大庭のエッセイ


「されどどまん中」


後援会の皆様から毎年多くのご意見を戴く。その中で袋井市が進めているどまん中事業は、大した根拠もなく、ものの本によれば東海道は五十七次説もあり「多額な金を投下してまでもどまん中事業はすべきでない」こんなご意見を戴いた。そんな後援会員の方にこんなご返事を差し上げた・・・・・・
 大変貴重なご意見ありがとうございました。
 ご指摘のように、○○○さんのように勉強されていらっしゃる方から見られた場合、現在の「どまん中」のまちづくりの進め方に若干無理があるかもしれません。
 しかし、これまで市が進めてきた経過の中で、私なりに理解している点を申し上げ○○○さんにもご理解いただければと存じます。

 ご案内のように袋井市の歴史は、旧石器時代の山田原遺跡、また、約5000年前、縄文中期の長者平遺跡等、古くから人々が生活していたことを裏付ける数多くの遺跡などが発掘されています。
 また、その後、この地には代々多くの先住民が生活し続けてきたことと思いますが、とりわけ、遠州三山に代表されますように、奈良時代創建の油山寺、法多山、さらには室町時代の可睡斎と言うように、大陸からの仏教伝来とともに名刹といわれる立派な寺院が多く建立され栄えてまいりました。
ところで当時の情報の伝達路としての東海道ですが、古くは「ウミツミチ」と呼ばれ、五畿七道のひとつとして機能してまいりました。大和朝廷を守る軍事力を提供した地域でもあり、蝦夷征伐による関東・東北への朝廷の影響力が延びていくにつれて、街道としての重要性は高まり、鎌倉幕府のころになると京との往来も盛んになり、街道としての整備が進み、室町時代の東海道は袋井もそのひとつとして含められ、当時、六十三宿あったとされています。
 戦国時代には今川義元、織田信長、武田信玄、北条早雲、伊達政宗といった各地に割拠する猛者たちが、京に上り天下に号令する機会を伺った道でした。この混乱を収め、江戸に幕府を開いた徳川家康がまず行ったのが、五つの街道を制定し、宿の整備を命ずることでした。
 当初東海道の宿として指定されたのは、四十九宿、袋井宿はそれに遅れること十六年後に指定を受けました。それから二年後には箱根が、さらに五年後には川崎が翌年庄野宿が指定され、東海道は日本橋から、京都まで百二十四里余(五百キロ)、いわゆる今に呼ばれる五十三次の姿になりました。
 今日の袋井も実は、こうした歴史文化の延長線上に「まち」があると言っても過言ではなく、国道一号線をはじめとして、東海道線や新幹線、さらには東名高速道路など、文化や経済の大動脈とも言える各種の主要幹線が本市を東西に走り、こうした交通の要衝地としての地の利を生かした先人の営みが、結果として工業や商業が息づく現代の袋井を創り上げてきたと言えるのではないかと思います。
 ところで、まちの文化を語るとき、磐田郡の郡都としての磐田市には、その昔国府があり、近年になっても旧制中学や警察、さらに職安や税務署等々、社会資本整備や公共の施設も多いのですが、残念ながら農業を主体としてきた本市には古くから全国に認知された文化やまちを語る歴史的建造物や言い伝えなどあまり残されていませんでした。
 こうした中、市では温故知新ならぬ、市民が古きものやまちの良いところを掘り起こし情報発信すべく、これまで法多山や油山寺など「遠州三山のまち」、「可睡ゆり園」のあるまち、「花と緑のまち」、「大学のあるまち」、「メロン日本一(現在は日本一ではない)のまち」、「田園都市ふくろい」、等々いろいろな表現でまちおこしをしてまいりました。
 しかし、これまではこれといっての題材や決め手もなく、そうした中、幸いにして袋井宿が東海道五十三次を前提とした場合、ちょうど27番目のまん中ということから、この歴史的事実を捉え「どまん中のまち」として事業を進めてはどうかと言うことでこれまで当該事業を進めてまいりました。
 当時、どまん中論議の中で、五十三次か五十七次かとの意見の中で○○○さんのような意見もありましたが、私なりには
 1、淀川の左岸に沿って京、大坂を結ぶ街道は、大阪からは京街道、京都からは大阪街道と呼ばれていた。
 2、宿は京都から伏見、淀、枚方、守口の4宿があった。
 3、また、川船は、伏見と大阪の八軒家を半日で下り、一日で上ったため、水運も頻繁に利用されていた。
 4、東海道は大津から京(三条大橋)へ向かうが、大津から伏見に通じる脇街道もあったため、この大阪街道を東海道の延長路と捉え、東海道を五十七宿とする考え方もある。
 5、しかしながら、川船が淀川を上るごとく、京(大阪)街道は京に対して上っていく街道である。
 6、京(大阪)街道・東海道ともに街道の起点は天皇が居住する「京」であり、東海道は五十三次、京(大阪)街道は四次と考える方が妥当ではないかと判断。

のように理解させていただいています。
 実は、「どまんなか」という言葉の中には、街道のまん中という意味だけではなく、日本のまん中、あるいは「中心」という意味も含められており袋井市全体が中心的なまちと言う意味もこの事業を進めてきた経過には含まれているものと思います。
 従いまして、私としましては、百科事典でも「五十七次との見方もある」という言い方をしているものがありますが、愛する我が郷土ふくろいが、中東遠や静岡県、さらには日本の中心になって欲しいという願望も含めて、「どまん中」としても良いのではないかと思います。
 いずれにせよ、来年2001年は東海道宿駅400年祭の年です。袋井でも市民のボランティアを募りイベントをこれから計画しますが、ともあれ、国も、県もこうした歴史的事実を捉えて各種の事業を推進していますし、昨今の健康ブームにあわせて東海道をウォーキングする人も増えてきていることもご承知のことと思います。
 こうした現状からもご理解いただけるように、どまん中で袋井のすべては語れませんが、袋井の多くの事業の1つとして、また、まちおこしの1つとして位置づけることも意義あることだと考えますのでご理解願いたいと存じます。
 とのご返事を差し上げた。こうしたご意見は○○○さんに限らず多くの市民皆様が感じているのかも知れない。しかし、私のご返事の後段にも触れさせて戴いたようにたかが「どまん中事業」といわれるかも知れないが、日本の中心、へそとしての「どまん中」であって欲しいという願望を込めてのまちづくりがあっても良いのではないだろうか。「たかがどまん中」、「されどどまん中」である。 2000.10
 



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