謀的非合法秘密結社の「中央集権制」を基軸とし、それに選挙制、報告制、党内討論を加味して、「民主主義的」・「中央集権制」とレーニンが名付けたものである

 

 陰謀的秘密結社の組織原理の基本は「(1)暴力革命またはテロル遂行のための厳しい軍隊的規律、 (2)組織への絶対的忠誠、 (3)指導者、上級組織への絶対服従と水平的交流の排除、 (4)組織決定の絶対性と権利なき義務の遂行、(5)脱退権の欠如と裏切者への死刑」などである。

 

 ロシアにおけるこの秘密結社の組織実態、裏切者への死刑遂行の態様については、ドストエフスキーが『悪霊』において、その革命家たちの人間性喪失状況をふくめてきわめてリアルに、深い洞察を秘めて描きだしている。

 

 レーニンは、陰謀的秘密結社絶対的中央集権制の上に、()選挙制、()報告制、()党内討論を加味して、「民主主義的」・「中央集権制」と名付けた。

 

 ()、民主主義的中央集権制は、非合法時代において、かつ武装蜂起、武装闘争、赤色テロル遂行という軍事行動時代において、それにもっとも適合的な組織原理=軍事的中央集権制として機能してきた

 

 端的に言えば、武装蜂起組織、赤軍、人民解放軍の革命軍事組織にもっとも適合した「軍事的集権」規律として誕生し、運用されてきたのである。軍事的中央集権制は、必然的成り行きとして、レーニンが1921年3月第10回大会で導入した分派禁止規定と一体になって、官僚主義的Centralismに変質した。

 

 ()暴力革命により権力奪取した14ケ国の国家社会主義においては、共産党の組織原則というのみでなく、国家、社会、党に共通する組織原理としてこの民主主義的中央集権制が適用されてきた

 

 憲法において「共産党の指導的役割」明示とともに、「民主主義的中央集権制」が国家、社会をも運営する最高の組織原則と明示され、正規に運用されてきた。日本共産党が「国家、社会と党の問題を混同させて民主集中制攻撃をしている」と反論するのは、この14ケ国の歴史的事実に対する大ウソである。

 

 ()、この民主主義的中央集権制は、権力獲得後の権力維持、強化の段階において、前衛党一党独裁の運営原理となり、国家内、社会内、党内での人権抑圧、侵害の最大の武器となってきた

 

 そもそも、前衛党とは、自らを科学的真理の唯一の認識者、体現者と自己規定する政党である。そこから、前衛党とは、その真理の実践においても無謬者となる。日本共産党が「科学的」社会主義を強調するのも、「日本共産党だけ」が科学的真理を認識、体現できる政党であり、他の政党、団体、個人はその真理を認識できない=「非科学的」という同一の前衛党理論に立っているからである。

 

 そのような前衛党による一党独裁制度において、異論、少数意見とは、反共産党というのみでなく、非真理、非科学的認識なのである。それは非科学的思想を媒介する悪として排除対象にはなっても、それを尊重するという民主主義などまったく必要としない

 

 その論理は、そこにとどまらず、()結社・言論出版の自由権全面剥奪と、()徹底した情報統制という反民主主義的政策こそが正しいという思考に、必然的に転化する。その論理は、それに違反した者、疑わしい者、前衛党やその指導者の悪口を言ったと密告された者「反革命」「国家反逆罪」と断罪する。14カ国全体で、その党員、国民の精神病院強制隔離、強制収容所投獄、銃殺を、数千万人前後の規模で行ったのが、この前衛党である。

 

 ただし、この「前衛党の犯罪」犠牲者数については、数百万人説から、最大五千万人説まで、幅が広い。そこでは、民主主義的中央集権制の「民主主義的」とは、いかなる民主主義的内実も持ちえない。それは「中央集権制」の単なる枕ことばとなった。その言葉の内実は民主主義抑圧の同義語としての「官僚主義的」「中央集権制」以外のなにものでもなかった。

 

 サハロフソルジェニーツィンをはじめソ連・東欧の反体制派の文学作品、強制収容所記録、中国の「ワイルド・スワン」、「上海の長い夜」、映画「芙蓉鎮」などは、民主集中制が前衛党による独裁制度の組織運営原理として、人権侵害、党員権侵害の武器としていかに犯罪的機能を果たしてきたかを克明に暴露している。この中国の3つのノンフィクション、映画は、民主集中制が国家内、社会内の組織原則に拡延されたとき、いかに非人間的な国家、社会レベルでの異論者・批判者排除システムとして機能するかを告発する衝撃的な作品となっている。

 

 3、democratic centralism+分派禁止規定→官僚主義的中央集権制に

 

  1921年、クーデター政権崩壊危機レーニンによる党内外民主主義破壊・消滅

 

 レーニンによる1917年10月単独武装蜂起・単独権力奪取は、クーデターだった。21世紀現在では、世界中のロシア研究者ほとんどが、「革命でなく、クーデターだった」と規定している。以下、内容が膨大なので、リンクを多用する。

 

 〔小目次〕

   1、クーデターという概念

   2、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たち

   3、クーデター政権崩壊危機―1921年

   4、1921年、クーデター政権崩壊危機とレーニンによる党内外民主主義破壊・消滅

      democratic centralism+分派禁止規定→官僚主義的中央集権制に変質

 

 1、クーデターという概念

 

 インターネット検索では、クーデターについて、下記3つの説明がある。

 ()フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia

 クーデター仏語 Coup d'État, 西語 golpe, 独語 Putsch)は権力者内部の少数のグループが武力による迅速な襲撃で政府の実権を握る行為。より大きなグループによる反乱や政治的意図から体制を変革する革命とは異なる。ただし、必ずしも排他的な概念ではなく、革命的意図を持ったクーデターもある。クーデターはフランス語で「国家への不意打ち」の意味がある。

 

    フリー百科事典『クーデター』クーデターの歴史・クーデター事件の諸データ

 

 ()三省堂提供「大辞林第二版 goo辞書

 クーデター[(フランス) coup d'État] 既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。国家権力が一つの階級から他の階級に移行する革命とは区別される。

 

 ()、広辞苑

 クーデター 急激な非合法的手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する。

 内乱 一国内における政府と叛徒との兵力による闘争。国際法上の戦争ではないが、交戦団体の承認をうけると国際法上の戦争とみなされ、戦争法規が適用される。

 内戦 国内での戦争。特に、内乱。

 戦争 武力による国家間の闘争。

 革命 従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。

 

 2、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たち

 

 これらを3つに分ける。リンクをした論文は、別ファイルに関連箇所の抜粋を載せた。

 

