ヘゲモニー思想と変革への道

 

革命の世紀を生きて

 

石堂清倫

〔目次〕編集部前書き

    はじめに  石堂氏略歴

    第一章 ヘゲモニー思想の新しい展開

    第二章 ビスマルクと社会国家

    第三章 帝国主義下のヘゲモニー ――ガンディーの教訓によせて

(注)、これは、 『世界、1998年4月号』(岩波書店)に掲載された、石堂清倫氏の上記題名論文の全文です。このホームページに全文を転載することについては、石堂氏のご了解をいただいてあります。

  編集部前書き

ロシア革命から八〇年――。冷戦の終わり、東欧の体制変革、ソ連邦解体、中国の市場経済への移行、などにより、かつての社会主義の栄光はますます色あせて見える。

その一方で、植民地主義の暴力性が明るみに出され、深刻さを増す環境問題など、近代化にたいする信頼が揺らぎ、世界的に加速されていくグローバル資本主義は、新たな人間疎外の現実を露呈させていく。

確かに二〇世紀を革命への狂熱で彩ったスターリニズムは破綻した。その一方で、混迷を極める現代社会を変革し、高度資本主義を批判する可能性の思想として、今日的視点から社会主義を再検討する必要性が、高まつているのではないだろうか。

石堂清倫氏は、時代の荒波に翻弄されながらも、二〇世紀を社会主義の研究・紹介と、社会変革をめざして社会運動の実践に生きた、名実ともに<革命家> である。

世紀転換期の今、現代文明のエポックを問い直し、新たな時代の航路標として、日本人にむけて書き下されたメッセージ七五枚。   (編集部)


はじめに
 スターリニズムが最大の勢成をふるったのは第二次世界戦争以後のことである。ヒトラー・ドイツを軍事的に破り、反ファシズムと平和擁護の世界的な闘士として尊敬されたのである。私たちがそのスターリニズムを極力宣伝した責任はきわめて重いが、晩年の彼の言説には混乱と矛盾が現われ、いわゆるマルクス−レーニン主義が万全の理論でないことが感じられはじめた。彼の没後、ソ連社会主義が実は発展しておらず、国をあげて強制収容たらしめたテロル支配の実態が明らかになった。ロイ・メドヴェーデフのスターリン批判は、われわれの目をひらいたが、それはまだスターリン理論の根底にたいする批判にいたらず、まもなくソ連はネオ・スターリニズム支配に逆行した。

 スターリニズムの哲学は、機械的決定論とその補完物としての恣意的主観主義であることは、多くの人びとがはやく気づいたが、その欠陥をあばき、積極的にマルクスの上部構造論を精密化したのは五〇年代以降のグラムシ文献の普及によるところが大であった。ただグラムシ思想は、はじめはレーニン主義の発展として紹介された関係から、レーニンをさえ超えて、上部構造における支配=強制と指導=同意の結合、さらに進んで高度の知的・道徳的指導をつうじて、多様な同盟者との妥協による社会的ブロック、彼の言葉を借りるなら「歴史的ブロック」を形成するへゲモニーカの理解に達しえたのは、ヴァレンティーノ・ジェルラターナ編『獄中ノート』校訂版刊行いらいのことである。

 彼の『獄中ノート』は、客観的に読めば、ソ連共産党とコミンテルンの基本理論とそれにもとづく実践のひろい範囲にわたる批判なのである。それは史的唯物論のマルクス的展開から、カタストロフィズムにもとづく制度変革にたいし、市民社会が政治社会を吸収する歴史過程にいたるまでの新しい行動の提案であった。たとえば、労働者階級ヘゲモニーは、国家権力が変革される前に発展させられなければならないという命題は、コミンテルンが故なく信条とした改革の当面性に反対し、まだ成長の余力をもつ資本主義のもとでの変革の条件としてのプロレタリアート自体の知的−道徳的改革を提唱するものであった。

 フランス革命以来労働者階級が歩んだ過程はグラムシによって解釈し直され、幾多の重要な解釈範疇は、過去の説明であるだけでなく、グラムシの生時とは大きく変化した今日の状況のもとでも分析の道具となり前進の道標ともなつている。それは彼の思考が歴史を貫通する力をもっていたからであろう。私はその意味で彼の根本思想であるヘゲモニー論にもとづいて世紀の変り目の今日の世界を考えて見ようと思った。もとより粗雑な一般論であろうが、これによってグラムシがもっと注意されることがあれば幸いである。   (石堂清倫)

いしどう・きよとも 一九〇四年、石川県生まれ。二七年東京帝国大学文学部卒。在学中東大新人会に入り、日本共産党に入党し、二八年治安維持法で検挙。三三年転向し三八年まで日本評論社に勤め、三八年満鉄調査部に入社して大連に渡り、大連図書舘などに勤務。四三年満鉄調査部事件第二次検挙で逮捕、四五年懲罰応召、敗戦を関東軍二等兵としてハルピンで迎え、大連に戻った後、四九年まで労働組合で働く。帰国後日本共産党に入り、六〇年頃離党。七七年には荒畑寒村らと運動史研究会を結成し、『運動史研究』(全一七巻)を刊行。グラムシ研究会を創立、グラムシ思想の普及に努める。おびただしい訳書以外の著作に『わが異端の昭和史』(正・続)『異端の視点』『中野重治と社会主義』『大連の日本人引揚の記録』等がある。


 第一章 ヘゲモニー思想の新しい展開

〔目次〕、1、日本の中国侵略戦争の教訓

     2、「福祉社会」下の社会主義運動

     3、共産党から左翼民主党へ

     4、レーニンを超える思考を

     5、非暴力の思想と「新しい思考」

      

 日本の中国侵略戦争の教訓

 第二次世界戦争は世界史におけるひとつの転折点であったといわれる。その一方の主役である日本の、十五年にわたる中国侵略について、戦後いくたの研究がなされ、日本帝国主義の特殊侵略的な性格に反省が加えられたことは事実である。その一方で、歴代の内閣閣僚が戦没者の英霊を慰めると称して、靖国神社に示威的に参拝していることに象徴されるように、形をかえた侵略思想が維持されていることもまた事実である。

 一九三一年九月一八日に始まる満洲の軍事占領の結果として、カイライ国家満洲国が建設されたとき、軍部はこれを王道楽土と称した。満洲は実態としては軍事国家であったが、侵略当事者が「王道」、すなわち道徳による統治の看板をあたえたのは痛烈な皮肉であった。われわれの世代のものは、軍民を問わず、青年期に儒教的教養を身につけている。孔子や孟子を大なり小なり読んでいるのである。その孟子は、武力統治を覇道として斥け、道徳による統治を王道として尊重した。関東軍首脳の人びとは陸軍幼年学校、士官学校、そして陸軍大学で何回も王覇の別を教わったはずである。彼らが何ひとつ学ばなかった例はこれだけでなく、とりわけ、教科として重視された孫子や呉子の兵法に反する戦略をとりつづけて敗戦に至ったこととあわせて、よく記憶すべきことであろう。

 ついでに言えば、政治における理と力は孟子に始まるわけでなく、彼より三世紀も前にすでに墨子にその兼愛説にもとづく「非政」すなわち戦争反対論の一節がある。孟子や墨子ほど有名でないが後漢の王充(二七−七七?)の『論衡』巻十に、国を統治するには第一に徳を養い、第二に力を養うことであり、徳を尊ぶならば戦うことなしに同意させることができるという一節がある。

 日本人のあいだに普及していた王覇の論が道徳的・倫理的同意形成の政治理論に発展しなかった経過は別に論じなければならないが、このヘゲモニーの事実は日本の中国侵略戦争の経過でも見聞することができたのである。とくに三〇年代後半の日本軍と中国軍との交戦が、しだいに後者に有利に傾き、時がたつにつれ中国軍が個々の会戦に勝利していることをわれわれは知っていた。国民政府軍と人民解放軍との内戦段階では、それがいっそう際だつようになった。勝利がたんに軍事技術的に得られるだけでなく思想戦としても展開され、戦闘開始以前に「民心」がすでに解放軍に集まっている状況が新聞報道をつうじてよくわかった。ただ、われわれにはそれを道理と暴力の弁証法として理解する力がなかった。国内に居たものもそうであろうが、中国から帰還した兵士たちはもちろんのこと、居留民たちも、軍事に従属した日本の政治しか知らないものが、新しい中国に生まれている「軍事を自己に従属させる政治」に触れて何を感得したであろうか。

