小説
2002.11/ 2




薄いの。-新婚組曲-


 ものすごく気怠くて、ものすごく眠たくて、このままほうけていたかったが。
後始末が残っているから、旦那は、ゆるゆると身体を起こして、だらだらと手を伸ばした。
カーテンを締め切った部屋は、真っ暗に近い。とはいえ、位置を間違えることもなく。
肌触りのいいそれに指先が触れると、スタンドの小さい電球が淡く灯った。
柔らかい橙色が、広いベッドをぼんやりと照らし、不気味な大きな影を壁に作り。
乱れたシーツの上にいる、新妻の裸体を浮かび上がらせた。
「…う…ん」
 突然の明かりがまぶしかったのか、新妻は小さく鳴いて、顔をずらした。
リボンが取れて乱れた髪。銀色に輝く汗。深く長い呼吸に呼応する胸。紅潮した肌。
一糸まとわぬ姿だというのに、どこも、なにも隠そうとしない新妻に。
今さら、なにを感じることもないはずだが、それでも、真っすぐは見られなかった。
 だから、というわけではないが。
新妻に背中を向けるような格好で、旦那は、ベッドの端に腰を下ろして、一息ついて。
萎えかけたものから、伸び切ったものを丁寧に取り外した。
これを付け外ししているところは、なんとなく情けなくて、見られたくなかった。
もちろん、使い終えた物も誰にも見られたくもないから。
入り口をぎゅっとしばると、ちり紙で厳重に包み隠して、足元のごみ箱に落とす。
底に当たって、こん、と鈍い音がした。
 それが、仕事を終えた合図だった。
旦那は大きくうなだれて、小さくため息をつきながら、中くらいのあくびをした。
あれだけ尽くせば無理もないけれど、それにしても、とにかく疲れた。
久々で、あのリボンにあの服にあの呼び方では、激しくなるのも仕方はなかったが。
そうだとしても、疲労感も倦怠感も脱力感も、いつも以上に激しいものだった。
 それでも、たばこだけは吸いたくて、ベッドの脇に置いてある箱を手にする。
なのに中身は空っぽで、絶望的な表情をしながら、それもごみ箱に捨てた。
壁に伸びる影が、ますます疲れ切ってしまい、ますます旦那はうなだれた。
もう若くはないのかな、と、悲しいことを考えて、いやいやと頭を振った。
 その体勢のまま、わきの下から、うしろをのぞく。
余韻を楽しんでいるのか、激しすぎて疲れているのか、新妻も、まだぐったりとしていた。
あちらの方を向いているから、どんな表情をしているのかわからないが。
どちらにせよ、あれで満足してくれるような人ではないことはわかっていた。
部屋の明かりを消す前の、無意味なほどに元気すぎる新妻の姿が頭に浮かんだ。
「今夜は寝かさないからね、ダーリンっ!!」
 それは一人前の男の言葉だろう、と、旦那は思った。新妻が言ってどうするよ、とも。
けれども、こういう宣言をした時の新妻は、一人前の男だった。
よほどのことがない限り、寝かせてくれないのは過去に実証済みだから。
覚悟はしているけれど、どうせなら、このまま眠ってくれればな、と、願う。
いつの間にか子守歌をつぶやいていたのは、その願望の現れなのだろう。だが。
「…ん…うん…」
 聞き慣れた人の、寝起きのような声がした。
いや、実際に寝起きのようなものなのだろう。ただ、寝言という可能性も残っている。
どうか本当に寝言でありますように、と、旦那は本気で祈った。
「…あ…れ、ダーリン?」
 言いながら、ゆっくりと身体を起こし、誰かを探すようにきょろきょろとする。
声が寝起きのままとはいえ、祈りが通じなかったのは明白だった。
旦那は正面を向いて、寝た子が起きてしまったかと、心の中でため息をついた。
 うしろで、ごそごそと音がする。白い壁の黒い影が、どんどん大きくなる。
だから、全身に力をこめた。次の瞬間、予想どおりに背中がずしりと重たくなった。
