小説
2002. 9/21




えっちなの。-新婚組曲-


 お腹のあたりまでしか残っていない湯舟を呆然と見つめたまま。
何度も何度もむせ返り、たった今、飲んだお湯を吐き出しそうになりながら。
自然に息を整えつつ、なにが起こったのか考えていた。
いや、なにが起きたのかはわかっていた。ただ、それを認めたくはなかった。
 ゆっくりと顔を上げる。
換気の悪いお風呂場は、相変わらず湯気で煙っていて、換気扇の音だけが響いている。
なにも変わったところはないし、誰かがいるはずもない。
ひとりで入っていたのが幸いだったのかと、静かに、ため息をつく。
それで、肺の中に残っていたお湯が悪さをして、また、激しくむせる。
相当な量を飲んでしまったみたいで、なんとも気持ちが悪く、お腹もぱんぱんだ。
夕食の前だというのに困ったものだ、と思いながら、せきこみ続けた。
だから、脱衣所の扉が開いたことに気がつけなかった。
「ダーリン、入るねっ」
 突然、奥さんの声がした。
あまりにも突然すぎて、ダーリンの心臓は、飛び出しそうな勢いで跳びはねた。
まさか、今の失態を知られていたら、と、跳ねたあとに激しく脈を打つ。
それで思わず、おもいっきり息を吸い込んでしまい、死にそうなほどにせきこんだ。
「…ど、どうしたの?」
「な、なんでもないっ!! それよりなんだよっ」
「うん。ダーリンの着替え、ここに置いておくからね」
 曇りガラスの向こう側で、奥さんの影がもぞもぞと動いている。
言葉どおりの行動だけで、どうやら、なにも気がついてはいない様子だった。
ダーリンは、深く息を吐き出して、お約束のようにむせ返った。
「大丈夫? かぜでもひいたの?」
「な、なんでもないったら。ったく…」
 口元を拭い、誰にともなく悪態をつき、半身浴にはちょうどいい浴槽に寄りかかる。
たまには、ちょっとおしゃれに半身浴も悪くないかもしれない、と、ダーリンは思った。
それから、両手で残り少ないお湯をすくって、額の汗を流した。
 前にも同じ事をやらかしていた。その時に、お風呂場では寝ないと心に誓ったのに。
いくら疲れていても、それで眠たくても、命に関わるから、と肝に命じていたのに。
同じ事を繰り返すなんて、よっぽど頭が悪いのかと、情けなくなった。
「それならいいけど…ところでダーリン。湯加減はどお?」
 脳天気な奥さんの声が、わずかに落ち込んだダーリンには優しく聞こえた。
とはいえ、この状況で聞かれて、素直に答えられるものでもなかった。
今は、お腹のあたりまでしか残っていないお湯を見ながら、ダーリンは言う。
「…ちょうどよかったぞ」
 うそではない。入った時には、ぬるくもなく、熱くもなく、絶好の湯加減だった。
だからこそ、久しぶりに湯舟につかってしまい、つい船をこいでしまったのだ。
「よかったぁ。この前、沸かし過ぎちゃったから心配してたんだ」
「沸かし過ぎって…普通は沸騰させないぞ」
「そうかな?」
 てへへ、と、奥さんは照れくさそうに笑った。と、ダーリンは確信した。
がさがさというのは、汚れ物を洗濯機の中にほおりこんでいる音だろう。
昨日まで雨が降り続いていたから、洗い物がたまっているに違いない。
 それにしても、奥さんはよく働く。
自分の仕事をこなして、家の仕事をこなして、それでも、人に疲れを見せなかった。
同じ仕事をしている自分は、家のことまでできるほど、体力に余裕はないというのに。
なにげにすごい人なんだな、と、こっそり尊敬していた。
「ねぇ、ダーリン。そういえば…」
「その前に…」
「ダーリンはやめろ、でしょ?」
 奥さんの言葉をさえぎったダーリンの言葉をさえぎって奥さんが続けた。
奥さんは両手を腰に当てて、唇をとがらせて、こっちを見ている。ような気がする。
「もぉ、どうして慣れてくれないの?」
「そういう問題じゃないだろ。だいたい、この前の約束はなんだったんだよ」
「だから、ふたりきりの時しか呼んでないよ」
 あれ、と、ダーリンは首をかしげる。
「ちょっと待てよ。俺が帰ってきた時には、美佐子さんはいたぞ」
「お母さんは、如月町までお買い物に行っちゃったよ」
「こんな時間にか?」
「お店のもの、なにか切らしちゃったらしくて、それで慌てて出かけちゃったの」
「…そ、そっか」
 だいだい色の球体も、とっくに沈んでいる時間だった。
美佐子さんが外出する時間帯ではないのだが、奥さんのうそとも考えにくかった。
自分とは違って、そういううそはつけない人だった。
「ダーリンは、またうそつくの?」
「わ、わかったよぅ」
 とめられないことはわかったが、どう考えても趣味が悪かろうと、心の中でつぶやいた。
本当は、ダーリンなんて呼び方は、永遠に禁止にしておきたかったぐらいだった。
 洗濯機が回り出す。かたかたと、微かに音が漏れてくるが、それは静かなものだった。
だから、奥さんの機嫌のよさそうな鼻歌も、浴室まで届いてしまう。
無意味に明るいメロディは、最近の流行歌だった。ダーリンも、さびの歌詞は知っていた。
奥さんの演奏が、ようやくそのさびに入って、ダーリンが口を開いた瞬間。
 くしゅんっ!!
