小説
2002. 6/ 8




しないの。-新婚組曲-


 目の前にあるごちそうを、口に入れる瞬間に取り上げられたような。
それも、一ヶ月の絶食が終わって、待ちに待った食事の時の出来事のような。
そんな、最強のお預けを喰らった表情で、旦那さんは、奥さんを見つめます。
そして、もう一度、確認します。
「本当に本当なのか?」
「見てみる?」
「いや…それはいい」
 すぐにパジャマを脱ぎそうな勢いで言われては、信じないわけにはいきません。
旦那さんは、大きく、長く、強いため息をつきながら、ベッドに倒れ込みました。
ばふん、と、ほこりが舞い上がっても、気にもなりません。
心苦しそうな奥さんには気を使って、ごろりと背中を向けました。
「ごめんね、ダーリン」
「別に…お前のせいじゃないだろ」
「そうだけど…」
 ふたりから言葉が消えれば、重たい空気が降りてきます。
こんな時には、雰囲気いっぱいのルームライトが、嫌味に思えてなりません。
ほのかに漂う、奥さんのお風呂上がりの残り香も、挑発的にしか感じられませんでした。
 仕方がないんです。こればかりは、どうしようもないんです。
奥さんだって、なにも、今日を選んで始めたわけではないんですから。
そうした理屈は理解できても、でも、欲望を説得はできません。
「ダーリン」
 重みを嫌うように、奥さんが、手を伸ばしてきました。
「今日は、もう寝ようよ」
 ぬるい手をぎゅっと握り返しながら、寝られるかっ!! と、心の中で叫びます。
一ヶ月です。一ヶ月もの間、この旦那さんは我慢したんです。
もちろん、お互いの仕事が忙しくてのことだと、わかってはいるんです。
でも、それがどれだけの苦行なのか、女性である奥さんに、わかるはずもありません。
「ねぇ、ダーリンってば…」
 だから、平気で甘えるような声を出せるんです。
つないだ手のぬくもりですら、十二分に増幅させてことを、奥さんは知りません。
今すぐにでも押し倒して、ペンギン柄のパジャマをひんむきたくなります。
乳房にしゃぶりつき、太ももを嘗め上げ、欲望のすべてを放出したいと思います。
ですが、なにもできないのです。奥さんが、できない日なのです。
 顔だけ振り返れば、奥さんは、片手で枕を抱きしめています。
申し訳なさそうにうつむかれていれば、旦那さんは、苦しくなるばかりです。
この雰囲気では、口でしてくれよ、なんて、お願いできそうにありません。
こうなれば、自力による解決。他に、手段はありませんでした。
「仕方、ないよな」
 そう、ひとりごとをつぶやきます。
それはそれで嫌いではありませんし、別腹の楽しみと、いえなくもありません。
旦那さんは、もう一度、うん、とうなづいて、がばっと起き上がりました。
ですが、奥さんは手を離してくれません。
「…どうしたの?」
 つながった腕の先に、心細そうな奥さんの顔がありました。
淡い明かりに照らされたその表情は、旦那さんの心を、激しく揺さぶります。
「寝ないの? トイレ?」
 夜中に泣く、仔猫のような淋しい声が、いっしょに寝ようと訴えます。
ですが、ここで屈するわけにはいかないんです。理性には、限界があるんですから。
「…ちょっと、飲んでくる」
 ふてくされ気味に、ぼそっと、用意していた台詞をはきます。
お願いだから、ひとりにしてくれ。お願いだから、いっしょに飲むなんて言うな。
そういう意志を込めて、必死の、一杯一杯の演技でした。
だからでしょうか。
「…わかった」
 奥さんは、なにか言いかけましたが、結局、素直にうなずきました。
「先に寝てていいからな」
「うん。おやすみなさい、ダーリン」
「おやすみ」
 唇を近づけると、お風呂上がりに食べたらしい、抹茶アイスの味がしました。
寝る前に食べると太るぞ、と、旦那さんは言いました。
奥さんは、困ったように笑って、ようやくと、旦那さんの手を離しました。

