小説
2002. 1/ 8




春を待つ季節-後編-〜Side Stories From ClassMate2 #3〜


1/7(月)
 「桜子、どこに行くのよ。今日は検査の日じゃないでしょう」
お母さんのあきれた声にも、桜子は反応しなかった。
靴を履き終えて立ち上がると、振り返りもせずにドアノブに手をかけた。
鍵がかかっている事に気がついたのはその時。
「まだ完治したわけじゃないのよ。ぶり返したらどうするつもりなの」
「…心配しないで。すぐに戻ってくるから」
鍵をひねると、桜子はそれだけ言った。腰に手をあてて、納得いかないお母さん。
昨日から、様子のおかしい愛娘。なにがあったかは知らないけれど…どうしたのかしら。
「…いってきます」
母親の言葉を少し待っていたが、何も言う事はないらしい。
だから、ゆっくりとドアを開けた。
お昼前のお日様は温かそうな光なのに、空気はとても冷たかった。
その中に浮かび上がるシルエット。綺麗すぎる影には、大きな決意がうっすら見えた。
だから、お母さんはあきらめる。この様子では、止めてもむだだと悟ったから。
「わかったわ。勝手になさいな。けど、どこに行くのかくらいは教えなさい」
「…八十八町まで行ってきます」
「夕方までに戻ってくるのよ。それだけは絶対に守りなさい」
仁王立ちのお母さん。こくんとうなづく桜子。
ようやく見せた瞳は、とても澄んでいた。

 八十八駅のホームに、もどかしいほどの速度で二両編成の電車が滑り込んできた。
平日のお昼という事もあってか、ホームで待つ人も、電車に乗っている人も多くはない。
大きな空気の音。そして、ゆっくりとした扉の動作。
ばらばらと、車内から吐き出された乗客は、皆、改札に向かっていく。
ベレー帽を深めにかぶった桜子が、その中にいた。
この駅が終点である事を告げるアナウンスの中、うつむきながら、こじんまりとしたホームを歩いていく。
最後方に乗ったから、改札まではそこそこあった。
…午後には、帰ってくるはずだよね。
駅には、赤と黄のチェックのスカートが目立つ。立ち話やら座り話やら、楽しそうに。
今日は八十八学園の始業式。授業があるわけではないから、もう終わっているだろう。
彼が真っすぐ帰宅していれば、家の前とはいかなくても、インターホンで呼び出せる。
ポケットから切符を取り出して、右手の中で軽く握った。
いろいろと想像しては、そのたびにお腹がちくちく痛む。心臓がどきどきと高鳴る。
朝からこんな感じだった。
胸を押さえ、大きく深呼吸。彼の名を口の中でつぶやいて、わずかに顔が強ばった。
「桜子っ!」
自分の名前を呼ばれたら、自然と顔を上げてしまうもの。声は、真正面からだった。
改札を走り抜けて、手を振りながら駆け寄ってくる、八十八学園の制服を着た女の子。
「…うづきちゃん。始業式、終わったの?」
桜子はホームの中ほどで足を止めた。
思わぬ人との出会いに、顔の筋肉が緩むのがわかった。
うづきもまた、桜子の前にぴったり止まった。友達も、桜子と同じく笑顔だった。
こうして並ぶと、うづきの方がわずかにわずかに高い。だが、気になるほどではない。
「そーよ、久々の学校で疲れちゃったよ。桜子の方は…やっぱり病院?」
「ううん。そうじゃないんだけどね…」
桜子が首を横に振り、ほほ笑んだ。小声なのは変わらないが…どこか変に思えた。
「ふーん。ところでさ、昨日はどうだった。十分に楽しんできた?」
原因があるとすれば昨日のデート。電話もなく、うづきは少々心配していたのだ。
だが、桜子は恥ずかしそうにまつげを伏せて、目の下あたりを桃色に染めるだけ。
「その様子だと、十分楽しんできたみたいね」
黙して何も語らず。だが、どう考えてもつまらないデートではなかったのだろう。
どんな事があったのかはわからないが、この様子だとキスぐらいはしてきたのかな…
娘の成長を見守るようなうづきの視線。桜子が顔を上げたから、交錯した。
「あのね。これから…告白しに行くの」
胸にあてた手が、ぎゅっと握られた。真面目な瞳が、うづきをさらに驚かせた。
それだけ伝えた桜子は、またうつむいた。うづきもしばらく口を開けなかったが、
「…そっか」
と、一言だけ返した。そしてそのまま、耳を真っ赤にしている桜子を見つめた。
いままで感じた事のない雰囲気。瞳だって、あんなに輝いていた事なかった。
りゅうのすけに恋をして、デートして…告白だって。大晦日まで入院していたのにね。
普通の女の子、にこだわった桜子。けど、今は立派に普通の女の子の恋をしていた。
うづきは自然とほほ笑んでいた。そして、桜子の肩に手を乗せていた。
「大丈夫だよ。今の桜子なら…絶対に振られる事、ないよ」
「…そんなのわからないよ。けどね、それならそれでいいって思ってるから」
桜子の表情は、なんともすっきりしていた。恋の決意をしたから、気分もいいのだろう。
だから、気休めみたいな事を言った自分が恥ずかしくなる。けど、それは本音だった。
「ごめん。だったら前言撤回する。けどさ…今の桜子を振る男なんて、いないと思うよ」
「…どうして?」
「すごく魅力的だもん。本当に綺麗だよ、今日の桜子は」
最初は笑っていたが、うづきの目があまりにも真剣だったから、桜子はうん、とうなづく。
「ありがとう、うづきちゃん」
「あいつね、たぶん、もう学校から帰ってると思うけど…家の住所、わかってるの?」
「…うん。大丈夫。昨日ね、りゅうのすけ君の家に行ったから」
うづきが肩から手を下ろした。桜子の瞳をじっと見つめて、そして、一言。
「がんばってね、桜子」