身体が少し冷えていたからか、感じる体温が妙に温かくて心地好くもあったが。
「もぉ、すぐに逃げるんだから」
 逃げられるなら逃げたいと、旦那は本気で思う。それこそ、すぐに捕まるだろうけど。
新妻の細くはない腕で、肩をがっちりと抱かれると、ため息が出てしまった。
それが珍しいことだから、新妻が心配そうに首を伸ばしてきた。
「どうしたの、ダーリン。元気ないけど…疲れちゃったの?」
「…体力全部、お前に吸い取られちゃったの。ったく、あんなことしやがって」
「でも、たまにはいいでしょ? お兄ちゃん」
 からかうような新妻の口調に、少しむっとしたけれど、反論はできなかった。
あれはなんとなくそういう流れに持ち込まれただけであってのっていたわけではない。
別にお兄ちゃんとかリボンとかで燃えたわけじゃないしそんな変態でもないし。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。全然、変じゃないから」
 自分自身への言い訳の最中に、新妻がくすくすと笑うから、ぷいっとそっぽを向いた。
最近、押されっぱなしだよなぁ、と、旦那は思う。なんだか少し情けなくもなる。
考えてみれば、付き合い始めた頃から、肝心の時はいつも押されていたけれど。
「…そ、それはいいから、いい加減に寄りかかるのやめろよ」
「だって、こうしていると温かいんだもん」
 新妻が、腕にぎゅうっと力を込めた。仕事で鍛えられているせいか、こっそりと痛い。
裸でいるから身体は少し冷えるし、実際に旦那としても温かくて心地好かった。
だが、問題は、かけられている体重だった。
「俺が潰れてもいいのかよ」
「えっ?」
 意味がわからないのか、一瞬、きょとんとして。それから、顔を赤く染めた。
「ひどいよ、ダーリン!! 私、そんなに重くないよっ!! ダイエットだってしてるし」
「してたって、重いものは重いの」
「…意地悪なんだから」
 言いながら、素直に身体を離す新妻は、正直、かわいいと思う。
そして、そのまま旦那の隣に腰を下ろすと、頭を肩に預けてきた。
問題のチェックのリボンは、いつの間にかなくなって、髪は自然に下ろしていた。
「最近のお前ほどじゃないだろ?」
「そんなに意地悪かな? でも、ダーリンの影響だよね、きっと」
 新妻が、えへへと笑う。旦那はそれには答えずに、新妻の肩をそっと抱いた。
ふたりが並んで座るから、電球色の壁の影が大きくなった。けど、ひとつのままだった。
「…ねぇ、ダーリン」
 太ももの間に両手をはさんで、足をぶらぶらとさせて遊んでいる。視線は、そこだった。
「ん?」
「私がぷよぷよになったら、嫌いになる?」
 ぷよぷよがなにを指すのか、旦那には、最初はまったくわからなかったが。
自分のお腹を自分でつまむ新妻を見て、さっきの話の続きだと理解した。
なんだかんだと、いつも気にしていることを、旦那はもちろん知っている。
けれども、もうぷよぷよだろう、と、からかうような気分でもなく。
「そりゃ、ぷよぷよしすぎたら嫌だけどさ」
「そうだよね」
「まぁ、俺としては、今ぐらいがちょうどいいけどな」
 珍しく、正直な意見を口にした。
実際に、目立つような体格ではないし、今が最高の状態にしか見えないのだが。
新妻には、慰めの言葉に聞こえたらしい。
深刻な顔をして、自分のお腹をつまんでいた新妻が、うん、とうなづいた。
「やっぱり、もっとダイエットしないとダメだよねっ!!」
 握りこぶしを作って、何度もうなづき、がんばろう、と、自分に言い聞かせている。
前にも同じ事を誓って、数日後には誓いを忘れていることがあったのだが。
たぶん、そういう事があった事すら忘れているに違いない、と、旦那は思った。
