小説
2003. 4/17




したの。-新婚組曲-


 急に、重さを感じなくなった。
何事かと見てみれば、彼女が身体を起こしていた。
「…もういいのか?」
 その言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
そして、悩むように視線を動かして、うん、とほほ笑む。
「ありがとう。しびれちゃったでしょ?」
「別に…」
 完全なやせ我慢だった。本当は、猛烈にしびれがきていた。
産まれて何十年と経ったが、腕枕だけは、上手にできない。
どうしても、どうやっても、しびれるし痛いしで、彼は嫌いだった。
それをわかっているから、彼女が、くすりと笑った。
「なんだよ」
「ううん、本当にもういいの。ありがとう」
 その代わり、とでもいうように、彼の胸に乗ってくる。
終えてから、べたべたと触れ合うのが、彼女の大好物だった。
今は、彼の胸毛をこねるようにして遊んでいる。
いつもなら、間違いなく怒るところだが、今日の彼は、なにも言わない。
だいたい、あとのお遊びに付き合ってくれる事すら珍しいのだ。
とっくの昔に、それを気がついているから、彼女が口を開いた。
「なんだか…今日は、すごく優しいね」
「あのな。俺はいつも優しいぞ」
「うそだよぉ。腕枕なんて、すっごく久しぶりだよ」
「…腕枕するやつは優しいのかよ」
「優しい人は、そうやっていじめないよ」
 彼女は笑顔のまま、彼の首根っこに抱きついた。
押しつけられた乳房の感触は、終えたばかりだというのに興奮させる。
「ねぇ」
「ん?」
「優しいのは、やっぱり…初夜だから?」
「ば、ばかっ!! な、な、なに…言ってるんだよっ!!」
「へへっ」
 ぎゅうっと頬を寄せられると、彼女の頬は熱かった。
それ以上に、彼の頬が熱かった。まだ、お酒が残っているからだろう。
あれだけ飲まされれば、そう簡単には抜けてくれない。
 ふたりに言葉がなくなれば、部屋から音が消え去った。
薄暗い天井は、ルームライトの淡さを受けて、優しい色になっている。
閉めきったカーテンの向こう側は、まだ、雨が降っているのだろうか。
「夢じゃ…ないよね」
 突然の音は、とても静かだった。
首のすき間に入った彼女の、表情はわからない。
けれども、それは真剣で、ためらうような色がした。
「寝ぼけてるのか?」
「そうじゃなくて…ちゃんと、したよね?」
「…なにをだよ」
「だから…」
 彼女が身体を起こす。
大きな影が、壁にできあがった。
「奥さんに…してもらったんだよね」
 彼にかぶさる彼女の顔は、不安な、心配そうな色を映し出していた。
本当なのかな? うそじゃないよね? 夢だったらどうしよう。幸せすぎるもん。
嬉しくて、泣いてばかりの今日からは、想像もつかない表情だった。
「…あのな」
 優しいため息をついた。右腕を伸ばし、彼女の頬に触れた。
お祝いの式の最中は、ずうっと止まらなかった涙の跡を、指先でたどった。
「じゃあ、それはなんだよ」
 彼が目で示したのは、薬指にはまっている、簡素な指輪だった。
ルームライトの光は、銀色のそれを、金色のように輝かせている。
彼女は、左手を胸元に引き寄せると、右手でそれを包み込んだ。
「結婚指輪…」
 恥ずかしそうに、彼女はそう、口にする。
うつむき加減に照れる仕種は、素直にかわいいと思った。
「誰に貰ったんだよ。神父さんか?」
「…ダーリンから、貰ったの」
「そうだろ、って…」
 彼は言葉を失った。自分の耳を疑った。
とんでもなく恥ずかしい単語が、聞こえたように思えた。
空耳だと断定するには、彼女の顔は、よりいっそう、赤らんでいた。
だらしなく口を開いたまま、彼は彼女を見てしまう。
「どうしたの、ダーリン」
 きょとんとした彼女が、その単語を、もう一度、口にした。
聞き間違えてはいなかった。今までとは別の意味で、身体が一気に熱くなった。
「だ、だ、誰がダーリンだっ!! そんな呼び方するなっ!!」
 身体を起こすやいなや、雰囲気にそぐわない大声を出してしまう。
おまけに怖い顔をするから、彼女は、わけもわからず怯えてしまった。
「どうして? 結婚したんだもん。ダーリンでいいじゃない」
「よくないっ!!」
「なんで?」
「なんでって…」
 聞くたびに紅潮するし、身体中がむずがゆくなってしまう。
しかも、彼女の事だ。しばらくは悪意もなく理由もなく口にするだろう。
おまけに、職場でまでそう呼ばれたら、同僚たちにからかわれるのは必至だった。
彼には、とてもではないが、耐えられない事だった。
「…は、恥ずかしいだろ」