 1、ソ連崩壊前−他党派、アメリカ人ジャーナリスト、E・H・カー

 

 ()メンシェヴィキ、エスエルは、1917年10月25日時点で、「レーニンによるクーデター」「ボリシェヴィキのクーデター」と批判していた。レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と主張する裏側で、正規の第2回ソヴィエト大会を待たず、その前日の単独武装蜂起により単独権力奪取をした。レーニン・トロツキーらは、彼らにたいし、この二枚舌による既成事実を突きつけ、意図的に挑発演説をし、退場するよう仕向けた。

 

 よって、第2回大会は、居残ったボリシェヴィキと左翼エスエルだけによる不成立で、かつ、ソヴィエト大会を騙った一種違法な大会になった。退場他党派の批判言動は、あらゆる文献が一致している。これらの経過の真相認識については、下記3の外国研究者たちが、ソ連崩壊後に出版した著書において、ほぼ一致している。

 

 ()ハリソン・E・ソールズベリー『黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下』(時事通信社、1983年、絶版、原著1978年)「クーデター始まる」(P.202〜244)。彼は、10月24・25日の事件の性格を、クーデターと明確に規定している。

 

 ()E・H・カー『ロシア革命』(岩波現代文庫、2000年、原著1979年)「工場労働者を主力とした赤衛隊が市の中心部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血のクーであった。臨時政府は、無抵抗のうちに崩壊した」(P.8)と表現。クー=coupとはクーデター(coup d'État)と同一の意味である。塩川伸明東大教授の訳文は「無血の蜂起」となっている。原文が「無血のcoupということは、下記著書で加藤哲郎が指摘した。

 

 ただ、『ボリシェヴィキ革命』全3巻(原著1950〜53年)において、彼は、「ほとんど血を流さぬ勝利」と書いたが、クーデター、クーという用語を、まだ使っていない。彼が、1953年以降、79年までのいつの時点から、「クー=coup」認識に変わったのかに関する研究論文は出ていない。

 

 2、ソ連崩壊後の日本人研究者

 

 ()加藤哲郎一橋大学教授『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)「クーデターとしての十月革命」(P.64〜66)

 ()中野徹三札幌学院大学教授『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)一〇月革命が、レーニンらの誤算と過信から生じた(悲劇に導くという意味で)悲劇的なクーデターであった(P.14)

 

 ()梶川伸一金沢大学教授『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』(『レーニン、革命ロシアの光と影』社会評論社、2005年)「十月革命とは労働者を中心とする民衆革命ではなく、ボリシェヴィキ戦闘集団の軍事クーデターであった。つまり、十月革命とはわれわれが通常イメージするような民衆蜂起ではなく、ペトログラードでの軍事クーデター以上を殆ど意味しなかった」(P.21)

 

 3、ソ連崩壊後のアメリカ・フランス・イギリス人研究者

 

 ()マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』「主役はプロレタリアート それとも党」(草思社、1997年、原著1994年)「『世界をゆるがした十日間』は、事実上のクーデターだった」(P.178〜195)

 ()リチャード・パイプス『ロシア革命史』「第6章、十月のクーデター」(成文社、2000年、原著1995年)「ボリシェヴィキのクーデターは、二つの局面を通して進行」(P.123〜158)

 

 ()ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第一章、十月革命のパラドックスと食い違い」(恵雅堂、2001年、原著1997年)「政治的クーデターと3つの他社会革命が一時的に一致した」「レーニンは軍事クーデターのすべての段階を設定した」(P.49〜61)

 ()ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」(創元社、2000年、原著1997年)「1917年10月25日のクーデターは、『蜂起の技術』の帰着点だった」(P.157〜159)

 

 ()ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(岩波書店、2002年、原著2000年)「レーニンは意気高らかに演説した。『このクーデター〔perevorot〕の意義は〜』」(P.54〜97)

 

 ()H・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月、原著1998年)『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』(P.310〜317)

 

 彼らの著書全文を読めば分かるが、彼らは研究者として、革命(revolution)とクーデター(coup d'État、または、coup)との区別を明確にした上で、十月事件をクーデターと規定している。しかも、レーニン自身が、10月25日時点で、ロシア語でクーデターを意味するperevorotを使った事実も、ロート・サーヴィスが証明した。

 

 ソ連崩壊後に出版された著書で、十月事件は、あくまで「革命」と主張する研究者は見当たらない。

 

 3、クーデター政権崩壊危機―1921年

 

 レーニンのクーデター政権は、国民・労働者・農民にたいする誤った路線・政策の連続クーデターを仕掛けた。私(宮地)は、レーニンの犯罪継続を「連続クーデター」と規定している。その犯罪的クーデター連続政権にたいする労働者・農民の総反乱が勃発した。

 

 レーニンは、それにたいし、1)単独権力奪取クーデター直後の12月に創設した秘密政治警察チェーカーと、(2)赤軍の暴力を大々的に使って、赤色テロルによる大量殺人犯罪を繰り広げた。

 

 「連続クーデター」とは、それらの国家暴力装置を正規の法的手続き抜き・裁判なしで、違法な手段により、レーニンの路線・政策・独善的方針に反対・抵抗していた労働者・農民・兵士たちにたいし「逮捕・粛清・大量殺人」を連続してこうしした行動を指す。

 

 それにより、1921年・わずか3年間で政権全面崩壊の危機に直面した。6連続クーデター犯罪のデータはリンクで載せる。

 

    第1部『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』

           1917年10月、レーニンによる十月・第1次クーデター

    第2部『憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

           1918年1月、議会1日目での解散作戦と内戦第1原因形成

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

           1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    第4部『他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

           1918年6月、すべてのソヴィエトをボリシェヴィキ独裁機関に変質化

    第5部『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

           1921年2月、労働者の大量逮捕・殺害とプロレタリア独裁成立のウソ

    第5部2『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

           1920年3月、2000企業「軍隊化」での労働者ストライキ激発と弾圧

    第6部『革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

           1921年3月、クロンシュタット水兵・労働者14000人の皆殺し

 

 4、1921年、政権崩壊危機とレーニンの党内外民主主義破壊・消滅

 

   democratic centralism+分派禁止規定→官僚主義的中央集権制

 

 レーニンは、わずか3年間での政権全面崩壊の危機に直面し、うろたえた。当時、1)犯罪的クーデター連続政権にたいする労働者・農民の総反乱が勃発だけでなく、(2)それが党内にも反映した。

 

 当時のボリシェヴィキ党内では、労働組合論争において労働組合の国家からの独立を主張する労働者反対派や、強まりゆく官僚主義に反対して党とソヴェト双方の民主化を求める民主主義的中央集権派が党指導部に対抗し、その分派的対立は一途に熱を帯び拡がり続けていた。