けれども、やる気をだしているところに水を差すつもりもなかった。
痩せすぎない程度に痩せた新妻を見たい気持ちもあった。
だから、適当に気持ちを込めて、応援の言葉をかけた。
「ま、がんばれよ」
「がんばれよじゃないよ。ダーリンもいっしょにするんだよ。だってほら…」
 いつの間にやら、新妻の指が、旦那のお腹をしなやかにつまんでいた。
新妻よりは微かに薄いとはいえ、具体的に見せつけられると説得力がある。
「ダーリンだって、油断してるとお腹が出てきちゃうんだからね」
「ひ、人の腹を勝手につまむなっ!!」
 はっと気がついて、身体をひねって、新妻の魔の指から逃れた。
とはいえ、実際に気にしていることだけに、なにも言えなかった。おまけに。
「ダーリンはずっと好きだけど、ぷよぷよしたダーリンはいやだからね」
 旦那は、つねられたお腹を撫でながら、困った顔をするしかなかった。
ぷよぷよしたくなくても、勝手にお腹が出てきてしまうことだってあるわけで。
看護婦さんなら、それくらい知っていてくれてもよさそうな気がするわけで。
もっとも、ぷよぷよするにはまだまだ時間があることも、旦那は知っているから。
「…だからって、俺まで巻き込むなよな」
「でも、こういう事って、相手がいた方がやりやすいんだよ」
「そうかもしれないけどさ…」
「じゃあ、今から始めようよ」
 ああ、ケーキを夜中に食うのはやめようぜ。
旦那が建設的な意見を出そうとしたのに、それは言葉にならなかった。
それより早く、新妻の唇が出口を塞いでしまっていた。
一度、離して。瞳を重ねて。そして、唇を重ねる。
新妻の舌を吸いながら、そういう事かと気がつく頃には、上半身はベッドの上だった。
柔らかい唇を擦り合わせ、舌がねっとりと絡み合い、中を優しく愛撫しあって。
いつの間にか両耳を塞がれていて、口の中の音が、頭の中で艶めかしく響きわたる。
新妻の体温に、このまま流されてもいいかな、と思わなくもなかったけれど。
体力のない時に身を任せるのは、大変に危険だということをよくわかっているから。
 上にかぶさっている人の背中を、指先でつつっとなぞった。
最初は我慢していた新妻も、さすがにこらえられずに、吐息を漏らして顔を上げた。
「んっ…ダーリンはなにもしなくていいから、ね」
「よ、よくない!! だいたい、まさかこれがダイエットって言うつもりじゃ…」
 うん、と新妻は小さくうなづいた。背景の天井は、薄暗い橙色だった。
「だって、あんなに汗をかいて、あんなにぜいぜいするんだもん。絶対に痩せるよ」
 潤みがちな瞳は、ものすごく真剣で、旦那はなにも言えなくなる。
だったら、付き合い始めた頃は、相当にがりがりになっていたぞ、と、心の中で思った。
「そっか?」
「そうだよ。絶対に痩せるよ。でも、ダイエットって続けないとダメだから…ね?」
 おもいっきり甘えた語尾と、おもいっきり甘えた目尻が、旦那をとらえていた。
そして、こういうおねだりから逃れるすべがないことを、よくわかっていたから。
せめてもと、小さく反撃しておく。
「…ったく、本当にいやらしいな」
「だって、こんなになっちゃったのダーリンのせいだよ。変なことばかり教えるから」
 なんとなく、男心をくすぐられているようないないような、そんな返事だった。
たしかに、手とり足とり教えたが、素質がなければここまではならなかったはずだろう。
「あのな。お前が勝手にそうなっただけだろ」
「うそだよぉ。恥ずかしいって言ってるのに、ダーリンがあんなことやこんなこと…」
 きゃっ、と、新妻は両手で頬を隠した。
なにを恥ずかしがっているのやら、と、ダーリンはうさん臭そうな顔をする。
慣れた途端、さぞかし楽しそうに、興味津々、いろいろとしてきたのは誰だっけ。
