小説 |
2002. 1/ 8 |
まちあわせ 〜Side Stories From ClassMate2 #1〜 二月の頭。待ち合わせ。八十八駅前。午後のお日さま、日の光、駅前にさんさん。 いっぱいのおしゃれ。うづきちゃんに手伝ってもらっての精一杯のおしゃれ。 「うん、これならオッケーよ、ね。どんな男でもよって来ちゃうって」 うづきちゃんの保証つき。保証どおりによって来た男の子。でも全部断った。あの方法。 「これからりゅうのすけ君とデートだから」 嘘は言っていない。自慢したい気持ちもある。だからためらわない。みんな逃げていく。 …りゅうのすけ君ってすごいんだ。 くすくす、と笑ってしまう。すっぴんの笑顔もとびっきり。おろしたて。 …それにしても早すぎたかな? 待ち合わせの一時間前についた。そして三十分ほど過ぎていた。小さな腕時計で確認。 …来てくれるのかな… 結局、電話ごしに唯ちゃんの事は聞けなかった。それだけはどうしてもだめだった。 せめて、恋人はいるの、とでも聞けたら…むりなのはわかっているけど。 「彼女がいたって大丈夫。奪いさっちゃえばいいの。あんた内気なんだからしっかりね」 うづきちゃんの経験談。恋は盲目。奪ったもの勝ち。次の日にそばにいてくれればいい。 …そんな事できるなら…できたら… 奪いさるなんて…唯ちゃんに悪い気がする。まるで泥棒猫。できるわけがない。 しなけりゃどうしようもないのよ、なんてうづきちゃんに言われそうだけれど。 やっぱり、奪いさるしかない…できる事なら…できるのなら…できるかな? …今日付き合ってくれるんだもの。ほんの少しだけ残ってるよね…可能性。 逆転の可能性。きっとものすごい数字が出るはず。でも零でも百でもないのだ。 今日が最大のチャンス。もしかしたら最後のチャンス。可能性を信じて。 「…あれれ、桜子ちゃん」 また下を向いていた。だから気がつかなかったけど…この声、りゅうのすけ君? 頭を上げて確認。そこにはやっぱり…りゅうのすけ君。 そのりゅうのすけ。きょとんとした表情。まるで温泉ペンギンみたい。 「や…だ、りゅうのすけ君…どうして?」 口に手を当てて驚く。まだ待ち合わせには早いのに… 「えっ、あっと…桜子ちゃんに早く会いたくてさ」 なんだか照れてしまう。ほのかに染まる頬。うつむき加減。表情は喜びいっぱい。 「桜子ちゃんこそ、どうしたの?」 「私はね…待ち切れなかったの。とっても楽しみだったから」 「そっか。なんだかうれしいな。そんなふうに思っていてくれるなんて」 いつもと同じ笑顔で見てくれる。いつもと同じように話してくれる。 …唯ちゃんには言ってないんだ…たぶん。 突拍子もなく、そんな事を考えるとまた少しうつむいてしまう。 そんな桜子を見て一言。りゅうのすけは、なれた口調。 「その服とっても似合ってるよ。今日の桜子ちゃん、いちだんとかわいいなぁ」 「…ありがとう。りゅうのすけ君に言われると…お世辞でもうれしい」 電話ごしでも真っ赤なのに。目の前でそんなこと言われたら…お礼が精一杯。 「お世辞なんか言わないよ…ではそろそろ参りましょうか、お姫様」 うやうやしくお辞儀なんてされるともっと照れる。 「…どこに行くの?」 「ひみつ、だよ。さ、行こう」 右手を差し出すりゅうのすけ。だから、左手を差し出した。 りゅうのすけの大きな手。そっと左手をつつみこむ。りゅうのすけの手は、桜子の手より暖かい。 …やっぱりやさしい…りゅうのすけ君の手って… 静かに歩き出したりゅうのすけの横、桜子も歩き出す。二人は南に向かっていった。 駅からそれほど離れていない場所。ゆっくり歩きながら、おしゃべりをしながら。 すこしして海のにおい。八十八海岸。高台の海岸沿いの道。今の時期、さすがに人はいないはず。 思わず桜子は足を止めた。そして、目の前にうつる景色に魅入ってしまう。 「…素敵…」 それしか言えなかった。あまりにもきれいだった。水、波、砂浜、岩場…久しぶり。 「気に入ってくれた?」 「うん…すごくきれい…」 「海岸に行ってみようよ。貝か何か見つかるかもしれないし」 遊歩道のような階段をゆっくりゆっくりおりていく。りゅうのすけの先導で。 砂浜におりると、桜子は完全に興奮していた。 …海なんて何年ぶりかな… 飛ばされないように帽子を手でおさえる。冷たい潮風も、桜子にはちょうどいい。 二人、沈黙。ただ黙って、海を見ている。なんの不自然さもなく、ただ波を見る。 沈黙をやぶったのは桜子。どうしても我慢できなかったから。うずうずしてきたから。 「…りゅうのすけ君。海に入ってもいいかな?」 「桜子ちゃん…今は冷たいよ」 「でも…海を見てたらね…どうしても我慢できないの。足だけでも…浸けてみたいの」 入院が長かったから…海なんて遠い国のお話だった。でも、今は目の前にある。 「…冷たくなったらすぐ出てくるんだよ」 うん、と子供みたいな無邪気な返事。もどかしげに靴を脱ぎ出している。 「…りゅうのすけ君は入らないの?」 …一緒に遊びたいのにな。 無邪気な顔のまま、当たり前のように聞く。 「俺さ、子供の頃に寒中水泳やってひどい目あってるから…どうもね」 「りゅうのすけ君らしい」 笑顔。じゃあいってきます、と桜子は走って波の中に。ほのぼのとした時間が過ぎる。 …つれてきてよかった。