小説
2002. 1/ 8




男の戰い〜Side Stories From ClassMate2 #4〜


 グランドの真ん中に作られたのは、円形の特設会場、ウイナーズサークルです。
八十八大障害(秋)に勝った人のみが立つ事を許される、いわゆる表彰台なんですよね。
その中に、今回の優勝者である西御寺公がいてるんです。
その横にはいずみちゃんがいてますし、担任の片桐先生までお呼ばれしているんですよね。
校長先生のお褒めの言葉や、PTA会長さんのお話が今、ようやく終わりました。
だからみんなでそわそわしてうきうきして、まだかまだかと押すな引くなの状態です。
「それでは、西御寺選手に優勝盾の贈呈です。舞島可憐さん、お願いします」
アナウンサーの一言に、地鳴りがしました。
今世紀最後の清純派、歌もドラマも大丈夫、トニービンにダイナアイドル、
そうです、我らがスーパーアイドルの登場なんです!
ロックバンドの演奏の中、ウイナーズサークルへと続く赤いじゅうたんの上を、
たくさんのガードマンに守られた女の子が歩いて来ました。
もちろん、可憐ちゃんなんです。
ぱしゃぱしゃとフラッシュ攻撃です。なぜかマイクが伸びてきます。
あれは…テレビカメラのようですねぇ。しかも、生半可な数ではありません。
体育祭なんですけどねぇ。
「可憐ちゃーん」「やっぱかわいいっ!」「俺と握手をしてくれー」「サインをー」
「この前の噂は本当なんですかぁ?」「可憐ちゃんこっち向いてー」などなど。
いつもなら、笑顔を振りまく可憐ちゃんも、今日はさすがに恥ずかしそうです。
身体を小さくして、どこか硬い笑顔を作って、てくてくと表彰台に向かいます。
本当は普通の生徒として参加したかったようですが、
さすがに売れっ子芸能人ともなれば、そういう事は許されませんでした。
しかし、ジャージとはねぇ…とほほ。
可憐ちゃんは大歓声の輪をくぐり、今、ようやく西御寺公の前にたどり着きました。
実は、こうして可憐ちゃんをまじまじと見るのは初めての事なんです。
メディアの可憐ちゃんの方が本物っぽく思えてしまうのは、ちょっと悲しい事なのかもしれません。
もっとも、見つめあうような時間はありませんでした。
隣にいる、マネージャーさんのひかりさんから盾を受け取ると、西御寺公にすぐに差し出すんです。
「西御寺君、おめでとう」
あきらかに、営業用の声と笑顔なんです。
そういえば、盾を渡す仕種もどこか投げやりでしたからねぇ。
でもまぁそれも仕方なしですって。
単位と出席日数の確保のためには、こういう営業もいたしかたないんですよね。
もっとも、ひかりさんは「まったく利益にならない営業なんて無駄もいいところだわ」とご立腹の様子でしたが。
「あ、ありがとう。可憐さん…」
そして、盾を受け取った西御寺公の方もすっきりしていないようです。
奥歯に銀紙を詰めてかみかみしたような、そんな笑顔なんですもん。
女の子からの黄色い声も、男の子からのやっかみの声も、どこか遠くに聞こえます。
よもすれば、盾の重みすら忘れてしまいそうな感じなんです。
心ここにあらずみたいに、ぼけーっとしちゃいます。
可憐ちゃんは、ぺこっ、とおじぎをすると、来た道を戻っていきます。
ですが、その動きは、西御寺公の視界には入っていません。やんややんやも聞こえはしないんです。
「僕は…本当に勝ったのか?」
あたぼうよ、と天使さんがうなずきます。
いいえ、と悪魔さんがかぶりをふります。
「何ぬかしてるんだよ。勝ちは勝ちじゃんかよー。そんなの関係ないだろうが」
「違います。勝負に負けてレースに勝っただけです。ご自分でもお分かりでしょう」
「お前、悪魔のくせにそういう事言うか?」
「君こそ、天使さんにしては擦れた考え方をしますね」
なんだとー、と天使さんが頭上の輪に手をかけました。悪魔さんも臨戦体制なんです。
けれど、一触即発の大ピンチも、西御寺公は興味がないようなんです。
ふとお空を見上げました。
まだまだ明るくても、肌に触れる空気は少しづつ冷たくなってきました。