ダーリンは、大きなくしゃみをした。それで、思い出したように蛇口をひねった。
じゃばじゃばと、細い蛇口から流れてくるお湯が、少しづつ、お腹から上にたまってくる。
湯舟のお湯は、なにげにぬるくなりすぎていた。浴室の湯気も、かなり薄くなっていた。
半身浴とかこつけていたが、慣れないことをしてかぜをひくのもまぬけすぎるだろう。
 くしゅんくしゅん。
どこからか紛れ込んできている冷たい空気に、ダーリンはくしゃみを繰り返した。
温度差のせいだろうか。それとも、もう手遅れなのかも、と、鼻をこすった。
「ねぇ、ダーリン。これじゃあ、かぜひいちゃうよ?」
「だから、お湯を足して…」
 奥さんの声が近かったから、ダーリンは自然と顔を上げた。
そこには、タオルを巻いた奥さんがいた。不思議そうな表情で、湯船を見ていた。
ダーリンと視線が重なって、それで奥さんは、なあに、といった感じで首を傾ける。
 蛇口からのお湯の音が、ふたりの間を流れていく。
なぜ、奥さんがここにいるのか。なぜ、洗濯をしていた奥さんがここにいるのか。
ダーリンは、それをとっさに考えられる頭をもっていなかった。
無表情のまま、奥さんを見つめつづけて。笑顔で見つめられつづけて。ようやく。
「…な、な、な、なにしてんだよっ!!」
 頭の中の言葉が音になった。とはいえ、頭の中の混乱は始まったばかりだった。
狭い浴槽の中で、あわてて身体をひねり、奥さんに背中を向けた。
全身が激しく脈をうっているのは、絶対に、のぼせているから、ではなかった。
「なにって、ダーリンの背中でも流してあげようかなって」
 当然といわんばかりに、にこっ、と、奥さんがほほ笑んだ。はずだ。
「だ、だからって、こっそり入ってくるなよなっ!!」
「入るよ、って言ったよ。そうしたら、返事がなかったから…」
「返事がなかったら勝手に入ってくるのかよっ!!」
「もぉ、照れ屋さんなんだからぁ。今さら恥ずかしがることなんてないのに」
「誰が…」
 首だけ振り返ると、奥さんが、流しの前の赤いいすに座っているのが見えた。
バスタオルで身体を隠して、濡らさぬように髪をタオルで隠して、足を組んでいた。
どおってことはない奥さんのセミヌード。どおってことはないけれど、見ていられない。
「どうしたの?」
「ざけろっ!!」
 正面のタイル調の壁を見ながら、ダーリンは、ひとりごとのようにつぶやいた。
恥ずかしいわけでも、照れているわけでもない。今さら、奥さんのそういう姿なんて。
なのに、自分が赤面していることに気がついて、その熱量でますます赤くなった。
いや、これはお湯が熱いからだ、と、頭の中で理由をつけた。
「ねぇねぇ。それよりも、背中流してあげるから、早くここに座ってよっ」
 奥さんが、空いている青いいすを、楽しそうにぱかぱかと叩く。
そのリズムは、さっきの鼻歌の、ちょうどサビの部分だった。
「見られるのが恥ずかしいなら、目、つむっててあげるから。ねっ」
 これは、どうしても背中を見せないと、話がまとまらない展開だった。
下手をしたら、どんなことをされてもおかしくなくて、きっとばれてしまうだろう。
それだけは避けたかった。この程度でそんなことになっていることは極秘だった。
「…わ、わかったから…後ろ、向いてろよな」
 ダーリンは、ため息をつきながらそう言った。
本当は、立ち上がるに立ち上がれない状況に、ダーリンは陥っていた。

 腰をタオルで隠して、押さえつけて、ダーリンは、流しの前の青いいすに座った。
半身浴のせいか、中途半端に身体が暖まっていて、浴室が少し寒いと感じる。
それで鼻がむずがゆくなって、くちゅんくちゅんとせきをした。けど、もうむせこまない。
「もぉいいかい?」
 のんきな奥さんの声が、少し遠い。
彼女は、律儀にも目をつむっていた。後ろを向いて、両手で両目を隠していた。
そんな姿がなんとも子供っぽくて、いかにも彼女っぽいと、ダーリンは思った。
「あ…もういいぞ」
