小説
2002. 3/29




甘いの。


 「お兄ちゃんのためなら、唯、なんだってできるんだから…」
 真剣な、けど、どこかせっぱ詰まった顔で、制服のリボンに手をかける。
しゅるしゅるしゅると布がこすれる音とともに、首からリボンが離れていった。
地面へと流れていくチェックのリボンを、俺は、呆気にとられながら見ていたが。
「…な、なにしてんだよっ!! やめろよっ!!」
 冗談じゃないって!!
俺は慌てて手を伸ばして、唯の手首をつかんだ。唯は、反射的に手を引っ込めた。
思ったよりも唯の腕は力強くて、そして、俺の足腰は弱すぎた。
つまり、俺は唯に引っ張られるような格好になったわけだ。
しかも、変にバランスを崩したままで。
「あっ!!」
「きゃっ!!」
 俺の全体重が、唯にのしかかる。ついでに、加速力も。
驚いて、唯が目をつむるのがはっきりと見えた。
だから、俺は唯の身体をとっさに抱え込んだ。
せめて、唯は傷つかないといいけど…ぎゅっと、目を閉じた。
ゆっくりと倒れていく感覚。それから、覚悟を決めて、さらに強く…
ばふっ!!
なんか、拍子抜けする音だった。
俺は、恐る恐る目を開ける。
下は、硬い硬いなにかを想像していたのに。
絶対に、大きなすり傷くらいできると思っていたのに。
倒れ込んだのは、ふかふかの布団の上だった。
衝撃でだろうな。真っ白い羽が、ふわふわと舞い上がっていた。
とりあえず、痛いのは避けられたみたいだ。
「お、お兄ちゃん…」
 胸の辺りで息苦しそうな声がして、俺は慌てて力を緩めた。
唯を真横に抱えている格好だと気がついて、さすがに赤面する。
「…け、けが…なかったか?」
「うん。お兄ちゃんが守ってくれたから」
 顔を上げる唯の、髪を束ねたリボンがあごをくすぐる。
素直な、真っすぐな瞳もくすぐったくて、俺は、視線を外した。
恥ずかしくなるほどに、ピンク色の部屋。真っ白い布団。薄暗い世界。
さっき舞い上がった羽が、ゆっくりと布団に落ちてきている。
唯の部屋、かな?
「…お兄ちゃんは大丈夫?」
「あ、ああ。下が布団だったからな」
「だから、唯を押し倒したの?」
 唯が、恥ずかしそうにほほ笑む。
それで、この状況がよろしくないんだって、ようやく気がついた。
「お兄ちゃんも、そういうつもりだったんだね」
 それを阻止するつもりで伸ばした手が、今は、唯を抱きしめている。
唯がくすくすと笑うから、とっさに、その腕を離した。
確かに、押し倒したような格好に見えなくもないけど。
これは、正真正銘の事故だぞ、事故!!
「そんなつもりは…」
 だから、必死になって言い訳しようとした瞬間。
ものすごい早業で、唯が、覆いかぶさってきた。
いつの間に、って感じで、気がついたら、唯の腕の下に俺がいた。
あまりのことに、しばらく、言葉を失ってしまった。
それでも、ようやく、名前だけをしぼりだした。
「ゆ、唯っ!!」
 それほど太くない腕の先、少し、紅潮した唯の顔があった。
頭のリボンがぺこりと垂れていて、でも、そんなことはどうでもいい。
はだけているブラウスの、そのすき間から覗く谷間に見とれてしまいそうになる。
「な、なにしてんだよ!!」
「本当に…なんだってしてあげられるんだから…」
「どけよっ!!」
 怒鳴り声だった。
さっきの告白だって、聞かなかったことにしたいのに。
これから先なんて、まったくしゃれにならないんだから!!