「私は恥ずかしくないもん」
「呼ばれる身にもなってみろよっ!!」
「じゃあ、なんて呼べばいいの? あなた? だんなさま? パパ?」
「今までどおりでいいだろ!!」
「お兄ちゃん?」
 思いもかけない単語が出てくれば、彼はまた、怒鳴り声をあげた。
照れ臭い思い出が、走馬灯のように駆け巡るから、身体を火照らしてしまう。
「そんなのずっと使ってなかっただろ!! 名前にしろよ!!」
「やだっ!!」
「あのなぁ…」
 とんがった唇に、彼はため息を漏らした。
そんな仕種は、お兄ちゃんと呼んでいた頃と、なにも変わっていない。
感覚だって、さほど変わってはいないらしい。
「だって結婚したんだよ? 夫婦なんだよ? それなのに名前なんて…」
「普通は名前で呼ぶだろ」
「普通なんて…どうでもいいもん」
 彼女が視線を落とす。強く両手を握った。
確かに、ふたりはもともと普通の関係ではない。
だからこそ、彼は普通にこだわるし、彼女はそれを不思議に感じている。
「今だから言うけど…名前で呼ぶの、本当はすごく嫌なんだよ」
「なんでだよ」
「だって…なんだか全然、他人みたいなんだもん」
 兄と妹として始まって、恋人になって、夫婦になったふたりだった。
最初から、他人として存在したことは、ただの一度だってなかった。
彼にもそれはわかっていたし、それは自覚していた。
けれども、その呼び方がふさわしいとは、彼は思わなかった。
「けどさ…」
「やっとやめられると思ったのにな…」
 言葉をさえぎり飛びつくように、彼女は彼に抱きついた。
顔を見られたくない時に、よく使う手段だった。
おまけに、腕に力を入れてくれば、外よりも激しい雨が降るとわかった。
彼が口を開く前に、彼女が、こっそりとため息をついた。
「名前で呼ぶ。それでいいんだよね?」
 顔を胸に押しつけたまま、そう言った。
重たい空気にむせるように、彼女は時々、こっそりと鼻をすする。
また、やってしまった、と彼は思った。
こんな特別な夜に、いつもみたいなけんかをして、険悪な雰囲気になって。
そして、いつもみたいに彼女が引いて。結果として、また、我慢をさせる。
だったら、と思っているのに、出てきた言葉も、いつもどおりだった。
「あ、ああ…」
「…ごめんね、変なこと言って。おやすみなさい」
 彼女の口づけは、今までで一番、素早かった。
触れたことを感じた時には、彼の腕から抜け出ていた。
そして、背中を向けて、シーツの中に隠れるように、身体を丸めていた。
淡い明かりが作り出す光と影が、さみしさを作り出す。
 付き合っていた頃に、名前で呼ぶように押しつけたのは彼だった。
もちろん、そこに理由はあったけれど、結果として我慢させてしまっていた。
彼女の身体は、とても小さい。けれども、そこになんでもため込む。
そしてまた、我慢をひとつ、押し込ませようとしていた。だったら。
 いつの間にか、大人っぽくなっていた背中に、綺麗な肌に、彼はキスをする。
微かにあえいだ気もするが、それでも、彼女は振り返ってくれなかった。
だから、並ぶように横になって、彼女を後ろから抱きしめた。
回した腕に、彼女の手が重なってきた。
「…もう一回、するの?」
「その…ふたりきりの時だけだぞ」
「えっ?」
 彼女が、驚いたように振り返る。
赤い目が痛々しかった。新しくできた跡に、心の中で謝った。
「だから…他に誰かいる時は、今までどおり呼べよ」
「…いいの?」
「ああ」
 もしかしたら、今日、一番かもしれない笑顔を、彼女は見せた。
押し倒すように抱きつけば、彼の顔中に、キスの雨を降らせ続けた。
「ありがとう、ダーリンっ!! 大好きっ!!」
「わ、わかったから…約束、守れよな」
「うんっ!! ダーリン、ダーリンっ!!」
 何度も連呼されれば、やっぱり、むずがゆくなってくる。
けれども、それぐらいの我慢はしないといけない。彼は、そう思う。
そのうちに、どれだけ恥ずかしいことか、彼女にもわかる日がくる。
そう信じることにした。
「ねぇ、ダーリン」
「なんだよ」
「愛してるっ」
 とっくに抜けたお酒のせいか、彼は、全身を紅潮させた。
それを見られたくなくて、彼女のシーツをはぎとって、首筋に唇を寄せる。
そのまま、彼女の身体を寝かせると、彼女は、両手を広げて彼を待った。
淡い色に彩られて、見慣れたはずのその裸体は、とても魅力的に感じた。
頬を寄せながら、今日は優しくしすぎたと、彼は少し反省する。
「んっ…ダーリン…」
 反省したけど、けれども、まんざらでもないとも思った。

(了)


(2001.12/29 ホクトフィル)

[戻る]