特別インタビュー 石堂清倫氏に聞く「二〇世紀の歩み、そして未来」

 

二〇世紀を生きる

 

終わりゆく世紀の証言 「変革の二一世紀」を展望する

 

石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)

 ()これは、『図書新聞』(24671999.12.25)に掲載された「特別インタビュー」です。このHPに全文を転載することについては、石堂氏の了解を頂いています。「聞き手」側の問いかけ部分は、緑太字に、紙面での「抜書き大活字部分」は赤太字にしました。

〔目次〕

  1、愛国主義から排外主義へ ―― 二〇世紀日本の幕開け

  2、距離がありすぎた日本の社会主義者の「理論」と「実践」

  3、ロシア革命とは何だったか

  4、われわれ自らのスターリン主義との戦い

  5、思い出されるジノヴィエフの期待

石堂清倫(いしどう・きよとも)=一九〇四年石川県生まれ。四高で先輩である中野重治を知り、東京帝大在学中、新人会で共に活動する。卒業後、労働組合運動に身を投じ、そののち無産者新聞の編集に携わる。二八年、「三・一五事件」で検挙。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでレーニンなどの著作を翻訳。三三年、転向・釈放後日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集及び翻訳を手掛けたあと、三八年、満鉄調査部に入社、当時「満州国」の大連に赴く。四三年、満鉄調査部第二次検挙で逮捕、投獄。釈放後、関東軍二等兵として動員される。四五年、敗戦後大連に戻り、四九年まで労働組合運動に加わる。大連のソ連司令部と折衝、この地で中華人民共和国の樹立に接する。帰国後、日本共産党に入党、のち離党。荒畑寒村らとともに運動史研究会を結成、全一七巻におよぶ『運動史研究』を刊行。またイタリア語を習得、グラムシ研究会を創設し、『グラムシ獄中ノート』などグラムシの翻訳・給介に努める。そのほかロイ・メドヴェーデフ『共産主義とは何か』など、数多くの翻訳を手掛ける。主な著書に『わが異端の昭和史』『続わが異端の昭和史』『異端の視点』『中野重治と社会主義』ほか。

 


 愛国主義から排外主義へ 

  ― 二〇世紀日本の幕開け

 ―まもなく一九九九年も終わりを告げます。いま、二〇世紀とはどういう時代であったか、改めて問い直すべき時に来ています。そこで、一九〇四年に生まれて日本の戦前、戦中、戦後から東欧革命・ソ連崩壊以降の九〇年代を、まさに二〇世紀と共に歩んでこられたともいえる石堂さんに、この世紀を顧みてお話をうかがいたいと思います。

石堂 日本にとっての二〇世紀の始まりは、帝政ロシアが極東に進出して、アムール河北岸に住んでいる中国人三〇〇〇人ばかりを虐殺したという大事件です。第一高等学校の寮歌「アムール河の流血や」が日本中に流行しました。つまり、帝政ロシアのアジア進出への脅威に対する反応で、日本の二〇世紀は幕を開けたことになります。

 一九二〇年代になって勃興した労働運動のなか、最初のメーデーの時に歌われた「聞け万国の労働者」のメロディは、実は「アムール河の流血や」の流用でした。つまり、わずか十数年で、そのメロディがツァーリズムの極東進出に対する愛国的な慷慨悲憤の歌から、労働者解放の歌のそれへと変わったわけです。

 しかし、それも一〇年ほどしか続かなかった。すぐに日本には反動期が訪れて、メーデーは禁止された。それで、官製で軍国主義の歌である「日本陸軍の歌」が歌われます。「大和男の子と生まれなば、散兵戦の華と散れ」というものです。おなじメロディが、わずか二〇年の間に、愛国の歌から労働者解放の歌になり、それがすぐに巻き返されて軍国主義の歌にもなった。このことが、二〇世紀前半の特徴のように思われるわけです。

 民主主義の花が開く前に、日本では社会主義の花が広がった。しかし、その広がり方に問題があって、満洲事変が一九三一年に起こります。満洲事変は日本にとって運命的な岐れ道でした。当時のことを思いかえしてそのように思います。一九二九年の国際的経済危機はわが国にとっても苦い経験でした。わけても日本農村は深刻な分解をおこしていました。娘の身売りや自殺のくらい話が新聞をにぎわしていました。それまでも農村では土地のない作人と地主のあいだに闘争が進行していました。それがこの時期になると、小作料減免をめぐる経済闘争から、地主的土地所有の廃止が農民の要求になりかけていました。日本の軍部は三〇年暮から三一年夏にかけ、全国的に満蒙侵略の大宣伝運動を敢行しました。彼らは窮乏のなかで革命化しようとしていた農民をとらえようと努力したのです。一六五万人を動員し、一八六六回の講演会をひらきました。参謀本部や陸軍省の作成した種本にもとづき、佐官たちがはげしい煽動演説を試みました。彼らは農民にたいし、窮乏脱出の手段として地主制度の廃止をさえ叫びました。しかし彼らは、日本における人口過剰と土地狭小の現状では、たとえ土地分配を実行しても零細所有に変りはなく、空しく餓死するよりは、満蒙の沃野を入手する方法をえらぶと言いました。そうすれば、農家は一躍して十町歩の地主になれる。そのためには、天皇をいただき国内政治を一新しなければならないというのです。