あんなに喜んでくれるなんて。 波と遊ぶ桜子。りゅうのすけはその姿を見ながらそっと自分のポケットを探った。 ペンダント、返さなくちゃ。ぎゅっと握る。りゅうのすけは少しだけ厳しい顔をした。 足が真っ赤。身体も少し冷えている感じ。足を浸けているだけなのに。 「りゅうのすけ君、今上がるね」 砂浜で、ずっと桜子を見ていたりゅうのすけ。桜子に近づいた。 「膝まで赤くなってるよ…大丈夫?」 大丈夫と返事。心配そうなりゅうのすけ、手をすっと差し出す。少し照れて…つかまる。 「桜子ちゃん…手がものすごく冷たいよ」 「りゅうのすけ君の手、すごく暖かい…」 にこっ、と微笑む。りゅうのすけは苦笑いで返す。 「ほら、この岩場に座って」 近くの大きな岩までエスコート。りゅうのすけの表情、すこしこわばっている。 …遊びすぎたかな。なんだか疲れちゃった… 腰を下ろして息を吐く。白い息、すぐに消える。 まだまだ病の残る身体。冷たい水の効果はてきめん。 身体もほんのわずか震えている。潮風は決して暖かくはない。 「桜子ちゃん…震えてる…俺の上着、着ていいよ」 横に座ったりゅうのすけ。上着を脱ぎだす。 「上着じゃ…いや」 海を見ながら、つぶやくように。消え入りそうな声。心そのままに。 「…じゃあ…もっとこっちにおいでよ」 「…うん」 言った後に、わずかばかりのためらい。脱いだ上着を桜子にかけ、右手を肩に伸ばす。 …りゅうのすけ君… りゅうのすけの鼓動を感じ、体温を感じる。身体は寒くても、心はあたたかかった。 「…りゅうのすけ君の身体…暖かい」 「桜子ちゃんの身体、まだ震えてるよ。身体は…平気?」 「りゅうのすけ君とこうしているから…」 …なんでだろう。とっても安心する… 心の安らぎ。自然と落ち着いてくる。きっと横にいる人のぬくもりのおかげ。 目立たないようにもっと身体をあずける。頭を自然にりゅうのすけの胸によせる。 だけど、りゅうのすけは動かなかった。ただ、少しばかし手の力を緩めただけ。 「海で遊んでいる時の桜子ちゃん、本当にうれしそうだったよ」 「…海で遊ぶの久しぶりだし…それにね…」 …りゅうのすけ君と一緒にいたから… 見ていてくれただけ。でも同じ空間、同じ時間を一緒にすごせたから、満足できた。 それに。今もいてくれる。お話ししてくれている。肩を抱いていてくれる。 「桜子ちゃん。そろそろ帰ろうか?」 …えっ? 身体がびくっ、と反応する。驚いた顔。永遠に続くと思ってたのに… そんな反応に一瞬驚くりゅうのすけ。でも顔は本気。目が少し冷たい。だから、寒い。 「まだ…身体の震えが止まらないの…」 本当。どうも身体の芯から冷えているみたい。りゅうのすけ君のせいでも…あるんだよ… 「…でも、もう暗くなってるし…お母さん、心配するんじゃないかな?」 「今日はね…遅くなるって言ってあるから…」 うそ。うづきちゃんにアリバイ作りは頼んである。それでもそろそろ活動限界時間。 …まだ一緒にいたいの。ずっと一緒にいたいの。こうして…いたいの。 ぎゅっと握る右手。スカートの裾にしわ。心の今の状態。ひびのはいった氷みたい。 「りゅうのすけ君…これから予定、あるの?」 「いや、ないけどさ。桜子ちゃんの家、厳しそうだから」 どこかよそよそしい。再会した時みたい。りゅうのすけの中の何かがさっきと違う。 「…いざとなったらね…りゅうのすけ君のお家にお邪魔しちゃう」 「桜子ちゃん…」 むりに明るく振る舞う。甘えてみる。さっきまでなら自然にできた笑顔。でもいまは… 「…りゅうのすけ君は、家族と一緒に住んでるの?」 「家族と一緒、ってわけじゃないけど」 「じゃあ、一人暮らしなんだ」 「…一人暮らし、ってわけでもないな」 質問のたびに答えまでの沈黙が長くなる。桜子の顔、少しずつ暗くなる。 「じゃあ…唯ちゃんと…暮らしているの?」 とうとう無言。黙ったままじっと海を見る。波の音が心に痛い。涙が出るほどに痛い。 できることならこんな話したくなかったのに。避けたかったのに。なのになのに… 長い沈黙。りゅうのすけは何も言わない。ただ、肩にまわしていた手はおろした。 「…そうだよ。唯と同じ家に住んでる。唯は…俺の…」 りゅうのすけの目に一人の女の子。桜子でない事には気がついていた。唯ちゃん…だ。 だから決断。いま言わないとどうしようもない。言わないと後悔しそう。絶対にする! ありったけの感情と勇気、かき集めて口からだす。りゅうのすけ君にぶつけるため。 「私ね! …りゅうのすけ君の事…」 「桜子ちゃん! それ以上は何も…何も言わないでほしいんだ…」 はっとさせられるような声。いままで聞いた事のない声。りゅうのすけ君の…悲鳴。 ため込んだ感情と勇気、しゃわしゃわと消えていく。かわりに少しばかりの…涙。 「ごめん…俺…」 ポケットからペンダントを取り出すりゅうのすけ。桜子の顔はもう上がらない。 「これ、返そうと思って来たんだ。いまさらかもしれないけど、返さなくちゃ…」 「…唯ちゃんの事…好きなんだ。やっぱり…」 声なんて出なかった。それでも話をしたいから、振り絞る。顔を上げる。頬に…涙。 「それでも、今日デートしてくれたんだもん…一緒にいてくれたんだもん…」 「…ペンダント、受け取ってくれるよね」 苦しそうなりゅうのすけの顔。涙のレンズごし。それでも光ってうつる。 