楽しみにしている夜まで、あともうちょいなんです。
でも、だけど…どうにもすっきりしません。
なんでしょうか、この心のしこりは。
「それは、次に体育教官賞の授与です。天童先生、お願いします」
表彰式はまだまだ続きます。
そして、西御寺公の心のしこりもまた、残ったままでした。

 最終コーナーをカーブして、最後の直線なんです。後続との差はかなりあるんです。
セーフティリードとはまさにこの事。
ですが、りゅうのすけ君は脚を緩めません。
最終競走は全員リレーです。
八十八大障害(秋)のりゅうのすけ君後着で、あまりポイントを稼げなかった三年B組です。
おまけにその後の競走で、三クラスほどが追い上げてきて、これがまさに最終決戦。
落とすわけにはいかない競走なんです。
そして、短距離走者が揃っている事もあって、今、まさにトップなんです。
りゅうのすけ君もへろへろながら、全力疾走しているんです。あと少しで開放されるんです。
長い長い前髪のすき間から、次の走者が見えました。
なんとも形容しがたい髪形の…あえて言うのなら、やじろべえヘアの女の子です。
分厚いぐりぐり牛乳びんレンズ眼鏡に、秋のさみしげなお日さまが反射しています。
白く見える肌が、少しばかり赤らんでいます。
この娘なりに緊張しているみたいですねぇ。
りゅうのすけ君は手前を変えて、バトンを受け渡す準備をしました。
しましたけど…一瞬、ポケットに左手が入った事に気がついた人はいてませんでした。
バトンゾーンに入りました。
りゅうのすけ君は左手を差し出しました。女の子は、当然と言わんばかりにそれを受け取りました。
そして、走り出したんですけど…
なんていうか…違うんですよね。
手触りも重さも長さも、なにもかもが違うんです。
だいたい、なんで手の中で動いているんでしょうか。しかも、ぷるぷると震えています。
嫌な予感、なんていうのはこういう時にするものなんでしょうね。
全力で走りながら、恐る恐る左手のバトンに視線を運びました。
そして。
「きゃーっ!」
甲高くて、遠くまで届きそうなその声は、まるで女の子の悲鳴のお手本みたいでした。
だから、走っている選手は脚を止め、記録をしていた人は筆を止め、
応援していた人はぼんぼんを下ろして、みんなそろってその女の子に注目しました。
腰を抜かしたように、地面にぺたんとおしりを付けて、女の子はまだ驚いているようです。
彼女の目の前で、明らかにバトンとは違う紫色の物が、うにうにと動いていました。

 ちゃぶ台をひっくり返したような大混乱も、今、ようやく納まってきました。
理由はもちろん、りゅうのすけ君のバトン替え玉事件なんですよね。
特に、体育科の天童先生なんて、閉会式を延長してまでも犯人逮捕にやっきになっていたんです。
ですが、相手はりゅうのすけ君。そう簡単には見つからないんですよね。
結局、時間も押している事から、犯人逮捕はあきらめる事になりました。
閉会式もそこそこに、体育祭実行委員会の人たちは、後夜祭の準備を始めているんです。
残念な事に、りゅうのすけ君と西御寺公と唯ちゃんといずみちゃんと友美ちゃんと可憐ちゃんと、
その他たくさんの方々の在籍している三年B組は、二失格を記録してしまい三着でした。
でも、りゅうのすけ君の事を悪く言う人はほとんどいませんでした。

 気がつけば、外は暗くて、夜になっていました。お月さまがふんわりと輝きます。
りゅうのすけ君や西御寺公が駆け抜けたあの大竹柵障害も、いつの間にか取り払われて、
大きな木組みがずでんと置かれているんです。
いわゆるキャンプファイアーです。
今、その周りには人がたくさん集まって、点火を待ち焦がれています。
だって、とても寒いんですもん。
ほとんどの人が体育着のままですから、上にジャージを重ねた程度では、
秋の夜には太刀打ちなんてできっこありません。みんなぶるぶるしているんです。
あ、奈良先生がやってきました。
すると、どこからともなくカウントダウンが始まるんです。
OS8が発売された時のように気分が盛り上がっていくんです。そして。
ゼロっ!