けど、唯は気にしていなかった。それどころか、楽しそうにのどを鳴らした。
「恐いの、お兄ちゃん?」
「そういうことじゃなくて!!」
「唯だって恐いけど…お兄ちゃんのためだもん」
 言いながら、足を絡ませて、胸に体重を乗せ、首に抱きついてくる。
情けないことに、俺は、気をつけ、の格好のまま、なにもできなかった。
すべすべで、柔らかい太もも。
見えそうで見えない、小さくはなさそうな胸。
鼻をくすぐる甘い匂い。
頭を撫でる優しい手の平。
それに…耳元の、熱くて、いやらしい声。
「…お兄ちゃんに、好きって、言ってもらいたいの」
「唯…」
「そのためなら…本当に、なんだって…できるんだから」
 そう言って、俺の耳たぶにキスをする唯。
くすぐったくて、首をすくめると、唯は妙な吐息を漏らした。
「ん…気持ち、いいの?」
「や、やめろよ…」
 けど、唯がやめるはずもない。
むずがゆくなるほど微妙に、耳の縁に舌を這わせたり。
熱っぽい唇で、耳の裏を丹念にキスしていったり。
唇と舌で、首筋を執拗に愛撫したり。
間近に響く粘液の音と唯の息遣いが、すごく生々しい。
くすぐったさも、なんだか違う感覚に変わっていく。
やめさせないと、やめさせないと、って思っても、それは頭の一部だけで。
実際、俺の身体は動こうとはしなかった。
目をつむり、ただ、唯に身を任せるだけだった。
「んっ…ゆ、唯っ…」
 けど、完全に微妙な気持ちになった時。
まるで計ったように、唯は離れていった。
「…あっ」
「どうしたの、お兄ちゃん」
 いつの間にか、唯は身体を上げていた。
自分の唇を嘗めながら、いたずらそうにほほ笑む唯が、知らない女の子に見えた。
「唯…」
「ねぇ、お兄ちゃん。次は、どうして欲しいの?」
 自分のおでこを俺のおでこに重ねてきた。しっとりとした汗が混じり合う。
鼻の先と先が触れ合う距離。唯のおでこも、言葉も、とても熱かった。
「唯…お兄ちゃんがして欲しいこと、なんでもしてあげられるんだよ」
 思わず、生唾を飲んでしまう。
それで、唯がくすっと笑った。いやな音を聞かれたけれど、どうしようもなかった。
「唯は、お兄ちゃんのために生きてるんだよ。お兄ちゃんを…気持ち良くさせたいの」
 近すぎる唯に、俺の視線は定まらない。
きょろきょろと、でも、唯の身体だけを、嘗めるように見ていた。
はだけた肩。細いブラの紐。甘い匂い。ずれたスカート。片方だけのソックス。
制服の乱れ方がいやらしすぎて、俺の頭の中は、真っ白になっていく。
この状態で、なんでもしてくれるんだったら…
「そんなところばっかり見ないで…唯の目を見て」
 言われたとおり、素直に、唯と見つめあう俺。
熱く潤んだ瞳が、すごく魅力的に思えた。
考えてみたら、こんなに間近で唯の顔を見るのって、初めてだった。
子供っぽいとばかにしたリボンも、やっぱり幼い紅潮した顔も。少し開いた唇も。
な、なんか…みんなが言うとおり、唯って…か、かわいい…よな?
俺、こんな女の子に、好きって言われたのにさ。
しかも、すごくおいしい状況なのに、どうして我慢してんだっけ?
じゃ、じゃなくて…そうじゃなくて…なんだっけ?
「唯は、お兄ちゃんのこと…本当に、こんなに大好きなんだよ」
 一言一言が、頭の中で響いて、身体の中をくすぐられているような感覚だった。
「だから…お兄ちゃんにも、唯のこと、好きになってもらいたいの」
 なにかが飛んでしまうほどに、すごく…気持ちいい響きだった。
「…唯…」
 俺は、それしか言葉が出なかった。のどがからからで、出せるはずもなかった。
「順番が違うかもしれないけど…」
 艶めかしく光る唇が、だんだんと近づいてくる。
あれは、たぶん、きっと、マシュマロみたいなんだろうな。
触れたら、甘くて、ふわふわで、とろっと溶けてしまいそうで。
「唯の全部…お兄ちゃんに、あげるね…」
 唯が、ゆっくりと目を閉じる。
ゆっくりと、ゆっくりと、じらすような速度で、顔を近づける。
「…唯」
 別に、俺…唯のこと、嫌いじゃ、ないんだし…
けっこう、かわいいし、それに…
だから、俺も目を閉じた。
右手と右手が、自然と重なっていた。
一回、だけなら…
「…好きだ、唯…」
「おにい…ちゃん…」

 ごつん!!
とっても大きな音といっしょに、流れ星が、ちかちかちかって、目の前に広がったんです。
寝ぼけた頭で、なんだろう、なんて思えたのは、ほんの一瞬だけでした。だって。
がんがんがんがんがん!! がんがんがんがんがん!! がんがんがんがんがん!!
頭の中から、痛みがあふれ出してきたんです。
「…たーっ!!」
 あまりの痛さに、声が声になりません。なんて痛みなんでしょう!!