「俺の記憶とだいぶ違うぞ、それ」
「昔のことだから忘れちゃったんだよ、きっと」
 都合のいい忘れ方だ。これだから、新妻は強い。
手ごろな位置にあった胸を指先で突いたら、うん、と、肩をすくめた。
「変なことばかり教えたのダーリンだもん。だから、責任を取らなくちゃダメだよ」
「今日はもうとっただろ。それともあれじゃあ足りないのか?」
 足りないのがわかっていて、敢えて聞いてみる。
新妻が、それで不思議そうな顔をした。違う返事を期待していたのだろう。
「…もしかして、本当にもうダメなの?」
 そして、旦那が期待していた言葉とは、微妙に違う言葉が、新妻の口から出てきた。
疲れているのと聞かれたら、素直にうん、と言えたのに。
なにか、すべてを否定されるような言葉を使われてしまったら。
「ダメ…じゃないけどさ」
「じゃあ、元気にしてあげるから、がんばってくれるよね?」
 顔をぐいっと近づけて、これ以上ない笑みを浮かべて、新妻はそう言った。
そんな顔をされて、いや、と言えるほど、新妻に冷たくはできなかった。
だいたい、してあげる、なんて言われたら、してもらうしかないだろう、とも思う。
「…元気にしてくれるのかよ」
「もぉ、お兄ちゃんのエッチ」
「なっ…」
 油断している時に、そういう言葉を使うのは、反則なんてものではない。
にこにこを見ているとすべてが計算されているようで、なんだか悔しくもなってくる。
「ど、どっちがだよっ!!」
「夫婦揃ってだよ、きっと」
「お前だけだっ!!」
 嫌いじゃないでしょ、と、新妻は、旦那の頬にキスをして、身体を起こした。
そして、旦那もいっしょに上半身を起こす。新妻は、前の床にぺたんと座った。
いかにも、元気にしやすい位置取りだった。
「ねえ、ダーリン。ちょっと、足を開いてくれる?」
「そんな恥ずかしい格好させて…本当にいやらしいな」
「ダーリンにだけ、いやらしいんだよ」
 よくもまぁ、そういうことを言えるな、と、旦那は頬が少し熱くなった。
旦那が足を開くと、新妻は、そこにちょこんと入りこむ。ちょうど、見下ろす構図になる。
見上げる新妻がにやっと笑う。八重歯がきらりと光った。とてもいやらしい光景だった。
そして、旦那に見せつけるようにして、元気のないものの先端に唇を寄せた。
生暖かい息が、こそばゆい。
「ちょっとしょっぱい」
「俺の味じゃないぞ、それ」
 親父臭いな、と思った時には、言葉は新妻に届いてしまっていた。
だが、新妻の突っ込みは、いたって冷静で真面目だった。
「うそだよ。だって、つけてたでしょ?」
「…あ、そっか」
 やっぱり俺の味かと考えて、やっぱり親父臭い気がして、旦那はちょっと落ち込んだ。
そして、別の事で、そうだったと思い出した。
だが、新妻は勘違いして、めいっぱいの笑顔を作って言った。
「大丈夫だよぉ。ちゃんと元気にしてあげるから」
「いや、そうじゃなくて…ちょっと待て」
「どうしたの?」
 あーんと、口を開いていた新妻の表情が、少し険しくなった。
「…もしかして、また変な物を買ってきたの?」
「またってなんだよ、またって」
「もう、あういうの嫌だからねっ!!」
「嫌でも嫌いじゃないだろ?」
「もぉ…」
 旦那は苦笑いをしながら、ベッドの脇の巾着袋に手を伸ばした。
そして、口を広げ、おもむろに中に手を突っ込んで、入っているはずの物を探し始めた。
あれやらこれやら、いろいろな物が入っているが、どうにもこうにも、それがない。
「やっぱりな」
「なにが?」
 新妻の質問には答えずに、巾着袋の口も締めずに、元の位置に戻して。
旦那は、ばんざいのように両手を伸ばして、そのままベッドに倒れ込んだ。
「ねぇ、どうしたの?」
 新妻が、当然のようにおおいかぶさってきて、胸元にあごを乗せた。