 三〇年代の末に、中国各戦線の指揮官たちがもはや軍事的成功の展望をもてなくなったとき、満鉄調査部が、おそらく支那派遣軍総司令部の内面的示唆に応じて、「支那抗戦力調査」として中国の抗戦能力を分析したことを想起したい。その結論は、日本と中国の関係問題はもはや軍事的には解決の可能性はなく、政治的に打開する外はないということである。新しく政治的外交的に中国と交渉を開始するには、当然の前提として、日本軍部隊をすべて中国から引きあげることが含意されていた。言いかえればこれまでの軍略を新しい政略に従属させることがその前提であった。軍内部にはこの選択を期待する状況があったにもかかわらず、どのような機微の逆転によるかまったく不明であるが、東條英機らの強硬派の主動によって満鉄調査部関係者の大量検挙のような奇襲によって、軍略が政略を圧倒した。しかし、十五年戦争における軍部は、日露戦争時代とちがい統帥権の独立の建前から政治を軍事に完全に従属させていたのであって、このことは『統帥綱領』(一九四七年復原版)の解説が、国家戦略不在のせいぜい野戦軍レベルの戦術の硬直した形式化にとどまり、クラウゼヴィッツが戒めた「依法主義」(Methodismus)に囚われていたのである。その結果、わが陸軍が養成した将帥は、せいぜい方面軍の指揮官にすぎず、国家の運命を左右する国軍の指揮官は生れる由もなかった。(クラウゼヴィッツ生誕二百周年記念論文集『戦争なき自由とは』五二五頁)。軍事思想の根幹がそうであったから、「調査」を局面転換の一手段として利用することは結局失敗したのであろう。

「福祉社会」下の社会主義運動

 第二次世界戦争後の世界情勢を、まったく新しい眼で観察しなければならないことを、少なくとも経験的にわれわれは知ることができた。しかしそれだけでは理解しがたいことが多いのであって、とくに帝国主義と社会主義との関係を知るためには、われわれ自身の認識を改める必要が生じてきた。そのことをわれわれに痛感させたのは、ソ連邦におけるペレストロイカの事業である。それは危機状態にあるソ連の再生の方策であるばかりでなく、その基調にある「新しい思考」がわれわれの社会生活に直接に関係ある多くの問題を指摘したからである。

「新しい思考」の現れのひとつである平和共存の問題がある。社会主義が帝国主義にたいして同じ力の基礎に立って交渉するのは、一時的妥協としてはわかるが、いずれは一方が他方を倒さなければならない両者のあいだの特殊な「階級闘争」であるという立場は今では維持できない。「新しい思考」は、両者は敵味方の敵対陣営にあるのではなく、同じ船に乗り合わせた乗客の協力関係であるという。これは伝統的階級闘争理論を否認するものである。現に平和共存論は帝国主義の本質が不変であるから支持できないとする、反対論が有力であった。それにたいしてゴルバチョフは、核兵器出現いらい人類は戦争によって共滅の運命に立たされている、そこには勝者も敗者もない、人類の存在を願うならば陣営間の壁をとり除き共生のための条件を「対話」によって作りだすことが世界政治の第一義になった、と言う。ここで思考と行動の基準を一変しなければならない。彼は、世界政治のパラダイムそのものの変換が焦眉の問題になったと言う。広島と長崎の惨劇を体験したわれわれ日本人は、そのことに同意せざるをえない。世界はオーバーキルの装置を抱えており、スターウォーズの計画さえ聞かれる今日だからである。

 しかし、話が国内の階級闘争になると容易には肯定できない難問題が生じてくる。共産主義者のあいだに、階級闘争を協調に変えるのは改良主義への堕落であるとの異議が、とくにわが国では有力である。ソ連邦は外交政策上の必要から各国の階級闘争の抑制を要請していると言う人もあった。その議論に入る前に、資本主義諸国における階級運動の変化を顧みる必要がある。

 そのひとつはドイツにおける戦後労働運動の推移である。西ドイツでは東ドイツとその背後のソ連邦との対抗にかなりのエネルギーが注がれ、それだけアメリカ帝国主義にたいしては寛容であったが、それは一応捨象しておこう。西ドイツの労働者には、ビスマルク時代からワイマール共和国を経て「社会国家」をつくりあげた経験がある。革命運動に帰結する闘争によって階級対立を解決する段階を越え(階級国家の超克)、ワイマール共和制のもとでケインズ的−社会民主主義的妥協をつうじて、市民生活の保障と階級矛盾から生ずる社会的不平等をなくすための条件が一歩一歩つくりだされ、「福祉社会」が現れているのであっで、福祉は「フォード的・ケインズ的生産様式のもう一本の足」だと考えられている(G.Buffo,M.Paci,B.Trentin "Stato sociale e lavoro" in Critica Msrxista NO.1.1997)。現代ドイツでは階級間の闘争ではなしに、民主主義的話しあいによって(共同決定によって)解決する方式がおこなわれている。ドイツ社会民主党は労働者の生活擁護のために努力するけれども、党はプロレタリアートの党ではなく国民の党(Volkspartei)になったと言う。言いかえれば党は体制に統合されているのであって、体制の変更を企てるものではない。民主主義的な改良の方法と手段によって社会生活の質はかえられるからである。ドイツ社会民主党にとりマルクス主義は、キリスト教、古典哲学、啓蒙思想とともに継承する思潮のひとつになっている。以上のような立場から一九五九年のバードゴーデスベルク綱領がつくられた。綱領はそのあと改訂されているがその基本的立場は変わっていない。フランスやイギリスの労働運動も、方向としては似たものである。主要な資本主義国のうち、イタリアの経験は特筆にあたいする。

 共産党から左翼民主党へ

 戦後のイタリア社会主義運動は、もっとも早くソヴエト・モデルから脱却し、社会主義への国民的な道をつくりあげるために努力し、他の資本主義諸国の運動にくらべて、より前進をとげたように思われ、われわれの注目をひいてきた。半世紀前に分裂した国際社会主義運動を統一する役割をもったユーロコミュニズムの提唱もそのひとつである。わけても六〇年代以後わが国にもアントニオ・グラムシの思想が紹介され、教条化されたマルクス主義を再生する契機として期待されている。そのイタリアで、八〇年代に入り、左翼運動が後退をはじめたのである。その経過は日本ではよくわからなかったが、それがイタリア一国の特殊現象ではなく、世界共産主義運動全体の退潮を象徴する歴史的事件なのであった。

 資本主義世界で最大最強のイタリア共産党が、深刻な危機に陥り、そこからの再生の道を、左翼民主主義党の創立に求めた。それは第二次世界戦争後とくに明らかになった世界史的変化のなかで、歴史的共産主義が一挙に崩壊したことを意味する。われわれはこの現象に当面して、伝統的な思考では対処することができなかった。それはいったい何であったか。ことによると「諸勢力のこれまでの構成を実際に漸進的に変化させ、新しい変化の母体となるべき分子的変化」が蓄積され、それが各国に同時に顕在化したのではなかろうか(Q15§11「マキァヴェッリ」、邦訳、三一書房版『獄中ノート』一三○頁)。グラムシが「受動的革命」について示した解釈をいまや新たな解釈基準としてとりあげるべきでなかろうか。

 もともと受動的革命とは、イタリア・リソルジメントの特殊現象と考えられていた。ガリバルディら行動党の急進的、ジャコバン的、革命的な運動が、カヴールら穏健派の改良主義の小さな波に吸収され、いわば革命なしの革命に帰着したことを指すのである。ところがグラムシはこれをより一般的に、フランスの王政復古にも、ファシズム運動にも適用しうる解釈範疇に拡大したのである。日本の自由民権運動が国権主義に吸収されていった過程、一九一七年革命がスターリン時代の上からの革命に変革していった過程もそのヴァリアントと考えられないわけでない。