「もらったら…もう会ってくれないよね…そんなの…」 「…俺、これ以上桜子ちゃんとふたりきりで会えないよ…」 いやいや。子供みたいに頭を振る。涙のしずく、きれいに飛び散る。 …わかっているけど…りゅうのすけ君の言ってる事…わかるつもりだけど… りゅうのすけの口元に強い意志。強い気持ち。強い愛。桜子の空間はもうあいていない。 …でもいや! 絶対にそんなのいや! もっともっと…いろいろいっしょにしたいのに… 勝ち目がない事はわかっている。どんなにあがいたって振り向いてはくれないだろうな。 …どうしたらいいの… 友達のささやき。心の中の耳元。もしかしたら天使の声?それとも…悪魔? …彼女がいたって大丈夫。奪いさっちゃえばいいの… 赤と黄のリボンが揺れる。顔を思い出す。幼い感じの、あの女の子。笑顔の女の子。 …絶対だめだからね。恋人だけは…だめだからね… 自分の心。唯の心。りゅうのすけの心。もう、結論は出ていたけど… …もともとわかっていたじゃない…でも…しょうがないのかな… 出したくなかった答え。このまま時間さえ止められればよかったのに…苦々しい心。 両手をぎゅっと握り締める。さっき残ったわずかな勇気、こんな事に使うなんて… 「…ね、りゅうのすけ君。私ともう一度だけ会ってほしいの」 「…桜子ちゃん…」 「…ペンダントはね、その時じゃなきゃもらわないから…」 だから、このお願いだけは聞いてほしかった。聞いてもらわなければならなかった。 「…唯ちゃんには迷惑かけない。りゅうのすけ君にも…だからお願い!」 涙はもう、とまっている。あとは、りゅうのすけの返事を聞くだけだった。 激しい雨。如月駅前。八十八町とは川一つとなりにある如月町。その玄関口。 待ち合わせの桜子も手に傘。天気のせいだけではない。今日は少し気が重い。 あれからほぼ一週間。それなりに落着いたはずなのに…落着いたから気が重いのかな? そんな雰囲気を知ってか、今日はナンパの男もよってこない。もっとも時間もはやいが。 「おっまたせー。ごめんね、学校遅くなっちゃってさ…」 よってきたのはうづき。八十八学園の制服。今日は登校日。帰りに待ち合わせ。 「…来てくれたんだ」 「…あんたねぇ、またそんなに暗くして。ほら、どこでも付き合うからさ。さ、行こう」 目的地はスタジオアタルの中のショッピングセンター。言い出したのは桜子。 「見たいものがあるの。だから、付き合ってくれるかな?」 あのデートの次の日の電話。何を見たいかは教えなかった。教えたら…きっと驚くから。 スタジオアタルは駅の目の前。だからそれほど歩かない距離。すぐに着く。 雨だからか、入り口には待ち合わせの人達がうじゃうじゃ。その波をかき分ける。 傘をビニールにしまい、コートについている水滴を払い落とす。靴もびしょびしょ。 とりあえず中に入れば、外の温度との差にほっとする。桜子の顔色も…どこか暗い。 「で、どこに行くの。もしかして映画でも観に行くの?」 「…あのね…うづきちゃん」 足をとめる。下を向いたまま。半身ほど先行しているうづきも足をとめる。 「なに? お姉さんに言ってごらん」 「うん。その、ね…今日はチョコレート見にきたの…」 「チョコって…そっか。桜子甘いもの好きだもんね。それで…」 ひとり漫才は寂しかった。相方は何も言わない。ただ、同じように下を向いたままで。 「…誰にあげるのよ。そのチョコは」 「りゅうのすけ君」 ためらう事なく、彼の名前をはっきりと言い切った。頬がほのかな桃色に染まる。 電話でいろいろ聞いた時、桜子が何を考えているのかわからなかった。 ただ…まだふっ切れていない事だけはわかった。 だけど…時間が解決してくれる。そう信じていた。 「もうやめなよ。彼女もいるんだし…諦めきれないの?」 「…諦めよう、って思ったけど…やっぱり…中途半端のままなんだもの…」 うつむいたまま、唇の前にある軽く握った右手。かわいいしぐさを見せる。 …りゅうのすけは、やっぱり悪い男だな。 うづきはふとそんな事を思う。もし自分が男だったら…迷わず桜子を選ぶのに… 「…そっか。じゃあさ、とびきりすごいの作ろうよ。あいつが後悔しちゃうくらいの」 「うん。でね、お願いがあるの…」 「なーに、なんでも言ってごらん。もう桜子に死ぬまでついていくから」 「…作る時、うづきちゃんの家のお台所貸してほしいの…お母さんに知られたくないの」 「わかった。じゃあ、あさってでいい?」 うなづく。そして、一言だけ。 「ごめんね。付き合わせちゃって」 「まっ、おしるこで許してあげる。それよりも早く買いに行こう」 桜子の手をとる。歩き出したうづきの背中に、桜子はつぶやいた。 …ありがとう、うづきちゃん。 「これなんていいじゃないか」 八十八学園の制服。手にはかばんと傘。学校帰りのいずみ。今日はアタルにお付き合い。 チョコレートの山。この時期はどこにでもある"セントバレンタインデー"コーナー。 ゆびさしたのは、ありきたりのハートをかたどったチョコレート。 「中にさ、メッセージでも書けば完璧じゃないか」 「それじゃだめなの。今年もね…手作りにするつもりだし」 同じく制服の唯。いずみに付き合ってもらっての材料の購入。少し顔が赤くなる。 「いままでも一応手作りであげてたの。