小説
2002. 8/23




濡れたの。


 ようやくと、適当な場所を見つけたんです。
だから、最後の全力疾走といわんばかりに、その軒下に駆け込みました。
通い慣れた道なのに、こんな家があったのか、って感じです。
なにはともあれ、雨宿りさえできれば、問題ありませんでした。
濡れなくて済む場所を見つけられて、ようやくと、一息つけるんですから。
だって、日頃の運動不足のせいで、もう、いっぱいいっぱいに苦しいんです。
 これは、突然の雨でした。
あまりに突然すぎて、最初、鳥の落とし物かと思ったくらいなんです。
それが、次の瞬間には、今年最強の雨降りになっちゃうんですからたまりません。
風流もへったくれもないような、遠慮のない大雨は、大変にいらいらさせられます。
見上げれば、黒く重たい雲は、まったく動こうとはしません。
 たしかに、今は雨降りの季節です。疑ってかかるべきでした。
今日は晴れだよ、なんて、唯ちゃんの言葉を信じたのがバカなんです。
帰ったら、絶対にとっちめてやろうと、そんなことを考えます。
 詰め襟のポケットから、ハンカチを取り出します。
そして、濡れた肩をぱさぱさと払いました。髪は、ぶるぶる振りました。
そうでもないかな、と思っていましたが、そうでもありました。
なんだかんだと、けっこう、びちょびちょになっているんです。
だから、拭うのは無駄だと思って、また、ポケットにしまいこみました。
そうとわかると、なんとなく、いつもよりも重たいような気がしてきます。
 明日までに乾くかどうか、とても微妙な気がします。
制服が半乾きのままで学校に行くのは、精神的に、非常に嫌な感じです。
がっかりと肩を落とすと、忘れかけていた、びちょびちょの靴がありました。
それで、ますます落ち込んでしまうんです。
「あーっ!! お兄ちゃん!!」
 そんな時に、雨音の中に、聞き覚えのある、甲高い声がしました。
顔を上げても、声の主はどこにもいません。煙っていて、視界が悪いんです。
空耳か、と思った時に、また、お兄ちゃーん、と声がします。
だから、まるで空手映画のように、腰を落として待ち構えました。
次の瞬間、正面の雨煙がゆらりと揺れて、唯ちゃんが飛び出してきました。
「おおぅ!!」
 あまりに唐突で、お兄ちゃんが後退りするのも無理はありませんでした。
ですが、唯ちゃんは気にもしないで、お兄ちゃんの正面で、息を整えようとしています。
胸を押さえてはぁはぁと、おそらく、一生懸命に走ってきたのでしょう。
「ね、ねぇ…な、なに、やってたの、お兄ちゃん」
 肩を大きく上下させて、唯ちゃんは尋ねます。
ですが、お兄ちゃんの返事は、質問に答えませんでした。
努めて出した声は、低く冷たい、怖い怖い声でした。
「お兄ちゃんって呼ぶな、バカ!!」
 そんな返事に、唯ちゃんだって、むっときて当然です。
「…だって学校じゃないもん。いいのっ!!」
「よ、よくないっ!! だいたい、ふたりきりでいるのだってなぁ…」
「誰も見てないし聞いてないよ。だからいいのっ!!」
「唯!!」
 自然と、にらめっこが始まりました。
びっちょびちょに濡れた顔に、うっとうしそうに、前髪が張りついています。
制服にお揃いの、大きめのふたつのリボンは、水を吸って垂れちゃっているんです。
唯ちゃんは、それをまったく気にしないで、ふぐみたいに頬を膨らませていました。
これはいかんと視線を下げれば、お兄ちゃんは、笑わないで、吹き出してしまいました。
だって、唯ちゃんのシャツは濡れすぎて、肌着が透けていたんです。
それで慌てて背中を向けても、もう、遅すぎたんです。
見えてしまった反動は、確実に、お兄ちゃんの顔を、綺麗に染め上げてしまいました。
「…どうしたの、お兄ちゃん?」
 そんな瞬間に話しかけられれば、お兄ちゃんは、よりいっそう、動揺しちゃいます。
こっそりと、肩ごしにのぞけば、やっぱりほら、淡い水色が浮かび上がっていました。
「な、なんでもないっ!!」
「なに怒ってるの?」
 唯ちゃんの強い気配を背中に感じながら、誤解してくれて助かったと思います。
「な…なにが雨は降らないだよ。信じて損したぞ」
「天気予報は晴れだって言ってたんだもん。唯のせいじゃないもん」
 唇をつんと尖らせて、唯ちゃんは、ぷいっとそっぽを向いたようです。
とてもじゃないですが、今の唯ちゃんを直視なんてできないんです。
薄い黄色の中の、淡い水色を、ふと頭の中で思い出すだけで、熱くなっちゃうんです。
別に、妹みたいな存在の唯ちゃんのなんて、どおってこと、ないはずなんです。
ないはずなんですけど、でも、やっぱり、だって、唯ちゃんだって女の子なんです。
お兄ちゃんは、見えちゃえば、いろいろと考えてしまう男の子なんですもん。
別に、どおってこと、あっちゃうんです。
それにしても唯ちゃんは、あの格好で公道を走ってきたのでしょうか?