 グラムシは、どのような社会構成体も、その内部でまだ生産力が発展してゆく余地をもっているかぎり消滅しないであろうというマルクスの提言(『経済学批判・序言』の命題の言いかえ)にもとづいて、社会がまだその段階にあるのに、資本主義の急激な没落を前提とするコミンテルンの戦略に批判的であった。一九四八年型の「永続革命」方式と異なったヘゲモニー運動を重視し、その基盤における妥協と改良の表現としての「分子運動」、小さな波の重要性を説いたのである。分子運動は、一九三一年後半にJ・ジーンズやJ・P・エディントンの著書のフランス訳から着想したものと思われ、ブルジョア的ヘゲモニーに見られる、微細な、伝統的革命定型と異なった運動のメタファーとして用いた言葉のようである。それを無視し、それとたたかわないうちに、ある日突如として「急進的で破壊的な大変動」が出現した。それにたいしては「新しい思考」によって対応するほかはないのであろう。これが共産党から左翼民主党への転化からうけたわれわれの印象である。変化が「分子的」に生じたとすれば、それが伝統的政治理論によって説明できる現象でないことを意味する。東ヨーロッパの諸「社会主義」体制が、いかなる政治勢力の介入もなしに、いわば自然に消滅したことは、われわれの常識である政治論で解釈できなかった。ここから政治についての理解そのものを検討しなければならなくなった。これからの社会運動とその組織もまた根本から考えなおす時期がきたのである。

 ドイツ社会民主党の運動とイタリアの共産主義運動は、すなわち第二インタナショナルと第三インタナショナルの歴史的対立を代表する二つの勢力であったが、こうしてほぼおなじ次元で交わることになった。帝国主義陣営に対抗する社会主義陣営の中核であるソ連にも深刻な変化が生じていた。スターリン批判により明らかになったように、ソ連社会主義がじつは一種の全体主義にとどまり、ソ連社会はまさに歴史的危機を迎えていることを自覚したゴルバチョフは、こうした新しい世界史的出来事を視野にいれて、彼なりの総合的判断をくだして「新しい思考」の必要に到達したのであろう。

 世界の革新運動が、期せずして「新しい思考」を必要とする一点に収斂(しゅうれん)しようとしていることはけっして偶然ではない。しかしこの思考が簡単な手直しによって生まれるのは困難である。古い思考の惰性はなおわれわれの前進をおしとどめようとする。党名を改称したイタリアの左翼民主党は、もはや革命の党、階級の党とは称していない。改良の党なのである。しかしそれが在来の改良主義と混同されることを避けて、わが国でも改革者の党と訳している。改革も改良も原語はおなじリフォルマである。共産主義者が何十年ものあいだ社会民主主義者の改良政策を非難してきたのは事実である。だが過去の時代の改良と新しい時代の改良には連続の一面もあるが断絶の一面もある。とりあえず「強い改良」、「戦闘的な改良」などの形容詞によって区別しようというところである。しかし問題は改良・改革にとどまらず、運動全体が問われているのである。その一例として不破哲三氏の見解をとりあげてみたい。

 レーニンを超える思考を

 不破氏は全人類的価値はプロレタリアートの利益に優越するという出発点に反対している。社会発展の原動力である階級闘争を抑制する反歴史的な結果を招くというのである。氏の見解は『「新しい思考」はレーニン的か』にあらわれている。この著書の刊行は一九八九年であり、その後ソ連邦国家、ソ連共産党が一瞬にして消失した。ゴルバチョフもただの人になった。ロシア革命の歴史的意義もそのなかでのレーニンの役割も、論者によって大きく変わる。

 だが、当時氏の依拠したレーニンの論説に欠けた文献もある。たとえばあとで述べる一九二一年七月二一日の演説を氏はどう評価されるかが問題である。一九二一年のレーニンはそれ以前とは区別すべきであり、それ以後のものは新しい光のもとに理解されることが可能である。現にグラムシはこの年を世界的な「運動戦」から新しい「陣地戦」方式への転換点と考えている。

 コミンテルンにおける日本の運動指導の難点、スターリン以来の大国主義と干渉、国家外交政策の便法と理論問題との混同など、日ソ両党の論争に関連する雑音などは、多分氏の言うとおりなのであろう。それと切りはなして、今日の国際情勢が大胆なパラダイム・シフトを許すか、それとも拒否するかが問題である。階級闘争が社会発展のための行動のひとつでありえた時代には、人類共滅の引き金となる核戦争は存在しなかった。これまで戦争は「別の手段による政治の継続」(クラウゼヴィッツ)とみなされたが、今では新しい戦争は人類消滅の道でしかなくなっている。階級闘争の形態で遂行されてきた社会の改革は、今では別の方向と手段によらなければ果たしえなくなっている。

 このほかにも地球温暖化をはじめ環境問題、食糧、労働力移動、防疫などのひろい範囲の問題があり、わけても女性解放問題の根本的解決のための国際的協力の問題は階級や闘争の次元を超えてとりあげなければならない。それがゴルバチョフの主張であろう。それを反駁するのに古い時代のレーニンに依拠すること自体、アナクロニズムになる。レーニンを超える思考が必要になったのである。

 かつてフルシチョフが平和共存政策をとなえたとき、中国の人びとは、それは帝国主義の本質を知らないものであって、革命はかならず暴力によらなければならない、「鉄砲が政権をつくる」のは不滅の真理だと主張している。多少とも重要な制度の改革に着手するにはまず国家権力を獲得することが前提とされている。異なった体制間の対決は最終的には力が解決する。異なった体制間の対決は異なった階級間の対決とおなじ論理構造をもっている。それはひとつの歴史的産物であったとしても、いまはその歴史が新しい段階に入ったところに問題がある。これまで資本と労働のあいだの矛盾は力によって解決されることが多かったとしても、いまでは対決の論理をすてて、話しあいで解決する可能性が生じているとしなければならない。国際労働運動にしても日本国内のそれにしても、戦闘精神が軟弱になったから話しあいの線まで後退したのではなく、勤労者が全体として重みを加えたから民主的な方法で階級間矛盾の解決にあたることが可能になったというのが新しい立場である。エンゲルスが、バリケード戦闘よりも投票用紙がより強力な手段になったと説いてから一世紀を経過している。その間の階級間関係に大きな変化が生じ、それを表示する政治が力から倫理へと移動している。政治−力から政治−倫理への動きは、必然の世界から自由の世界への飛躍をあらわすものと言えないであろうか。

 非暴力の思想と「新しい思考」

 ゴルバチョフはマルタ島におけるアメリカのブッシュ大統領との会談で冷戦を終結させ、戦略兵器の削減の合意をとりつけることができた(一九八九年一二月)。それは全人類的価値が力の政策にたいして優位を占めたことを意味しよう。ここまで来る前にいまひとつ重要な成果がソ連邦とインド共和国のあいだで生みだされていた。一九八六年一一月に、インドのニューデリーでゴルバチョフとインドのラジヴ・ガンディーとが共同宣言をしている。それは人類の存続を確保すること、人類の普遍的な価値を優先すること、非暴力を人類共同体の活動の基礎にすることを含む十項目からなっていた。それは国際関係を律する道徳的・倫理的規範として歴史的時点をこえて高く評価されるべきものであった。

 この非暴力の思想はじつは五十年ばかりむかしにグラムシの獄中ノートで指摘されている。マハトマ・ガンディーは、イギリス帝国主義のインド支配にたいして非暴力・非服従の原則をうちたてて対応した。インドの民衆はそれを支持した。この思想はインド人の心をふかくとらえ、グラムシによれば、一種の民衆的信仰にさえなった。このヘゲモニー思想はネルーたち国民会議派によって継承され、第二次世界戦争後インドは平和的に独立することができた。グラムシがノートにマハトマ・ガンディーについてこのように記したとき(前出Q6§<78>その他)、インドの独立がわずか十数年で実現すると信じていたかどうかわからないが、遠い日本の読者がグラムシのヘゲモニー思想の生命力に感銘をうけることまでは多分予想はしなかったであろう。