両手でおでこを押さえると、ごろんごろんと、もんどり打ってしまいます。
いえ、打ったことは打ったんですけど…寝起きでは、無理もないんです。
「…あっ!!」
 ここってベンチだろ、って気がついた時には、身体は空中にあったんです。
次の瞬間には、どしんと地面に落っこちて、全身をしたたかに打ちつけちゃいました。
それほど高くはないとはいえ、心構えも受け身も取れなかったんですもん。
「…っっっっっっっっっっっっっぅーっ!!」
 両目をぎゅってつぶって、歯を必死に食いしばって、苦しそうに呼吸を繰り返します。
特に、おでこが痛いんです。両手でずっとなでなでしてても痛いんです。
しばらくの間、なんにもできません。じっと、痛みをこらえるしかありません。
それにしても、なににぶつかると、こんなに痛くなれるのか、不思議でたまりません。
お昼寝していただけなんですもん。ぶつかるものなんて、ないはずなんですけど…
 まだ、がんがんとしています。でも、がまんできないほとではなくなりました。
だから、ゆっくりと身体を起こします。そして、背中のベンチに寄りかかります。
それから、左右を見回しました。
けど、いつもの、八十八学園の屋上そのもので、おかしいものはなにもないんです。
コンクリートの地面には、雑草が少し生えているだけで、隕石のようなものはありません。
綺麗に並んだ木のベンチにも、凶器のようなものはありません。
周囲を囲む緑の金網だって、倒れてきたような形跡はないんですから。
…寝ぼけたのか?
自分の寝相の悪さは、よーくわかっているんです。
だからって、おでこをぶつけるような寝相は、ないはずですよね。
それとも、実は夢遊病で、どこかでおでこをがんがんってぶつけていたのでしょうか?
なんだか、すっごく怖くなって、ぶるぶるって寒気がしちゃいます。
そういえば、変な夢を見ていたような気がするんですけど…なんでしたっけ?
その内容を思い出そうとしながら、立ち上がろうとした、その時です。
「…いったーい!!」
 突然、ベンチの後ろの方から、女の子の声が響いてきたんです。
それは、毎日一回は、必ずどこかで聞いている、舌っ足らずなさくらんぼ声でした。
だから、なるほど、と、大きくため息をついてから、ゆるゆると立ち上がります。
 ほら、いました。
ベンチのちょうど後ろに、制服姿の女の子が座っているんです。
まぁ、座っているというよりも、なにかに驚いて転んじゃった、って感じなんですけど。
そのせいで、見えないものが見えちゃってて、ついついがっぷり見ちゃったのは極秘です。
「…唯、お前なぁ」
「…お、お兄ちゃん…」
 名前を呼ばれて、唯ちゃんは、顔を上げました。
お兄ちゃんと同じように、おでこをなでなでしながら、顔をしかめています。
閉じっぱなしの右目には、うっすらと涙が浮かんじゃっているんです。
ま、これで犯人は確定ってもんですね。動機も気になるところですが…それよりも。
「あのなぁ、なにしてんだよっ!!」
 気持ちよく寝ていたのに、こんな惨事に巻き込んで、何様のつもりだよっ!!