 逃げているわけではないけれど、素直に告白をしに行くには、少々勇気が足りない。
それに、昨日の夜から決めていた。彼の家に行く前に、絶対に寄り道していこうと。
黒い土。そして、小さいみかんがひとつ置いてあった。桜子が供えた物とは違う物。
桜子はしゃがむと、ベレー帽を太ももの上に置いた。黄色の花を一輪、そっと添えた。
なんとなく賑やかなお墓。だが、桜子は神妙な面持ちで、土の頂をじっと見つめている。
「ねぇ、ターボ」
しばらく、自然の音しか聞こえなかった裏庭。桜子の声がしたのは、風がやんでから。
見えない友達の名を呼ぶ。だが、ここにいてくれる。だから、話しかける。
「私ね…これから、りゅうのすけ君に告白しに行くの。恋人にして下さい、って」
本番のように頬を染め、上目づかいになったのは、緊張のせいだけではない。
「昨日、眠れなかったんだ。だめだって言われたらって…今だって、本当は怖いの。
だから、りゅうのすけ君の前に出たら…告白なんてできなくなっちゃいそう」
眠ったような眠っていないような、そんな夜。考えていたのは、ずっとずっと今日の事。
本音は…とても怖かった。自分が舞い上がっている事がわかっているから怖かった。
彼の本当の気持ちはどうなんだろう。昨日の事は…どう思っているのだろう
こんな風に思っているのは自分だけかもしれない。だから、それが怖かった。
前に進む。その先に何があるのかなんてわかりっこない。けど…立ち止まってはだめ。
今、に満足できない。彼、を手に入れたかった。自分だけのものにしたかった。
「お願い。その時はね、ちょっとだけ勇気を貸してほしいの。本当に、お願いします」
桜子はそっと両手を重ね合わせた。
北風に揺れる木々のざわめきが収まるまで、目を閉じていた。
まるで、神様にお願いするような、どこか厳粛な雰囲気に包まれていた。
「ごめんね、頼りっぱなしで。でも…どうか、お願いします。りゅうのすけ君の…」
一筋の光が、小さな森の小さな丘に突き刺さる。まるで、神様が降りてきたようで。
ふと空を見上げた。この季節には、灰色の雲か今日みたいな澄んだ青空がよく似合う。
幹と枝と葉。そして、北風と太陽。小さい森が、桜子にささやいた。だから。
また、お祈りの姿勢をとった。
ターボになのか神様になのか、桜子にもわからなかった。