 フルシチョフのとなえた平和共存思想の底には依然として力の論理があり、それでは冷戦構造を解体させることはできなかった。ゴルバチョフの思想の基礎にある暴力と闘争を超克する課題は、ソ連をはじめ現実の社会主義国群の崩壊によっても棚上げされることはないであろう。われわれはそれを自分の問題として発展させ、政策論にとどまらず哲学論としてとり上げなければならない。政治的民主主義に普遍的価値をあらしめるために、その基礎として非暴力の原理を提起する必要がある。現実に存在している矛盾や対立を、力の論理にしたがって解決をはかるのではなく、つまり一方の他方にたいする強制によってではなく、同類間の対話によって合意の形成に到達することが必要であるだけでなく、それが論理的に可能であることを立証しなければならない。             

 矛盾や対立は国家間にあるだけでなく同一の社会のいろいろの構成要素のあいだにある。男性と女性のあいだ、個人と個人のあいだ、個人と集団のあいだ、さらには人間と自然環境のあいだにもある。それを力で解決しようとすることは他者の死を求めることになる。死ではなく生をはかるには、おなじ地盤のうえでの対話によって矛盾をとり除くほかはない。ともに生きるという地盤があることによってそれは可能になるのであろう。

 その問題について興味のある問題提起があったことを紹介したい。われわれの尊敬するある学者が、ゴルバチョフのイタリア訪問について一冊の本を執筆し、彼は、そのなかで非暴力原理は可能であるかと問い、暴力と闘争は話しあいによって克服できるのではないかと期待していた。私はそれを支持する。その人の名はわれわれにグラムシ思想の解明をあたえてきたジュゼッペ・ヴァッカ教授である(Giuseppe Vacca.Gorbacev e la sinistra europea.1989)。ヴァッカ氏は、一九三九年生、イタリアのバリ大学で政治学説史担当、ローマのグラムシ研究所長、一九九五年五月号の『思想』に氏の「グラムシと今日の時代」が載っている。『二一世紀民主主義に向けて、新しい世界を考える』(一九九四年)ほか多くの著述がある。ゴルバチョフが「新しい思考」をソヴェト社会のひとつの潮流とするまでに長い道を歩いたと述懐したが、この著者の非暴力の原理が世界的運動のなかで確立するまでに人類はまだ長い道を歩かなければならないであろう。しかしその道は開かれたのである。

  第二章 ビスマルクと社会国家

〔目次〕、1、ビスマルクの社会政策と国家社会主義

     2、ドイツ共産党と社会民主党との亀裂

     3、新しいコンミュン思想とヘゲモニー時代の始まり

     4、資本主義に対するレーニンとグラムシの評価

     5、グローバリゼーションのなかの改良

 

 ビスマルクの社会政策と国家社会主義

 フランス大革命に始まる「永続革命」の定式に表現される歴史的運動は一八四八年革命で項点に達し、一八七一年のパリ・コンミュンでそのサイクルを閉じている。この規定は、グラムシ『獄中ノート』で何回かくり返されている。このサイクルにつづいて新しい「市民的ヘゲモニー」の運動の時期が始まるとされているが、ヨーロッパの東の果て、なかばアジア的なロシアではすこしおくれて、「運動戦」形態の運動が「陣地戦」に転ずるのは一九二一年だといわれる。この時代規定は、まもなく新世紀を迎える今日、いっそう妥当性をおびてきたように思われる。

 二つの時期の境目で統一されたドイツ国の指導者ビスマルクの政策、とくに彼が指導した一系列の社会政策について、これまでわれわれの評価は必ずしも明確ではなかった。グラムシ的規定を手がかりに、ビスマルク時代の性格を考えてみたい。はじめに、この時期のおもな出来事を日時順にならべてみよう。

1870年−1871年       フランス・ドイツ戦争

1871326日−54日    パリ・コンミュン

18785月          ゴーダ綱領

187810月         社会主義者取締法(18889月廃止)

18833月          マルクス死去

1883年           疫病保険法

1884年           傷害保険法

1889年           老齢廃疾保険法

18903月          ビスマルク退任

1890年−1891年       労働裁判、就学前児童労働禁止、

              労働者生活・健康保護規則、義務的労働規定実施

189110日         エルフルト綱領

18953月          マルクス著『フランスにける階級闘争』

              へのエンゲルス序文(同年8月エンゲルス死去)

1899年           ベルンシュタイン『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』

191710月         ロシア革命

191811月         ドイツ革命とワイマール共和制

19219月          ゲルリッツ綱領

19331月          ヒトラーへの授権

 一八四八年革命の敗北によって後退したドイツの労働運動は、資本主義の発達とともに力を加えてきた。それにたいして、ドイツの支配階級は、苛烈な弾圧に訴えて運動の急進化を抑えこもうとした。ビスマルク宰相による「社会主義者取締法」の励行はそのひとつである。しかし、労働者の運動は弾圧にもかかわらず着実に前進し、彼らが国会におくりこむ議員の数はたえず増大した。弾圧は結局無効に終わり、取締法は廃止されることになった。そこで力で抑えこむだけでなく、ある程度労働者階級に譲歩することによって彼らの革命化をおしとどめる方策がとられた。ビスマルクによる一連の社会保障政策がその現れである。ビスマルクはもともと保守的で旧封建勢力を代表する一面もあって、資本主義の弊害からパターナリズム的に労働者を守るところがあった。一方、ドイツ工業の先端部分であるルール地方の企業家が、労働力の安定した供給を望み、その点からある程度の社会改良を支持したこともある。旧来の弾圧のやり方では秩序維持のための社会的コストが高すぎるという判断が、ユンカー勢力と大ブルジョアジー勢力にも共通したものと思われる。

 ビスマルクが自分の社会政策体系によって労働者階級の社会革命志向を体制内にとどめる国家社会主義を構想したことは、一面ではこれまでのムチの政策にアメの政策を加えたことになる。この政策によって労働者は労働条件の保障と改善が実現されることを歓迎したであろう。『共産党宣言』は労働者が鉄鎖のほかに失うものはないと述べたが、八〇年代のドイツ労働者は社会保障によって多くのものを得たのであり、労働条件もかなり改善されていた。労働者階級にとっては、失ってはならないものが増大していたのである。だがそれはマルクスの死後のことであり、生前のゴータ綱領にたいするマルクスの批判にはこの問題は出てこない。

 ドイツ共産党と社会民主党との亀裂

 新しいエルフルト綱領は、原則部分では、労働者階級が合法的に政治運動を遂行できるようになった段階で、さらに選挙権の拡大と直接の立法により、生産手段の社会的所有をはかり、資本主義的搾取を根絶することを論じている。しかし、実践の部分ではビスマルク的改良が労働者に及ぼした影響の深さにたいする適切な評価も対策も講じていない。労働運動内には改良をうけ入れる潮流が生まれ、改良主義思想が強まってゆくとき、これまでのムチに加えてアメの政策がとられてきたというだけでは改良主義、協調主義に対抗するのは困難である。綱領は医療扶助や出産手当、労働保護立法に触れているが、ビスマルク的社会保険体系にたいする労働者階級の態度、たとえば一部の保険施設の労働者側の自主管理要求をとりあげていない。エンゲルスも綱領草案に批判と助言を与えるだけで、改良にたいする階級的対応が示されていない。

 エルフルト綱領は「革命的」立場をとっていた。資本主義は「自然必然的」に衰滅する。革命とは資本主義の自動的崩壊を信ずることである。資本主義制度を殲滅する(ローザ・ルクセンブルグ)のではなく、資本主義の消耗を待ちうけることである。プロレタリアートが直接の革命的行動に出るにはあたらない。極言すれば、腕をこまねいて政権継承の日を待っていればよい。一八四八年革命では「バリケードによる市街戦」が当然の手段とされたが、この方式は、今では時代おくれになっていて、大衆自身が普通選挙をつうじて社会革命に当たるようになった、とはエンゲルスの一八九一年段階の意見である。革命は街頭バリケードから民主的議場に移ったかのようである。

 ドイツ社会民主党はこうして、口先だけの革命主義と実践上の改良主義の二本立てで運営された。党の影響下の労働運動と国会議員団は実利的に改良派となってゆくが、イデオロギー的には党は革命を標榜していた。一九一八年の革命後もこの体制は維持されようとした。