 

 殊に労働者反対派の政綱は、クロンシュタットの水兵達の改革要求と似かよっていた。双方の間に直接の結びつきはなかったが、どちらもボリシェヴィキ党指導部を革命の精神に違背して民主主義を抑圧していると攻撃していた。

 

 レーニンの考えでは、党と国家が未曽有の難局に直面し党が一つに団結することがこれほど求められているときはないいま、分派闘争は直ちにやめなければならなかった。「小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性」を助長し「小ブルジョア的反革命」を利することになる労働者反対派認められなかった

 

 党の一致協力をぶちこわす反対派いっさい許されなかった。「このような時横に、このような党のなかで、反対派を結成することも、――冗談ごとではないのである!」

 

 こうして第一〇回大会は、労働者反対派やそれに類する者の思想を「サンディカリズム的および無政府主義的偏向(52)」と批判して、これとのたゆみない、系統的な闘争を決定するとともに、「党の統一について」という決議で、党内の偏向が反革命勢力によって利用される明瞭な実例としてクロンシュタット事件を挙げ、すべての分派の禁止を定めた。

 

 すべての党内反対派の禁止は、「現在の時機から生じる政治的結論」であり、危急事態に対処する一時的な避難措置であった。反対派の禁止は党内民主主義を危うくするが、それはいま現に党がさらされている危機より危険ではないのだ、と思われた。

 

    大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年

 

    『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』

       1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績党内民主主義抑圧犯罪の二面性

       レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

 

    R・パイプス『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』危機に瀕したコミュニズム

    ダンコース『1921年民衆蜂起・ネップ・分派禁止規定』

 

    稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』

           ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ

          『ロシア1920、21年〔コラム〕―8つのテーマ』

           赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は何か

           プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化

 

 レーニンは、これら全体の出来事にたいし、ロシア史・ソ連史の偽造歪曲・隠蔽をした。「食糧独裁令」反対する農民の大規模な蜂起・反乱すべて「白衛軍の侵略→白衛軍との内乱」にすり替え、覆い隠した。レーニンが書き、演説した内容『レーニン全集』だけを読むかぎり、レーニンの犯罪を見抜くことはできない。

 

 (宮地)は、共産党専従時期、『レーニン全集』中の基本文献をすべて読み、『レーニン10卷選集』を3周り読んだ。しかし、ソ連崩壊前、「レーニン秘密資料」6000点や秘密政治警察チェーカー資料発掘公表前では、レーニンの誤りを一つも見つけることができなかった。

 

 レーニンとは、何者だったのか。彼は、ソ連国民だけでなく、世界中の左翼・共産党員欺きとおした天才的なウソつき・詭弁家だったと言えよう。それだけでなく、20世紀世界における最初の「赤色テロリスト=大量殺人犯罪指令者」だった。

 

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通大量殺人指令と報告書

 

 

 2、「民主集中制」の虚構=宮本・不破・志位のウソ・詭弁とレーニン疑惑

 

 〔小目次〕

   1、日本共産党「民主集中制」略語=「中国共産党規約第十条」用語と同一

   2、「民主集中制」公式擁護論の虚構と詭弁

   3、レーニンの人格・人間性疑惑と宮本・不破・志位のウソ・詭弁

       1、〔レーニン〕の人格・人間性に多数の疑惑?

       2、〔宮本顕治〕にも多数の疑惑?

       3、〔不破哲三〕にも多数の疑惑?

       4、〔志位和夫〕にも多数の疑惑?

 

 1、日本共産党「民主集中制」略語=「中国共産党規約第十条」用語と同一

 

 日本共産党の規約は1925年の「コミンテルン模範規約」の引写しで、それに中国共産党の規約を加味したものである日本共産党の「民主集中制」用語は、中国共産党が「中国共産党規約第十条」において、使った用語と同一である。

 

 その後の若干の部分的変更はあるが、基本原理においてレーニン・コミンテルン型共産党規約として、崩壊した10ケ国の共産党、労働者党規約をふくめ、他の共産党と同一内容である。

 

 日本共産党は、共産党という名称変更拒否のみでなく、この前衛党概念放棄も拒絶する。そして14カ国の党と同じく、「一つの国には、一つの前衛党しか存在できない」という、コミンテルン以来の一国一前衛党理論に、今もなお固執している。

 

 日本一国の中では、日本共産党以外の政党、団体、個人は「科学的」真理を認識できないとする前衛党理論は、世界政治史の中でもっとも「うぬぼれた」政党イデオロギーといえよう。その「うぬぼれ」は認識論だけにとどまらず、党内、社会内における異論、批判者排除体質となり、独善的体質をつくりだす。

 

 世論調査で、日本共産党を嫌う理由として、「独善性」がいつも第一に上げられるが、その「独善」こそが、前衛党理論から必然的に生み出される組織体質なのである。前衛党としての日本共産党において、この民主集中制は、分派禁止規定と並んで、党内での垂直性組織原理として党内民主主義の発展を妨げ、官僚的中央集権制として機能してきた。

 

 党内のみでなく、1983年の「民主文学」4月号問題での干渉と異論者排除、1984年の「平和委員会、原水協」問題でのファッショ的干渉と異論者の大量排除こそ、民主集中制を傘下の大衆組織にも外延させ、党と大衆組織とを指導・被指導の関係に縛りつけようとした強権的策動であった。

 

 日本共産党規約の「民主集中制」略語は、中国共産党規約の引き写しである。日本共産党規約の「民主集中制」用語は、中国共産党規約第十条内の「党の民主集中制の基本原則」とその項目を、ほとんどそのまま引き写したものである。中国共産党は、レーニンの「democratic centralism」用語を、「民主集中制」と略語化した。

 

 中国共産党規約第十条 党は、自らの綱領と規約に基づき、民主集中制によって組織された統一体である。党の民主集中制の基本原則は、次の通りである。

 

 1、党員個人は党の組織に服従し、少数は多数に服従し、下級組織は上級組織に服従し、全党のあらゆる組織と全党員は党の全国代表大会と中央委員会に服従する。

 2、党の各級指導機関は、そこから派出された代表機関と党外組織における党グループを除き、いずれも選挙によって選出される。

 

 3、党の最高指導機関は、党の全国代表大会とそれによって選出された中央委員会である。党の地方の各級指導機関は、党の地方の各級代表大会とそれらによって選出された委員会である。党の各級委員会は、同じクラスの代表大会に対して責任を負うとともに、活動の報告を行う。

 