「…あーあ、ハンカチもびちょびちょだ」
 ぼそっとつぶやく唯ちゃんに、お兄ちゃんは、微かに振り返ります。
唯ちゃんは、かばんを脇に置いて、シャツを拭こうとしている風に見えました。
脱いでしぼった方がいいんじゃないのか、なんて思っては、いらぬ妄想をしてしまいます。
 だって、雨宿りをする、雨に濡れたふたりです。
か細いろうそくしかなくて、けれども、狭い山小屋を照らすには十分なんです。
服を乾かしたほうがいい、なんて言って、背中合わせで脱ぐってもんじゃないですか。
みょうちくりんな雰囲気も、唯ちゃんが、くしゃみをしてからがらり一変。
背中に触れたらひどく冷えていて、熱く抱きしめてあげるのが王道なんです。
お兄ちゃんの手に重ねる、唯ちゃんの指先の冷たいこと!!
「唯、お前…」
「…お兄ちゃん、あったかい…おにい、ちゃん…」
「唯、唯っ!! 大丈夫か? 唯っ!! 死ぬな、死ぬんじゃないっ!!」
「おにい、ちゃん…ゆい…もぅ…」
「唯っ!! 唯っ!! ゆいーっ!!」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「えっ?」
 まか不思議なものに遭遇したように、きょとんとしている唯ちゃんです。
無意味に見つめ合うふたりの間を、雨音が軽やかに通り抜けていきます。
自分の世界と現実の世界がひとつになるのに、そう、時間はかかりませんでした。
「あ、いや…なんでもない」
「変なお兄ちゃん」
「ひ、人のこと言えるかよ。池で溺れたみたいに濡れやがって」
「もぉ、いじわるなんだから…」
 唯ちゃんは、拭くのをあきらめたのか、大きなため息をつきました。
拭けなければ濡れたままで、濡れたままでは透けっぱなしなんです。
お兄ちゃんは、だからやっぱり背中を向けてしまいます。
そして、しょうがないなと思いながら、ポケットに手を入れます。
さっき、ほとんど使わなかったハンカチを取り出しました。
もちろん、乾いているのと同じ状態なんです。
「ったく…ほら」
 まるでリレーのバトンをもらう時のように、逆手でそれを差し出します。
「えっ?」
「使えよ。それ、濡れてないから」
「あ…うん。ありがとう、お兄ちゃん」
 意外というような、唯ちゃんの声でした。
ハンカチを取ろうとする唯ちゃんの指が、お兄ちゃんの指に触れました。
それは、お兄ちゃんの体温とは、ひどく開きがあって、意味もなく、どきっとします。
「なんか…変なの」
「なにがだよ」
「お兄ちゃんが、ハンカチを持ち歩いているなんて」
「失礼なやつだな。俺は育ちがいいんだぞ」
 唯ちゃんは、そうなんだと、くすくすと笑います。
肩ごしに唯ちゃんを見れば、そのハンカチを手にしたまま、拭こうとはしませんでした。
じいっと、まるでなにかを思い出すように、ハンカチを見つめているんです。
それで、お兄ちゃんは、あっ、と、うめきたくなりました。
唯ちゃんの透けたシャツの事も忘れて、慌てて振り向いてしまいます。
「な、なにやってんだよ!! さっさと拭けよ!!」
「だって、これ…この前、プレゼントしたやつだよね?」
 感慨深そうに、ハンカチを見て、お兄ちゃんを見て、静かにほほ笑むんです。
たしかにそうです。そのとおりです。このハンカチは、唯ちゃんからの贈り物でした。
誕生日にハンカチなんて、おやじみたいだな、と、ぐちぐちとこぼしたものです。
でも、なんだかんだ言っても、結局、こうして使っているんです。
それは、なるたけ、唯ちゃんに知られたくないことでした。
だって、ほら。
「お兄ちゃん、使ってくれていたんだ…」
 唯ちゃんの目が、きらきらって輝いているんです。
跳びつきそうな雰囲気で、お兄ちゃんを見つめちゃっているんです。
どぎまぎを隠しつつ、お兄ちゃんは、言い訳を考えました。
「そ、そりゃ…使わないともったいないだろ」