 党運動が実質上改良主義になっているのに理念では革命を唱えているのは明らかに矛盾であり、その矛盾を改良主義へ一元化しようと試みたのがベルンシュタインである。彼は革命の道を捨て、改良の道へ入るべきであると主張する。大衆的現実は承認しなければならない。実効を失った革命の基礎概念を実情に即して修正しなければならないと主張した。その際ベルンシュタインは、早まってマルクスの学説の柱になっていた価値論そのものを論破しようと企てたが、それは理論的に未熟であった。ことにマルクス思想の歴史主義の淵源と思われるヘーゲルを離れて新カント主義に立脚することを主張したため、党内で反撃をくらい、こうして修正主義は理論的少数にとどまったが、改良主義は労働運動の大勢を占めて、ワイマール時代に入ることになった。たしかに、社会運動における「法則」を自然科学的・進化論的法則と同視したり、宿命論的決定論的な「自然必然性」から人間の自由な行動を否定するようなマルクス解釈は批判にあたいするが、ベルンシユタインはその反対の誤謬におちいり、「修正」のもつ歴史的意義は理論的に究明されなかった。

 ワイマール憲法は、本来ユンカー的・大ブルジョア的勢力を解消させる使命をもっていたにもかかわらず、これらの旧勢力は軍部、司法部、行政部に残存していた。社会民主党はこれらの勢力とたたかう代わりにこれと妥協せざるをえなかった。このことはドイツ民衆が民主主義になじまないことを意味するものではない。あのワイマール文化の開花は、ドイツ人のあいだに民主主義的エネルギーが存在することを語るものであった。それであるのに、社会民主党とその対立物である共産党は、ひろく民主主義勢力を動員しその統一の力を発揮する立場になかった。

 一九二一年三月に、共産党は武装蜂起を企てたが失敗に終わった。一九二一年七月一二日、明日でコミンテルン第三回大会が終わるという日に、レーニンは、強硬路線をとる五力国の「攻勢理論」派の代表を自室に呼び、つぎのように語っている。ドイツの三月は「愚行」であった。「われわれの唯一の戦術は、より強く、だからより賢明に、より思慮ぶかく、より日和見主義的になることだ」と(邦訳、レーニン全集第三六巻)。これまで社会民主主義は日和見主義だと罵ってきたのはレーニンの指導するコミンテルンである。いまや戦術を転換して、深く「大衆のなかへ」入ってゆき、社会民主主義者を含めた統一戦線をつくらねばならなかったのである。だがドイツ共産党は、「別人」になることを拒みあくまでもソヴェトをモデルとした急進的革命を夢見ていた。

 他方、社会民主党のゲルリッツ大会(一九二一年)は三〇年の歴史をもつエルフルト綱領を事実上廃止し、階級国家ではない「人民国家」のなかの党の要求闘争はいまや「道徳的要求」として提出されることになった。だが、ドイツは革命前夜にあると信ずる共産党と、名目だけながらも掲げてきた革命に代わって第三の道をえらんだ社会民主党との距離はすこしも縮まることはなかった。戦線の分裂は、改革にかけた国民の情熱に水をさし、大きな幻滅を生みだし、ひいてはヒトラーの勝利を早めたのである。

 社共両者のもうひとつの弱点をつけ加えなければならない。それは女性軽視である。経済恐慌のなかで失業が激増すると、男子労働者の雇用を守るため、女子労働者は「台所と育児部屋に帰れ」と言われた。社会民主党だけでなくこの点では共産党も同じであった。両者はともに男性主義を脱することができず、彼女らを政治の世界から台所へ戻し、彼女らの政治的失望ひいては無関心を生みだし、ヒトラーの覇権を容易にした。この話は、リータ・タールマンの『ワイマール共和国』に痛恨の文字でえがかれている。

 日本の労働運動も、その点では性差別の原罪をおかしている。二〇年代の中ごろ、左翼の日本労働組合評議会内に帝人労働者の活性化をはかって組合に婦人部を設ける動きがでたとき、指導者中に、労働者が解放されればおのずから女性も解放されると称してこの計画はつぶされた。一九二七年に設立された関東婦人同盟は、性別組織は小ブルジョア的要求にすぎないとして、これまたつぶされてしまった。事実上女性は一段低い存在であり、女性なるがゆえに、その持っている能力を発揮できなかった先進的活動家の体験は、映画『女たちの証言』(羽田澄子作、自由工房)でいまなお肉声できくことができる。

 戦後日本で各級議会に比較的多く女性議員を送りだしたのは日本共産党にとどまり、他の政党ではいまのところ女性はお飾りのようである。

 新しいコンミュン思想とヘゲモニー時代の始まり

 ドイツにおける社共対立は、国際的に第二インターナショナルと第三インターナショナルの抗争として拡大生産され、ファシズムと戦争の危機に際して唱えられた「人民戦線構想」はもはや手遅れであり、あとの祭りとなってしまった。こうして社共は、第二次世界戦争を阻止できなかった責任を負うことになる。

 このような状況のもとで、.ビスマルク時代からの改良政策は左翼からまだ検討されていない。わずかに『獄中ノート』のグラムシの見解があるだけである。それはビスマルクにおける政治と軍事の問題にふれ、ヘゲモニーの思想との結びつきを認めている。その意味でこれからの研究の発端となりうることを期待して、以下にそれを引用する。

 「……政治的指導と軍事的指導が同一の人物のうちに一つに結びついている場合でも、政治的契機が軍事的契機に優位をしめなければならない。カエサルの回想録〔『ガリア戦記』〕は、政治の術と軍事の術の賢明な結びつきを説明した典型的な手本である。兵士たちはカエサルを偉大な軍事首領とみなすだけでなく、とりわけ自分たちの政治首領、民主主義の首領と認めていた。ビスマルクはクラウゼヴィッツの先蹤(せんしょう)にならって、軍事的契機よりも政治的契機の優先を主張しているのに、ヴィルヘルム二世は……ほとんどすべての戦闘でみごとに勝利をおさめたが戦争に敗れたとするビスマルクの所信を報道した新聞を、怒気満々でメモしたことを想像すべきである」(Q19§<28>「イタリア国民運動の政泊的−軍事的指導」)。

 ドイツ軍がナポレオン三世を捕虜にしたのに、敗れたとは何を指すのであろうか。私の勝手な想像であるが、こうも考えられる。つまりパリの労働者がコンミュンで歌いあげた新しい思想の前にビスマルクは政治的に敗れたということでなかろうか。社会主義者取締法の廃止、社会政策的改良による労働者階級への譲歩があいついで実行されたことから推して、このように解釈することも許されるのではないか。ビスマルクは新しいヘゲモニー時代の開始に立ち会ったことになるのではないか。

 資本主義に対するレーニンとグラムシの評価

 実際に一八七〇年前後は近代史の起点と考えられている。たとえばレーニンはこの頃から帝国主義への過渡期になるとしている。彼の帝国主義論は、独占資本主義の最新の段階であるとともに、寄生性と腐朽性を特徴とし、植民地の暴力的再分割を経て社会革命に接続することになる。外延的に把握される帝国主義は、主としてドイツで発展した形態であり、より高度の内在性をもつアメリカ社会に生まれた帝国主義ではない。レーニンの一八七〇年は、資本主義終末観の視角から眺めた印象がある。

 これに反して、グラムシの一八七〇年は、フランス革命に始まり、一八四八年で項点に達し、パリ・コンミュンでサイクルを閉じる「永続革命」の終末点であるとともに、新しい発展の起点である。後は『獄中ノート』でそれを「労働組合現象」の名のもとに説明している。一八七〇年から一九一四年の第一次世界戦争勃発までのこの経過は、「いろいろの問題、いろいろの重要性と意義」を帯び、議会制、産業組繊、民主主義、自由主義の発展を意味し、その間「分子的に積もってきたいくたの問題」がまさしく大塊となり、それまでの経過の全般的構造を改変した。そこには市民的ヘゲモニーをめざす新しい歴史的全体が登場している(Q15§<59>「イタリア・リソルジメント」)。おなじことのくり返しであるが、つぎのようにも述べている。「一八七〇年以後の時期になると、これらすべての要素が変化し……『永続革命』の四八年定式は、政治学では『市民的ヘゲモニー』の定式にねりあげられ、のりこえられた。……運動戦はますます陣地戦になっている……」(Q13§<7>「集団人または社会的順応主義の問題」)。