「えへっ、ちょっと待っててね」
 もういいのに、なにを待てというのかと、ダーリンは不思議がった。
鏡越しにのぞいてみれば、奥さんは、身体に巻いていたバスタオルを壁に掛けていた。
すらっとはしてない足とか、すごく綺麗ではない背中とか、艶めかしくないうなじとか。
でも、だからといって不細工というわけではない。女性として、十分に魅力的だった。
特に、幼い顔らしからぬ豊かな胸などは、ダーリンにとってはたまらないものがあった。
「ねぇ、ダーリン…」
 そんな事を考えている最中に、突然、鏡の中の奥さんが振り返った。
ダーリンは、死ぬほど慌てて視線を下げた。血液が逆流した。
蛇口から、ぽたりぽたりと水滴が垂れている。洗面器の中に落ちては、波紋を作っている。
「あーっ!! いやらしいんだからぁ」
 さすがにばれていた。奥さんの声は、とてもいやらしく聞こえた。いや、いやらしい。
「…な、なにをだよぅ」
「ダーリンって、見たがるくせに見せると照れるよね。変なのっ」
「み、見せてたのかよ」
「鏡でこっそり見なくても、言ってくれればいつでも見せてあげるよ」
 赤いいすに座った奥さんが、うしろでくすくすと笑っている。
そおっと顔を上げてみれば、待ち構えていた奥さんと、鏡の中で視線が重なった。
それは、あまりにも優劣がはっきりしすぎていて、ダーリンは、またうつむいた。
かあっと、全身が熱くなるのを感じて、身体を小さく丸めた。
もちろん、幼い顔に似合わぬ部分が一瞬でも見えてしまった、ということもあった。
「だ、誰がお前の胸なんて…」
「もう見飽きちゃった?」
「ば、ばか。なに言ってるんだよ…」
 それ以外に答えがなかった。
飽きていないといえばうそだが、見飽きるほど見ていないのも事実だった。
タオルに隠れた自分の股間を見ながら、ダーリンはそんなことを思った。
「えへへっ、よかった」
 恥ずかしいのか照れているのか嬉しいのか、判断に苦しむところだ。
その奥さんは、近くにあった、黄色いボディソープに手を伸ばす。
それから、手のひらに半透明の液体を広げながら言った。
「そういえば久しぶりだよね。いっしょにお風呂に入るのって」
「そうだっけか?」
 言いながら、半月前だろ、と、頭の中で答えていた。
それが世間的にどうなのか、ダーリンにはわからなかったが、ふたりとしては長かった。
就職する前は毎日。結婚する前は週に数回。それが、いきなり半月なのだから。
数学的には、久しぶり、になるのだろう。
「そうだよ。だから、スキンシップに飢えちゃった」
「…そのわりには、べたべたしてきてるじゃないかよ」
「べたべたするのは別だもん。裸と裸のお付き合いだって大切だよ」
 大切なわりには、あっちの方も最近ご無沙汰だぞ、なんて、決して口には出せなかった。
それは、どちらかが避けているわけでも、お互いが避けているわけでもなくて。
きつくて厳しくて激しい重労働を、お互いにしているから、無理ができないだけだった。
それで寂しいのはダーリンの方で、だから、こんな時間はこっそりと好きだった。
「じゃあ、洗うよ」
「お、おう」
 奥さんの手のひらで泡立てた液体は、ダーリンの背中で伸ばされていく。
それは、ちょうど人肌の温度になっていて、冷えた身体が暖まっていくように思えた。
でも、いつもはスポンジを使うよな、と、ダーリンが気がついた時。
 後ろから、奥さんの細い両手が伸びてきて、ダーリンのお腹を抱きしめる。
それで、むにゅっと、何かが背中に押しつけられた。決して小さくないなにかが、確実に。
「…えっ?」
 背中全体が、奥さんの体温に包まれるような、そんな感じがする。
特に強く当たる部分から、忙しい心音が伝わってくる。
これは正常だな、と、妙に冷静に思えたのは、職業病以外のなにものでもない。
「それじゃあ、いくね…んっ…」
 マシュマロのように柔らかいふたつのなにかが、ダーリンの背中を上下し始める。
くちゅくちゅと、背中を流す音とは思えない音が、お風呂場に響く。