でもね、お兄ちゃん受け取ってくれなくて…」 「今年は…さすがにあいつも受け取るだろうな」 少し、どもる。いずみの顔も複雑な表情になった。だがそれも一瞬。笑顔に戻る。 「何年かかったんだ。あいつが唯の気持ちに気がつくの」 「十年…今年はね、きちんとあげるの。そして…受け取ってくれるはずだよ」 唯は照れ笑い。手に持っていた紙袋をぎゅっと胸に抱く様にして、目を細める。 「幸せそうだな…唯」 こくりとうなづく。いずみの心に、わずかばかしの嫉妬の炎。身内には勝てないか… 「さあ、帰ろうぜ。寒くなってくるし」 手に持っていたハートのチョコレート、山に返す。そして早足で歩き出した。 「まってよ、いずみちゃん」 唯は小柄なりに足の速い、いずみの後を追っかけた。 唯の頭の中は、チョコレートを受け取ってくれるはずの人の事でいっぱいだった。 とてもすてきなにおい、お台所。小さな小さなボールの中、チョコレートが溶けていく。 甘いおまじない。特別な魔法。女の子だけが使える秘密のアイテム。そのための儀式。 色々な思いを混ぜて、色々な想いを託して、少しずつ少しずつ。彼のため、自分のため。 パステルカラーのエプロンをまとった桜子。チョコレートをずっと見たまま。くるくるとかき回す。 その動きに自分の何かを封じ込めて。それはとても穏やかな時間。 「うづきちゃん」 「なーに?」 静かな台所、静かな話し声。桜子の声、今日は明るい。鼻歌まででてきそう。 でもいつもとかわらぬ落ち着き。視線はずっとチョコレート。うづきの視線は桜子の背中。 食卓の椅子に座り、それほど動きのない桜子の背中を眺める。 「うづきちゃんはチョコレートあげた事、ある?」 「…ないわよ…あげた事はね。あげようと思った事はあるけど…」 「誰にあげようとしたの。隣の毅君?」 「そっ、中三の時。桜子には黙ってたけどね。ものすごく恥ずかしかったから…」 黙ってしまううづき。いろいろな事を考えてしまう。 「…結局渡せなかったけど。あいつ結構もてたからね、タイミング逃しちゃって…」 「うづきちゃんは、その事後悔してる?」 「…少しはね。ま、今となってはいい思い出なのかもしれないけどさ」 「私…後悔したくないの。りゅうのすけ君の事はね…ちゃんとした思い出にしたいから」 「桜子…」 「思い出にするために…あげなくちゃだめなの。そうじゃなきゃ、後悔するから」 細めた目の中に固い意志。悲しみのつまった光。うづきからは見えない表情。 「桜子…なんだか、かわったね。強くなった気がする」 「…今だけだと思うよ。渡したら…」 渡す前に崩れてしまうかもしれない。今の自分はむりやり作った氷の彫刻。 もらってくれるのかもわからない。りゅうのすけ君は受け取ってくれないかも。 恋人のいる人だから。自分はもう過去の人。ほんの少しのすれ違い。大きなすれ違い。 …もし退院を知らせる事ができたなら…でもしょうがない。もう過去には戻れないもの。 わかっているからせめて、このチョコレートだけでも渡したい。受け取ってもらいたい。 過去は全部閉じこめた。ここにある、すべての想いも閉じこめたチョコレート。 逆転もなにもない、ただピリオドを打つためだけのチョコレート。最後の抵抗。 だから、このチョコレートをあげなくちゃ。渡さなくちゃ。前に進まないから。 …受け取ってくれるよね。りゅうのすけ君。 ボールの中のチョコレート。静かに溶けていく。窓から入る光が桜子をつつんでいた。 作り終わったチョコレート。小さな粒、ていねいに箱に詰めていく。 長い長い時間、渡せなかった想い。その小さな粒の中に、あふれるほどたくさん入れて。 …やっと渡せるんだ。お兄ちゃんに… ようやく自分の想い伝えられたから。振り向いてもらえたから。受け入れてくれたから。 今は恋人。もう他人とか、兄妹とかそんな関係じゃない。長い間望んでいた関係なのに。 …桜子ちゃん…じゃましないでっ! バレンタインデー当日。朝からお兄ちゃんを独占できると思っていたのに… 「お兄ちゃん。二月の十四日、空けておいてね」 夕食の後、りゅうのすけの部屋。部屋の主はベットの上で雑誌をぺらぺらとめくる。 とても読んでいるようには思えないスピード。そのベットの端に唯がちょこんと座る。 最近りゅうのすけは元気がない。原因はもちろんあの日のデート。唯にはわかる。 「二月の十四日、って今週じゃないか。なんでだ?」 「なんで、って…どうしても!」 …わざわざ日付で言ったのに、お兄ちゃんはそういう事に疎いんだから…もう、鈍感! 読んでいた雑誌をむりやり取り上げる。目を見て話をしたいから。 「とにかく、駅に九時だからね。遅れちゃいやだよ」 「午後からでいいだろ? いつもそれくらいじゃないか」 ごろんと体を半回転。唯から目をそらす。返事もどことなくなげやり。絡まれたくない。 「ダメ! お兄ちゃんといろいろ行きたい所があるの」 「…ちゃんと付き合うから、午後からにしようぜ」 「どうして朝からじゃだめなの? きちんと教えてよ」 …それじゃあ予定がだいなしだよ。唯は唯でちゃんと予定を立ててあるんだもの。 だから午後からなんていや。ずっとお兄ちゃんを独占したいんだから。一緒にいたいの。 「…起きられない」 「唯が起こしてあげるよ。それとも何か理由があるの?」 りゅうのすけは何も言わない。唯に背中を向けたまま、身動き一つしない。 