 4、党の上級組織は、常に下級組織と党員大衆の意見に耳を傾け、彼らの提出した問題を遅滞なく解決しなければならない。党の下級組織は、上級組織に指示を仰ぎ、その活動を報告する一方、独自に責任を持って自己の職責範囲内の問題を解決しなければならない。上級組織と下級組織の間では、互いに情報を知らせ合い、支持し合い、監督し合うようにしなければならない。党の各クラス組織は、規定にのっとって党務の公開を実行し、党員に党内の事柄をより多く知らせ、それに参加させなければならない。

 

 5、各級党委員会は、集団的指導と個人責任分担が結びついた制度を実行する。重要な問題に属するものについては、すべて集団的指導、民主集中、個別的な根回し、会議での決定という原則に基づいて、党の委員会で集団で討議して、決定をおこなわなければならない。委員会の構成員は、集団の決定と分担に基づき、着実にみずからの職責を履行しなければならない。

 

 6、党は、いかなる形の個人崇拝をも禁止する。党の指導者の活動が党と人民の監督のもとに置かれるよう保証するとともに、党と人民の利益を代表するすべての指導者の威信を守らなければならない。

 

    『民主集中制 - Wikipedia

 

 2、「民主集中制」公式擁護論の虚構と詭弁

 

 日本共産党の公式擁護論は、数多くの論文や宮本議長の再三にわたる「日本共産党は意見のちがいによる組織的排除をしたことは一度もない」という大ウソの断言を含め、どれをみても以下の3つの虚構に基づくまったく欺瞞的なものである。

 

    『なぜ民主集中制の擁護か』3つの虚構党内民主主義抑圧の党内犯罪事例

    『批判・異論者を封殺・濾過しつくす満場一致政党』

       61年第8回大会から50年間つづく党内民主主義封殺システム

    『分派禁止規定堅持の反民主主義政党』

       日本共産党常幹と党内犯罪=党内民主主義抑圧・粛清事件データ

    『志位・市田・不破が民主集中制を手放さない理由』トップ自己保身目的のみ

    『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム

 

 3、レーニンの人格・人間性疑惑と宮本・不破・志位のウソ詭弁・疑惑

 

 宮本・不破・志位ら3人連続独裁者のウソ・詭弁・党内犯罪事例だけでなく、彼らの経歴にも多数の疑惑がある。その一部について、リンクを載せる。レーニンの人格・人間性にもその疑惑がある。

 

 〔小目次〕

   1、〔レーニン〕の人格・人間性に多数の疑惑?

   2、〔宮本顕治〕にも多数の疑惑?

   3、〔不破哲三〕にも多数の疑惑?

   4、〔志位和夫〕にも多数の疑惑?

 

 1、〔レーニン〕の人格・人間性に多数の疑惑?

 

    山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて以下一部引用

 

 レーニンの生涯をふりかえると、どうしてもマキアヴェッリの言を思い出してしまう。

 「指導者というものは、結果で判断される。それゆえ、かれらは自分の権力を維持し、勝利をあげるように努めなければならない。それを成し遂げるためなら、どんな手段を用いても、それらが常に価値あるものと思われ、認められる」。

 

 レーニンは、ウクライナやヴォルガ流域の国民が飢饉で苦しみ叛乱に立ち上がらざるをえなかった一九二一年春でさえ、妻クループスカヤのために、物資を調達することを側近にこっそりと命じている。「スイス通貨で、小麦粉(できればライ麦粉)、ソーセージ、缶詰(出来合いの調理ずみ食品でなく)、肉、魚」などを購入するように依頼したこともある。「スイス通貨」など、一般のロシア国民は影も形も見たことがなかったにちがいない。

 

 クループスカヤのために靴ひも、丸いフランス・パンを頼んでもいる。もっと公私の混同が目立つのは、(親密な女性同志)イネッサ・アルマンドにかかわる便宜供与の命令である。亡命中の一九〇九年に始まるイネッサとの親しい関係については、最近になって秘密のヴェールがはぎとられた。

 

 レーニンが最後にイネッサに宛てた手紙(一九二〇年八月)には、カフカスへの転地保養を勧めているが、そこにはグルジア人のセルゴことオルジョニキーゼについての興味深い論評がある。「セルゴなら、休養も、日光も、おもしろい仕事も用意してくれるでしょう。彼はそういう段取りが何でもできる男です」。

 

 イネッサについての案件が党の同志に頼む性格のものかどうかは詮索しないにせよ、同志の価値をこの論評程度にしか見ない思考がレーニンのどこかに潜んでいたこと、そしてこうした特権的な便宜供与の依頼が国民の目から見えないところで頻繁に行なわれていたこと、などを指摘すれば十分だろう。また、首相としての資格で関係組織宛に、イネッサとその息子について、「私の個人的知り合いにつき、全面的信頼とできるだけの援助をされたし」と打電もしている。

 

 また、イネッサにわざわざブーツの寸法を尋ねる電話や手紙も有名である。その理由というのも、靴を「何足かもっていてほしいので」というものであった。これが単なる一個人の私信というなら、格別に意味もないつまらぬ私信にすぎない。

 

 しかし、内戦や干渉戦争で国民経済が破綻に瀕し、多くの民族が塗炭の苦しみに陥っている時に、親しい女性の私生活にここまで気が回ることも、レーニンの人間愛や美徳という次元で解釈されてよいものだろうか。

 

 実際のレーニンは、同時期に数えきれないほど多数の国民や少数民族を死に追いやっていたことを考えると、ヒューマニズムの信奉者というわけでもなかった。

 

 こうした面に限らず、最近の新史料に目を通すと、レーニンにはどこか成熟した大人としての風情が感じられない面があるのも事実である。レーニンは、弁護士助手として小さな窃盗事件(一八九二年)などの裁判書類を扱った二年間を別とすれば、四七歳で一九一七年の革命を迎えるまで、自分の力で生活の糧を手に入れるために働く経験をまったくもたなかった

 

 それでいながら革命が起きて権力の座につくと高級保養地で長期の休暇を過ごしたり、イネッサらの近親者たちに特権を与えることには躊躇を感じなかった

 

 この体質も、その後のブレジネフやゴルバチョフに至るソビエト・エリートに受け継がれている。レーニンにしても、スターリンやトロツキーにしても、共通していたのは、誰ひとりとして生活の資を得るために努力したことがなく、日夜汗を流して働いたこともなかったという事実である。言い換えれば、レーニンたちの生活や行動様式には、労働者階級と共通するものがなかったのである。

 

 それにしても、レーニンがロシア文化の根絶と知識人の追放を決めた一九二二年八月という時期は、病床のレーニンが妻の力を借りて、文字の書き方を再学習したり、小学生程度の計算問題を解こうとしたり、簡単な聞き書きの練習をしていた頃から二カ月しか経っていなかった。

 

 医師から12×7の計算をするように言われて、すらすらできなかった時期である。このような患者が知識人の追放、秘密警察の権限強化、コミンテルンの戦略戦術の決定など、世界とロシアの運命を左右する重大な決断を下したとは驚きである。

 

 レーニンは、あまりにも大きい権力の重圧に負けたのである。その死は、国民の真の幸福とは何か、などを具体的に考えたこともない職業革命家の死としては名誉あるものだったかもしれない。しかし、国民の未来に責任を負うべき政治家の死としては、栄光の輝きに欠けるのではないだろうか。

 

    『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』

       基本テーマに関するレーニンのウソ・詭弁7つを検証

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 2、〔宮本顕治〕にも多数の疑惑?