奥さんが、時々、妙な吐息を漏らす。それがまた、ダーリンを微妙な気持ちにさせる。
直接的ではなく、間接的に。その柔らかさをいつもは感じぬ部分で感じることに。
 なにをされているのか、もちろん、理解できていた。
頭だけではなくて、一番、敏感に反応する部分も、当然のように理解していた。
でも、それでどうすればいいのか、ダーリンの頭にはひらめかなかった。
いや、どうしてこうなっているのかがわからないから、ダーリンはなにもできなかった。
「…んっ、はぁ…」
 奥さんは、言葉もなく続ける。
なんとなく、息遣いが怪しくなってきた。上へ下へ、動きも激しくなってきた。
それで、ようやくダーリンは、今の状況がおかしいと気がついた。
おいしい、とも思ったが、それは、頭の中では、それほどの割合を占めなかった。
「ちょ、ちょっと待てっ!!」
 お腹に回された、奥さんの腕をぎゅってつかんで、ダーリンは怒鳴った。
お風呂場だから、それは余計に大きく聞こえて、奥さんが大げさに驚いたのがわかる。
「…ど、どうしたの、ダーリン」
 上下運動を止めて、奥さんがダーリンの右肩からのぞきこむ。
それで、ますますつぶれて、ダーリンの心臓が高鳴った。聞かれていないか不安になった。
けど、それは重要ではない。
「ど、どうしたじゃないだろっ!!」
 きょとんとした奥さんは、なにを怒鳴られたのか、いまいち理解していなかった。
いや、ダーリンだって、どうして怒鳴ったのか、いまいち理解していない。
子供のころにやった、奥さん相手のお医者さんごっこの時と、少しだけ似ているとは思う。
あの時は美佐子さんに怒られたけれど、その時の美佐子さんの気持ちが少しわかった。
 奥さんは、少し息を切らせたまま、鏡の中のダーリンに話しかける。
「…気持ちよくなかったの?」
「そうじゃなくて…」
 そうじゃなくてなんだろう。
ただ、いきなりこんなことをされて、それで混乱していた。
だから言葉に詰まったが、要するに、要するに。
「な、なんでこんなことをするんだよ」
「だって、みっちゃんが言ってたから…」
 少しおびえた様子の奥さんの言葉に、なにを、とは思わずに、またか、と思った。
同僚の、いかにも生意気ないたずらな顔が、頭の中に浮かび上がる。
奥さんに、妙なことばかりを吹き込んで、ダーリンは、いつもとっても困らせられる。
ものを知らない奥さんにも困るが、ろくなことを教えない同僚はもっと困る。
明日、職場で会ったらきつく厳しくびしっと言っておかないな、とダーリンは思った。
たぶん、効果はないだろうけれども。
 ダーリンは、奥さんの手を離すと、青いいすの上で、器用に方向転換した。
首から下を泡まみれにした奥さんと向かい合うのは、恥ずかしくないことではなかったが。
むしろ、素肌でいられるよりも、相当に色っぽかったが。
その中に、ほんのりと桃色の突起が見えてしまって、今さらながらにどぎまぎするから。
できるだけ下を見ないようにして、奥さんのとぼけた顔だけを見るようにした。
「どうしたの?」
「でだ。他になにを聞いたんだ」
「なにって…」
 奥さんは、沸騰したように真っ赤になって、指をもじもじと動かしだした。
あいつがこれだけしか教えないはずがない。ダーリンのかま掛けは、案の定、だった。
「ほら、言え」
「…そ、そんなの…言えないよぉ」
「いいから言え。あいつに何を聞いてきたんだ?」
「恥ずかしいからイヤっ」
 今、自分がしたことは恥ずかしくなかったのか、と聞きたかったが。
同僚に吹き込まれたことは、それよりも、もっと恥ずかしいことなのだろう。
両手を頬に当てて、いやいやを繰り返す。ダーリンは、仕方なしににらみつけた。
「とにかく言え」
「だってぇ…」
 照れ笑いをしてみたり、せっせっせをしてみたり、ごまかしているつもりなのだろう。
だが、ダーリンはにらみ続けた。こういう時になると、波乱万丈の人生経験が役に立つ。