天をも焦がしそうなほどに高くてまぶしくて熱い炎が、一瞬にしてつきました。
大きな拍手と歓声が巻きおこります。
その瞬間、世界は赤と黒の二色によって支配されました。
まだダンスは始まらず、ざわざわしています。そんな中、人を捜す西御寺公です。
右を見れば一年生の男の子たちと女の子たちがきゃっきゃしてます。
左を見れば、早くもあつあつらぶらぶべたべたな三年生のカップルです。
ああ、どこにもいませんねぇ。
一度足を止めます。
何度か炎の周りを回ったせいか、少し息が切れています。
でも、いないはずはありません。
約束を破るような事は、絶対にしないはずなんです。
ふと顔を上げると…いました。
あの影を、リボンの影を見間違えるはずがありません。
体力が回復していないせいか、まだふらふらしながらその人に駆け寄って行きます。
そして、何度か深呼吸をして、強引に息を整えます。
その人の名前を静かに呼びました。
「捜しましたよ、唯さん」
背中から声をかけられたせいか、唯ちゃんは電気ショックを受けたように跳ねました。
少しためらいがありましたが、それでも振り返らないわけにはいきません。
「…さ、西御寺くん」
一瞬だけ視線を交錯させて、あとはまつげを伏せてしまいます。指先が落ち着きません。
唯ちゃんだって覚悟はしてました。
でも、大きなリボンの影は、元気なく垂れています。
「唯さん…」
うつむきがちなお姫様を、じっと見つめている西御寺公です。
どうしてもどうしても踊りたくて、自分のものにしたくて、
りゅうのすけ君までひっぱり出して、それでようやくここまできたんです。
やましい事はないはずなんです。
なのに…どうしても言えないんです。踊っていただけますね、と言えないんです。
ちろちろと揺れる炎が、向かい合うふたりの影をゆらゆらさせます。
ですが、ふたりは動きません。下を向いたままの唯ちゃん。それを見つめる西御寺公。
真っ赤です。
音楽が始まりました。最初はどうやらサラブレッドマーチのようです。
炎を中心にして、若人たちはその青春の情熱をほとばしらせようと、輪になって踊り出しました。
唯ちゃんは、激しい影の動きに合わせるように顔を上げたんです。
口を開いたんです。
「…あのね…」
甘えたような不安そうな表情は、いかにも気持ちが煮えきらないのでしょう。
でも、音楽に掻き消されそうな小さな声は、西御寺公にははっきりと聞こえました。
そして、すぐにうつむいてしまった唯ちゃんの言いたかった事も、はっきりと聞こえたんです。
だから、今度は西御寺公が口を開く番です。
静かに、それでもしっかりとした声です。
「残念ながら…僕は唯さんとは踊れないようですね」
「えっ?」
「あのあほがどこにいるのかわかりませんが…約束では仕方がないでしょう」
さっきまでの、悪徳代官に差し出された娘のような、政略結婚をせざるを得ないお姫様のような雰囲気はどこへやら。
とてもとても嬉しそうに、唯ちゃんは瞳を輝かせます。
「西御寺くん、ありがとう!」
「ははっ。男として当然の事でしょう」
そうです。当然なんです。でも、やっぱりちょっと悔しいんですよね。
だから、唯ちゃんに背を向けて、赤く染まるお空を見上げるんです。
あっ、お星さまが見えますよ。
「僕が甘いのかもしれません。ですが…今の僕では唯さんをエスコートする事はできませんから」
でも、負けを引きずるわけにはいきません。次につながる負けにしないといけないんです。
だから、振り返りざまに白い歯をきらりと輝かせて、敗者とは思えないような笑顔を見せる予定でした。
でも、どこかさみしそうな瞳を見せれば、唯ちゃんだってうっとりするはず、
と作戦は完璧だったはずなんですけどねぇ。
「そのかわり、クリスマスパーティでは踊っていただきますよ」
振り返る時の指先の仕種。視線の送り。つま先の方向。伸ばした後ろ髪にかかる遠心力まで、もう、完璧すぎました。
西御寺公のファンならば、絶対に失神ものなんです。
実際、西御寺公だってナルシストらしく思わずイッてしまったくらいなんですから。
でも、だけど…唯ちゃんはその場にはいませんでした。
考えてみれば、あのいずみちゃんを敗っているんですもん。
そりゃ走り去るのだって早いに決まってますもんね。
「…あの…唯さん?」
きょとんと、お間抜けな表情の西御寺公です。
グランドに吹いた風は冷たかったですね。