 やっぱり覚えていたんだと、お兄ちゃんは後悔気味でした。
唯ちゃんが、お兄ちゃんで喜ぶ姿は、お兄ちゃんには、大変、苦手な分野でした。
それがどうしてなのか、お兄ちゃんには、わかるようでわかりません。
なんにしても、唯ちゃんと目を合わすことはできなくなっちゃうんです。
「ありがとう、お兄ちゃん。使ってくれて」
「お、おう」
 照れ隠しに空を見上げれば、雨は、まだまだ降り続きそうな気配です。
ここで雨宿りをしていても、止んでくれるかどうか、わかったものではありません。
なんて、余計なことを考えようとしても、意識は、唯ちゃんに向いていました。
 なんだか本気で幸せそうに、唯ちゃんは、胸前で、ハンカチを握っています。
なにも言わないで、ぎゅうって目をつむって、なにかを祈っているようにも見えました。
 ハンカチひとつで、そこまで喜んでくれる唯ちゃんに、お兄ちゃんは、きゅんとします。
それは、もちろん、見えちゃうこともありますが、それより、なにより。
唯ちゃんのそういう姿が、雰囲気が、とてもかわいいって思えてしまうからでした。
妹だとかなんだとか、そう決めつけていても、女の子を全開にされちゃうと弱いんです。
もっと喜ばせてあげたいな、なんて、思わなくもなくなっちゃうんです。
「…あのね、お兄ちゃん」
 突拍子もなく、唯ちゃんは顔を上げました。
意表を突かれて、慌ててどこも見られず、唯ちゃんの視線をまともに受けてしまいます。
「な、な…なんだよ」
「ハンカチ、返すね。唯…汚したくないから」
「そんなの、洗えばいいだろ」
 お兄ちゃんには、わけがわかりませんでした。
唯ちゃんが拭くと、落ちないほどの汚れがついちゃうのでしょうか。
 けれども、唯ちゃんは激しく頭を振るんです。
湿った髪から雨粒が飛び、リボンが取れそうなほどでした。
「そういうことじゃなくてね…お兄ちゃんだけに、使ってほしいの」
 言っても無駄だと思ったのか、お兄ちゃんの手に押しつけます。
触れる唯ちゃんの指先は、心地いいほどに生暖かく、鼓動を激しくさせるんです。
それでなくたって、唯ちゃんの瞳は潤んでいて、拒否なんてできませんでした。
「…わ、わかったよ」
「ごめんね、お兄ちゃん」
「別に…いいけどさ」
「それに、お兄ちゃんの方が、びちょびちょだし」
 唯ちゃんの手が、お兄ちゃんの制服を撫でました。
けれども、どう見ても、どう考えても、唯ちゃんほどじゃあないと思いました。
だって、ほら。唯ちゃんの腕をたどっていけば、見えないものが見えちゃっているんです。
「…透けてるお前に言われたくないな」
「えっ?」
 ついうっかり口にしてしまうと、お兄ちゃんは、どうしようもありませんでした。
視線をきょろきょろと動かして、あわあわと、言い訳を考えようとします。
そんなところを見ていただなんて、唯ちゃんには、絶対に知られたくないことでした。
 ですが、唯ちゃんは、自分の姿を見て、ちょっと驚いただけでした。
右手で胸元を隠します。てへへっ、と、恥ずかしそうにごまかします。
「ごめんね、お兄ちゃん。変なの見せちゃって」
「変なのって…」
「唯のなんて、気持ち悪いだけだよね」
「そ、そんなことは…」
「じゃあ、唯のでも見たいの?」
 いたずらっぽい唯ちゃんに、お兄ちゃんは、返す言葉を知りません。
そんな質問に、はいともいいえとも、答えられるはずがないんですから。
閉口して、困りきって外を向けば、唯ちゃんは、くすりと笑いました。
「いいよ、お兄ちゃん。無理しなくても」
 その沈黙を、見たくないという意味に、唯ちゃんはとらえたようでした。
ただ、なんだか寂しそうな声なのが、お兄ちゃんには不思議で仕方ありません。
それって、見たいって言ってほしかった、ということなのでしょうか。
そうしたら、見せてくれたのでしょうか?