 

 彼に関する疑惑は、多いのでリンクで載せる。なお、〔妻・百合子疑惑1・2〕は、未整理だった特高データ宮本顕治著書データの発掘・整理を含み、〔宮本顕治疑惑〕を補強し、裏付ける内容となっている。

 

 「山田仮説」〔妻・百合子疑惑〕が歴史的真相なら、これは日本共産党戦前・戦後史ウソ・詭弁・隠蔽→美化犯罪暴露・証明する恐るべき根底的逆説になる。

 

    『「犬は吠えても歴史は進む」再取上げ=異様さと謎2つ』

        宮本顕治における二重恐怖有無と2つの恐怖相互増幅作用

        ()スパイ査問シーン全面否認正当性疑惑と小畑殺害実態の発覚恐怖

        ()検挙後の特高と秘密取引=「偽・非転向者」+百合子疑惑発覚恐怖

    『第1部2』スパイ査問事件における暴行行為の存在、程度、性質の真相

 

    『「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて』第1部、目次1〜4

        獄中での厚遇、中川成夫「聴取書作成不能」報告、他の疑惑

        山田仮説宮本顕治は「偽・非転向者」=特高協力者だった

    『「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて』=第2部目次5〜7

    『「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて』第3部、目次8・9

       〔妻・百合子疑惑1〕、転向文学者7人とただ一人だけ非転向党員の謎・原因

       〔妻・百合子疑惑2〕妻・百合子へも異なるタイプの極秘異例厚遇とその謎

 

    『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央レベルの活動

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派

 

 3、〔不破哲三〕にも多数の疑惑?

 

 彼に関する疑惑も、多いのでリンクで載せる。

 

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

    『「戦後革命論争史」に関する不破哲三「自己批判書」』

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』

 

    『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』

    『綱領全面改定における不破哲三の四面相』

    『インターネットHP攻撃政党』『掲示板発言者摘発・粛清政党』不破・志位の党内犯罪

 

    (不破哲三と中国共産党との関係経緯) 時系列別ファイル

    加藤哲郎『社会主義』中国という隣人共産党一党独裁民主主義以前の党治国家

    『不破哲三と中国共産党との関係経緯』

    『日本共産党と中国共産党との和解劇』1998年 wikipedia日中共産党の関係

    共産党『不破哲三議長の中国訪問』02年 『学術講演「レーニンと市場経済」』02年

    共産党『中国共産党との会談終了/日本の情勢について不破議長が発言』05年

    新日本出版社『不破哲三102冊』『日中理論会談で何を語ったか』06年

    日本共産党『不破哲三−「学術講演」内容』全文06年5月訪問

    しんぶん赤旗『不破所長−中国社会科学院で「学術講演」』06年5月記事

 

 4、〔志位和夫〕にも多数の疑惑?

 

 志位疑惑の内、2つだけ載せる。1彼の異様な党内出世スピード経緯疑惑、(2)1985年東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件これは「党中央青年学生対策委員」当時の党内犯罪である。

 

 彼は、(2)1985年東大院生支部粛清事件により、宮本・上田耕一郎・河邑赤旗記者と並び、院生支部だけでなく、東大学生支部・民青班・教職員支部壊滅させる張本人の一人になった。

 

 さらに、11994年、第20回大会「中央委員会報告」は、志位の党大会報告デビューだった。それは、丸山批判キャンペーンの総仕上げだった。この詭弁に満ちた丸山眞男批判報告により、宮本・不破と並んで、全国の学者党員怒らせ、大量に離党させる張本人の一人になった。

 

 〔小目次〕

   1)、彼の異様な党内出世スピード経緯疑惑

   (2)、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件1985年

       志位の「汚れた手」出自=「党中央青年学生対策委員」当時の党内犯罪

 

 1)、彼の異様な党内出世スピード経緯疑惑

 

 彼の異様な党内出世スピード経緯疑惑に満ちている。

 

    『志位報告と丸山批判詭弁術』志位の異様な党内出世経緯「汚れた手」出自

 

 このファイルは、1994年第20回大会における、志位書記局長「中央委員会報告」の一部『丸山眞男批判』内容の分析である。丸山眞男批判キャンペーンは、党大会前から13回にわたり大々的に行なわれ、その中心は、宮本・不破・志位3人だった。党大会では、志位報告が、丸山批判の基本をなしている。

 

 そのキャンペーンにおける3人の「詭弁術」揃い踏みは、〔添付資料〕にあるように、華麗なものだが、なかでも、志位報告は、書記局長としての最初の党大会報告における「詭弁術」事始めとなった。

 

    『丸山眞男批判キャンペーン』

 

 この志位委員長「詭弁術」事始めを、彼の党専従歴の中で位置づける。

 

 1980年、東京都委員会専従、都委員会勤務員(26歳)彼は、地区委員会専従を一度も経験していない()、315地区の地区専従は、あらゆる階層の支部を直接担当し、支部の実態を知る上での専従活動の第一歩の場である。

 

 ()、都道府県委員会専従は、一部「直属」支部担当をのぞいて、支部との直接的関係を持たず、専門部活動を通じての各地区委員会という一級下の中間機関にたいする指導・点検をする「党内管理部門」の任務を持つ。通常は、20歳代なら、最低でも、数年間、地区専従体験を経てから、都道府県委員会専従になる。

 

 1950、60年代ならともかく、80年代において、地区専従を経ずに、いきなり「党内管理部門」専従になるのは、きわめて異例なことである。なぜなら、彼には、それまでに、高く評価されるような、東京都レベルでの大衆団体・運動経歴、民青専従経歴、理論活動・発表経歴など、何一つないからである。

 

 それとも、宮本・不破体制には、「霞ヶ関官僚キャリア育成システム・27歳税務署長」と同じような、陰湿な「東大出・党官僚キャリア・システム」が、作動しているのか。

 