 それだのに、自由主義者も左翼もこの悪煽動に反対するものはなかったのです。人口や土地の問題から対外侵略をひきだすのでなく、国内改革によって新しい生活をつくりだすべきであり、その具体的可能性があることを説く人は出てこなかったのです。露骨な満蒙侵略論はこうして世論になりました。日本の農村は軍部のヘゲモニーのもとに組織されました。それからというものは、もう止めどなく侵略が拡大していって、大戦争になってゆくわけです。

 ―日本における社会主義と労働者解放についてはどのようにお考えですか。

石堂 日本の社会主義運動が、どうして国民の多数をリードできなかったのかという大きな問題があると思います。先頃、田中彰『小国主義』(岩波新書)というよい本が出ましたが、本当は一九九九年ではなくて、一九三〇年に出てほしかったのです。

 たしかに、国民の中には少数ながら民主主義的な熱望というものかあったという証明にはなるけれども、それが多数を代表できなかったことに問題が残ります。満蒙侵略の軍部の全国宣伝に批判も抵抗もされなかったと言いましたが、さかのぼって、一八八〇年の「軍人勅諭」が、とくに全国各地の在郷軍人会支部網をつうじて、農村を天皇信仰の碁盤にしてきた事実があります。しかし、この君主専制を鼓吹する勅諭に対してもほとんど批判をしてきていません。たしかにそれを批判することは危険な作業でしょう。ですが、批判も反対もしないのはそれを黙認することであり、客観的にはそれを支持することになります。なぜ日本の進歩陣営はそのような態度をとったのか。その他の問題では進歩的であり、民主的でもあるが、その底辺には古い伝統精神の層を残しているのでないかと思われます。

 われわれ日本人には非常に古くから、排外主義の精神があったのでないかということです。それは中世からあったに違いない。そこには歴史的根拠があったのでしょう。

 日本が古代から中世にかけて、中国の大陸文化に出会いますが、それは日本の文化に比べると格段に優秀で、日本は圧倒されたと思うのです。だから、一所懸命に大陸文化を吸収しようとしたわけですが、その吸収の仕方自身に問題があって、これは吉川幸次郎さんがいうことですが、外来の文化を吸収する場合に日本的な歪曲を試みているといいます。文化を本質的に摂取するよりも、現存の日本の支配体制に適応するように曲げて吸収している。例えば儒教でも、人倫の道として受け入れるのでなく封建制擁護の手段として取りこむところがあるという意見です。

 それは、弱小の文化が優秀な巨大文化に圧倒される場合にアイデンティティの一つの主張の仕方としてはやむを得ないことでしょう。平安時代になって、菅原道真に仮託して和魂洋才をたてましたが、それを見ると、文化の質の高さでは大陸に及ばないけれども、しかし日本は大陸に欠けている特徴をもっているというのです。

 中国には歴代、易姓革命の伝統があり、王朝の断絶がある。ところが、日本には王政が一貫している。それは小国にはないものであり、和魂が独自性をもつと主張されたのです。

 徳川時代の鎖国政策のもとで、この思想は偏狭で回顧的な民族優越性の信念になったと思います。新しい文化を創り出す努力はしないで、鎖国によって異質の文化が日本に広まるのを阻止しようとする。そういう方向で努力をした。一方で本居宣長流の国学者は、「からごころ」を排撃して、尚古的「やまとごころ」を打ち出すけれども、きわめて主情的で一面的なやり方で、新文化の実態を創り上げる努力を怠った。

 幕末にペリーがやってくると、日本は上下震動しました。アメリカ人を人間より下等の禽獣の類として、相手を卑しめることによってしか自立性を主張できなかったのです。ほぼ同時期に中国人が阿片戦争でイギリスに武力的に圧倒されたとき、彼らは、伝統的な中華思想で対抗しようとした。攘夷という言葉だけでは空威張りにとどまり、夷に対して実効的対抗はできない。夷の方が自分たちを圧倒できるだけの文化や科学や技術を持っている。その差が敗北につながっている以上、ここでは夷に学ばなければならない。夷の長技を自らのものとすることによってしか攘夷ができなくなるという結論に、中国人は一九世紀の中頃に達しています。