くらいの気持ちのお兄ちゃんです。それでなくても、寝起きの機嫌は悪いんですから。
それなのに。
「…お兄ちゃんこそ、急に起きないでよっ!!」
 犯人の分際で、唯ちゃんは、腕を上げて文句を言ってくるんです。
「起きるなら起きるって言ってくれなくちゃ、唯だって避けられないよっ!!」
「むちゃなこと言うなよ!! それよりも…いい加減に足を閉じろ、ばか」
「…えっ?」
 お兄ちゃんを見つめたまま、きょとんとする唯ちゃんです。
それから、その意味に気がついて、スカートを押さえながら、慌てて立ち上がりました。
真っ赤になって、唇をとがらせて、また、手を振り上げました。
「見たでしょっ!!」
「お前が見せてただけだろ!!」
「お兄ちゃんのえっちっ!!」
「ざけろっ…あーっ!!」
 怒ったせいで、血行がよくなっちゃったのかもしれません。
おでこが、ずきずきって痛みだします。だから、お兄ちゃんはベンチに腰を下ろしました。
うなだれて、こめかみを押さえたり、おでこを撫でたり、とにかく痛みを逃そうとします。
明らかに、たんこぶ級の衝撃なんです。唯ちゃんのおでこは、かなりの凶器なんです。
けんかの時には気をつけないと、一発で負けてしまうかもしれませんね。
「…大丈夫、お兄ちゃん」
 いつの間にか、凶器ちゃんが、目の前に立っているんです。
もう、自分の痛みは引いたんでしょうか。心配そうに、お兄ちゃんを見つめています。
「大丈夫なわけないだろ? ったく…どんな頭してんだよ」
 それなのに、いきなり怒鳴られては、唯ちゃんだってかちんときちゃいます。
「普通の頭だよっ!!」
「どこがだよ!! すっごく痛いんだぜ」
「じゃあ、お兄ちゃんの頭がおかしいんだよ」
「お前…そういうこと言うか?」
「唯だって痛かったんだもん。おあいこだよ」
「全然…ってーっ…」
 だんだんと、痛いのは飛んでいってはいるんですけど、両手をおでこから離せません。
両目を閉じて、長く、ゆっくりと息を吐き出していきます。
どこがおあいこなんでしょう。明らかに、お兄ちゃんの方が痛まっているじゃないですか。
…ったく…
それにしたって、ひどいもんです。
とってもいい天気で、とってもいい風で、とっても気持ちよくて、最高のお昼寝日和で。
美佐子さん特製の、美味しい美味しいお弁当で、お腹はぱんぱんで。
校庭から聞こえてくる掛け声や、音楽室から聞こえてくる合唱は、最高の子守歌で。
だから、いつものように授業をさぼって屋上にきて、熟睡していたのに。
この最高級の贅沢を、あの石頭っ娘の頭突き一発でふいにされてしまったんです。
誰に迷惑をかけたわけでもないのに、どうしてこんな目にあわないといけないのでしょう。
「あーあ。またクリーニングださなくちゃ…」
 なんて、のんきな事を言いながら、唯ちゃんはお尻をぺぺんとはらっています。
そうなんです。この娘が余計なことをしようとしなければよかったんです。
なにをしようとしたのか、どうして起こそうとしたのかはわかりませんが。
どうせろくなことじゃないんです。
口が酸っぱくなるほどに、俺には構うなって言ってきたつもりなんですけど。
痛みに反比例するように、心のむかむかが、だんだんと上に上がってくるんです。
「…唯」
「なーに?」
 スカートの汚れを、まだ気にしていた唯ちゃんが、顔を上げました。
本当に、おあいこだって思っていたんでしょう。いつもどおりの表情だったんです。
でも、お兄ちゃんが怖い怖い目をしている事に気がついて、表情を少し強ばらせました。
「お前、なんで昼寝のじゃまをするんだよ!!」
「えっ?」
「人がせっかくいい気持ちで寝てるのに…なんで頭突きなんてするんだよ!!」
「違うよぉ。お兄ちゃんが唯の名前を呼んだから、顔、近づけたらごつん、って…」
「俺が唯を呼ぶわけないだろ!!」
「呼んだもん。ゆい、って、絶対に呼んだんだからっ!!」
 頑固一徹な唯ちゃんに、お兄ちゃんは、頭がまた痛み出したような気がしました。
だいたい、唯ちゃんが夢になんて出てくるはずがないじゃないですか。
でも、なんか、なんとなく、そんな気もしないこともないですけど…きっと気のせいです。
それならば、と、お兄ちゃんは作戦を変更しました。
「だいたい、なんで唯が屋上にいるんだよ」
「お兄ちゃんを起こしにきたんだよ」
「なんでだよ。俺、そんなこと頼んでないだろっ!!」
 前に机があったら、どどん、なんて叩いちゃいそうな勢いです。
なんか、気分は踊る警察官です。悪者をやっつける、正義の味方なんです。
だって、ほら。唯ちゃんは反省する様子もなく、挑発的な視線のままなんですもん。
謝ってくれたら、許してあげないこともないのに…ホント、素直じゃないんですよね。
「…なんで黙ってんだよ。俺、理由もなく起こされたのかよ」
 お兄ちゃんは、足を組んで、背もたれに寄りかかりました。
冗談じゃありません。頭突きの理由を説明してもらわないことには、気分が悪いです。
涼しげな風が、ひゅーひゅーって吹くと、ツインリボンがさらさらとなびくんです。
押さえていたスカートを、ちょこっとぎゅっと握ると、ようやく、口を開きました。
「だって…いっしょに写りたかったし…」
「はぁ?」
「だから、卒業写真にお兄ちゃんがいないの…嫌だったから…」
「なんだよ、それ」
「…覚えてないの?」
「だから、なんだよ、それ」
「今日のホームルームの時間に卒業写真を撮るって、片桐先生が言ってたの」
 はぁ、って、ちょっと間抜けな声を出してまったお兄ちゃんです。
覚えてるどころか、そんな話があったなんて、まったくの初耳ものなんです。
いつ言ったのかはわかりませんが、おそらく、寝ていた時でしょうね。
唯ちゃんは、それをわかっているのに、わざとらしく言うんです。
「そっか!! お兄ちゃん、いびきかいてぐーぐー寝てたから、覚えてないんだ」
「それって…覚えてないんじゃなくて、聞いてないだけだろ?」
 へへん、と、心なしか、胸を張っている唯ちゃんに、ぶつぶつと文句を言います。
ていうか、それってつまりアレですか?