 1982年、中央委員会専従、中央勤務員・青年学生対策委員。4000人の共産党専従のうち、党中央本部には、党中央公報部の「中日新聞」への正式回答で、中央委員と勤務員が800人いる。

 

 それは、赤旗記者、社会科学研究所所員、新日本出版社社員も含む。彼が、2年間で、「党中央・青年学生対策委員」になったのも、異例のことだった。

 

 宮本顕治が、彼を、なぜそこまで引き立てたかは、下記の連続抜擢のやり方を含めて、一つの宮本顕治と志位和夫との個人的関係疑惑となっている。それは、彼が東大学生のとき、宮本家の家庭教師だったことである。党活動以外のプライベートな問題なので、書かなかったが、党本部専従800人のほとんどが知っていることなので、彼の経歴の一つとして確認しておく。

 

 1985年11月19日、第17回大会。同年7月から党大会直前まで、東大院生支部の『党大会・宮本勇退決議案』提出運動とそれへの粛清事件が発生した。そこにおいて、「中央勤務員・青年学生対策委員(31歳)志位和夫は、宮本顕治の直接指令を受けつつ、上田耕一郎副委員長、河邑赤旗記者とともに、粛清の先頭に立った。

 

 宮本顕治は、彼の粛清手腕、宮本擁護と宮本指示への絶対服従・遂行を高く評価した。

 

    『東大院生支部の党大会宮本勇退決議案提出への粛清事件』志位の「汚れた手」出自

 

 1987年、第18回大会。宮本顕治は、その論功行賞として、彼を「最年少の准中央委員(33歳)にした。さらに、翌1988年には、書記局員(34歳)に任命した。

 

 1990年、第19回大会。宮本顕治は、彼を「中央委員・新書記局長(36歳)」に超・超・大抜擢をした。

 

 1994年、第20回大会。宮本顕治は、彼に「党大会・中央委員会報告」をさせた。これは、志位和夫の党大会報告デビューだった。そこで、彼は、丸山批判キャンペーンの総仕上げとして、別ファイルで分析した丸山眞男批判報告をした。これは、彼にとって、「宮本無条件擁護、宮本絶対忠誠心」を発揮する二度目の舞台となった。

 

 一つは、東大院生支部の「党大会・宮本勇退決議案」提出での宮本擁護とあれば、手段を選ばない粛清を平然と行うという、1)実践面での党派性(=宮本盲従性)の証明である。志位委員長の「汚れた手」出自は、ここにある。

 

 ニつ目は、この丸山批判報告での、戦前における宮本中央委員の革命活動の栄光を、「すべて真理だった」として、そこで「4種類の詭弁」を駆使して、守り抜くという、(2)理論面での党派性(=宮本盲従性)の高さを、全党に披露した。

 

 かくして、彼は、「デビュー報告」で、いきなり、別ファイルにのべるような「詭弁術」を使いこなす手腕を見せた。そのレベルの志位和夫であれば、偉大な詭弁家宮本・不破に続いて、「綱領全面改定」という、新・委員長としての「デビュー仕事」を、立派になしとげられた。

 

 ただし、彼の理論水準をあまり高く評価するのも、彼の実態にそぐわないかもしれない。この「デビュー報告」については、別の評価が成り立つ。それは、宮本・不破が書いた「丸山批判」文の、たんなる「朗読者」にすぎなかったとする見方である。

 

    『志位和夫「党員5カ年計画」の欺瞞性と空想性』党員数の三重帳簿の欺瞞

 

 (2)、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件1985年

      志位委員長の「汚れた手」出自−「党中央青年学生対策委員」当時の党内犯罪

 

 これは、ファイル『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕における「4、逆旋回遂行のための4連続粛清事件」の第4全体の引用である。ただし、不破哲三の「語り口」のままにしてある。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

    4、逆旋回遂行のための4連続粛清事件

     第1ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件

        通称『ネオ・マル粛清』の『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』94年

        その一つ『上田・不破査問事件』1982年

     第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年

     第3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年 古在由重氏も粛清

     第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年

          志位委員長の「汚れた手」出自−「党中央青年学生対策委員」当時

 

 1、『宮本勇退決議案』提出、背景と、その粛清経過

 

 1985年7月、東京都委員会「直属」東大院生支部指導部が、同年11月開催の第17回大会に向けて、『宮本勇退決議案』を東京都委員会に提出した。『決議案』での宮本勇退要求理由は、1党中央委員会、とくに宮本議長は、1977年第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある、(2)敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。

 

 宮本批判の根底には、(3)第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、(4)ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮本路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見を反映していた。

 

 したがって、この問題は、()たんに党内民主主義の問題だけでなく、()日本におけるユーロ・ジャポネコミュニズム・先進国革命路線の継続発展か、それとも、()第14回大会以降の宮本逆路線か、という、1985年時点での路線選択問題の“劇的再提起”でもあった。しかも、その逆路線批判の最初の組織的表れだった。

 

 院生支部は、規約に基く正規の提出スタイルを求め、中央委員会と1回都委員会と2回協議し、(不破)にも「質問書」を提出した。

 

 9月、党中央は、支部にたいして、「1)大会議案は提出できる、2)提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答をした。

 

 10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人にたいして、4人が立候補した。結果は、宮本勇退派1人、党中央派1人で、党中央の裏側での、強烈な、勇退派落選工作は失敗した。しかも、投票内容は、宮本勇退派Y23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。

 

 全学支部総会は、東大大学院各学部支部から選ばれた代議員60人で構成されていた。そこでの得票率は、事実上、院生党員全体の60%が『宮本解任・勇退』を要求していることを示すものだった。

 

 宮本氏と側近グループは、落選工作の目論見が外れて、大いにあわてた。なぜなら、その1人・Yが、「代議員個人」として、まず都党会議で、その『決議案』を出すことは明らかだからである。しかも、党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していた。

 

 7月から10月にかけての、3カ月間にわたる、公然とした、合法的な『宮本勇退決議案』提起運動は、共産党の大学組織の特徴から、教職員支部、院生支部と学生支部の、この『決議案』問題に関する情報交流が、強い関心と共感、暗黙の支持の下になされていた。

 

 大学内3支部間の情報交流、共同行動は、1970年代の学部封鎖と封鎖解除作戦という“非常事態”で証明されている。それは、「安田講堂封鎖」以来の、東大全学共産党3組織にとっての“非常事態”であった。

 

 しかも、今度は、封鎖をどう解除するかという受身ではなく、自らが作り出した“宮本逆路線批判への決起行動”だった。60%もの『宮本解任・勇退』得票率は、院生党員内だけでなく、東大全学における宮本逆路線批判の強烈度合いと、その共同意志をも示すのではないかという、“今そこにある危機”を浮き彫りにした。