 かび臭い体育倉庫の、じめじめとしたマットの上で寝ているりゅうのすけ君です。
もはや気分は逃亡者。
いや、実際に追いかけられているんですからそうなんですけど。
そのわりには…いびきをかいて寝ちゃってます。
あーあ、こりゃ爆睡中のようですね。
両手の位置がいかにも居眠りな感じで…あ、内股をぽりぽりぽりなんてやってます。
だから、やたらと重くて、不快指数の高い金切り音を立てる扉が開いても、
まったくもってなにがなんでも絶対に全然気がつかないんですね。
扉のすき間から、ふたつのモノアイが光ります。
そして、くすくすと笑い声がします。
「みーつけたっ!」
小さいさくらんぼ声のあと、広くはないすき間から、ぴょこんと飛び込んできたのは当然ながら唯ちゃんなんです。
さすがにお月さまが綺麗な時間ですから、生足では寒いのでしょう。
ちょっと残念ではありますが、しっかりと緑色のジャージを身につけちゃっています…
ってなんかこればかりですね。
りゅうのすけ君の激しい寝息を何度か聞いてから、唯ちゃんは背中の扉を閉めました。
そして、抜き足差し足忍び足、りゅうのすけ君の隣にちょこんと体育座りです。
「今日のお兄ちゃん、すごくかっこよかったよ」
相変わらずのぐーぐーがーがーに、とても無邪気な寝顔に、こっそりと忍び笑いです。
この寝顔だからこそ、ふたりきりだからこそ、聞こえていないからこその独り言です。
いつもなら、こんなふうにできないんですもん。不思議な幸せで一杯になります。
ふと、小さい天窓を見ました。
鉄格子ごしに、お月さまとお星さまの輝く夜空が見えます。
そして、この部屋にもおこぼれが入り込んできています。
その柔らかくてほのぼのとしている光が、りゅうのすけ君のすね毛を綺麗に染めているんです。
唯ちゃんは、りゅうのすけ君の足先からつむじまで、なめるように視線を移動させます。
体育着姿だからでしょうか。
いつも以上に子供っぽく見えて、それなのにうっすらと筋肉なんかが浮かび上がってます。
自分とは違うんです。お兄ちゃんは男の子ですもん。
寝顔は相変わらず気持ちよさそうです。
ちょっと垂れたよだれも、いい味を出してます。
「本当に…かっこ、よかったんだから…」
唯ちゃんがつぶやきました。
恐る恐る右手を出して、りゅうのすけ君の頬に触れました。
熱っぽい唯ちゃんの手の平は、りゅうのすけ君の冷えきった肌をしっかりと感じます。
いつもなら、お兄ちゃんに触れる事なんて絶対にできません。
でも、今はこうして感じられるんです。
それに…お兄ちゃんはまだまだぐーすかぴーと寝ているんですよね。
「おにい…ちゃん…」
ああ、どうしちゃったのでしょうか。
唯ちゃんの目がいきなりとろんとしだしたんです。
まるで悪い事をするかのように、右を見て、左を見て…そしてまた、寝顔をのぞき込みます。
りゅうのすけ君は、どう考えたって唯ちゃんに気がついてはいないんです。
だから、心臓がどきどきしはじめるんです。生唾ごくんです。
そして、唇を湿らせます。
呼吸が自然と止まりました。まばたきの回数が増えました。
唯ちゃんが決断しました。
「お兄ちゃん…大好き…」
りゅうのすけ君の顔の上に覆いかぶさるように、自分の顔を真上に位置させました。
小さく開いた唇の奥が、またもや鳴りました。艶めかしいまでに唇を濡らします。
ふたりの影はお月さま色。
だんだんと、その影は重なって濃くなっていくんです。が…
「くぅうぉらーぁっ!」
「ひっ!」
まるでホラー映画です。
なんの前触れもなく、しかも、目がかっと見開けば、もともとどきどきしていた唯ちゃんは、
お空に飛んでいってしまいそうなほどに驚くんです。
もはや計器では計れないほどに鼓動は激しくなっています。呼吸も荒いんです。
実はちょっぴり涙も出ちゃいました。腰だって抜けちゃって、立ち上がれないんですもん。
そりゃそうでしょう。こそこそと、そういう事をするからです。
「きっきっきっきっきっきっ」
奇妙な高笑いをしたかと思うと。りゅうのすけ君がようやく上半身を起こしました。
でも、その仕種もどこかゾンビさんみたいに堅い動きなんです。
「お、お、お兄ちゃん…驚かさないでよぉ!」
まだどきどきの収まらない唯ちゃんが、右手を上げて文句をつけます。
本当に、本格的に驚かされてしまったのですから、それくらいしないと気がすまないんです。