もしも起こされなかったら、みんなと離れた位置に、笑顔だけが載るってことですか?
それも、撮影日に、学校に来ていたのに。
卒業アルバムを見るたびに、俺はこの日は昼寝してて、なんて、思い出すわけですか。
学校では、当然のように噂になって、たくさんある伝説のうちのひとつになるわけですか。
なんか…いやですね。悲しいですね。
だいたい、お兄ちゃんは授業は嫌いでも、その手の行事は嫌いじゃないんですもん。
唯ちゃんは、ほらほら、という顔をして、言葉を続けました。
「お兄ちゃんだけ外枠なのかわいそうだから…だから、起こしにきたんだよ」
「…そ、そっか」
「それなのに…お兄ちゃん、ひどすぎるよっ!!」
「な、なにがだよぅ…」
 立っている唯ちゃんに見下ろされると、おどおどってしちゃいます。
だって…まさか、ちゃんとした理由があるなんて、思ってもいなかったんです。
どうせ、授業をさぼっちゃダメだよ、程度だと思っていたんですもん。
体温が下がるように、すーって、強気が引いていくのがわかりました。
こうなると、一気に形勢逆転です。今度は、お兄ちゃんが尋問される番なんです。
「それでも起こしちゃダメだったの?」
「いや…ほら、そういうことは、先に言ってくれないと…」
「その前に、お兄ちゃんがいじめてきたんじゃない」
「い、いじめてなんていないだろ」
「いじめだもん」
 唯ちゃんは、ぷりぷりと怒りながら、お兄ちゃんの隣に座りました。
とんがった唇は、よっぽどのお怒りの証拠だって、お兄ちゃんは知っています。
それから、怖い怖い顔をして、お兄ちゃんの横顔をじーっとにらんでいるんです。
視線が、ほっぺたに突き刺さって、かゆくてかゆくてしかたないんです。
「…な、なんで隣に座るんだよぅ」
「ほら、またいじめる。唯が隣に座っちゃダメなの?」
 かといって、逃げ出すことのできないお兄ちゃんです。
いつもなら、こんなことはないんです。もっと強気になれるんです。
なのに、今日はダメダメです。完全に、唯ちゃんペースなんですもん。
せめてもと、お兄ちゃんはおしりをずらして、唯ちゃんと距離をおきます。
唯ちゃんは、それに併せるようにして、お兄ちゃんとの距離を縮めます。
気がついたら、肩と肩が触れ合ってしまうくらいになっていました。
「…だ、ダメじゃないけど…誰かに見られたらどうするんだよ」
「そんなの、もう関係ないもん!!」
「な、なに言ってるんだよ。また変な噂、立てられるだろ?」
「だから…そんなの、もう心配しなくて大丈夫なんだよ、お兄ちゃん」
 そう言って、唯ちゃんは、静かにベンチから立ち上がりました。
そして、ひざが触れるか触れないかぐらいの距離に立つと、にっこりと微笑むんです。
今までの怒りはなんだったのか、って思えわくらいに、かわいい笑顔なんです。
あまりの豹変ぶりに、どきどきすることしかできないお兄ちゃんです。
「な、なに…わけのわかんないこと言ってんだよ」
「だって、みんなにばらしてきちゃったんだもん」
「なにをだよぅ」
「唯とお兄ちゃんはらぶらぶだよ、って」
「…ら、らぶらぶ?」
「そうだよ。だから、こんなことしたって…全然大丈夫だよ」
 そう言って、右腕に、ぎゅーって、唯ちゃんが抱きついてきました。
どこかしらが当たっているのでしょうか。むにゅー、って感覚もあるんです。
一瞬、頭が真っ白になったお兄ちゃん。右腕の唯ちゃんを、きょとんと見つめます。
その視線に、唯ちゃんはますます紅潮しちゃって、照れ笑いを浮かべました。
「ふたりでいたって、べたべたしてたって、全然おかしくないんだよ」
 そういうことなら、そうなのかもしれないなぁ、ってお兄ちゃんは思いました。
らぶらぶなんですもん。べたべたしてるのを見られたって、問題ないんです。
いや…でもそれは、本当にらぶらぶならのお話なんですよね。
お兄ちゃんはものすごく激しく動揺しながら、怒鳴り声をあげました。
「ら、ら、らぶらぶって…どういう意味だよっ!!」