「お兄ちゃん!」 「…とにかく午後からだ!」 有無を言わせない、強い口調。また半回転して唯をにらむ。視線を交わしたのは一瞬。 …お兄ちゃんの目、何か隠してる… 雑誌を奪いかえして、唯の視線を遮断したりゅうのすけ。目の中に何かあるから。 …桜子ちゃん…だ。もう会わない、もう関係ない、って言ってたのに… だけど何も言わなかった。りゅうのすけも唯も。 結局午後からのデート。午前中にはきっと桜子ちゃんと会うんだ… …そんな事、許さないんだから。 チョコレートを箱に入れ終えると、後はきれいに包装するだけ。 唯は、かわいらしいみやむーざるの包装紙を取り出すと、箱にあわせて巻いていった。 この前と同じ席、同じ場所。そしてアップルティ。喫茶店"MOMENT"の中。静かな音楽。 今日はいつもより少しは暖かい日。大きい窓から見えるのは雲一つない空。歩く人たち。 待ち合わせの時間までかなりある。 …うづきちゃんの言うとおり、もっと遅くてもよかったのかな… 昨日はうづきの家に泊まった。母親には当然のごとく病気を理由に反対された。 でも、強引に押し切った。なんだか…一人でいたくなかったから。家にはいたくなかったから。 それで、うづきの家にお世話になった。人の家で寝るのは久しぶり。眠れなかった。 だからずっとおしゃべりの時間。いろいろとおしゃべりした。りゅうのすけの事も… 「りゅうのすけ君が振り向いてくれなくても…嫌いになれないし、諦められないから…」 うづきの部屋。川の字になって敷いてある布団。電気を消した部屋。二人見るのは天井。 「マーク外す飛び込みで僕はさっと奪い去る、ってね」 「えっ?」 「押し倒して、モノにしちゃうとかは…だめ?」 言葉以上にうづきの目は真剣。桜子は、うづきを見てまた天井を見た。見知らぬ、天井。 「そんな事しても…振り向いてなんてくれないもの。どうやっても…もうだめなの」 「…桜子」 「でも…いいの。それでもかまわないの。ただ…自分の想いは伝えておきたいから…」 桜子の目は強い。今まで見た事ないくらい…強い。想う事の強さ。恋する乙女の粘り強さ。 うづきはため息まじりに感心する。少しだけでも…大人になったのかな、この娘は。 「…簡単に諦めがつくなら、本気じゃないって事でしょ。やっぱり…好きなんだ」 …そう。りゅうのすけ君が好き。 だから、きちんと言わなくちゃ。きちんと終わりをまとめなくちゃ、だめなの。 いままでなかったほど、今日は充実。なぜか元気。自嘲気味の笑顔。それでもおだやか。 …ふられるために来てるのにね… きっとりゅうのすけ君はこのあとデート。唯ちゃんと一日中歩き回るんだろうな。 …でも、私だって、ひとりぼっちじゃ…ないもの。 「ね、桜子。私さ、明日ひまだから…必要だったら呼び出してよ」 うづきちゃんの言葉、ものすごくうれしかった。私もデートはできるんだから… かんからかんから。扉の上の鈴が鳴る。ごく自然に扉の方を見る。 …りゅうのすけ君… きょろきょろ探す様子もなく、桜子のいるテーブルに近寄ってくる。 少しずつ、どきどきしてくる。やっぱり…特別な人なんだ… 「おはよう、桜子ちゃん」 変らない。ぜんぜん変らない笑顔、声、しぐさ。きゅんとなる。 「お、おはよう。あっ、でも…まだ早いのに…」 どんどん小さくなる声。やっぱり下を向いてしまう。 「桜子ちゃんが早く来てそうだったからね」 …下は見ないって思ってたのに… やっぱりまともに顔なんてあげていられない。いろいろな事考えちゃうから… ウエイトレスに注文をして、上着を脱ぐ。目の前に…あこがれてた…あこがれてる人。 りゅうのすけのコーヒーが来るまで、二人黙ったまま。ただ、黙ったまま。 「…これ…返すよ」 ポケットから出てきたペンダント、アップルティの横に置く。 うつむいたままの桜子。ペンダントに視線をやる。 でも、手には取らない。取りたくなかった…取れなかった。 「…りゅうのすけ君…今日…何の日だか知ってるよね…」 上目使い。りゅうのすけが見えるか見えないかくらい。顔はまだあげられない。 でも、うなづくりゅうのすけはわかった。うん、という返事も聞こえた。 なのに、何も言えなかった。こんな状況でも…やっぱりうれしいから。 りゅうのすけと会っている事。二人きりで会っている事。目の前にいてくれる事。だけど…それじゃだめ! …言わなくちゃだめ。言わなくちゃだめ。言わなくちゃ…だめ! 勇気、用意してきたから。それを使うのは…今、この時。 「…これ…受け取ってほしいの」 自分の横に置いてある、小さな箱。両手でりゅうのすけの前に差し出す。 顔を上げて、しっかりとりゅうのすけの顔を、目を見て。これで最後なんだから… 「…唯ちゃんがいるのわかってるけど…でも…お願い…」 「…ごめん。受け取れないよ。桜子ちゃんも、わかってるなら…受け取れない」 …そう言われると思っていたけど… でも、どうしても受け取ってもらわなければだめだから、今日はしつこく。 「…受け取ってくれないと…りゅうのすけ君の事、諦められない…」 「桜子ちゃん…」 「この中にはね…りゅうのすけ君への思いだけじゃないの。三年間が…入ってるから」 …入院していた三年間。でも…それはりゅうのすけ君との思い出がほとんどだから。 