 コミンテルンが資本主義の急激な没落を強調しているその時期には、アメリカに始まった新しいフォーディズムがヨーロッパその他で拡大している。

 自動車王となったヘンリ・フォードは、テーラー・システムをとりいれ、作業工程の徹底的合理化をはかった。労働者は筋力と神経の消磨を伴なうため、従前よりも増大した労働強度と機械への拘束という強制を償う。そこで高賃金によって労働者の同意をとりつけた。均質で安定した労働力支出を確保するため、禁酒と一夫一婦制にもとづく健全な家庭生活の監視など、ピューリタン的(?)な規制と監督を実行した。これによって生産コストは低下し、自動車は日用の必需品となり市場を拡大した。グラムシは、これを利潤の傾向的低下に対抗する資本の努力として、「フォーディズム」の名称を与えた。それはフォーディズムの「進歩的」側面であり、全世界に普及した。事実上、これによっていちじるしく市場は拡大したが、今世紀後半、とくに七〇年代以降市場は限界に達し、これまでの小品種大量生産方式に代って多品種小量生産方式によって対応せざるをえなくなった。それがポスト・フォーディズムの新しい現象である。高度に発展したテクノロジーは、強制的な威力をもって、さらに労働強度、作業テンポ、その他で労働者を工程に従属させ、労働者は自主性を失なうだけでなく、資本にたいする抵抗力を弱めた。フォーディズムにはすでに今日の否定面が萌芽としてあるが、グラムシのフォーディズム研究はそのことを予示していた。世界の労働運動は、ME革命・情報革命によって加速された労働の質とその編成の変化に対応できる体制をもたないのが現状である。フォーディズムが資本主導のヘゲモニー運動の一面をもつように、ビスマルク時代の社会政策にも、支配階級のヘゲモニー作用を認めることができる。

 グローバリゼーションのなかの改良

 ビスマルクと社会国家について左翼からの研究はあまりない。改良主義を推進する社会民主党系の評論家さえ、かえってビスマルクを軽視し、「乞食年金」とか「お恵み」などとあなどっている。これに反して、中間的ないし右派の人びとはビスマルクを評価している。保守派のグスタフ・シュモラーは、ビスマルク的社会国家の創設を社会政策の「世界史的転換」とみなしている。彼は、国内で労働者階級と妥協する国家が、階級矛盾を抱える国家よりも国際的に優位に立つと考えている。人によれば一八七〇年〜一八九〇年を社会国家の「核心期」とするが、その立役者はビスマルクだったことになる。

 ビスマルクによるドイツ政治のバラダイム的転換は、彼なりのヘゲモニー観念の現れであろう。しかし問題はビスマルク個人の意図や構想ではない。彼が失脚したあとも、それどころか数十年もあとのワイマール共和国でも、今日のドイツにおいても、変化を含みつつも存続している客観的な事実である。指導勢力がどう変わろうとも、ドイツの労働者階級が選択し受納してきた現実の生活体制である。社会国家が一世紀近く持続したことになるのに社会国家が厳密に規定されなかったのは、そこで行われている妥協が協調的改良にとどまり高度の改良に進まないで、逆に日和見主義とされたことにもよると思われる。ごく最近までそれは「ケインズ的−社会民主主義的妥協」と考えられ、労働者階級の多数派が事実上これを支持してきたのである。

 すでにマルクス・エンゲルスの晩年に、イギリス労働者階級の上層は労働貴族と言われたように、事実上のプロレタリアートの分裂が生じていた。この分裂は、いわば一種の受動革命の現象であり、それを克服するため広い範囲の要求運動には当然に福祉の拡大が含まれており、ケインズ的妥協はそれに応ずるものであった。ところが、階級的妥協としての福祉体制は経済のグローバリゼーションに伴って、国民国家の枠内では実質的に縮小されつつある。

 福祉政策の後退は、これまでそれを支えてきたケインズ政策が単独の国民経済内では力を失なったことにあるとされるが、ならば、その国際化をいかにして可能にするか。その点で何よりも気になるのは、日本はもとより各国の労働運動に国際的連繋をはかる努力がほとんど見られないことである。ことに日本の労働運動はながく受益者の立場にあり、能動的に福祉国家をたたかいとったのではなかった。

 したがって問題はアジア地域の労働運動さえ協力体制をもたない現状で、これから改良のグローバル化をいかに計画するかである。ところがある論者は、伝統的改良主義ではこの頽勢(たいせい)をもりかえすことはできないのであって、革命的階級闘争の方針に復帰するときがきたのだと叫んでいる(たとえばレオ・マイヤーの「グローバリゼーションと独占」、レーニン帝国主義論刊行八〇年記念論集『今日の大国政策と戦争政策』一九九七年)。それによれば改良とそのイデオロギーである日和見主義は当然打倒の対象となる。それならば一九二一年のレーニンの転換は無視されることになる。一九二一年のレーニンの演説はスターリン死後刊行の全集補遺の三六巻にはじめて収められるまで知らされていなかった。それは明らかに共産主義思想の根本的転換の提唱であった。その提唱を理解することなく、なおさら実践に移せなかった共産主義運動は、このときすでに衰亡への道にふみ入ったのであろう。

 レーニンの発言から七〇年、ゴルバチョフが「新しい思考」を提唱してから一〇年もたっているのに、今日あらためて「歴史的愚行」に立ち戻るのでは受動的革命からの脱出はおぼつかないであろう。

      

 第三章 帝国主義下のヘゲモニー

     ――ガンディーの教訓によせて

〔目次〕、1、「おだやかな暴力」による支配

     2、ヘゲモニー論からみたイギリスのインド・アフリカ支配

     3、イギリスへの対抗ヘゲモニーとしてのガンディー主義

     4、アメリカへの対抗ヘゲモニー

     5、ヘゲモニー論から見た国際関係

「おだやかな暴力」による支配

 グラムシの陣地戦構想によれば、国家にたいする強襲が成功をおさめる前に、市民社会における闘争に成功することが必要である。だがこの方法は、帝国主義支配のもとで市民社会状況の希薄な前代的制度の世界に適用できるだろうか。いいかえれば、二〇世紀前半にコミンテルンが唱えた植民地体制の革命的転覆方式はどこまで妥当でありえただろうか。とくに第二次世界戦争後の植民地体制の崩壊現象がほとんど非暴力の形で推移したことから、脱植民地運動には非暴力の選択が戦前から存在していたのではないか。

「植民地社会にグラムシのヘゲモニー概念を通用する試みは割合に少なかった。この怠慢には理由がある。ある人びとにとっては、植民地社会は暴力的に抑圧されているから、同意を論ずるのは名辞矛盾なのである。別の人びとにとっては、グラムシの関心は十分に成長した資本主義社会におけるブルジョア階級支配の性質にかかわるものであり、労働者が生産手段を収奪されるなかでの資本の権力の起源を理論化するよりも、その政治的構造をまさしく理論化しようと意図したものであるから、彼の思想を植民地問題に関連させて考察するのは不適当に見える。」(Dagmar Engels,Shula Marks.(eds.,Contesting colonial hegemony:State and Society in Africa and India.British Academic Press.1944 p.1)

――というのが一般的である.あの『獄中ノート』を見ても、植民地問題はあまり現れておらず、とくにレーニンの帝国主義論への言及は皆無である。そのことは奇異でさえあるが、グラムシがそれについて口をつぐんでいることに、かえって意味があろうかと想像される。

 一九世紀後半から二〇世紀前半までのほぼ一世紀にわたって、イギリスが国際関係のなかでヘゲモンとして行動したが、初期には新しい植民地で原住民を武器によって鎮圧したのは事実である。阿片戦争、セポイの反乱、ブーア戦争の記憶は消えることはないであろう。しかし、初期のいわば「本源的蓄積」の諸事件のあと、インドやアフリカのような亜大陸また大陸を永久に武力で支配することは物理的に困難であった。イギリス帝国主義、または「自由通商」的帝国主義は、帝政ロシアや日本のように、「軍事的・封建的」方式に訴えるよりも、経済的・文化的手段によって現地民衆の同意を確保する道をえらんだ。人によってはこれを「直接の暴力」(Violence directe)よりも「おだやかな暴力」(Violence douce)をえらんだとも言っている。文明と理性によるヘゲモニー体制が、おなじ帝国主義的体制であっても武力支配にくらべて有利だった事実がある。