それで、さすがの奥さんも根負けしたように、しゅんとなってしまった。
「言えよ」
「…言ったら許してくれる?」
「俺は別に怒ってないぞ」
「うそだよう。ダーリン、さっきから怖いもん」
 潤みがちな上目づかいに、微かに唇をとがらせて、太ももに両手をはさんで。
それはまるで、捨てられた仔犬のような脅え方だった。
さすがにダーリンも、一瞬、ちゅうちょはしたが、これだって同僚の悪知恵だった。
「と、とにかく…怒らないし許してやるから言ってみろ」
 無理矢理に笑顔を作るのが対抗策だと、最近、学んだ。
それで、奥さんが困った顔をした。こうなったら、ダーリン向けの展開だった。
「どんなことするのか、興味があるだけだから。な」
 少し頬がひきつっている。どうにも、笑顔を作るのは苦手だった。
だが、奥さんには効果があった。あごに手を当てて、しばらく悩んでから。
「…誰にも言っちゃダメだからね」
 とても真剣な顔をして、お風呂場中を見回した。
どうやら、ふたりの他に誰かいないか確認をしていたらしい。
ふたりきりの家で、そのふたりがお風呂場にいて、誰がいるものか、とダーリンは思う。
「あのね…」
 それからダーリンに近づくと、耳もとに口を寄せて、ひそひそと話を始めた。
ふたりきりのお風呂場で、こんなことをする必要なんてないはずだが。
奥さんの口をついて出てくるフルコースは、確かに、普通に話せるものではなかった。
言うほうも聞くほうも、いつの間にか、全身を真っ赤に染めていた。
「…で最後なんだって」
「な、な…なにを考えてるんだ、あいつは!!」
 ダーリンが、思わず立ち上がりそうになる。握りこぶしはぷるぷると震えている。
けれども、とても立ち上がれる状況ではなかったので、おとなしく座っていた。
怒りとは微妙に違う感情だったが、同僚には強く言わねば、と心に誓ったのは事実。
「お前…もしかして全部やるつもりだったのか」
「うん。そうしたら、男の人は元気になるからって、みっちゃんが言ってたの」
「そりゃ、元気になるだろうけど…」
 もやもやと想像しては、ダーリンは生唾を飲んだ。それは確かに効くだろう。
どうせならやってもらおうかな、なんて思う。今からだってやってくれるはずだ。
問題だらけの同僚も、たまにはいいことを言うな、とも思った。
けど。
「最近、すごく疲れてるみたいだから、元気になれるようなことをしてあげたかったの」
 力なく、奥さんが言った。
「なのに、なかなか時間も重ならないし、なにもしてあげられないし…だから…」
 でも、余計なことしてごめんなさい、と、タオルを巻いた頭が下がった。
理由はわからないけれど、怒られるようなことをしたのだと思っているに違いない。
怒らないと約束したのに、どうも、信じてもらえなかったみたいだった。
それはそれで悲しいけれど、そうではなくて。そんなことはどうでもよくて。
 ダーリンは両手を伸ばして、奥さんを抱きしめた。
「…ダーリン?」
「あのさ…そうじゃなくてさ…すごく、嬉しいんだけど…そうじゃないだろ」
 そうじゃない。そうじゃないけど、言葉がわからない。
だから、ダーリンは、もっとぎゅうっと抱きしめた。細い肩を、ぎゅうって抱きしめた。
意味もわからずにきょとんとしたまま、でも、奥さんもダーリンの背中に手を回した。
お互いの触れ合う部分が増えて、お互いの体温を生で感じて、鼓動を感じて。
そう。そうじゃなくて。そうじゃなくて。
「…その、さ。俺だけが元気になったって、しょうがないだろ」
 お前だって疲れてるの、俺にだってわかってるぞ。ダーリンは、そう続けた。
ゆっくりと身体を離しながら、だけど、手と手はしっかりとつないだままで。
「でも、ダーリンの方が疲れてるよ。それなのに、なにもしてあげられないなんて…」
「なにもしてなくないだろ」
 ううん、と、奥さんは首を振る。どこがだよ、と、ダーリンは思う。
「けどさ、仕事をして家事をして…それで俺の面倒までみていたら、本当に倒れちゃうぞ」