 その考えは、『海国図誌』に結晶していますが、それが日本にも入ってくる。幕末の志士たちも学んでいますが、彼らの攘夷論は、止むなく開国に向う幕府を窮地に追いこむ政策の傾向が強く、中国の経験から学ぶべきもう一つの側面を重んじなかったといえます。

 坂本龍馬や横井小楠も『海国図誌』を読んでいたし、吉田松陰や佐久間象山も読んでいました。松陰はそれに非常に感動して、単純な壊夷論ではだめで、アメリカ人がイギリスからいかに独立して力をつけたかという近代化の跡について熱情を込めて語っています。しかし、そのことを日本の自立のために利用する人は少なかったと思います。

 明治維新で権力を握ったのは、開国を前提とする公武合体派でなく攘夷派だったですね。勝海舟は腐朽した封建権力のなかでは異数の開明派であり、新しい文化を取り入れて、自分自身を文化的に再武装する以外には自立できないと信じていました。そうするためには、日本と同じような歴史的任務を抱えている中国や韓国と新しい国際関係を結び、欧米の勢力に対抗するより他ないといっています。

 つまり、打倒された幕府の方にそういう意見があるのに、革命勢力の方にそれが乏しいわけです。そういう意味では、明治維新は確かに変革ではあるけれども、歴史を前進させるための革命ではなかった。それは革命であると同時に復古であって、太政官制のような古めかしい、前代的形態のエリート権力でもって近代化を図っていくことになりました。

 最初に出てきたのは征韓論でした。封建制廃絶に伴う旧士族の要求を内政改革によって解決する代りに、それを対外侵略に転化する。西郷隆盛たちは敗北したけれども、国内矛盾の対外侵略への転化の方式は残りました。明治の新政権は自分自身の近代的改革ではなしに、古い体系のもとでヨーロッパの文明を技術や手段として取り入れようとしたのであって、それが「文明開化」の方向でした。そしてその一方で、新しい国民精神の樹立を内包する自由民権運動が起ってくると、武力に訴えてこれを弾圧して、新しい民主主義勢力の頭部を切り取り、その一部を順応させる。それで、強力な官僚制度、すなわち藩閥政府を作り上げ、本来なら革命によって達成されるへき事業を自らの手で遂行するわけです。グラムシがイタリアのリソルジメントのうちに認めた「受動的革命」に類似する現実が、わが国にも生じたことになります。

 一方で、日本は一九世紀末から帝国主義化するのに伴い、日清戦争に朝鮮併合、そして日露戦争によって対外的に成功する。つまり、国内の改革をする代わりに、矛盾を対外的に転化して侵略によって解決しようとする方向へ向かったのですが、そこでは愛国心が排外主義約な傾向と結びつけられ、侵略的帝国主義のイデオロギーに化したことは、はやく田添鉄二が指摘しています。

 距離がありすぎた日本の社会主義者

  の「理論」と「実践」 

 ―民主主義が育っていく前に、愛国主義が早くも排外主義と結びついてしまったわけですね。

石堂 そうですね。二〇世紀初めには、清末の革命家たちが日本にたくさん亡命していました。東京と横浜で中国人が一万三千人に達したといいますが、そのなかの亡命者たちは、清朝を打倒する革命を念願し、日本の社会主義者と交流していました。彼らは西洋の新しい社会理論を紹介した幸徳秋水や堺利彦などの急進的社会勢力からいろいろなことを学んだそうです。

 のちにアナーキストになった劉帥培が、『亜洲現勢論』(一九〇七年)のなかで、欧米の帝国主義がアジアを従属させようとしているが、日本は欧米帝国主義と結びついて、彼らの気に入るようにしながら自ら朝鮮を支配しようとしている、そればかりでなく、中国を侵略するイギリスやフランスと妥協し、またフィリピンを占領しようとしているアメリカと協力している。つまり、日本は朝鮮の民衆の敵ばかりではなく、アジアの共通の敵すなわち亜洲の公敵であるといっているんですね。

 そのことは、当時の日本の社会主義者たちにも聞こえないはずはない。ところが、どうすれば日本がアジア諸国民の友になれるかを、日本の社会主義運動が具体的に検討した形跡はないようです。それにこんなこともあります。中国の革命家たちが日本の社会主義者から教わったのは、直接行動でした。つまり、当時の万国社会党、第二インターナショナル流の議会政策によっては、民衆の解放は困難である。だから、直接行動に出るべきだというものでした。当時議会政策を主張していたのは片山潜や田添鉄二でしたが、人気がない。それよりも、幸徳秋水のような直接行勅を掲げる者の方が人気があった。