 居間のたなには、世界各国のお酒が並べられています。
ですが、旦那さんは、その横を素通りしていきます。
目的は、お酒ではありませんでした。
その隣にある、本だなの上の小さな木箱こそ、今の旦那さんの求める物でした。
腕を伸ばしてそれを取ると、微かにほこりが乗っていました。
ほこりを落とさないように、精一杯に気をつかいながら、静かにふたを開けました。
そして、あ然としました。ぼう然としました。がく然としました。
もう一度、慌てて中を覗いてみましたが、ただの一本も残っていません。
旦那さんの秘蔵品は、誰かによって持ち去られていました。

 奥さんは、まだ寝ていませんでした。
枕をぎゅうっと抱きしめて、ベッドの上で、ちょこんとしていました。
まるで、すぐに戻ってくるのが、わかっていたかのようでした。
「お帰りなさい。早かったね」
「…まぁ、な」
 扉を、乱暴気味に閉めると、ベッドの端に腰を下ろす旦那さんです。
枕を抱えた奥さんが、いそいそと隣にやってきました。そして、同じように座りました。
嬉しそうにしているのは、旦那さんがいるからでしょうか。
「あれ? お酒の匂い、しないよ」
 口づけをするように顔を近づけると、犬のようにくんくんと、鼻をひくつかせます。
旦那さんは、不機嫌さを隠すこともなく、そんな奥さんをにらみつけました。
「いいだろ、別に」 
 ですが、にらまれていることも気にしていない様子です。
旦那さんの肩に寄りかかると、なにが楽しいのか、にこにこと笑っています。
微かに開いた口元の、八重歯がきらりと光ったように見えました。
それで、旦那さんにはわかりました。わかっているから、奥さんは、楽しげなんです。
正面を向いたまま、旦那さんは、静かに口を開きました。
「お前…隠しただろ」
「なにを?」
「隠したな?」
「だから、なにを?」
 横目で奥さんを脅しても、相変わらず、にこにこにこにこ笑っています。
なにを考えているのか、腕まで組んでこられては、旦那さんも動揺してしまいます。
しかも、柔らかさを押しつけてこられては、そちらに視線を送ってなんて、いられません。
とまどい、動揺しつつも、それでも話を続けます。
「…は、箱の中身だ」
「うん、隠したよ」
「…どこに隠したんだ?」
「ないしょ」
「教えろ」
「教えたら、見るでしょ?」
 その声には、たっぷりの嫉妬が含まれていました。
ですが、旦那さんはうそをつきませんでした。
「当たり前だ」
「じゃあ、絶対にないしょっ!!」
「あのな…怒るぞ」
「怒ったら捨てちゃうよ」
「…くっ!!」
 悔しみのあまり、血まみれになるほどに、唇をかみしめる旦那さんです。
激しくしないで穂高奈々とか、美人看護婦二十五時とか、人妻のぬめりシリーズとか。
厳選に厳選を重ねた十数本を質に取られては、これ以上はどうしようもありません。
両手を握りしめたのは、怒りをそこから逃がすためでした。
「…わ、わかった。怒らないし、見ないから返してくれ」
「返すわけないよ」
「ざ、ざけろっ!! 人のコレクションをなんだと思ってるんだっ!!」
「あんなの集めなくていいのっ!!」
「あ、あんなのって…」
 誰にでもお勧めできる、自信の逸品ばかりなんです。
それがあんなの扱いでは、旦那さんにとっては、屈辱以外のなにものでもありません。
あまりにも悔しすぎて、言葉が出てきやしないんです。
「趣味だって悪いよ。人妻と看護婦さんばっかりなんて…ダーリンは変態だよ」
「お、お前が言うか?」
「私だって、人妻で看護婦さんだよ? どうして私じゃだめなの?」
「だから…今日みたいなことだってあるだろ?」
「だったら、素直に我慢しようよ。こんなの、浮気といっしょだよ」
 違うんだと、それが男の生理なんだと、旦那さんは言いたくなります。
どうしようもなくなって、どうにかしないといけない時が、本当に存在するんです。
そんな時に、本当の浮気をしないためにも必要なんだと、奥さんにはわからないんです。
旦那さん以外を知らないだけに、これが特殊なのだと決めつけているんです。