意味も分からずに中断されて、いかにも不満そうな様子で。
退屈そうに、近くの乳首をぺろんと嘗めた。そこは旦那の弱点だから、思わず喘いだ。
「こら、やめろって」
「やる気なくしちゃったの? 変な物はいいから、普通にしようよう」
「だから、普通にできないんだって」
 なんてことのない一言に、新妻は顔を強ばらせた。
それどころか、身体をさっと離しては、ベッドの反対側に移動していた。
なにがなんだかわからなくて、旦那も身体を起こす。
「な、なんだよ」
「やっぱりそうだったんだね」
 枕を抱きかかえて、ぷるぷると震えている。近づいたら、叫びそうな雰囲気だった。
なにをそんなに怖がっているのか、なにがやっぱりなのか、まったく見当がつかなかった。
「だから、なにがだよっ!!」
「縛ったり叩いたり…そういうこと、したいんでしょ」
 新妻は真顔だった。あまりに真顔すぎて、旦那の方が引いてしまいそうになる。
頭の中が、そういう事でいっぱいだとしても、いくらなんでも間違えすぎている。
だいたい、どこをどう考えると、そういう結論に達するのか、教えて欲しいくらいだ。
「あ、あのなぁ。なにか勘違いしてるぞ、それ」
「だって、さっきだって、リボンつけただけであんなになっちゃって…絶対に変態だよ!!」
「それこれとは…だいたい、お前、自分でやりだしておいて、そういうことを言うか?」
「もぉ、ダーリンの変態っ!!」
 両手で顔をおおうと、いやいやを繰り返した。垂らしたままの髪が、ふわふわと舞う。
まるで自分は違うといわんばかりの態度に、旦那はこめかみをひくつかせていた。
このまま押し倒して、変態っぷりをさんざん見せつけてやろうかとも思ったが。
ふと、同じような事が前にもあったと、薄い記憶が浮かんできた。
だから、旦那は、ベッドの上を転がるように移動して、自分の枕に頭を乗せた。
「わかったわかった。じゃあ、今日はもうやめるか」
「えっ?」
 足元に丸められた毛布を、足の指でつまむと、強引にひっぱり上げる。
少しちくちくするけれど、なにより、ぬくぬくしていてほっとする。
温めあったとはいえ、何時間も裸でいたら、それは身体も冷えてしまうだろう。
「ほら、こいよ。普通に寝ようぜ」
 とりあえず、上半身だけ起こして、広々と開いている隣の空間を、ぽんぽんと叩いた。
これで眠る準備は完了だった。目を閉じてしまえば、夢の中へすぐにご案内だ。
思わぬ展開に、ペンギン柄の枕を抱えたまま、新妻は本気で困った顔をしている。
泣き出しそうな口元にも騙されそうになるが、免疫はできていた。
どうやら、予想が当たっていたようだ。
「もう…寝ちゃうの?」
「なんだ? じゃあ、変態に付き合ってくれるのか? すっごく痛いぞぉ」
 意味深長ににやりと笑い、手にしたこともない鞭を振り回す真似をした。
新妻をいじめるのは嫌いではなかったが、直接的にいたぶるような気はしない。
そういう趣味の人が、時々、救急車で運び込まれてくるが、真似はしたくなかった。
「身体中があざだらけになるぞ。着替える時に見られたら、病院中の噂になるぞ」
「…でも、道具がないんでしょ? そんなのできないよね?」
「だから、道具がないから、普通にできないんだって」
 新妻の頭の中が、大混乱しているのが手にとるようにわかる。
「最後のひとつ。さっき、使っちゃったからさ」
 指で輪を作り、これがないんだ、と、旦那は続けた。ただのひとつも残っていないと。
それを見て、新妻はようやく意味がわかったらしい。
ほっとしたように、なーんだ、とつぶやいた。枕を抱えたまま、てへへと笑った。
「ダーリンって、本当に意地悪だよね。最初からそう言ってくれればいいのに」
「俺はそう言ってたの。勘違いしたのはお前だけ。だいたい、変態ってなんだよ」