 ところが、直接行動を習った中国人は、それをすぐ実行に移すのです。「直接行動とは軍事的な反乱を起すことだ、そのためには武器弾薬を集めねばならない」と考えるわけです。だから、彼らは上海や香港を経由して武器弾薬の密輸入をやる。そうして、部隊を形成して、清朝の権力に対して武装蜂起を企てるのです。それがやがて辛亥革命となって、清朝は滅びる。その後にできた軍閥政権を、孫文たちが出てきて国民革命で打倒する。さらにそれから二〇年経たないうちに、今度は毛沢東たちが新民主主義革命を行うわけです。このように、中国の人たちは、自分たちの状況に応じて変革を具体化していくだけの力があったのに対して、日本ではそうはいかなかった。日本の社会主義者の「理論」と「実践」には距離がありすぎた。その原因が問題です。

 一九二二年に、コミンテルンのジノヴィエフが、モスクワにアジア諸国の革命家たちを集めて極東民族大会を開催しました。ジノヴィエフは、極東で真っ先に革命を行う可能性があるのは日本で、日本なしにアジアの革命は考えられないと信じていました。しかし、日本人のもって生まれた愛国心が、アジアの革命運動を結合する大きな妨げになっている。

 エンゲルスは、アイルランドの独立連動を助けないようなイギリスの労働運動は自己自身の解放もできないだろう、その原因はイギリス人の愛国主義にあると批判したことがあります。

 ジノヴィエフはこの言葉を引いて、日本人も母乳とともに愛国心で育ってきたことを指摘しました。象徴的だったのは、朝鮮の金という若い労働者が「朝鮮人の労働者と日本の労働者が同じ工場で働いていても、日本人は朝鮮人に対する支配者であって同僚ではない。日本人の愛国心は排外主義、ショービニズムだ」と言ったことです。

 それは一九二二年のことです。そのあと一九二四年に日本共産党ができます。そして二八年に三・一五事件で大弾圧されるわけですね。

 ―石堂さん御自身もそのとき検挙されたわけですね。

石堂 ええ。この一九二八年の日本の共産主義運動は絶頂だったと思います。大正デモクラシー下の労働運動のなかで、優秀な人がたくさんいましたが、彼らが三・一五事件で弾圧されたわけです。

 日本の官憲はそのとき党員だけを検挙し、党員侯補は逮捕せずに残ったのです。そして、その逮捕され損ねたグループによって、一九二九年に共産党はもう一度再建される。けれども、それも四・一五事件で全部だめになります。それ以来、日本の社会主義運動はずっと下り坂になっていきます。でも、一方で中国の社会主義運動は日本では想像もできない残酷な迫害を受けながら、だんだん大きくなっていきました。ついに一九三五年に日本の党組織は壊滅し、中国では遵義会議のあと抗日統一戦線の飛躍的発展が始まりました。

 ―日本の社会主義運動が下り坂になっていくのに反して、その日本で学んだ中国の社会主義運動が高揚したわけですね。それはなぜだとお考えですか。

石堂 その一つの条件は、日本人の革命的主体の確立がなかったということでないでしょうか。日本の社会主義運動はロシア革命の成果に幻惑されて、ロシア革命の現実すなわちボリシェヴィズムが何であるかを十分に検討しないでこれを普遍的真理と認め、コミンテルンの方針から出発しています。

 日本の現実から出発すべきであるのに、日本にとって他者であるコミンテルンの判断に基づいて運動を開始したことで、国民と結びつくすべを知らず、本当の意味での変革の主体となることができなかった。国民の要求を具体化して、国民の目から見て「これは我々自身の運動だ」と思えるような方向に進む力がなかったのです。その一つの原因は、排外主義です。日本人のコミンテルン権威主義と排外主義とは裏と表の関係にあると思います。

 たしかに、弾圧されない革命運動などどこにもないのですから、日本の革命運動の不首尾を弾圧のせいにするのは間違いであって、日本以上に激しい弾圧の国でも革命運動は進んでいくわけです。

 ―民族的なナショナリズムと社会主義との関係は、二○世紀の社会主義運動において非常に困難な問題だったと思いますが、とりわけ一国社会主義とスターリニズムは、大きな問題として依然在り続けていると考えられます。

 スターリンも独ソ戦のおりは、「大祖国戦争」を呼号してロシア・ナショナリズム的感情を国民に煽ることで、ようやくナチズムを撃退するわけですね。そこで名実ともに、国際共産主義運動はナショナリズムに取り込まれていったと思うのですが、この問題を石堂さんはどのように考えておられますか。

石堂 わが国の共産主義運動は、アジア諸国の労働運動と、戦前戦後をつうじて協力体制をつくることはありませんでした。建前として国際主義をとる以上、反資本の運動を国際化するべきですが、戦前の日本の労働運動は、「インド以下的な賃金」に憤激しながらインドの労働者と提携したことなどありません。そして、戦後の総評は、「ヨーロッパ並みの賃金」を唱えましたが、そういう前に、朝鮮やインドネシア、インドシナ、フィリピンなどの労働運動と共通の目標を掲げ共通の運動をつくることをしなかったのです。いまでも、共通の綱領を持ち共通の資本と戦うという国際連帯の運動はありません。