 一団の研究者は、インドとアフリカにおける実情の歴史的研究をつうじて、インドとアフリカには大きな状況上の差はあるが、帝国主義支配におけるヘゲモニーの側面が共通していること、帝国主義者は植民化以前の時期の土着の支配層がもっていたヘゲモニー・イデオロギーとその物的・文化的価値を組みいれ、それと折り合いをつける必要があったことを実証的に明らかにしている。植民者のイデオロギーと政治が、現地住民にとって自然で正当であるとして受けいれられるためには、それが双方の世界に根づくことが必要であり、その通路になるのは現地の中産階級であった。イギリスの自由通商帝国主義は、その支配の代償として、これにたいするある程度の譲歩と寄与を実現した。

 ヘゲモニー論からみたイギリスのインド・アフリカ支配

 上記の論集『植民地のヘゲモニーの争取』は、ダグマール・エンゲルス、シユーラ・マークスの女性研究者をはじめ.一四名のインドとアフリカの専門家集団労作である。ヨーロッパ、アメリカ、インドと出身も多彩である。論集はまことに興味のあるもので、くわしく紹介できないのは遺憾である。ほんの簡単に要約すると、インドとアフリカにおけるイギリス、フランス、ベルギーの植民国の多様な経験を、公衆衛生、教育、行政の三部門別の個別研究と、統治される側から見たヘゲモニーの理論的また歴史的分析にわけた構成になっている。

 それらの研究から期せずして生まれた結論は、帝国主義側のヘゲモニーも、これを受容する側の対抗ヘゲモニー(counter hegemony)も、グラムシのヘゲモニー論によってはじめて統一的に説明できるということである。グラムシのヘゲモニー論は、本来ヨーロッパの市民社会について論じられたものであって、より古い社会構造と低い文化段階にある植民地世界を念頭においたものではない。しかしグラムシの強制と同意の均衡としての支配構造の分析視角は、支配一般に拡大しうる本質的な力をもっており、それを植民地支配に転用することは(適当の修整を加えて)十分に根拠があることがわかったのである。

 公衆衛生事業では、イギリス人が主要な都市に設けた診療所が偉力を発揮した。天然痘、マラリア、梅毒等で死亡する人は激減した。トラホームその他の眼病も減った。インドの娘たちが助産婦として訓練されることによって産婦と新生児の死亡率は目に見えて少なくなった。インドの古来の伝統医術(アーユル・ヴエーダ)に代わるヨーロッパの医術が絶大な効験をもつことにたいする信頼が一般化し、そのことが植民者の知的優越、ひいてはそのヘゲモニーカを高めてきた。医療網の普及にともなう「帝国主義者」のヘゲモニーカの拡大と定着についてさまざまな興味ある実例が多数示されている。インド人医師が地方の有力者となり、イデオローグまたは政治指導者としてひろく活動したことも注目にあたいする。アフリカでも似たような過程がある。ことにベルギー領コンゴでは医療帝国主義が支配していたのだという叙述がある。

 教育部門の活動は現地人に新しい知識と技術の優位を認めさせ、帝国主義支配に協力させ、支配機構運営の下働きを養成することになった。インド社会の上層は、外国支配にたいする矛盾よりも、インド人大衆にたいする支配者、いわば副支配者として協力した。中間階級はその使用人として教育される立場であった。文明をもたらす西洋的教化の受容は旧支配者の文化との内面的結びつきを強めたが、それは武力によらない支配を確保するヘゲモニーの表現であった。その反面、植民地支配機構に参加するなかで、帝国主義にたいする批判、やがて抵抗の勢力が生まれてきたが、その抵抗は主として非暴力の形をとるようになった。

 イギリスへの対抗ヘゲモニーとしてのガンディー主義

 インドはイギリス直轄の一五の州のほかおよそ七〇〇の貢納国家に分れ、宗教的言語的に分散しているため、イギリスは大軍を置く必要はなかった。日本陸軍はインドの何分の一にも満たない「満洲国」を鎮圧するのに、数十個師団(最高七〇万人)を配備していたのにたいし、イギリスのインド兵力は五万人程度であったことは、イギリス人がヘゲモニーによる統治をはかっていたことの傍証になる。したがってインドの民衆は、非暴力の形で、つまり対抗へゲモニーをつくりあげることによって独立運動をすすめたのである。このように解釈することが必ずしも不当でないことは、グラムシがインド独立運動の指揮者マハトマ・ガンディーに下している評価によって立証されよう。

 グラムシは「無抵抗・非協力」のガンディー主義が、悪への無抵抗を説くトルストイズムに似ているが、トルストイズムとはちがって、インドの「民衆的信仰」になったと指摘する。グラムシはガンディー主義が、原始キリスト教とおなじ道をたどることを予想していたようである。ローマ帝国によって徹底的に弾圧された武器なき原始キリスト教は、やがてローマ帝国にたいしてイデオロギー的勝利をおさめるに至った(Q6§<78>「イタリア・リソルジメント」)。グラムシはまたガンディー主義は「受動革命」の素朴で色を薄めた理論化であり(Q15§<17>)「政治闘争と軍事戦争」、ガンディーの消極的抵抗はひとつの陣地戦であり、ある時期に運動戦となり、また他の時期に地下戦に転化するとも述べる(Q1§<134>「政治闘争と軍事戦争」前出)。

 ガンディーズムについてのグラムシの断片的な評価は、実は大きな政治的意味をもっている。というのは、コミンテルンがガンディーズムを奉ずるインドの国民会議派を批判し、イギリス帝国支配の革命的転覆の挙に出ない日和見主義と罵っていた事実がある。だからそれはガンディーズムの是認であるだけでなく、コミンテルンの植民地解放運動の一般方針への批判を意味することになる。

 イギリス帝国主義とインド国民との関係がヘゲモニー範疇によって説明しうることは、これで明らかである。しかしこのヘゲモニーは一時期のイギリスとインドの国家関係を律するだけでなく、現代においても、より一般的に国際関係を説明することができる。たとえば国際関係論にグラムシ的ヘゲモニーを適用して注目されるロバート・コックス(ヨーク大学)は、このグラムシ的ヘゲモニーをさらに拡大して、過去一世紀半の帝国主義時代をヘゲモニーを基軸として次のように区分した。("Gramsci,hegemony and international relations:an essay in method" in Gramsci,historical materialism and international relations.ed.by Stephan Gill.pp.60-61

第一期(18451875

 世界経済はイギリスを軸として発展した。自由通商と金本位制は、イギリスが周辺国に市場の掟を守らせるための機構となり、ヨーロッパの勢力均衡が成り立った。

第二期(18751945

 第一期に成立した関係は逆転し、二回の世界戦争に象徴されるようにヨーロッパの勢力均衡は失われ、金本位制も結局は放棄され、非ヘゲモニー期になったとされる.