「これ、受け取ってくれないと…私ね、ずっとずっと今を引きずる事になっちゃうから」 …もう卒業しなくちゃいけないから。この思い出から…りゅうのすけ君への想いから。 「…だから…お願い。別に食べなくても、開けなくても…捨てても…いいから…」 涙、そっとたまる。そして、あふれて頬を伝うだけ。泣くなんて…どうして… 拭うつもりはない。ただ、下を向いて目をつぶるだけ。それ以上は…もうできない。 りゅうのすけは何も言わなかった。そっと手を伸ばし、桜子の手に触れる。箱を…取る。 「ありがとう…桜子ちゃん…」 目の前の女の子が泣いているのはわかっているから。その想いを受け止めた。 小さな箱は重かった。だから、そっと胸のポケットにしまいこんだ。なくさないように。 桜子は手を引っ込めても、涙を拭うつもりはなかった。それよりも…言葉が必要だから。 「…りゅうのすけ君の事…好き…でした…」 言わなくちゃいけない事、言いたかった事…あの日からの…すべての想いささげて。 「…桜子ちゃん…俺も…桜子ちゃんの事、好きだったよ」 …もう少し早く会えてれば…よかったのに… 涙は、とまりそうになかった。静かに…音楽だけが流れていった。 一人、窓の外を眺める。大きな窓からは真っ青な空。道を歩く人々。 きっと、さっき彼女が見ていたのと同じ風景。だけど、その女の子はもういない。 過ぎた時間はほんの少しのはずなのに… その場所には、冷めたアップルティの入ったカップがたたずんでいるだけ。 「…ありがとう…今日、付き合ってくれて…」 差し出したハンカチを受け取らず、自分のハンカチで涙を拭いた。 そして、ペンダントを手にした。強く握りしめる。 一度だけ、りゅうのすけの顔を見た。瞬きもしないで。 「…さようなら…りゅうのすけ君…」 彼女に言葉をかけられなかった。喫茶店を出て行くところも見なかった。 ただ、扉の鈴が鳴るのを背中で聞いただけ。あっけないほどの別れ。 でも、最後は彼女、笑っていた。 涙の跡、頬に残して。作り笑いにも見えたけど…本当に笑っていたんじゃないのかな。 ポケットから、渡されたチョコレートを取り出す。本当に小さな箱。でも…重い。 …この中にはね…りゅうのすけ君への思いだけじゃないの。三年間が…入ってるから… 三年間。彼女が病院ですごした時間。大切な時間を病院の狭い個室ですごしていたから。 だから、彼女のたくさんの想いがつまっている。いろいろな想いがつまっている。 ほんのわずかな時間の付き合い。でも二人にはいっぱいの思い出がある。 唯の事も考えた。それでも結局受け取ったのは…思い出にするため。大切な…思い出。 …これ、受け取ってくれないと…私ね、ずっとずっと今を引きずる事になっちゃうから… りゅうのすけも同じだった。彼女への想いを引きずりたくなかった。 彼女の死を聞いて、うやむやにしてしまった想い。起きる前に、完全に眠らせなくてはいけなかったから。 もう少し、お互い早く会えてれば、きっと違う道があったはず。奇跡には遠すぎた。 …だから…お願い。別に食べなくても、開けなくても…捨てても…いいから… できないよ…そんな事… 小さなリボンをほどく。おとなしめの模様の包装紙も、ていねいにはがしていく。 薄い桃色の箱。そっとふたを開けると、ハート形のチョコレートと…メッセージカード。 …ありがとう…か。 チョコレート、一口かじる。甘い甘いチョコレート。りゅうのすけの目は潤んでいた。 喫茶店の外はあまりに明るくて、思わず目を細める。洞窟から抜け出たような感じ。 まだ、目は乾いてないような気がする。まさか…涙なんて…思いもよらなかった。 「お兄ちゃん!」 そして、もう一つ思いもよらない事。唯がいる事。他人を気にしていなかったから。 「家早く出たと思ったら、こんな所にいたんだ。なにやってたの?」 喫茶店の出口のわき。何かを知っている顔の唯。まるで小悪魔のよう。 唯はりゅうのすけの顔をのぞきこむ。りゅうのすけはあわてて顔をそらす。目をあわそうとはしない。 もしかしたら、目が赤くなっているかも… 「…お前こそ…こんな所で何やってるんだよ」 「唯はね…お兄ちゃんしか見えないから…いつでもお兄ちゃんの見える場所にいるの」 照れもなく、笑顔でそんな事を言われると…恥ずかしい。 「…監視でもするつもりか?」 「だって、お兄ちゃんに、だれかがチョコレート渡してたら大変だもん」 「…あのなぁ、誰が俺にチョコレートなんて…くれるんだよ」 言ってて嫌なセリフ。自己嫌悪。しかし唯もどうも意地が悪くなった。誰のせいだか… 「えーっとね…いずみちゃんとか」 「どうしていずみがでてくるんだよ」 「友美ちゃんとか…」 「あのなぁ」 「それじゃあ…桜子ちゃんは?」 「うぐっ…ばっ、ばか言うなよ。彼女とは…」 思わずあせる。くすくす。笑われる。思わず唯の顔を見てしまう。確信犯だと気がついていても…不利。 やっぱり小悪魔。かわいいだけに、ずるい。なにも抵抗できない。 「じゃあ、いまからうそかほんとかチェックするね」 「…お前は俺の事を信用してないんだな」 「はい、目をつぶって…胸に手を当てて。唯が質問するから、きちんと返事してね」 「…聞いてないな」 「うん…ほら、ちゃんとやって。それじゃあ…質問するね」 仮にも公道上。人通りだってけっこうなもの。道の端とはいえ、恥ずかしい。 