 日本の工業は東南アジアはじめ各地に多くの工場をつくっている。現地の労働運動と日本の労働運動のあいだに、連帯の組織をつくる努力は十分でなく、利害の衝突さえ存在していると聞きます。

 政治運動となると、労働運動よりも国際的な連帯は弱いようです。日本共産党の歴史を見ても、ソ連共産党や中国共産党との対立が目だちます。それは各国それぞれ違う歴史を歩んできたわけですから、利害の不一致は当然あるのですが、そうした各国の多様な社会主義運動を、いかにして統一するかという共同の知恵がないのが現実です。

 まず、労働運動や政治運動の主体自身が、本当の意味の国際的展望をもつための多元的接近の経験がなかったという経過があります。敗戦の時が、そうした日本の排外主義を突き崩す一つのチャンスだったでしょう。敗戦によって排外的な国民精神を共生的なものに改革する歴史的な条件の一つは、天皇制を根本的に変革することでしたが、それは制度の変更である以上に、われわれの国民精神の知的な、また道義的な改革を包含するべきものでした。しかし国民のかなりの部分は、伝統的因襲的な思想をそのまま残していた観があります。そのうえ日本に来ていたアメリカ軍部は、そのような保守的な伝統を自己の帝国主義的支配を拡大する道具として利用する方針をとったこともあげるべきです。二〇世紀を送る段階で、「日の丸」と「君が代」の問題が法制化されたのは、日本国民の現実の到達点を示す事件でした。

 新しい世紀に当面する経済のグローバリゼーションには、核戦争の代替戦略の一面があります。それは資本主義の退行を示すものですから、労働運動自身も独自のグローバルな対抗戦略をもつ必要に迫られています。

 ロシア革命とは何だったか

 ―二〇世紀において、ロシア革命のもった意味は非常に重いと思います。大きくいって、ロシア革命はネガティヴな意味も含めて、二〇世紀の歴史的歩みを規定したといえると思うのですが、この世紀の動きと共に歩んでこられた石堂さんは、そのことをどのようにお考えですか。

石堂 正直なところ、私たちはごく最近までロシア革命の積極的意義を無条件に信じていた。そして、それをマルクス・レーニン主義に拠って説明しようと努力してきたのです。ロシア革命とは何だったのかを議論できるようになったのは、ここ二〇年ぐらいです。ロシア革命が新しい時代を開いたというのは、それが現実であったというよりも、むしろそうであってほしいという期待の側面が持続していたのです。社会主義の世界化のためには、ロシアが一つの拠点であると期待せざるをえなかったといいかえることもできます。

 一九八九年のベルリンの壁崩壊は、それが幻想であったことを証明しました。ソ連社会主義が本当の意味で民衆の利益を代表しえていたならば、民衆自身が社会主義の成果をそう易々と捨てるはずはない。ところが、捨てただけではない。最後の期待を担っていると思われたゴルバチョフを共産党自身が捨ててしまったのです。

 そこで人びとは、ロシア革命とは何であったかを考え直したのです。資本主義の未熟な、ヨーロッパの東の果ての、市民社会がまだ生まれていないロシアに革命が起きた。自由主義ブルジョアジーは未熟であったし、ツァーリズムの権力と結びついた軍需工業と金融の勢力自身が半封建的な存在であった。それに、農民国でありながら労働者革命が成功したのですが、そこではブルジョアジーが未発達であったために、古い型の、フランス革命の延長のようなものが生じたのでした。

 しかし、いろいろな条件のおかげでボリシェヴィキが権力を握った以上は、近代化を図らなければならない。本来ならブルジョアジーが果すべき任務が、少数者であるプロレタリアートに課された。市民社会のなかでおのずから生れ出るはずの事柄まで、少数の前衛が正面攻撃の方式で戦いとらなければならない。そこには無理がある。その無理は「プロレタリアート独裁」の力ではもはや解決できない。レーニンがそのことに気付いたのは一九二一年です

 一九二一年には、クロンシュタットの暴動があって、それまでボリシェヴィキ革命を支持してきた農民が、ボリシェヴィキに叛旗をひるがえす。労働者と農民の同盟は崩れてしまった。それは、レーニンにとって一大衝撃でした。

 そのうえ、一九二一年三月にはドイツ革命の武装蜂起が失敗した。そのことによって、レーニンは戦術を根本的に立て直そうと提案するけれども、コミンテルンの各国の代表者はついてこないのです。彼らは、直接急襲の方針でまだやれると思っていた。そこで、レーニンは強行派の各国共産党代表を自室に集めて演説をした。