第三期(19451960

 アメリカのヘゲモニーのもとに世界秩序が成立.ヘゲモニーの基本構造は第一期のそれに近いが、ヘゲモニーの制度と教条は複雑化した世界経済により、また経済危機に敏感に政治的に反響する国民社会による調整を必要とした。

第四期

 1960年代以降、アメリカ・ベースの世界秩序は作用しなくなり、これに代わってアメリカ、ヨーロッパ(EC)、日本の三極構造のヘゲモニーが現れている。

 アメリカへの対抗ヘゲモニー

 第四期の、この新しい世界秩序は、新しい矛盾と対立を生みだし、当然それを変更する課題が日程にあがっているが、それはもはや「運動戦」方式によるのでなく、長期の「陣地戦」となるであろう。国民的境域内での骨の折れる努力に待たなければならない。これはグラムシの以下の叙述を解釈したことになる。

「国際関係は、基本的社会関係に先行するか、それとも後続する(理論上)ものであるか。うたがいなく後続する。構造における有機的革新は、すべて、その技術的−軍事的表現をつうじて、国際的な分野での絶対的または相対的関係を有機的に変える」(Q13§2)

 ここで言う有機的とは、体制の根本にかかわるものであり、長い期間を必要とするものであろう。戦後日本は日米安保条約に包摂されアメリカのヘゲモニーに従属している。だがこのヘゲモニー支配から脱出する道は、ひところ一部の人が考えたような運動戦(民族独立戦争)をつうずるものでありえない。それには対抗ヘゲモニーを実現するほかはないであろう。

 アメリカの対日優位はもちろん武力にもあるが、それだけではない。今日の世界では武力の果たす歴史的意義は減退しつつある。彼の優位にはわれわれよりも深い社会的・経済的・文化的「革命」を経過しているところもある。それならば日本は社会的・経済的・文化的な対抗ヘゲモニーを実現すべきである。それに成功しなければわれわれはなお「受動革命」に沈潜していなければならない。これがひとつの歴史的課題である。

 だがそれと同時に、われわれはアジアの諸国、いわゆる日本にとっての周辺国にたいしてヘゲモニーを行使するべきではないであろう。もし日本がアジア、とくに東アジア諸国と同質の関係を結ぶことができるならば、そのときアメリカにたいする対抗ヘゲモニーは成就するであろう。一五年戦争のなかで、人びとは侵略を美化する東亜共同体をとなえた。三木清はそれにそれぞれのナショナリズムの同格性という解釈をあたえ、尾崎秀実は日本・中国・ソ連の三民族の連合による変革の母体としての東亜共同体を構想したはずである。

 尾崎の「東亜協同体」論は訊問調書で大体わかるが、最近発見された『尾崎秀実ノ革命ノ展望等ニ関スル供述』(東京刑事地方裁判所検事局思想部、昭和一七年三月印刷)によって補なうと、まず東アジアで、共産主義化した日本民族共同体・ソ連民族共同体・中国民族共同体が中核となり、インド・ビルマ・タイ・蘭印(インドネシア)・フィリピンの諸民族共同体の加わる東亜新秩序社会を形成し、それを世界新秩序社会の一つの極とするものである。蒙古・回教・朝鮮・満洲のそれぞれの民族共同体もこれに参加することになる。尾崎は中核の三つの共同体をすでに共産化したものと前提し、参加する諸共同体は最初から共産化していることを必須とせず、各民族共同体が独立しつつ「互助聯環」の政治形態をとることが期待されている。

 共産主義への過大な期待は、中核たるソ連邦国家の瓦解している今月、奇異でさえあるが、民族共同体としての共産主義はいかなるものであるかは別としても、非資本主義的な道での新しい国際関係の出現を構想していたことは明らかである。

 一九四〇年五月二九日と六月四日付の二つの、東京発ゾルゲ電報に、日本が反ソ戦争をためらっている現状にたいし、ナチの有力筋に、ドイツ・ソヴィエト・中国の大アジア・ブロックの可能性をさぐる動きがあったことと関連して(角川書店『国際スパイ、ゾルゲの真実』、三一二頁)、尾崎の東亜共同体は空想計画でなかったと想像される。

 対米従属ということが言われる。そしてそれはアメリカと日本のあいだの軍事力と経済力の差からくるものと考えられてきた。もちろんそれは重要なことである。だがその外に、イデオロギー上の格差があることを忘れてはならない。たとえば、アメリカが市場の解放や規制緩和を日本に迫るとき、経済発展段階の差をとびこえ、エゴイズムと疑われる要求に応ずる日本の精神構造にもう一つの問題があろう。アメリカの経済関係は、ブルジョア的発展をとげているのに、わが国には不合理としか思われない前代的・非民主的な慣習が残っていて、「合理的」要求に属するとすれば、先方に精神的優位としてのヘゲモニーがあると感じられるからであろう。その優位をなくし、同格で交渉をする条件の一つは、われわれの国民的民主化である。

 アジアの諸民族は、いまなお日本人を信用していない。過去における侵略性を彼らは忘れていないだけでなく、いまの段階で日本と関係を結ぶとき、それが力による支配と思われる事情がつづいている。殊にそれらの国は日本以上に古い関係を残しており、その近代化を迫ることが、戦前のような支配関係の復活と思われがちだと言われている。アジア諸民族との結合をはかるとき、その前提となるのは、日本人の民主化であろう。アジアの諸民族がアメリカあるいは中国と単独では交渉が困難であり、集団として相対してゆくためにも、民主化した日本がその一員となることが必要なのである。

 対アメリカと対東アジアの二つの次元における日本国民の自己革新が世界過程への参加条件になるのではないか。それはグラムシの拡大解釈であるかもしれない。とにかくそれには長い時間を必要とする。だが時間についてはグラムシがリズムを異にする諸運動を考えていたことが思いだされる。そして実際に識者はもっと正確にそれを説明している。

 ヘゲモニー論から見た国際関係

 スティーヴン・ジルは一論文のなかで、グラムシが、社会構造と社会的出来事は、異なったリズムと歴史的テンポを反映する諸過程によってある程度構成されると言ったのは (Stephan Gill.ed.,Gramsci,Historical materialism and International Relations.Cambridge University Press.1993.)、ブローデルとアナル派歴史家の考えに似ていると述べている。ブローデルは歴史的時間の次元を三つに分けている。第一は、きわめて緩慢に変化する「地理学的時間」(大陸プレート間の地勢学的関係のような)、第二は、これより速いリズムの、基本的社会構造の変化に見られる「社会的時間」、第三は、個々の出来事、事件にかかわる「個別的時間」がそれである。

 グラムシのヘゲモニー論を分析する方法論として、第二次世界戦争後の国際関係に適応した研究がある。インドのラージェン・ハルシェーの『二〇世紀帝国主義』がそれである(Rajen Harshe',Twentieth century Imperialism:Shifting contours and conceptions.Sage Publications.1997)。彼は、サハラ以南のアフリカ諸国と、南アフリカを対象とする新旧の帝国主義、ネオコロニアリズムのもとでの民族間題、民族解放運動と非同盟主義の重合、ソ連からの援助によって「社会主義化」した一連のアフリカ国家の経験を、ヘゲモニーの存在と欠如に関連させて論じている。帝国主義に対する亜帝国主義、中核と周辺に対する半周辺の問題は、新しいヘゲモニー視角にもとづく国際関係論として整理すべきだとする立場から、著者ハルシェーはレーニンの帝国主義論の再検討を試みている。それが経済理論としてはヒルファーディングを越えるものでないことは明らかである。帝国主義が植民地領有と戦争に宿命的に結びつくという主張はなりたたないであろう。現実に植民地をもたない帝国主義が存在していること(アメリカ、スウェーデン等)、植民地を喪失したドイツや日本が帝国主義的発展をとげていることは古い帝国主義理論を斥けるものである。

 また、ソ連邦のアフガニスタン侵攻、中国のベトナム侵攻は、社会帝国主義として非難され、戦争を資本主義体制特有の現象とすることはできないことを証明している。

最大の特徴は、とくに一章を設けてグラムシのヘゲモニー理論を解説し、その理論的枠組みを拡大して、今日の国際関係を理解するための一般的「ガイドライン」としているところにある。グローバリゼーションによる資本の自由な移転を武器とするアメリカの経済活動、一方では解放の役割を果しながら、他方では東ヨーロッパの社会主義国につくりあげたソ連の支配と従属の構造、非同盟運動のなかのカウンター・ヘゲモニーの諸形態を解明したのは、彼の功績である。グラムシの方法にみちびかれて、これからさきアジア・アフリカの広大な空間に、これまで未知のヘゲモニー関係が見出されるのではないかという指摘も注目にあたいする。彼の結論は妥当であろうと信ずる。

                以上

  (注)、グラムシ関連のホームページは、以下をご覧下さい。(宮地健一)

    @、グラムシ没後60周年記念国際シンポジウム参加記……加藤哲郎

    A、グラムシからポスト・グラムシ主義へ   ……加藤哲郎ホームページ

    B、ポスト・フォード主義論争      ……加藤哲郎ホームページ

    C、赤間道夫愛媛大学教授ホームページ……マルクス主義リンク

      10、グラムシ研究文献、国際グラムシ協会のニューズレター(英語)