「今まで何をしてましたか?」 「…お茶してただけだよ」 「ひとりで?」 「…秘密」 しっかりと目をつぶって、胸に手を当てている。はやく終えたい… 「じゃあねぇ…桜子ちゃんとは会いましたか?」 「…知ってるくせに…」 ぼそっとつぶやく。同時に手をおろして、目を開く。そこには、背中を向けた唯。 「知らないもん。お兄ちゃんが桜子ちゃん泣かした事なんて、唯は知らないよ」 「…いじめっ子…」 「…でもね、安心したの。お兄ちゃんは…唯を選んでくれたから…」 振り返って、本当にうれしそうな、いままで見たこともないようなほほえみ、光る。 「…唯」 「唯はね、お兄ちゃんの事…大好き。ずっとずっとずーっと…大好きだよ」 唯は真っ赤。でも、その瞳はしっかりとりゅうのすけを見ている。そらす事はもうない。 …ずーっと、か。 十年間一緒だったんだから…これからだって…変らないよな。きっと変らない。 「…俺も、唯の事…す、好きだ」 消え入りそうな声。でも、正直な想い。今日は…なんのモヤモヤもなく言える気がする。 「お兄ちゃん…」 めったに言わない事を言ったからか、背中がむずがゆい。でも、唯はうれしそう。 「…さてと、デートといきますか」 「うん…お兄ちゃんと…今日は…これからもずっといっしょだよ」 すっ、とりゅうのすけと腕を組んだ唯は、もう離れそうになかった。 …さよなら…桜子ちゃん。 心の中、つぶやく。それが本当の、最後の…お別れ。もう今は…思い出になっていた。 ペンダント。また桜子の手の中。りゅうのすけのぬくもり、少しだけ残る。 両手でぎゅっと握り締める。また…涙。さっきから、同じ事のくり返し。 …受け取ってくれたから…納得しなくちゃ… 渡すものは渡した。言うことは言った。なのに…なんでだろう… …簡単に諦めがつくなら、本気じゃないって事でしょ… でも、これで諦めるって決めたから。もう、りゅうのすけ君からは卒業するから。 …そう、卒業するの。すべてから、卒業するの。 腰を下ろし、海なんて見ないで、ずっと座っていた。波の音だけは、海らしかった。 顔を上げ、前を見る。波、岩場に打ちつけられる。思い出の砂浜ではなく岩場。 砂浜は今日は混雑。みんなふたり組み。だから、すいていた岩場へ来た。 …りゅうのすけ君の思い出は…これだけだから… ペンダントを開ける。悲しいオルゴール。"Memories"。思い出。りゅうのすけ君との… 一つの音が響くたびに、心は静かに悲しみを映す。でも…予定していた事だから。 すっと立ち上がる。ペンダント、閉じるともう一度だけ握り締めて。お別れだから。 …さようなら… 振りかぶって、えい、っと投げた。投げたつもりだった。手の中に…ペンダント、残る。 …捨てられない…だめ…だって…さよならなんて言えないよ… ぎゅっと両手で握ったとたん、力が抜けたようにへなへなとしゃがみこむ。 …りゅうのすけ君…やっぱり…好き…あなたの事、大好きなの… 本当はとめてほしかった。喫茶店を出ていく時、悲しみの中のわずかな希望。 そうならないのはわかっていても…そうなればいいなって、ずっと考えていたから。 …それが後悔じゃない…そうならないために…今日付き合ってもらったのに… わかっていても、結局悔いが残る。わかっていても…どうしようもない事。 …りゅうのすけ君の事なんて…好きにならなければよかったのに… また…涙。声も出さず、しゃがみこんだまま泣いた。波だけが、泣き声を聞いていた。 「…うづきちゃん…私…落ち着いたら帰るね…」 一言だけの電話の後、桜子はどこにいるのかまったくわからなかった。外は暗い。 家には帰ってきていないらしい。うづきの家にも来ていない。探しまわった。そして。 見つけた。うづきの家の近所の公園。もう夜なのに…桜子、ブランコを軽くこいでいる。 やっぱり下を向いたまま、軽く地面を蹴って。前に後ろに、ゆらゆらぎこぎこ。 「…もぉ、探したんだよ。どこほっつき歩いてたのよ…ったく、不良娘が」 桜子のブランコの前に仁王立ち。うづきの声に気がついて、ブランコを止める不良娘。 まるでゾンビみたい。ゆっくりと顔を上げると…真っ赤な目。涙がきらり。 「…うづきちゃん…」 「心配したんだよ…あんたの事だから、途中で倒れているのかと思って…」 「…探してくれたんだ」 探しまわるのに走ったから、はぁはぁ、と息もきれている。額には汗。紅潮した顔。 「おばさんだって心配してたよ。今私のところにいるって言っておいたけどさ」 「…ごめんね、迷惑かけちゃって」 桜子は、潤んだ目でうづきを見上げる。表情が…なんだか痛々しい。また下を向いて、ゆらゆら揺れる。 横を見れば、もう一台の空きブランコ。なんとなく…乗りたくなった。 「…ブランコなんて久しぶり。ここでさ、よく桜子と遊んだよね…」 うづきは空いているブランコに乗る。桜子と同じようにゆらゆら。振り子の最先端。 ふと夜空が目に入る。暗闇と光の点のパノラマ。思わず光に手を伸ばす。 「暗闇から手を伸ばせ、か。たまに夜空を見るときれいだね」 「…本当」 夜空を見上げて、ため息。きれいすぎるから。星が心を貫くよう。光が…痛い。 「ね、桜子…いままでどこ行ってたのよ。さっき来た時にはいなかったのに」 「…海に行ってきたの…ペンダントを捨てようと思って…」 暗闇に溶けこむ小さな告白。