 レーニンはそのなかで、ドイツの三月革命は歴史的な愚挙だった、それによって自分たちは世界革命を放棄したことになるというのです。そして「諸君は国に帰ったら、自分たちは変わったんだと労働者たちに訴えよ。これからはもうすこし慎重にもっと右寄りにやる、もっと日和見主義的にやると公言せよ」とまで言ったのです。これまでコミンテルンはドイツ社会民主党に代表される第二インターナショナルを「日和見主義」という言葉で罵ってきたのに、その自分たちが「日和見主義的」になるというのですから、これはまさに国際戦略の根本的な転換でした。

 ところが、この演説は全集に載せていません。この資料を手に入れたのは、一九三六年ごろのことです。私は、それを友人に見せました。正直なところ、あまり反響はありませんでした。その演説が全集に収録されたのは、スターリンの死後に補遺としてです。

 一九二二年に行われたコミンテルン第四回大会に、病中のレーニンは生前最後の演説をします。前回の第三回大会でレーニンの発意で「共産党の組織的構成、活動の方法と内容にかんする決議」が採択された。ロシアの党の組織的経験を各国の同志が体得すれば、ヨーロッパ革命が成功するとの期待があったのです。ところがそれは「長過ぎて、だれ一人読み通せないであろうし……あまりにもロシア的で外国の同志は理解できないであろう……理解しても実行はできないであろう……この決議を通したことで今後の成功への道をたってしまった」とレーニンは反省するのです。そして、はじめから学ひ直すことを同志たちに勧めました。

 そのことは、それまでの世界革命方式は既に失敗していたことの告白を意味します。

 ―世界革命は、ロシア革命から数年も経たないうちにすでに崩壊していたということなのでしょうか。

石堂 そうです。では、いったいどうすればいいのか。レーニンが言ったのは、自分自身の条件を自分の目で見ること、そこで学び直すということができるならば、世界革命は可能であるかもしれないということです。

 けれども、それは実行されない。レーニンの親衛隊はレーニンを神格化したうえ、棚上げして十月革命の方式を「マルクス・レーニン主義」の名のもとで続行したのです。

 グラムシにこんな意見があります。一九二一年までレーニンが信じていた永続革命は、フランス革命から始まって、マルクスたちが『共産党宣言』を書いた一八四八年革命で頂点に達した。そしてそのサイクルは、一八七一年のパリ・コミューンで閉じている。それ以降は、新しいヘゲモニー運動に移らなければならない。武力によって権力を獲得して、権力によって社会主義を建設できるという考えは誤りである。むしろ大衆自身の同意を得て、一歩一歩、暴力ではなしに文化的、経済的に新しい社会生活を実現していかなければならないというのです。

 もちろん、これはロシア革命の流産のあとに出てきた考え方であり、コミンテルン的戦略戦術への批判でした。しかもこのグラムシの思想が我々に伝わったのは、戦後のことです。グラムシのことばでいえば、「陣地戦」として行わなければならない闘争を「運動戦」としてやったのが、ロシアの十月革命であったということになります。

 われわれ自らのスターリン主義との戦い

 ―石堂さんは、ソ連の異論派であったロイ・メドヴェージェフの『共産主義とは何か』上下、『社会主義的民主主義』などに代表される著作を翻訳しておられますね。

石堂 そうです。一昨年、メドヴェージェフが来日したとき話しあって意見が一致したんですが、一九二一年のクロンシュタット暴動は、これまでボリシェヴィキが農民の利益を無視していたことを気付かせ、農民の要求を容れることによって内乱が収まった。これを紀元元年として、新しい社会主義革命が起こるはずであったのが、レーニンの重病と死によりそれが消えてしまった。だから、ロシア革命は一九二一年をもって終わってしまったといわなければならないのです。

 その後のスターリン主義は、少数のエリートが上から、命令によって社会主義を押しつけた。その結果が兵営社会主義といわれるようなものになりました。たしかに、そこでも社会保障や教育制度、医療保障は行いましたが、それは資本主義国でもやっている程度のことです。

 それともう一つは、ドイツ・ファシズムと闘って独ソ戦に勝利したことで、スターリンの株が上がったことになります。しかし、社会主義にとってみれば、少数のエリートが権力でもって上から国民を引っ張っていくやり方には限度があり、結局のところ失敗であった。ロシア・モデルで社会主義の建設を企てた諸国はみな失敗しました。

 ―石堂さんがお訳しになられたメドヴェージェフの『共産主義とは何か』が日本の社会主義運動に与えたインパクトは非常に大きかったと思うのですが、一九五三年にスターリンが死んで、五六年にフルシチョフによってスターリン批判がなされ、それからこの『共産主義とは何か』を翻訳されるにいたる経過についてお話しいただけませんか。

石堂 スターリンが死んだ段階では、私は割合反スターリンの方ではあったけれども、根本においてはまだスターリン主義でした。多くのものは清算されても、スターリンの『レーニン主義の基礎』と『マルクス主義と民族問題』は残るだろうと思っていましたから。