「男はそんな単純じゃないんだよ。溜ると爆発しちゃうんだぞ」
「もうだまされないもん。分解されるって習ったもん」
 ああ言えばこう言う奥さんが、憎たらしくてたまりません。
ビデオは返さないし、生理は理解してくれないし、おまけに生意気なんです。
怖い怖い顔をして、奥さんをにらみつけても、舌を出して挑発までしてきます。
それでなくても溜っていては、いらいらだってしてきます。
「…わかったわかった。もぉいい。ひとり寝るよ」
 投げやりなため息をつくと、二度三度と、頭を左右に振りました。
そして、自分の枕を手にすると、旦那さんは、部屋から出ていこうとします。
居間の長椅子は、こんな時のためにあるんですから。
「…ダーリン?」
 ノブに手をかけると同時に、奥さんが声をかけてきました。
気にするつもりはありませんでしたが、ついつい、動きを止めてしまいます。
「我慢してるの、ダーリンだけじゃないんだよ」
「知るかよ…」
「私だって…本当は、ダーリンといっぱいっぱい…したかったんだから…」
 呼吸で怒りを抜きながら、肩ごしに、奥さんを気にします。
それはもう、この世の終わりのような、悲しい悲しい顔をしていました。
そして、今から泣きますと言わんばかりに、肩を小さく震わせ始めるんです。
まだ、出てもいない鼻をすすって、出てもいない涙を散らそうとするんです。
「ちょ…ちょっと待てよっ!!」
「ダーリンのばかっ!!」
 それはずるい、と旦那さんは思います。
うそでも本当でも、最強の反則だと思います。
思いますけど、対抗する策は、旦那さんにはありません。
しぶしぶとベッドに戻れば、奥さんの横に腰を下ろしました。
枕に強く顔を埋めて、いやいやと首を振る奥さんに、困惑しながら声をかけます。
「ちょっと待てよ。なんで泣くんだよっ」
「だって…だって…いっしょに我慢してくれないから…」
 精一杯に我慢してるだろ、と言いかけたのを飲み込みます。
枕ごと抱きしめれば、こんな状況でも、うっかり反応してしまうんですから。
因果な性別だと思いながら、旦那さんは、少しだけ腰を引きました。
「…わかったから泣くなよ。我慢するからさ」
「本当に?」
 ようやくと、顔を上げた奥さんは、本当に泣いていました。
でも、もう、そんなことはどうでもよかったんです。
「ああ、我慢する」
「本当に我慢してくれる?」
 こういう時の奥さんは、若くもないのに、女の子を全開にしてきます。
それは、世界中の、どんな果物よりもお菓子よりも、ふわふわと甘いんです。
鼻をくすぐるバニラの香りに、旦那さんは、骨抜きにされてしまいます。
おまけに。
「いっしょに我慢してくれるよね?」
 両手を包み込みながら、仔犬のような目で訴えられてしまった日には。
否定したら、人間として否定されそうな、そんな甘えた瞳を見せられてしまったら。
「…ああ…」
 それ以外に、何が言えましょうか。いえ、言えません。言えませんとも。
奥さんは、にこっとほほ笑むと、子供のようなキスをしてきました。
抹茶アイスの味は、もうしませんでした。少し、しょっぱいキスでした。
「ありがとう、ダーリン…」
 ぎゅうっと抱きつかれると、奥さんを、身体中で感じとってしまいます。
火照るような体温や、甘い香りや、線の細さや柔らかさは、挑戦としか思えません。
我慢できずに反応しては、やっぱり、腰を引かす旦那さんです。
「じゃあ、もう寝ようよ」
「そ、そうだな」
 無邪気に笑う奥さんには、絶対に、ばれてはいけない秘密でした。
そして、これからの苦行を考えると、旦那さんは、大きなため息をついてしまいました。
目の前のご馳走に、絶対に手を出してはいけないのですから。
「どうしたの?」
「…なんでもない」
 ルームライトを消しながら、もう一度、ため息をついた旦那さんでした。

(了)


(2001.12/29 ホクトフィル)

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