 黒いインターホンの白いボタン。じっと見つめて、ごくっ、と生唾をのんだ。
右手を握ったり広げたりしてから、意を決したように、ようやく人指し指を伸ばす。
目的のボタンまで、ほんのわずかな距離なのに、桜子の指はいらつくほどに遅い。
その先端がボタンに触れた。あと少し、力を込めれば呼び出し音が鳴るはずだった。
震える指先。緊張しているからか、呼吸をする事すら忘れてしまっている。
…りゅうのすけ君…
目をつむり、大きく息を吸い、えいっ、とボタンを押した。
いや、押したつもりだった。
…だめ…
肺にため込んだ空気を一気にはきだすと、どきどきしている胸に手をあわせた。
どうしても押せないボタン。さっきから、何度も何度も繰り返している行為。
自分の気持ちはもう決まっていた。危惧していた、同棲している女の子もいなかった。
だから、彼を呼び出す。そして、恋人にして下さい、と言うだけの事。
その、最初の一歩がどうしても踏み出せなかった。
漠然とした不安は、複雑な絡み合いからだった。
…どうしよう。
あきらめたわけではないが、人の家の前でうつむいているわけにもいかず、
桜子は普通の通行人を装って歩き出すふりをした。
ゆっくりと、彼の家に沿って。
一階の半分は、大きなガラス張りの喫茶店。広くはないが、こじんまりと、いい雰囲気。
お客は、背広を着た男がふたりだけ。奥のカウンターには、綺麗な人が仕事をしている。
あの人が美佐子さんという人。彼の母親がわりのような、そうでないような人らしい。
そして、その娘が唯さん。彼の妹のような同級生。同棲の噂になった女の子らしい。
詳しくは聞かなかった。彼もまた、話そうとはしなかった。
そのかわり、一枚の写真を見せてもらった。もちろん、それだけではよくわからない。
けど、彼を信じている。
複雑な彼の家の環境。そこから生まれた誤解と優しい彼。写真を見せた時のさみしい瞳。
足を止め、じっと店内を見ていたからか、気がついた美佐子さんが急に顔を上げた。
ガラス越しに目が合い、桜子は逃げ出すように死角に消える。
そしてまた…自然とインターホンの前に立つ。お腹のあたりがちくちくと痛みだした。
猫背気味に下を向く。玄関へと続く道。そして、そのまま顔を上げていけば彼の部屋。
いるのかどうか、ここからはわからない。でも…確認をしない事には話にならないのだ。
せめて今日だけでも、積極的に、後悔しないように、やれるだけの事はしよう。
そう決めたのは自分自身。だから、とにかく押してしまおう。前に進もう。
待つのは…いや。
…胸を太陽にあてるようにするの…
空が見える。青い空。そして、太陽。桜子は目を閉じて、大きく二度、深呼吸をした。
冷たい空気。熱い頬をさする北風。ゆっくりと目を開けると、指を伸ばした。
そして…今、一番頼れる人の名を呼んだ。桜子の、最後の切り札だった。
「ターボ。お願い…背中を押して」

 受話器のコードを指に巻いて遊ぶ。呼び出し音が区切れるたびに、呼吸がとまる。
五度目の呼び出し音。だが、まだ出なかった。六回目が始まろうとした瞬間。
「もしもし、川部ですけど…」
その声に、桜子はなぜかほっとした。そして、自分の名前を告げた。
どうしても彼女にだけは伝えておきたかった。どうしても誰かに話しておきたかった。
今日の事、今の気持ち。喜びを他の誰かと分かち合いたかった。
廊下に座り込んで、久しぶりの長電話。夜遅くまで、桜子の笑顔は絶えなかった。

 寝る前に、小鳥の事を思い出した。また明日、お墓参りに行くからね、と約束した。

(了)


(1997. 8/15 ホクトフィル)

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