 その後、ロイ・メドヴェージェフの弟のジョレス・メドヴェージェフと連絡がついたのです。彼はロンドン滞在中に、旅券を取り消されて帰れなくなってしまったんですね。その彼がいろいろな地下出版をやっていることがわかって、私はその地下出版物をずいぶん入手しました。それには国会図書館(のちに東大)の菊地昌典氏や庄野新氏の協力があります。

 ―石堂さんは『ソビエト反体制―地下秘密出版のコピー』という地下出版の資料集を編纂しておられますね。

石堂 実際には、あの本の何十倍もの資料があるのですが、続刊ができませんでした。それを見ると、ソヴィエト主義の実態がだんだんわかってきました。僕らは、公式に発表された上部構造のいちばんいいところだけを見せられていたんですが、その地下出版にあった写真を見て、愕然としました。

 そして、隠されていたソ連の暗い部分を少しずつ見ることによって、われわれ自らのスターリン主義を潰していかなければならなかったわけなのです。そんなときに、『共産主義とは何か』の原本のアメリカ訳が出ました。

 ―“Let history judge”(『歴史をして裁かしめよ』)というものですね。

石堂 そうです。それを読んで非常におもしろかったんですね。その本の内容を友人たちに話したら、ぜひ翻訳してみたらと勧められたので、翻訳したのです。アメリカ訳には省略があるので、ロシア語の原稿の写真版をテクストにしています。

 この本はずいぶん売れました。当時日本共産党の本部員が、版元の三一書房へ買いにきました。本部員だけでも百冊以上買っています。それには蔵原惟人さんの指示があったそうです。

 それからというものは、スターリン批判の本が堰を切ったように出版されました。しかし、スターリンという悪党が私たちをだましたというよりは、私たち自身がスターリンに縋って、ソヴェト像をつくっていたことを忘れてはならないのです。私たちにあるスターリン的なものが、スターリン主義をつくりあげていたのでした。

 残念ながら、ソ連ではスターリン批判は徹底されなかったですね。スターリン批判を行ったフルシチョフは、徹底的な改革をする前に失脚してしまいました。つまり、個人崇拝批判というかたちで、スターリンが加えた弾圧を暴くという段階にとどまっています。だから、スターリン主義を支えた思想的理論的基礎については、今日に至るまで手がつけられていません。世界中のオーソドックスな共産党もこの問題については充分に取り組んでいません。根底においては、先進資本主義国の共産党もスターリン主義を捨てきれない部分があるんです。誤ったイデオロギーとしてしか、スターリン主義批判を行っていません。

 ―では、その問題は持ち越されたまま二一世紀に入ってしまうわけですね。

石堂 そういうことですね。それから、スターリン批判のあと、一九六八年にチェコスロバキアに「プラハの春」が到来しました。

 ―ドプチェクによる「人間の顔をした社会主義」の試みですね。

石堂 そうです。私はそのとき、チェコ共産党の規約や宣言を翻訳しましたけれども、この「プラハの春」は、スターリニズム自身の自己批判であったと考えているんです。だから、そのときに各国共産党は、チェコ共産党を支持しなければならなかったのに、逆に戦車で粉砕した。そのとき世界の共産主義は自殺をしたのだと思っています。一九八九年にベルリンの璧は崩壊したけれども、すでに一九六八年に社会主義は自己改革の能力を失っていたのです。

 あとは、複雑な国際関係のなかで、発展途上国において一種の独裁権力として社会主義が維持されたにすぎません。それに、共産主義者は冷戦体制に対して責任があるはずです。ヘゲモニー運動ではなしに、力の論理を柱とする社会主義が資本主義国とおなじ次元で対抗する試みが冷戦体制をうみだしたのです。

 逆説的にいえば、冷戦のなかでやっと維持し得た社会主義体制が、冷戦が終わるとともに力を失ったということだと思います。誰が倒したのでもない。だから共産主義者は、冷戦体制のほかに選択をもてなかったことについて反省しなければならないはずです。

 思い出されるジノヴィエフの期待

 ―石堂さんにとって、グラムシの思想との出会いは決定的な意味をもったと思うのですが、そのあたりのお話をしていただけませんか。

石堂 私がグラムシの名前を知ったのは戦後のことですが、GQの支配下にあった頃は、外貨制限でマルクス主義文献の輸入ができなかったのです。そうしたなかで、私の友人がフランスやイタリアの文献を輸入する方法を考え出しました。私はフランス共産党関係の文献を読むことによって、戦中の空白をやっと埋めることができた。そしてそのうちイタリア共産党も復活して、そうした文献も入ってくるようになった。その一つにグラムシのことが書いてあったんです。