 おどおどと隣にやってきた新妻を、怖い目できっとにらむ。
枕を置いて、毛布に足を入れながら、昔の事は忘れてよと、新妻が照れ笑いを浮かべる。
「今度、本当に買ってきちゃうからな。覚悟しておけよ」
「えーっ!! あ、そしたら、私が女王さまになる!! 足をお嘗め、ってやるんだよね?」
「お前が?」
「そうだよ。女王さまとお呼び、って言って、むちでぴしぴし叩いて、ろうそく垂らすの」
「いいけどさ…似合わないぞ、それ」
 雑誌なんかに載っている、女王さまと新妻は、まるっきり正反対だった。
それを新妻もわかっているのか、そうだよね、とうなづいて、目を閉じた。
「うん…似合わないね」
 毛布の下で、新妻の細くはない指が、旦那の手の平に乗った。重なって、絡める。
突然の沈黙が、さっきまで気にもならなかった秒針が、とても大きく聞こえる気がする。
はしゃぎすぎたせいなのか、元気だった新妻も、なんだか大人しくなっていた。
部屋を包む電球の色は、なんだか夕焼けにも似ていて、終わりのような雰囲気だった。
結局、今日はこれでおしまいだな、と旦那は思った。新妻の指をぎゅっとつかんだ。
しばらく、静かな時間が流れていたが。
「ねぇ、ダーリン」
 まるで、なにかを告白するような、とても静かな声だった。
ゆっくりと顔を向けると、少し見上げるような感じで、新妻が旦那を見つめていた。
「ん?」
「ずっと不思議に思ってたんだけどね…どうして、結婚してからもつけるの?」
 小首をかしげた新妻に、旦那も小首をかしげてしまう。
理由なんて、たったひとつしかないし、新妻も、それをわかっているはずなのだが。
「だって、できたら困るだろ?」
「でも、結婚してるんだよ?」
「いや…だからさ。今、できたら困るだろ?」
「どうして困るの?」
「どうしてって…」
 そう言われてみれば、どうして、を説明したことがなかった。
聞かれなかったし、話そうともしなかったし、通じているような気もしていたから。
普通の夫婦なら話し合いのあることなのだろう。長すぎる付き合いの弊害かもしれない。
ちょうどいい機会だろう。
「…ちょっと、いいか?」
「うん」
 旦那は、毛布から抜け出して、新妻を正面に向き合い、意味もなく正座をした。
旦那の雰囲気を感じとったのか、新妻もまた、手首を太ももに挟んで正座をする。
真面目な顔をして向かい合っても、裸だとなんだか間抜けだな、と旦那は思った。
「いや、今の話なんだけど…ほら、看護婦になるのって、お前の夢だっただろ?」
「…うん、そうだよ」
「それがかなってさ、仕事を始めて、充実っていうか…今、そんな感じだろ?」
 それとこれとどうつながるのか、新妻はまだわかっていない様子だった。
けれども、充実という言葉には、素直にほほ笑み、うなづいている。
「でも…もし子供ができたら、仕事、休まないといけないだろ」
「うん」
「場合によったら、やめなくちゃいけなくなるかもしれないだろ?」
「うん…そうだね」
「それって、どうかなって思ってさ。納得するまでやってからの方がいいかなって」
「仕事を、ってことだよね」
「ああ。それから子供が欲しいって、お前が思った時にって…俺は、思ってる」
「ダーリンは欲しいって思わないの?」
「いや…育てるのはいっしょにできるけどさ、産む時は…俺はなにもしてやれないだろ」
「立ち会ってくれないの?」
「そういうことじゃなくて…一番、負担がかかるのって、結局、お前だろ?」
「…うん」
「だから、俺が決めることじゃないって思ってるから…」
 ただ、本当に欲しいって思った時には、できるだけ協力するから。
旦那は、おでこにうっすらと浮かんだ汗を指で拭いながら、そう言った。