 

 都党会議でのY代議員提案を許せば、公然とその討議をせざるをえず、一大問題、スキャンダルとなり、党内外への影響も計り知れなかった。宮本氏にとって、そのような屈辱は、だんじて認められなかった。また、Y代議員は、第17回大会代議員にも、「機関推薦立候補」する意志を申し出ていた。

 

 事態は、まさに、()東大全学60%の宮本批判をバックにして、『宮本解任・勇退決議案』討論が、都党会議だけでなく、第17回大会まで行ってしまうのか、それとも、()あくまで、「宮本擁護、宮本逆路線推進=ユーロコミュニズムとの絶縁路線」のための「非常手段」を採るのか、という“危機管理上の選択”となった。

 

 そこで、宮本氏は、躊躇せず、()の選択肢を選んだ。いかなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの「代議員権」剥奪することを決意し、指令した。

 

 11月5日、東京都常任委員会は、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」と、でっちあげた。(1)直ちに、その5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。(2)さらに、査問中=権利停止中であることを理由として、勇退派・Yの「代議員権」を剥奪した。

 

 11月11日、都党会議が開かれた。そこでは、上田同志が党中央を代表して、「“宮本氏がでっちあげた”Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する、大演説をした。その上田同志の“宮本忠誠派ぶり”のY・伊里一智批判に幻滅を感じて、それ以後、“上耕人気”は急速に低落した。

 

 11月19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、その経過を書いたビラを配った

 

 1986年1月、党中央は、伊里一智査問し、除名した。

 

    ブログ『伊理一智=石村多門に関する情報・コメント』多数、米原万理査問・離党

 

 2、この粛清事件における志位「青年学生対策委員」と河邑赤旗記者の役割

 

 この粛清では、志位和夫同志河邑重光幹部会委員・赤旗記者が、“大活躍”した。

 

 志位君は、当時の肩書きが、「党中央・青年学生対策委員」であり、彼は、この粛清の先頭に立った。15人査問、権利停止処分と、(2)代議員権剥奪を、直接担当した。宮本氏との直通ルートで、ひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、彼らの『決議案』を、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」ときめけた。

 

 河邑記者は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」「ビラまき男」とする“宮本氏が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。そして伊里一智思想的・人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して、一躍名を挙げた。その記事は、当然ながら、宮本氏の事前の、個人的校閲を直接受けていた。

 

 宮本氏は、従来から、自分にたいする批判者排除党内外からの宮本批判への反論記事内容については、細部にわたって、直接、指示・点検・事前校閲するのが、ならわしだった。

 

 河邑記者は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮本逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化してしまった。実に“赤旗・ペンの力は偉大である”

 

 1977年第14回大会以来の宮本逆旋回路線批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、1)志位君(2)河邑記者の、宮本直接指令を受けた、大奮闘によって、「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。

 

 志位君河邑記者2人こそが、宮本ボディガードに自ら立候補して、宮本氏を“今そこにある危機”から救出したのである。上田同志も、その一翼を担ったが・・・・・・。まさに、手に汗を握るような“危機管理ドラマ”であった。

 

 東大大学院支部粛清怒って、多数の党員が離党した。私(不破)が、「兄」をこのように名指しで、直接批判するのは、心苦しい・・・・・・。しかし、この粛清への「兄」の加担は事実なのでやむをえない。

 

 志位君と河邑記者2人は、宮本秘書出身ではなかった。しかし、宮本擁護のための、1)手段を選ばない粛清手口と、(2)記事ねつ造手口は、「宮本秘書団」よりも、その忠誠度が高かった。“子飼いの秘書たち”以外に、このような若手の忠誠派は、宮本氏にとって、“愛すべき次期側近グループ候補”と映ったのである。

 

 フルシチョフを始め、スターリンの側近たちは、全員が、1930年代後半における大テロルでの大量、陰湿な密告・粛清手口をスターリンに認めてもらって、大抜擢された。

 

 一党独裁・党治国家内だけでなく、非政権の「官僚主義的中央集権制」=党内民主主義抑圧・破壊政党においても、トップ認めてもらい、党内出世スピードを高めるには、1)手段を選ばない粛清手口と、(2)記事ねつ造手口こそが、最高の選択肢であることを2人は証明した。

 

 宮本氏は、志位君をその論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(36歳)」に“超・超・大抜擢”をした。

 

 志位君は、宮本氏から、“宮本擁護とあらば、1いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、(2)それに基く粛清をも手がけ(3)「汚れた手」になるのも、いとわない、(4)最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマン”と、「お墨付き」を頂戴した。

 

 第20回大会では、河邑記者を「常任幹部会委員」に抜擢した。かくして、宮本解任・宮本老齢化による退陣を要求する党内意見、マスコミ勧告撃破するために、宮本−不破−志位の重層的指導体制という日本語を“造語”して、大々的に宣伝した。

 

 余談になるが、それでは、私は、40歳の若さで、書記局長に、なぜ異例の大抜擢をされたのか。それは、全党員もよく知っているように、志位君と違って、私は、「宮本擁護のための、手段を選ばない粛清手腕」で評価されたわけではない。

 

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 これら一連の表裏抑圧・鎮圧作戦は、宮本氏と側近グループによる『日本共産党の逆旋回』と規定できる。その結果、わが党は、“マルクス・レーニン主義をほぼ100%原形保存した資本主義国唯一の前衛党”として、21世紀においても、生き残っている。

 

 今日の私(不破)の報告を聞いて、自己弁明、または宮本氏への責任転化ばかりで、私の自己批判が足らないと思われるだろう。宮本私的分派についての報告を〔秘密報告〕スタイルでなく、正式に発表するときには、それぞれの粛清事件における、委員長としての私の関与の度合と、それらに関する自己批判も、きちんと報告するつもりでいる。

 

 

 3、「官僚主義的中央集権制」政党と党内外犯罪データ

 

 日本共産党の創立は、すでにスターリン独裁時期だった。そのため、戦前・戦後を通じ、一貫して「官僚主義的中央集権制」政党だった。宮本・不破・志位ら3人連続独裁者が違法に強行した党外国民運動妨害・分裂事件データは無数にある。党内民主主義抑圧・粛清事件データも無数にある。

 

 〔小目次〕

   1、戦前における党外国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

   2、戦後における党外国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

   3、戦後における党内民主主義抑圧・粛清事件データ

 

 1、戦前の国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

 