 その後、イタリアで「グラムシ獄中ノート」が問題別分冊で刊行されはじめ、それはトリアッティが編集したために欠陥があるとされますが、僕らにとっては大変な朗報でした。それを読むために、私はイタリア語の勉強を始めたのです。

 しかし、グラムシの「獄中ノート」をすぐに共産主義運動と結びつけることは困難でした。ただ、私はコミンテルンの運動を少し知っていましたから、そうした観点で「獄中ノート」を読んでみると、コミンテルンの理論と実践を支えている「マルクス・レーニン主義」体系にたいする全面的批判をグラムシが考えていることに気づきました。ただそのノートは不利な環境のもとで書きつづられているため、きわめて断片的で、レーニンとその鬼子ともいうべきスターリン的系への反措定と理解するにはひどく時間がかかりました。それでも一歩一歩読み進んだつもりですが、トリアッティとグラムシの関係を直線的に判断した誤りもあり、容易な作業ではありませんでした。幸い一九七七年にジェルラターナ校訂の新版「獄中ノート」が出版されてから、やっとこの二人の巨人を二重の視角でとらえることができるようになったのです。

 ―お訳しになられた『グラムシ獄中ノート』などはそうした御仕事の一つなのですね。

石堂 最近でも、現実と切り離して、純理論的に思想家としてグラムシを読むという読み方がありますが、もちろんそれはそれでおもしろいですけれども、私にはレーニン死後の共産主義運動の内部的な自己批判として読んだ方が分かり良いんです。

 最近、サバルタン研究が盛んになり、日本でもスピヴァクの翻訳が出たりしていますが、私は、グラムシにとってのサバルタン問題というのは、単に社会学的な独立した理論分野として考えるよりも、支配被支配のなかで、被支配的なグループがいかにしてヘゲモニーグループに昇っていくかという問題としてとらえるべきではないかと思います。サバルタンについて書いたのは、グラムシが獄中で病状がやや良くなって、ムッソリーニとソ連との間の取引の結果、あわよくば釈放される可能性もなくはなかった時期のものです。だから、いままでの階級運動とは違ったかたちで、革命的な集団が形成されていく上での期待される展望として、グラムシはサバルタン問題を考えたのかもしれないと僕は考えています。

 ―いまお話しになられたグラムシのように、社会主義運動は、実際の歴史とは別の、残された可能性を持ち越して二一世紀に入っていくわけですね。

石堂 二〇世紀は前衛やエリートの考えた運動であったとするならば、二一世紀は民衆自身を主体とする運動に転化できるかどうかということが重要だと考えています。一九八九年以来の「歴史的共産主義」の崩壊は、それがすでに現代社会の複雑化に適応しえなくなっていたことの表現でした。さきにも言った、一八四八年型革命運動が一八七一年を転期として時代錯誤的存在になっていたことに触れないで、いいかえれば第二インタナショナルと第三インタナショナルの双力の立脚地が歴史の彼方におき去られたことを反省しないでは、新しい世紀を展望することはできないと思います。古い「原理」が死滅したのに、新しいものはまだ出来上がった形では現れていないことは確かですが、マルクスやグラムシの視線をたどることによって、新しいものを予見することは可能であろうと思います。

 私たちのおかれている国家と社会は、それを構成する公的、私的、家庭的、アソシエーション的な諸分野にわたって、多くの単位が行動しています。それらの目的とするところと、それらがもっている価値は一様ではありませんが、腐朽しつつある今日の資本主義にたいする代替力となりつつあるのですから、それらが収斂する方向を見定めた新しい社会主義運動の発展がこれからの中心問題になることと信じます。その運動の重要な指標は、コミュニケーションの世界的な発展にともない一国限りのものでなく、グローバルなものになっていることです。

 それにつけても思いだされるのは、一九二二年のジノヴィエフの期待です。日本はアジアの諸革命運動の先頭に立っているということでした。その後の進展を見ると、日本はアジアの革命運動の最後列に立っているようなものです。その原因の一つは、勝海舟がいったような、アジアにおける小国自主自立の主体の結合体が実現されなかったことにあります。日本は、近隣の諸国の征服者になろうとして失敗しました。

 そのことが、もっとはっきりしたかたちで反省されるべきです。そこから出発しなければ日本国民の自己改造はありえないのでないかと思います。支配と従属を伴わない共生アジアの一員として受けいれる条件を、われわれ日本人はこれから一つ一つつくりあげていくことになります。何百年もかかって形成され、アジアの諸国民の目には排外性として映ずる性格を変革するのは一朝一夕の事業でないのは当然でしょう。それはいまのところ全くの少数意見です。それが多数意見に、「国民的信念」に転化するには、長い時間がかかり、絶大な努力を必要とするでしょう。それだけにこれは新世紀の世代にとってやり甲斐のあることであろうと信じます。 ()