そっとペンダントを取り出す。そして、開く。 「…一度ね、りゅうのすけ君にあげたの。私の事…忘れないようにって。 だけど…彼ね、預かっておくって。だから…返してもらったの…このペンダント」 オルゴールの音が、また桜子の心を締め付ける。苦しくなる。でも、閉じない。 「…海に投げたつもりだったのに…投げられなかったの…」 …ペンダント投げたら、ちゃんとお別れになるはずだったのに… でも、手のひらでメロディを奏でているペンダント。お別れは…できなかった。 「…りゅうのすけ君は私の事きっと忘れちゃうと思う。でも…私は忘れられない… 今だって好きなんだもん…どうしてりゅうのすけ君なんて好きになったんだろう」 「…どうしてだろうね。恋に理由なんていらないのかもね」 言葉が見つからない。どうやって答えていいのか、うづきにはわからない。 桜子と同じように、うつむいたままブランコをこぐのが精一杯。 ペンダントを閉じると、静かな世界。ポケットにしまいこむ。 「…ねぇ、うづきちゃん」 「うん?」 「…どうして人を好きになるのかな。恋なんてしなければ…こんなふうにならないのに」 「恋をしないなんて…誰も好きになれないって…さみしいじゃない」 「だって…こんなに苦しくなるんだもん。それなのに…」 せつなくて、せつなくて、胸が痛むほど。いとおしくて、悲しくなる。また、泣く。 うづきはブランコからおりると、桜子を抱きしめた。冷え切った体。 心まで冷えきったらかわいそうだから…胸を貸す。暖めてあげる。 同情でも、今できるのはそれだけだから。 「…涙が止まらなかったの。どうしてもどうしても…止まらなかったの」 今もまだ、涙は止まっていない。指でなでるようにして拭う。そして…泣くだけ。 「今は泣くだけ泣いちゃいなよ。やることやったんだから…」 恋への答えは出せぬまま。ただ、抱きしめて、慰めて、そっと栗毛を撫でてあげる。 暗闇に光る星たちは、そんな二人を見つめていた。明日は…きっと晴れるから。 快晴。暖かい病院の待合室。窓からは柔らかい光。桜子のきれいなシルエットをつくる。 公衆電話。一度電話を切る。そしてまた受話器を取って、テレホンカードを差し込む。 パピポ、とボタンを押す。報告のため。連絡のため。待ち合わせのため。顔には笑み。 …実感…わかないな… 呼出音を聞きながら。はれあがったまぶた、なでる。 昨日泣きすぎたから。飲み過ぎたのも…原因なのかも知れないけど。 でも、悪い日もあればいい日もある。電話、つながる。 「もしもし、川部ですが」 「あ、うづきちゃん。桜子です」 声に影はない。あるのは、光。喜びがほのかににじみでる。 「桜子…どうだった? 病院間に合ったの?」 「うん。お母さんが法律やぶってくれたから」 うづきの笑い声が聞こえる。時間がなくて、病院まで自動車で飛ばしてくれたから。 「よかった。遅れたらどうしようかって思ってた」 「実はね…よかった事、もう一つあるんだ…」 「二日酔いがばれなかったの?」 昨日は結局うづきの家に泊まった。公園でさんざん泣いた後も落ち込んでいる桜子。 なんとかして元気づけようと持ちだしたのがお酒だった。うづきの父親秘蔵の日本酒。 ほとんど空けたところで二人とも寝てしまい…二日酔い。検査がある事なんて忘れてた。 「それあるけどね…もう通院もしなくていいって…先生が言ってくれたの」 眼鏡をかけた、やさしいお医者さん。とってもうれしそうにそう言ってくれた。 「それって…つまり、病気が治ったって事なの?」 「…うん」 病気である事が続いていたから、実感はわかなかった。だけど…うれしい。知らせたい。 「…おめでとう。本当に…よかったね」 「…ありがとう、うづきちゃん」 …昨日あれだけ泣いても…涙って、でてくるんだ。 言葉は少なかったけど。うれしかった。はれぼったいまぶたの事、すっかり忘れて思わず涙ぐむ。 昨日から泣いてばっかり。日の光で輝く涙。でもそれは、昨日とは違う涙。 「…もう。桜子はすぐ泣くんだから」 「…どうして…わかったの?」 「長い付き合いなんだよ。何してるかぐらいわかるって」 …病気とのお付き合いは…終わり。もう…卒業しなくちゃ。 ふと思い浮かぶ彼の顔。でも…もう終わった事。卒業した事。思い出の彼方へ。 思わぬ事でふっきれそうだった。完全に終わらす最後のチャンスかも。 「ところで、さ。桜子はこの後はあいてるの?」 「…えっ…今日、って事?」 「そ。あいてるなら、これからお祝いしようよ。完治祝い。まあ飲まないと思うけど」 「うん…本当は私のほうから誘おうと思ってたの…でも、お酒ないのは残念」 くすくす。桜子とうづき、同じように笑う。今日は大騒ぎして…昨日までの卒業式。 「えっとね…じゃあ如月駅に三時でいい?」 「うん」 「じゃあ、後でね。ちゃんと来るんだぞ、待ち合わせなんだから」 「うん…また後で…それじゃあ」 受話器を置く。出てくるテレホンカードを取り、窓の外を見る。青空。桜子の心のまま。 …ありがとう…うづきちゃん… ポケットにテレホンカードをしまう。ふと触れたペンダント。今は大切なおまもり。 前を向いて、胸に太陽をあてるように歩き出す。もう昨日までとはお別れだから。 これから…待ち合わせ。 (了) (1996. 5/26 ホクトフィル) |
[戻る] |