 戦前は、コミンテルン日本支部だった。これは、スターリン路線隷従した「官僚主義的中央集権制」の国際共産党日本支部である。日本支部は、スターリンの「社会ファシズム理論」に基づいて、日本国内の全赤色運動を社会ファシズム=社会民主主義政党・団体との闘争・壊滅」に集中させた。

 

 そこから、日本共産党が指導する運動・団体以外の国民運動・反戦平和運動妨害・分裂事件を全分野において引き起こした

 

 共産党が指導し、傘下の運動・団体すべても、反民主主義・上意下達の「官僚主義的中央集権制」に貫かれていた。それらの運動・団体も、非公然・地下の党中央指令に無条件で服従した。そして、社会ファシズム=社会民主主義政党・団体の運動壊滅・分裂させるべく、襲い掛かった

 

 日本軍部・ファシズムとの闘争は、スターリン理論・命令により、最優先課題でなく=中心任務でもなかった

 

 志位が、「戦前、日本共産党は一貫して反戦平和運動をたたかった」と宣伝するのは、歴史事実と反対で、真っ赤なウソである。戦前日本共産党史を偽造歪曲・隠蔽している。一時的軒下雨宿り先に共産党を選択した有権者は、ウソつき・ペテン党首志位騙されている

 

    (30年代の共産党史−国民運動・反戦平和運動破壊・分裂犯罪内部崩壊原因)

    『日本共産党90周年の根本的な逆説、第1期』ソ連支配下の反国民的隷従政党

    『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』戦前共産党史の偽造歪曲

    『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

    渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

    田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

          『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

    伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

    (戦争責任論)

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     石田雄  『「戦争責任論の盲点」の一背景』

 

    (加藤哲郎HPファイル)

     加藤哲郎加藤HP  『日本共産党の70年』と日本人のスターリン粛清

           1922年9月の日本共産党綱領

           国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学

           第一次共産党のモスクワ報告書

           「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書

           「32年テーゼ」と山本正美の周辺

 

 2、戦後の国民運動・反戦平和運動妨害・分裂犯罪事件データ

 

    『日本共産党90周年の根本的な逆説、第2期』ソ中両党支配下の隷従政党

 

 テーマは膨大で、多数のファイルがあるが、〔大目次〕だけを載せた。

    (逆説の戦後日本共産党史)

    1、朝鮮戦争と武装闘争路線 2、白鳥事件 3、ーデー事件 4、吹田・枚方事件

    5、大須事件 6、山村工作隊 7、50年問題 8、49年問題 9、シベリア抑留

    10、スターリン批判・ハンガリー事件

 

    (共産党原子力政策の誤り・批判)

    『核・原子力問題にたいする共産党3回目の誤り』()1963→()1984→()2011

       運動・理論面での反国民的な分裂犯罪史

    長島功『日本共産党の原子力政策の批判』

      「原子力の平和利用」路線堅持→「原発ゼロ」「原発からの撤退」

      「反原発」「脱原発」は「平和利用」拒絶=反科学だ排斥→分裂路線

    加藤哲郎『日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか』共産党批判と資料

          『反原爆と反原発の間』

             日本マルクス主義から、なぜ高木仁三郎や小出裕章が生まれなかったか

          岩波現代全書『日本の社会主義ーー原爆反対・原発推進の論理』

             第七章 平野義太郎と日本共産党の「平和利用論」

               1 講座派の論客から「大アジア主義」を経て日本平和委員会会長

               2 共産党の六一年綱領と「原子力の平和利用」

               3 原水禁運動を分裂させた共産党の「社会主義の防衛的核」

               4 脱原発運動に反対した共産党の「平和利用」の論理

    不破哲三『「科学の目」で原発災害を考える』原子力発電は未完成→原発からの撤退

    志位和夫『第2次提言−3、原発技術は未完成』→原発からの撤退、原発ゼロ

    上田耕一郎『ソ連核実験と社会主義の軍事力の評価』ソ連核実験は防衛的と支持

 

    (北朝鮮支援・無批判の反国民的犯罪問題)ファイル多数

    『北朝鮮支援・無批判の反国民的犯罪組織=日本共産党の本質』

 

    (憲法改定問題)

     志位共産党「一点共闘」主張の欺瞞共産党批判学者排除・共闘拒否

     「この指とまれ」共産党支持団体のみを集めた「ペテン共闘」=「革新懇

    『4・14神戸護憲集会と共産党の拒否・不参加問題』

        参加要請→共産党拒否・不参加回答→再要請→共産党黙殺

        共産党・志位和夫の対応−自主孤立・国民運動分裂政党

    Looper『神戸討論集会の報告(3)参加者150人、広原報告内容も

 

    (平和共同候補実現運動、それへの共産党の敵対方針)

     志位共産党「一点共闘」主張の欺瞞共産党批判政党・批判者排除・共闘拒否

     セクト的排他的誤り→セクト的分裂策動

    『「平和共同候補」実現運動への共産党の敵対と詭弁』護憲・活憲勢力の選挙戦略

    『護憲・活憲運動における共産党のセクト的対応』セクト的排他的誤りの事例集

    『共産党が護憲・活憲運動内で行う排他的言動の検討』共産党のセクト的分裂策動

 

 3、戦後における党内民主主義抑圧・粛清事件データ

 

 宮本・不破・志位ら3人連続独裁者たちは、「官僚主義的中央集権制」政党トップとして、党内民主主義抑圧・破壊し続け無数の粛清事件を引き起こした。その党内犯罪データにたいし、偽造歪曲・隠蔽したままである。偽造歪曲→美化した日本共産党史だけを宣伝している。

 

    〔抑圧・粛清1〕、党大会に向けた水平発言・横断的抗議行動への粛清

    〔抑圧・粛清2〕、専従による公式会議・文書での垂直発言・他行動への粛清とその論理

    〔抑圧・粛清3〕、学術論文・出版物・文学作品における発言・抗議への粛清

    〔抑圧・粛清4〕、労働運動・青年運動・平和運動での発言・抗議への抑圧・粛清

    〔抑圧・粛清5〕、インターネット掲示板発言にたいする粛清手口=査問・除籍

    〔抑圧・粛清事例の総件数とその本質〕

 

                       以上  健一メニューに戻る

 〔関連ファイル〕

   二〇世紀社会主義を問う

   1、レーニンの連続クーデター 2、レーニン1917・10 3、レーニン1918、19

   4、レーニン1920、21 5、レーニン1922 6、『国家と革命』

 

   共産党の組織体質=3人の体質、粛清システム

   1、組織・体質 党財 志位和夫 不破哲三 宮本顕治 2、民主主義的中央集権制

   3、世界のコミンテルン型共産党現状 4、粛清・査問 5、逆説の90周年党史

   6、逆説の戦後党史 7、逆説の戦前党史