「だって…全部、奥さんの役目だし、無理はしてないから大丈夫だよ」
「でも、疲れてるだろ。仕事だけにしたって、お前の方が働いてるんだぜ」
「けど…ダーリンになにかしてあげたいって、本当にそう思うんだもん」
 泣きだしそうな顔だった。いつ泣き出しても、おかしくない顔だった。
ダーリンは、そうだったと思い出した。奥さんは、そういう人だったんだと思い出した。
 この人は、いつだってそうだった。おせっかいなぐらいに人のことばかり考えていた。
それがうるさい時もあるけれど、それだって、なにか役に立ちたいという気持ちから。
付き合い始めた時から、いや、知り合った時からずっと、わかっていたはずなのに。
いつの間にか、それが当然のことのように感じるようになっていた。
 あのさ、と、ダーリンは言う。恥ずかしそうに、後頭部をかきながら。
「いつも…そうやって思ってくれるだけで十分だからさ」
 奥さんが驚いた顔をしたから、ダーリンは天井のすみっこを見た。
「その…お前がそばにいてくれるだけで…元気になれるからさ。無理、すんなよ」
 慣れないことを言うと、どうにも頬がひきつる。こめかみのあたりがむずがゆい。
けれども、そういうことだった。この人がそばにいてくれれば、元気になれるから。
妹という存在が恋人になって、こうして奥さんになったのは、そういう理由だろう。
それで、へへっ、と、奥さんが笑った。ほんの少し、目尻になにかがたまっていた。
「…そういうこと、初めて言ってくれたね」
「何度も言うことじゃないだろ」
「時々言ってくれるだけでも…疲れなんてなくなっちゃうのに」
「…考えとく」
「うん、ありがとう」
 飛びつくような勢いで、奥さんが抱きついてくる。
ダーリンはしっかりと受け止めて、強く強く抱き返した。
「私もね、元気なダーリンがそばにいてくれるだけで…それだけでいいから」
 奥さんの、こういう言葉は何度か聞いているけれど。
当然とばかりにさらりと言われると、どうしても鼓動が早くなった。
 そして、自然と腕に力が入った。
お互いの肌が、汗と体温と息づかいで、しっとりと解け合うようなそんな気がする。
そんなことを感じるたびに、本当にこの人だけだな、と再確認する。
見慣れても見飽きても、この感覚はいつでも新鮮で、なにかをそっと癒してくれる。
これはきっと、自分だけではなくて、奥さんだって感じているはずだ。
ダーリンは、そう思った。
そういうのは、ふたりで感じなくちゃ、とも思った。
「なぁ。美佐子さん、すぐに帰ってくるのか?」
「遅くなるって言ってたよ」
「そっか…」
 静かなはずの洗濯機の音が、かたかたかたと響いている。
湯舟に注がれるお湯の音は、けっこううるさかった。
換気扇の音が、ぶおんぶおんと鳴っている。
それ以上に、お互いの胸の音が大きすぎた。
「あ、あのさ…」
 ダーリンの一言で、それだけで、すべてが伝わってしまったようだ。
「うん」
 奥さんがくすっと笑う。その表情に、また、どうしようもなくなった。
どちらからともなく、自然と身体を離す。
とっくの昔に、奥さんの泡はなくなって、肌があらわになっている。
隠すものはなにもなくて、それに気がついたのか、ほんのりと桃色に染まっていた。
「じろじろ見られると…恥ずかしいよ」
「見せろ言ったら見せてくれるんだろ?」
「…やっぱりダメ」
 胸を両手で隠して、舌をべーっと出す。ダーリンは、それを見て優しい顔になった。
潤んだ瞳と潤んだ瞳で見つめあって、まばたきだけで会話を交わす。
自然と呼吸も重なって、手のひらが重なって、しばらくもして、気持ちも重なった。
「…ダーリン。っ…」
 あうんの呼吸で重ねたのは、まずは、荒れ気味の唇だった。
お風呂場は、いつの間にか、湯気でいっぱいになっていた。

(了)


(2000.10/27 ホクトフィル)

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