小説
2002. 5/17




照れるの。-新婚組曲-


 八十八駅から帰る同僚たちと、病院の前でさっそく別れて。
あの患者さんはそうだとか、この先生はどうだとか、仕事の話をだらだらしながら。
どこかの家のごはんの匂いが、あまりにも美味しそうで、お腹をぐーぐーと鳴らしながら。
夕焼けに染められた、歩き慣れた住宅街を、ふたりは並んでぶらぶら歩く。
しばらくは、なにもしないで大人しく。けど、ふたつ目の角を曲がってから。
「そろそろいいでしょ?」
 少しだけ、不満そうな声を出し、おもいっきり、甘えきった瞳を見せて。
待ちきれないと言わんばかりに、彼女は彼におねだりをする。
なのに、彼の言葉は素っ気なくて。
「もう少し歩いてからだ」
 とんがった、彼女の唇を指でつまんでから、がまんしろよ、と、彼は続けた。
職場から、それなりに離れたとはいえ、まだまだ同僚に会う可能性もあるわけで。
完全公認とはいえ、べたべたしているところを見られたくもないわけで。
けれども、彼女にしてみれば、それこそが不満なわけで。
「どうして、そんなに人の目を気にするの?」
 彼女は頭をぷるぷると振って、口のチャックを自分で開いた。
夫婦になるずっと前から、彼にはそういうところがあった。
特に彼女との事ともなると、神経質なくらいだと思う。
「どうしてって…」
「いっしょにいるところを、そんなに見られたくないの?」
「いっしょにいるのはいいんだよ。ただ…そういうことをしていると冷やかされるからな」
「大丈夫だよ。新婚だから、って言っておけば」
「…それ、理由になってないぞ」
「ちゃんとした理由だよっ」
 くすくす笑う彼女に、彼はあきれた顔をする。
冷やかされる喜びが、どうしても彼にはわからないらしい。
もったいない、と彼女は思った。今度、ちゃんと教えてあげようとも思った。
「それよりも…」
 もういいでしょ、と、言わんばかりに、彼女はするりと手を伸ばす。
最初は彼も拒んだけれども、今日ぐらいは許してやるかと、強くは抵抗しなかった。
荒れ気味の手と手をつなぐ。彼女はぎゅって力を込めて、えへへと笑った。
「…ったく」
「だって、勤務中は、ずっとがまんしてるんだよ」
「あのな。仕事なんだから当たり前だろ」
「だから、ふたりっきりの時は、おもいっきり甘えたいの」
 そんなことを言うから、てっきり抱きついてくるものと、彼は身構えたけれど。
彼女は、手をつないで満足したのか、少しうつむきがちに、嬉しそうに歩いていく。
甘えることに関しては、青天井で底なしの彼女がこれでは、少々不気味に思えて。
「…そのわりには、やけにあっさりだな」
「そうかな」
「ま、いいけどさ」
 物足りない、と思った自分が、なんだか少し嫌な感じで、後頭部をぽりぽりかいた。
それを見ながら彼女がほほ笑む。心を読まれたような気がして、それも嫌だった。
 しばらく、ふたりは言葉もなく、淡々と歩いていたけれど。
「だって、今日はふたり早上がりで、明日もふたりおやすみだし…今は、これでいいの」
 狭い道を抜けたところで、思い出したように、彼女が口を開いた。
「明日までね、ずっとずっとずーっと…甘えるんだもん」
 それはつまり、家に帰ったら、明日の夜までべたべたするという予告で。
けれども、人のいる場所でべたべたされるよりは、よっぽどマシだと彼は思う。
もう、そういう年でもないし、彼女なりに成長したのかも、とも思った。
「…それならそれでいいけどさ」
「それにね、みんなに言われちゃったの。今夜は気合い入れてがんばってくるのよ、って」
 どちらともなく足を止め、ふたりは顔を見合わせて。
夕焼けに染められた彼女の顔が、どことなしに赤くなるのがよくわかる。
それを見てしまったから、彼の顔もほんのりと、赤く染まってしまった。
 そういえば、職場を出てくる時に、やたらと声をかけられた。
「今夜は奥さんもがんばるそうじゃないか。しっかりやれよ!!」
 それがどういう意味なのか、彼には最初、わからなかったけれども。
ふたりでいっしょの休みになると、時々、そういうことを言われたけれども。
なぜか今日に限っては、会う人会う人、みんなから言われていて。
今、ようやくすべてが見えた気がした。
「お前…それ、なんて答えたんだよ」
「がんばってきます、って言っちゃった。だから、がんばらないといけないんだよね」
 当然のこととばかりに、彼女は同意を求めようとするけれど。
一瞬、動きの止まった彼の表情は、突き刺さるほどに冷たかった。
「…ばかだろ、お前」
「ばかじゃないよ!! だって、もともとがんばるつもりだったんだからっ!!」
「な、なにを大声で言ってんだよっ!!」
 はたから聞いたところで、その意味などわからないかもしれないが。
そんな宣言を、こんな場所でするなんて、べたべたするより恥ずかしすぎて。
声を荒げる彼女の口を、彼はむぎゅっと塞いでしまった。
むぐむぐと、それでも彼女は反抗して、突然の、ぬるっとした感触に慌てて手を離した。
「お、お前なぁ…人の手のひらをなめるなよっ!!」
 ごしごしと、自分のジーンズにこすりつける。ついつい臭いを嗅いでしまう。
けれども、彼女には、そんなことはどうでもよくて。
「…そんなに嫌なの? もしかして…がんばりたくないの?」
 とても真面目な顔をして、なんだかとても悲しそうに、彼女は彼を見上げている。
そんなことで、こんな顔をされるのもどうかと思うけれども。
「いや…あ、そういうことじゃないけどさ」
「がんばってくれる?」
 そう言って、彼女が両手を包んできたら。寂しい子犬のような表情をされたら。
しばらく、視線を重ね続けて。それから、さすがに恥ずかしくなって、そっぽを向いて。
「が、がんばって…いいのかよ」
「今夜は寝かさないぞ、ぐらい言ってほしかったのにな」
「…やっぱりお前はばかだ」
 ばかじゃないもん、と、彼女は怒りながら、それでも、どこか楽しそうに頬を緩める。
こういう時の彼女の顔が、彼はこっそり好きだった。だから、彼も口の端をゆがめた。
それにしても、と彼は思う。あんな言葉、いったいどこで覚えてきたのやら。
「ほら、帰るぞ」
「あ、待ってよ」
 彼が、愛想もなく歩き出す。だから、彼女が追いかける。
ごくごく自然に、右手と左手をつないで、しばらく歩いていたけれど。
道の向こうに、ふたりの家が小さく見えてくる頃。
「もしかしたら、来年はふたりきりで歩けないかもしれないね」
「…はぁ?」
「だって、ほら。赤ちゃんが…ねっ」
 恥ずかしそうに彼女が笑う。ぽかんと口を開けて、彼が憮然とする。
「あのなぁ。帰ったら、そういうこと言うなよな」
「うん。がんばろうね、ダーリン!!」
 言いながら、彼女は彼の手を強く握った。彼は大きなため息をついた。
濃紺になった空には、いつの間にか、星がちかちか輝いていた。

(了)


(2000. 5/14 ホクトフィル)

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