ところが、りゅうのすけ君はにらみ返してくるんです。
これまた、別の意味で恐いんですよね。
がんくれたまま、ふん、と鼻息が荒いところを見せるんです。
「ばか。驚いたのは俺さまの方だ。まったく…人の貞操を奪おうとしてからに」
「…えっ?」
どきん、と唯ちゃんの心臓が飛び出します。
だって、りゅうのすけ君は寝ていたはずですもん。
それとも、唯ちゃんに気がついて、寝ているふりをしていたのでしょうか。
だったら…聞かれちゃったかもしれません。
ああ、いきなり沸騰してしまう唯ちゃんです。
でもでも、りゅうのすけ君の仕種は明らかにおかしいんです。
おかまさんみたいに、右手を左の頬に当てて、わざと生肩をはだけさせているんです。
足を崩して女の子座りまでしています。
そして、なよなよっとしたまま、変に裏返った声を出すんです。
「初めては心のあの人にささげるんだから、唯なんかにはあげられないわ」
月明かりに照らされて、流し目なんてしてしまうりゅうのすけ君です。
それでようやく冗談なんだと気がついた唯ちゃんです。
なぜかかーっとして、むきになってしまいます。
「ゆ、唯だっていいじゃない」
「やだ」
「…お兄ちゃんの意地悪っ!」
唯ちゃんの言葉に、りゅうのすけ君はいーっと舌を出して、ふん、とそっぽを向いてしまいました。
そういう仕草は、本当に子供みたいなんですよね。
だから、唯ちゃんは胸をほっとなで下ろしながら、くすくすと笑い出します。
どうやら本当にばれていないみたいですからね。
でも、それはそれでちょっと残念だった気もするんですけどね。
「それより、本当はなにしようとしてたんだ?」
はだけた肩を直しながら、急に男の子に戻るりゅうのすけ君です。
ぎろっとにらむ視線が、唯ちゃんにはとてもとてもいたいいたいなんです。
思わずたじろいじゃいます。
「なにって言われても…」
そういう事を聞かれると、答えに困るじゃないですか。
ましてや本当の事なんて、絶対に口が裂けきったって言えるわけないじゃないですか。
仕方がないので、へへへっ、と薄笑いします。
りゅうのすけ君は視線をそらさずに、じとーっと唯ちゃんをにらみつけていましたが、
「わーかった!」
と、突然雄叫びを上げるんです。
だからやっぱりびくっと驚いちゃう唯ちゃんです。
りゅうのすけ君は身体を乗り出してきて、唯ちゃんの顔にぐぐっと近づいてくるんです。
さっき遠かった唇は、目と鼻の先にあります。
でも、さすがにこの状況ではなにもできません。
「お前、俺さまの顔に落書きしようとしただろう」
「…う、ううん。お兄ちゃんのおでこに、だめ、って書こうなんて思わなかったよ」
ぶるんぶるんと、おっきなリボンが取れてしまいそうなくらいに激しく頭を振ります。
被害者さんは、やっぱりな、と謎を解いた刑事さんのように納得します。
そして、おでこのあたりをこすりこすりさすります。
もちろん、書いてあるはずないんですけどね。
「油性で書いたのか?」
「だ、だから…なにも書いてないよ」
「まったく、油断も隙もあったもんじゃないな。そんなに昼めしの事怒ってるのかよ」
なぜかほっとした表情をみせている唯ちゃんが気にはなりましたが、どうやら本当に書いてないようです。
まぁ、書いてあったら今夜リベンジすればいいだけの事ですもんね。
「そうだよ、唯はぷりぷり怒ってるんだからね。一生忘れないからね」
「…そんな大げさな事じゃないだろうが」
「ううん。だって…唯にとっては大切な思い出だから…」
「はぁ?」
うつむきがちな唯ちゃんのほほ笑みの意味が、まったくわからないりゅうのすけ君です。
むしろ、噂になってなにが嬉しいんだか、と呆れてしまうんです。
だから、唯ちゃんがほっぺたを膨らましてしまいます。本当にぷんぷんしてしまいます。
「…なんでもないもん。お兄ちゃんのばか」
おでこをなでなでしながら、不思議そうに唯ちゃんを見つめるりゅうのすけ君でした。

 りゅうのすけ君はまだ体育倉庫にいるみたいなんです。
だから、唯ちゃんもいっしょにいるんです。
追い出す事こそしませんでしたが、口をきく事もしませんでした。
唯ちゃんは、口元を隠して体育座りをしています。
鉄格子とりゅうのすけ君を真正面に、目尻はにこにこしているんです。
横になっている人といっしょだからでしょうね。
「なぁ、唯」