「だから、唯とお兄ちゃんが付き合ってるってことだよ」
「つ、付き合うって…なんだよ、それ。それじゃ…唯が彼女みたいじゃないかよ!!」
「だから、恋人同士ってことだよ」
「い、いつからお前が彼女になったんだよ」
「だから、さっきからだよ」
 だからだからと、唯ちゃんに教えてもらっているのに、納得できないお兄ちゃんです。
いや、ええ、そりゃそうなんです。いきなりそんなこと言われたって、ですもんね。
だいたい、唯ちゃんが彼女だなんて、どうにもしゃれになりません。
「だからじゃないだろ!! なんで唯と付き合わなくちゃいけないんだよ」
「なんでって、それが一番なんだもん」
「な、なにが一番なんだよ」
 待ってました、とばかりに、唯ちゃんは、右腕から離れていきました。
そして、右手と右手、左手と左手を、ぎゅーって、握ったんです。
気持ち悪いぐらいに汗ばんだ手と手です。けど、するりともすべらないんです。
唯ちゃんの目を見れば、もう逃がさないよ、って言っているんですから。
「わからない?」
「わかるわけ、ないだろ…」
 憮然とした声に、唯ちゃんは、笑顔を返しました。
それから、お兄ちゃんをじっと見つめて、童話を聞かせるようにゆっくりと話し始めます。
「付き合ってたら、ふたりきりでいたっておかしくないし。
お兄ちゃんのことだって、名前で呼ぶようになるかもしれないし。
同棲の噂だって、本当の同棲になるだけだし。
それに、同棲してるんだから、いつもいっしょで寂しくないし。
唯もお兄ちゃんも、お互いのこと、昔からよく知ってるし。
お母さんだっていいって言ってくれるはずだし」
 一呼吸で言い切った唯ちゃんは、ね、なんて、同意を求めてくるんです。
それがまた、首をちょこんとかしげた、お兄ちゃんのつぼにはいりそうな仕種なんです。
だから。
「そ、そうだなぁ…悪くないかもな」
 確かに、そんな気もしてくることばっかりなんです。
唯ちゃんと付き合えば、難しい問題が、一気に解決しちゃうんです。
もともと、唯ちゃんと付き合ってなかったから、そういう噂が出てきてたわけですし。
逆にいえば、らぶらぶしちゃえば、噂になんてならないわけですし。
なんか、今までかりかりしていたのが、バカみたいに思えてきちゃうじゃないですか。
でも。
「…き、気持ちはどうなるんだよ、気持ちは!!」
「唯は、お兄ちゃんのこと大好きだもん」
 必死のお兄ちゃんの攻撃も、あっさりと受けとめちゃう唯ちゃんです。
正面切って、はっきりと、でも、照れながら言われると、さすがに言葉がありません。
「ずっとずっとずーっと前から大好きだったよ」
「そ、そっか…」
「だから、全然問題ないよね」
「ちょっと待てよ。俺の気持ちはどうなる…んだよぅ」
 言いながら、お兄ちゃんは顔をしかめました。
大後悔です。大失敗です。一番、あやふやにしておきたかった部分なんですから。
だいたい、お兄ちゃん本人が、一番わかっていない気持ちなんですもん。
見逃してくれないかな、と、お兄ちゃんは思いましたが。
「どうなるって…お兄ちゃんは唯のこと、どう思ってるの?」
 まるで、そこが本題とばかりに、ぐぐっと顔を近づけてくるんです。
その目は、かなり真剣です。泣いているわけでもないのに、激しく潤んでいるんです。
どんな答えを出したって、泣かれちゃいそうだな、って、お兄ちゃんは思いました。
ポケットのハンカチは、そういえば、唯ちゃんからのプレゼントでしたっけ。
「いや…」
「…どうして答えてくれないの? 唯のこと…やっぱり、嫌いなの?」
「やっぱり、って…なんだよ、やっぱりって…」
「なら、答えて。どうなの、お兄ちゃん…」
 つながっているべたべたの両手に、力が込められるのがわかります。
真っ直ぐすぎる瞳が、とっても痛いんです。ちくちくなんてもんじゃないんです。
プレッシャーに負けて後ずさりしてみれば、ひざの裏がベンチにあたるんです。
もう、逃げられません。どんな言葉にせよ、答えないとダメみたいです。
「…お兄ちゃん」