真面目な話は苦手だった。自分の考えがうまく伝わったのか、すごく心配だった。
 新妻は、旦那ではなく、電球をじいっと見つめて、真剣な顔をしている。
たぶん、今の話を自分の中でまとめて、自分の言葉を考えているはずだ。
仕事の時にしか見られない表情に、旦那は思わず見とれてしまう。
そこに、急に視線を重ねられるから、旦那の視線は宙を泳いでしまった。
「あのね…ダーリン」
 新妻が、甘える時とは少し違う感じに、にこっと笑い、ゆっくりと口を開いた。
「たしかにね、看護婦さんになるのは私の夢だったし、それはかなったけど…」
 言いながら、新妻は、自分の胸の前で指を重ねた。それは照れている時のくせだった。
「ダーリンのお嫁さんになるのはね、もっともっともーっと、昔からの夢だったんだ」
 聞きながら、旦那は、自分の顔が顔が熱くるのを感じていた。完全に、照れだった。
子供の頃は、よく聞かされていた夢。結婚を申し込んだ時も、よく聞かされていた話。
「それも…かなっただろ?」
「うん。そうなんだけど…夢がかなったら、また新しい夢ができちゃったの」
 聞いて聞いてという雰囲気ではなかったが、聞かないわけにもいかなかった。
それに、夢を口にするには、少し歳を取りすぎていて。だから、旦那はますます照れる。
「どんな、夢だよ」
「ダーリンと、私と…子供がふたりいて、すごく普通の…優しい家庭、作りたいの」
「…人数まで決まってるのかよ」
「うん、そう。それで、男の子と女の子で、けんかばっかりして、でも、仲良しなんだ」
 前にどこかで聞いた事のある話だった。やたらと懐かしい感じがするような話だった。
「それって…前にも言ってたよな」
「うん。ダーリンは冗談だって思ってたみたいだけど…本当に、今の夢なんだ」
「そっか」
 うん、と、新妻がうなづいた。
時々、ベッドの中で、そんな話をしていたことがあった。
もちろんそれは、旦那にとっても夢のようなものだったし、目標でもあった。
ただ、それはもっともっと、それこそ、新妻次第の先の事だと思っていた。
新妻の真剣な瞳を見て、そんなに先のことではないと、すぐにわかった。
「あのね、ダーリン。私、早くそういう家庭を作りたい。だから、赤ちゃんが欲しいの」
 新妻の手が、旦那の手を握った。手の平が、汗ばんでいて、熱かった。
「そのためだったら、お仕事はいつだってやめられるよ」
「…そんな簡単に言っていいのかよ」
「うんっ。それとも、ダーリンはまだ欲しくない?」
「さっき言っただろ。お前が欲しいなら…」
「それじゃダメなのっ!! ダーリンの気持ちだって重要なんだから」
 強い言葉でさえぎられて、さすがに旦那も驚いた。
でも、当然といえば当然だった。そして、見透かされていたのかな、とも思った。
新妻の夢は、旦那も自ら参加することが前提なのだから。
 だから、新妻の手を引いて、新妻の身体を引き寄せて、背中をぎゅって抱き締めた。
気のせいか、お互いの体温もさっきよりも高かった。
「お前の子供は、俺も欲しい」
「じゃあ…ね?」
 新妻が、手を伸ばしたところまでは見えていた。伸ばした理由もはっきりしていた。
だから、部屋が真っ暗になっても驚かなかったし、新妻を離さなかった。
見えない瞳で見つめあう。髪を撫で、頬を撫でられ。それから。
「…真面目に作るか」
「うん。朝までがんばろうね、ダーリンっ!!」
 くすくす笑う唇を、あてずっぽうで塞ぎながら。
やっぱり徹夜か、と、旦那は思った。だが、まんざらでもなかった。

 カーテンを締め切った真っ暗な部屋は、まだまだ、眠らない。

(了)


(2000.12/29 ホクトフィル)

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