思い出したように、とても静かに、久しぶりにりゅうのすけ君がしゃべり出しました。
横になっただけで、寝ているわけではないんです。首を傾けて、大きい唯ちゃんを見るんです。
淡い黄色に照らされる、ジャージ姿の唯ちゃんは、なんとも神秘的なんです。
「なあに、お兄ちゃん」
「お前、ぼんぼんのところに行かなくていいのかよ」
ぶっきらぼうに尋ねてみても、気になっている様子がありありです。
どことなく怒っているように聞こえたのは、もしかしたらやきもちなのかもしれません。
もちろん、唯ちゃんがそういう態度に気がつかないはずがありません。
でも、気がつかないふりをします。
おへそを曲げられてしまったら、追い出されちゃうでしょうからね。
「うん。だってほら…」
そう言って、一枚の写真を、どこからともなく取り出して見せつけるんです。
それがなんであるのかは、見るまでもなくわかるんです。ゴール前の判定写真なんです。
りゅうのすけ君は、唯ちゃんから奪うように受け取ると、じっと目をこらしました。
電気はついていなくても、お月さまが照らしてくれますから、きちんと判別できます。
手前に写っているのが西御寺公といずみちゃん。奥に写っているのがりゅうのすけ君と洋子ちゃんです。
ぱっと見だけではどちらが先に決勝線を越えているのかなんてわかりはしません。
ところが、写真には赤丸がついていたんです。
そこは、洋子ちゃんの長くて赤い髪の毛が、決勝線を越えている場所でした。
もしこの髪の毛がなければ、西御寺公のつま先に負けていた事でしょう。
「んな事言ったって、失格だろうが」
「違うよ。お兄ちゃんの勝ちだもん」
「…なんだよ。要するに、あいつと踊りたくないんだな」
写真を返して、唯ちゃんに背中を向けるように、ごろんと寝返りをうちました。
長い長い前髪の下が、なんとなく嬉しそうに見えるのは気のせいでしょうかねぇ。
それに、声だって弾んで聞こえたんですけど…やっぱり気のせいでしょうかねぇ。
きっと、西御寺公が悔しがっているところを想像しているんでしょう。
決して、唯ちゃんが西御寺公と踊らなくてよかった、なんて思ってないんじゃないすか、たぶん。
でも、背中から届いた唯ちゃんの言葉は、なんとも意外な言葉でした。
「西御寺くんがね、僕の負けだ、って言ってたんだもん」
「…あいつがか?」
「うん。そうしたら、お兄ちゃんの勝ちじゃない。だから、唯はお兄ちゃんと踊らないといけないんだもん」
「はぁ?」
唯ちゃんのやたらと力の入った言葉に、くるりと半円を描いたりゅうのすけ君。
何言ってるんだ、と顔に書いてあります。
でも、唯ちゃんには予定どおりなんですよね。
不満そうに唇を尖らせて、ちょっとすねたふりをするんです。
「もぉ。そうやって、唯の事になるとすぐにごまかすんだね」
「なにがだよ」
「だって、唯は競走に勝った方と絶対に踊らなくちゃいけない、って約束したんだよ」
「…聞いてない」
教えていないのだから、聞くも聞かないもないんです。唯ちゃんの作戦ですからね。
まぁ、りゅうのすけ君が釈然としないものを感じるのも、当然といえば当然です。
「それとも…唯とは踊れないの?」
唯ちゃんの、ぐっとくるような甘えた声にも、りゅうのすけ君は返事をしませんでした。
自然のライトだけの、薄暗い天井を眺めます。
それから、ゆっくりと目を閉じます。
ここで寝ていくつもりはありませんが、後夜祭が終わるまでは帰れないでしょうね。
「いいからぼんぼんと踊ってこいよ。勝ったのはあいつなんだからさ」
見送らないのがせめてとでも思ったのか、また唯ちゃんに背を向けてしまいます。
天窓から差し込んでくる月光がまぶしくて、思わず腕で目のあたりを隠すんです。
マットから、濃厚な汗の匂いがします。
その下には、数知れぬほどの微生物さんたちが生息している事でしょう。
特にダニさんにしてみれば絶好のお家に思えてなりません。
そのお家に、りゅうのすけ君の身体の熱が吸われているんです。心臓の音が響きます。
そして…唯ちゃんの少し荒い呼吸が聞こえるんです。のど鳴りも聞こえました。
「…唯はね、お兄ちゃんと踊りたいの」
言い出すべきかどうか、いっぱい悩んでからでした。
だから、ためらいがちなんです。
正座を崩したような、楽な姿勢になって、小声で、ゆっくりと、ぽつぽつと、です。
「去年、編入してきてすぐ体育祭だったよね。あの時…踊ってくれなかったよね」