 少し、声が泣いています。これ以上黙っていると、本気で泣かれてしまいそうです。
だから、お兄ちゃんは覚悟を決めました。ないつばを飲むと、のどがごくって鳴りました。
「…き…」
「嫌い、なの?」
「…き、嫌いじゃ…ない、ぞ」
 それだけのことなのに、お兄ちゃんは、全身を熱く、赤くさせちゃいました。
視線なんて合わせていられなくて、唯ちゃんの、胸の辺りを見つめちゃいます。
はっきりとした答えではありません。でも、こういう事を伝えたのは、初めてなんです。
どう取られるか、お兄ちゃんは、内心、どきどきしていましたが。
「…よかったぁ」
 唯ちゃんは、本当に…本当にほっとしたように、頬をゆるめました。
少しうつむいて、嬉しさをかみしめているみたいです。
 だから、お兄ちゃんは思いました。
そんなに、嫌っているような態度をとっちゃってたのかな、って。
多少、自覚はあったにしても、もしかしたら、やりすぎちゃっていたのかな、って。
唯ちゃんを、そんなに不安にさせていたのかな、って。
ほんのちょっぴり、反省したのに。
「それって、嫌いじゃないんだから、好きだってことだよねっ!!」
 静かな喜びはどこへやら。両手をぶんぶん振って、唯ちゃんははしゃぎだしました。
手と手はつないだままなんです。当然ながら、お兄ちゃんもはしゃぐ羽目になるんです。
「そ、それとこれとは違うだろ!!」
「同じことだよ。嫌われてないなら、好きになってもらえばいいだけだもん」
「そんな簡単に言うなよ!!」
「難しく考えるからだよ。それとも…どうしても唯の恋人にはなりたくないの?」
 ぴたっと手を止めて、唯ちゃんは、寂しげな視線を送ります。
ころころと変わる表情に、お兄ちゃんは、もう、どうしたらいいのかわかりません。
もし普通の女の子に、こんなことを言われたら、さぞかし嬉しいのでしょうけど。
いくら特典が多くても、好きと言われても、唯ちゃんには素直になれないんです。
だって、自分の気持ちが、お兄ちゃんにはわからないんですから。
「だから、そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて?」
「だから…」
「唯はね…本当に、お兄ちゃんの恋人に…なりたいの」
 頭の中を、血ががんがんに流れているのが、ものすごくよくわかります。
身体中を、ぐるぐるめぐっているのだってわかるんです。
でも、お兄ちゃんは動けませんでした。頭が麻痺しちゃっているんですもん。
ただでさえ早くなっていた鼓動は、高まるどころの騒ぎじゃないですし。
お兄ちゃんの手も、唯ちゃんの手も、汗でべたべたになっちゃってます。
だいたい、さっきからずっと視線を外さなかった唯ちゃんが、うつむいているんです。
 いつの間にか、校庭からも、教室からも、声が聞こえなくなっています。
耳が痛くなるほどの静けさの中で、ふたりは、向かい合っています。
唯ちゃんのつむじを見つめたまま、お兄ちゃんは、なにもしようとしませんでした。

 きーんこーんかーんこーん!!
突然の鐘の音に、お兄ちゃんも唯ちゃんも、飛び上がるほどにびっくりしました。
思わず、つないでいた手を離して、距離を取ってしまったぐらいなんです。
考えてみたら、ここは学校の屋上です。今のを見られたら、さすがにまずいんです。
…なにやってんだ、俺…
 急に覚めたお兄ちゃんは、手の汗をズボンで拭きます。おでこの汗を拭います。
なんだか、シャツもべとべとで、とても、初夏とは思えない湿っぽさなんです。
恥ずかしげに顔を上げると、唯ちゃんは、ハンカチで汗を拭いていました。
そして、お兄ちゃんに気がつくと、微かに紅潮した顔で、にやっ、て笑ったんです。
最初は、錯覚かとも思いましたが…やっぱり、にやっ、なんです。
「なんて言ったら…お兄ちゃん、本当に唯と付き合ってくれる?」
「…はぁ?」
 目をぱちくりして、首を傾げてしまうお兄ちゃんです。
なんて言ったらって…本当にって…だいたい、もう、既成事実じゃないんですか?