「あ、当たりまえだろ。それでなくたって、あん時は周りに騒がれてたんだからさ」
ふたりの関係のうわさは、唯ちゃんが編入してから一日もたたずに、
口コミやらマスコミやらですぐに広まってしまったんです。
あの時は本当に大変でした。
特に、ナンパの成功確率の急激な低下は、りゅうのすけ君にとっては死活問題でしたからねぇ。
思い出すだけで…いやまぁ、今も続いてはいるんですけど、それでもいい思い出とは言い難いものがあるんです。
ですが、唯ちゃんは同意もなにもしませんでした。自分の言葉を続けるだけです。
「…唯はね…あの時、ずっとお兄ちゃんだけ見てたんだよ」
マットに響く心音は、唯ちゃんの言葉が途切れる度に、激しさを増していきます。
背中にいる唯ちゃんが、まるで目の前にいるような錯覚をしてしまいます。
どんな表情をしているのか、なぜかまぶたに浮かんでしまうんです。
唯ちゃんを意識しちゃうんです。
「他の女の子と…楽しそうに踊ってるお兄ちゃんをね…ずっと見てたんだよ」
「な、なんだよ。お前だって、男をとっかえひっかえしてたじゃないかよ」
「だって、一番踊りたかった人が…唯を誘ってはくれなかったんだもん。
だから、今年はどうしても踊りたいって思ってたの。来年は…ないんだもん」
俺はあるかもしれないぞ、と口に出したかったのに、そういう事を今は言えないんです。
もう、唯ちゃん相手には絶対にないと思っていた空気が充満しちゃっているんですもん。
それは、言葉にするには難しい感覚なんです。
あえて言うなら…ムード満点、です。
ふたりの言葉が止まりました。
天窓から、グランドの音が舞い込んでくるんです。
今流れているのは軍艦マーチでしょうか。
きゃっきゃきゃっきゃとはしゃぎ声が聞こえます。
そんな中、唯ちゃんが勝負球を投げてきました。ストレートの豪速球です。
「お兄ちゃん。唯と…踊ってください。お願いします」
ごそっ、とマットが擦れる音がしました。
過敏な背中には、火傷しそうな視線を感じています。
できる事なら振り返りたくありません。
でも…選択肢はひとつだけでした。
少しためらってから、ようやく身体を起こしました。
そして、真後ろへとひねります。
お月さまが映し出す唯ちゃんは、とてもとても綺麗でした。
正座を崩してちょこんと座っている唯ちゃん。
両手をふとももの間に挟んで、ちょっと首をかしげて、りゅうのすけ君だけをさみしげに見つめています。
少し垂れたリボンが、かすかに揺れました。
だから、りゅうのすけ君はあきらめました。本当にごめんなさいしかないんです。
「…ちゃんとエスコートしてくれるのかよ。俺、本当にへろへろなんだぜ」
「倒れそうになったら、唯にしがみついちゃえばいいよ」
くすくすっ、と口もとに手をあてて笑う唯ちゃんには、やっぱり勝てないんです。
りゅうのすけ君は、重い腰どころか、なまりでできているとしか思えないような身体をなんとか立たせると、
ふらふらと唯ちゃんに手を差し伸べました。
「グランドには行けないけど、倉庫の前で踊ろうぜ。ここはほこりっぽいからさ」
「うん!」
唯ちゃんがにっこりほほ笑みます。そして、少し恥ずかしそうに手につかまるんです。
一年越し。いえ、もっとずっとずっと前からの願いが、ようやく叶った気がします。
お兄ちゃんが隣にいてくれます。手を握ってくれています。
そして…これからふたりきりで踊るんです。
あぁ、本当に夢のようです。幸せすぎてちょっぴり涙なんです。
大股三歩も行けば、そこは舞踏会の入り口でした。
りゅうのすけ君は、空いている左手だけでその扉を開けようとします。
唯ちゃんが、そっと右手を差し出します。
へろへろの人には、この扉は楽ではないですからね。
そして、力を込めようとした時です。
「だけど…一番踊りたい相手がなんで俺だったんだ?」
ふん、今年一番の愚問だな、なんて言葉は思いつかない唯ちゃんは、へへっ、と少し照れ笑いを浮かべました。
わずかに開いた扉のすき間から、きらきら輝く土が見えてます。
そろそろ最後の曲になるはずです。去年、どうしても一緒に踊りたかったあの曲です。
「…お兄ちゃんのおでこが知ってるよ、きっと」
唯ちゃんは、くすくすと笑いながら隣のダンスパートナーを見上げました。
なるほど、唯ちゃんの言葉はまだ、りゅうのすけ君のおでこに残っていたみたいでした。

 「あ、あの…どうもすみませんでした」
西御寺公の目の前で、小柄な女の子がぺこぺこと謝っているんです。
でも、この女の子は、別に悪い事をしたわけではないんです。
だから西御寺公も少々困惑気味なんですね。
「謝るのは僕の方だよ。わざわざ誘ってもらって…本当にごめんね」
女の子は、西御寺公と踊りたかったみたいなんです。それで誘ってきたんです。
ですが…そういう気分ではないんです。
だから、お断りしたんです。
女の子からのお誘いを断るなんてめったにない事ですから、やっぱり心が痛むんですよね。
「い、いえ。あ、あのでも…もしよかったら、来年踊ってくださいね」
「来年?」
「あ、あの…私、一年C組の都築こずえっていいます。本当にごめんなさいでした」
それじゃあ、と、甲高い声を残して女の子は走り去って行きました。
来年って、と苦笑いです。
りゅうのすけ君ならともかく、西御寺公は成績優秀ですもん。留年なんて有り得ませんものね。
まぁ、クリスマスパーティに呼んであげればいいだけなんですよね。
季節外れの超大型で強い勢力を持つ台風に疲れたせいか、西御寺公はその場に腰を下ろしました。
手を支えにして、足を伸ばして、大きくため息をつきました。でも。
「…こずえちゃん、か。けっこうかわいい娘だったな」
幼さの残る笑顔や、まだまだ幼児体形な身体や、声優さんみたいな声や、
一時も止まらなかった重機関銃的なおしゃべりを思い出します。
そして、ふと浮かべた表情は、どうやらまんざらでもなさそうです。
しかし、西御寺公って…どちらかというと、女の人より女の子の方が好みみたいですね。
こずえちゃんが走り去った方を見れば、まだまだ後夜祭は続いているんです。
いくらか落ち着いた炎と、それを取り囲んでうごめく影は、当分の間、止まりそうにありません。
あの中に、唯ちゃんもりゅうのすけ君もいませんでした。
まぁ、まだお尋ね者の身分ですし、天童先生が必死になって捜しているという噂もあるんですから当然でしょう。
ですが、どこかでふたりで踊っているような気がしてなりませんでした。
…1cm、か。
右手の写真を天に掲げました。
何度も何度も確認した、ゴール地点の拡大写真です。
ぱっと見れば同着にしか思えないんです。
でも、写真は正直。洋子ちゃんの長い長い赤髪が、ほんのちょっとだけ、
誰よりも、なによりも先に決勝線に触れているんです。
本当に微妙な差です。
けれども、その差はとてもとても大きな差になってしまいました。
はぁ、なんて、似合わないため息をひとつつきます。
貴重なチャンスを逃す意味を、西御寺公はよく知っているんです。
見た目以上に挫折とか失敗とかしているんですから。
でも、いつまでもくよくよするわけにもいきません。
きちんと反省をして、次へ向けて、前向きに生かせてこその失敗なんです。
だから、西御寺公は立ち上がりました。
「…ふん。まだチャンスはあるさ」
そうです。まだまだ時間はあるんです。チャンスだってあるに違いありませんもん。
炎と周りの影をちらりと見てから、西御寺公は校門への道をゆっくりと歩き出します。
背中を鮮やかに染める真っ赤な炎です。今の心みたいに、めらめらと燃えています。
そして、楽しげな影は、西御寺公の無念の表れなんでしょう。
絶対に忘れないんです。
「冬休みこそ…唯さんをいただくからな」
今はいないライバルに向けて、そして、姫君に向けて小さく宣言をするんです。
次は負けません。いや、絶対に勝つんです。
勝負のあと、唯ちゃんさえ隣にいてくれれば、ハナ差でも同着でもかまわないんですから。
名馬は連敗はしないんですから。
そんな事を考えると、自然と笑顔になってしまいます。
だって、次の戦いが楽しみで楽しみでしょうがないんですもん。
勝つ自信に満ち溢れているんですもん。
唯ちゃんが、あーんをしてくれる事を想像しちゃうと、どうしたって笑顔になっちゃいますって。
校門が見えてきました。
小さな外灯に照らされた門の横で、かわいい妹がぶんぶんと手を振っています。
どうやらずっと待っていたようです。
だから足を止めました。そして。
「…その前に、学園祭だな」
にやり。
まだまだ戦いは続きそうです。

(了)


(1998. 1/25 ホクトフィル)

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