頭の中ではてなマークが、ぴょんぴょんと踊っています。
「ど、どういう意味だよ」
「お兄ちゃん、まだ寝ぼけてるの? もしかして、唯が恋人のままでも…いいの?」
 少し、期待の混じった声でしたが、お兄ちゃんは気がつきませんでした。
そんなことよりも、唯ちゃんの言葉の意味が、どうしても理解できないんです。
すると、唯ちゃんは、お兄ちゃんと手をつないで、わざとらしく言うんです。
「なら、手をつないで戻ろうよ。きっと、みんなびっくりするよ」
「…ちょ、ちょっと待てよ!! まさか、お前、今の…」
「目が覚めたでしょ」
 てへっ、と、舌を出す唯ちゃんに、お兄ちゃん、あ然としちゃいました。
だって…なんか、すごく、変な、大がかりな、やばい、いたずらじゃないんですか?
ていうか、いたずらなんて、かわいいものじゃないんです。
それを、よりにもよって、唯ちゃんがしてくるなんて…
「ね。ぼけっとしてないで、教室に戻ろうよ。卒業写真撮るの始まっちゃうよ」
 けど、お兄ちゃんの心の中は、唯ちゃんにだってわかりません。
昇降口に向かおうと、お兄ちゃんの手を引っ張ろうとした、その瞬間。
お兄ちゃんは、唯ちゃんの手をふりほどいて、いきなり怒鳴りだしました。
「ふ、ふ、ふ、ふざけるなっ!! やっていいことと悪いことがあるだろ!!」
「おでこのお返しだよーだっ!!」
「おあいこって、唯が言ったんだろうが!!」
「唯、いっつもいじめられてるんだもん。全部のお返しだよっ!!」
「そ、そんなの通用するかよっ!! 絶対に許さないからな!!」
 鼻息も荒く、お兄ちゃんのお怒りは、かなりのもののようなんです。
唯ちゃんとて女の子。手こそ出しませんが、絶対に、お仕置きするつもりなんです。
ですが、唯ちゃんも考えていたんです。また、にやっ、て笑うんですもん。
「許してくれなかったら、本当に言っちゃうからね!! 唯と付き合ってるって!!」
「…い、言えるわけ…ないだろ。本当に俺と付き合うのかよ」
「唯はいいよ。試してみる?」
 言ってみろよ、と、のどまででかかった言葉を、なんとか飲み込みました。
だって、どっちでもいいよどころか、本当に付き合うよ、って雰囲気なんですもん。
なんか、だんだんと、勝てないような気がしてきました。
どうやっても、どうがんばっても、今日に限っては、唯ちゃんにかなわないんです。
いえ…たぶん、いっつもかなっていないんです。そんな風にも思っちゃいます。
お兄ちゃんは、頬に冷や汗をかいちゃっていました。
「…ず、ずるいぞ、それっ!! そんなことしてみろよ!! 俺、本気で怒るぞ!!」
「許してくれたら、もう絶対に言わないから」
 両手を重ねて、唯ちゃんはごめんねをしています。
もう、許すしかありません。こんなことで付き合うのは、いくらなんでもです。
もしこれで付き合ったとしたら、一生、離してくれなさそうですし。
「…絶対だぞ」
「許してくれるの?」
「唯も約束しろよ」
「指切りしてもいいよっ」
「するかっ!!」
 小指をちょこんと伸ばした唯ちゃんに、お兄ちゃんは、ぷん、と背中を向けました。
怒っているからです。顔が真っ赤なのは、本当に怒っているからなんです。
決して、唯ちゃんの顔に、またどきっとしたから、なんかではないんです。
なんだか、こういうのがしばらく続きそうで、お兄ちゃんは、おでこが痛くなりました。
これすら、唯ちゃんのいたずらじゃなかろうかと、疑ってしまうくらいです。
「付き合ってもよかったのにな…」
 背中で、唯ちゃんがぼそっとつぶやきました。
お兄ちゃんは、それを聞かなかったことにしてあげました。

 始業のチャイムが鳴りました。
お兄ちゃんと唯ちゃんは、慌てて教室へと戻っていきました。

(了)


(2000. 4/ 2 ホクトフィル)

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