 唯ちゃんを、横目でこっそりすれば、自分のシャツの透け具合を確認しています。
胸のあたりをなぜか撫でて、ときどき、引っぱってもみます。
その姿は、ひどく扇情的すぎて、お兄ちゃんは、顔を真っ赤に染めてしまいました。
 とりあえず、手にしていたハンカチを、ポケットにしまいこみます。
なくしたら、なにをされるか、わかったものではありません。
それ以上に、なくしたくないなって、お兄ちゃんは思ったんです。
 雨はまだ、大自然の驚異に戦慄を震撼させるほどに降り続いています。
目の前の道を、真っ青な車が、よちよち走りで通り抜けていくんです。
車が煙に消える頃、唯ちゃんが、楽しそうに口を開きました。
「やっぱりダメだ」
「な、なにが…」
「どうしても見えちゃうよ。唯、これで走ってきたんだ。恥ずかしいの」
 恥ずかしいわりには、けらけらと笑う唯ちゃんです。
「…自分で言うなよ」
「だって…でも、しょうがないよね?」
 同意を求める唯ちゃんに、お兄ちゃんは、なにも返事をしませんでした。
たしかにしょうがないことです。だからって、見せられる方は困るんです。
いちいち、どぎまぎなんてしていたら、心臓がいくつあっても足りません。
 そう自分に言い訳をすると、お兄ちゃんは、詰め襟のボタンを外し始めます。
それに、当然のように、唯ちゃんが気がつきました。
「どうしたの? 暑いの?」
「いや…これ、着ろよ」
 脱いだ詰め襟を、唯ちゃんの肩に、ふわっと置くお兄ちゃんです。
それは、あまりにもらしくなくて、あまりにもくさすぎて、お兄ちゃんは沸騰します。
両手をズボンのポケットに突っ込んで、かったるいと、空を見上げます。
別に、格好つけているわけではなくて、もう、本当に、単純に、恥ずかしいんです。
だってほら、こんなことをしたら、唯ちゃんがどうなるか、安易に想像できるんですから。
「…お兄ちゃん…」
「か、勘違いするなよな。か、かぜひかれたら、困るからだぞ」
 本当の目的は、さすがに言えません。
とはいえ、このでまかせの理由だって、あながち、うそではありませんでした。
「あ、うん。でも、お兄ちゃんは…寒くないの?」
「大丈夫だぞ」
 雪の降るような季節ならまだしも、そうでなければ、シャツだけで十分でした。
それに、こんなことをしてしまったら、シャツだけだって、暑すぎるぐらいなんです。
「それに、これ、唯が着たら濡れちゃうよ?」
「もぉ…いいから着ろよ」
「…うん。ありがとう、お兄ちゃん…」
 お礼の言葉は、とても静かで、とても気持ちがこもっていました。
困ったように唯ちゃんを見れば、遠慮気味に袖を通しているところでした。
隠れてしまった指先で、黒いボタンを、ひとつひとつ、閉じてもいきます。
見えなくなって残念でしたが、他人に見られなくなったのはいいことでした。
別に、誰に見られたって、お兄ちゃんには関係ないはずなのに、そう思えるんです。
 新しい服を着た時のように、唯ちゃんは、にこにことしています。
着慣れない、黒い姿を見下ろして、うわぁ、と、楽しそうに声を出します。
そんな唯ちゃんが、お兄ちゃんには、とてもまぶしく見えてしまいました。
なんてかわいいんだろう。
湧き出た気持ちに驚いて、慌ててそれを打ち消そうと頭をふるふる振りました。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「な、なんでもないっ!!」
「ねぇねぇ、似合ってる?」
 そう言って、くるりと一回転する唯ちゃんは、とても幸せそうでした。
だから、結局、唯ちゃんの方に、顔を向けられはしないんです。
首から下だけを見て、お兄ちゃんは言いました。
「似合うもなにも…」
 だぼだぼの詰め襟に、赤と黄の短いスカートが、ほとんど隠れてしまっています。
見ようによっては、ますます弱まりそうな、そんな格好ではありました。
「へへっ…お兄ちゃんの大きいね」
「お前が小さいんだよ」
「それにね…すごく、あったかいよ」
 余った袖口で口もとを隠す唯ちゃんが、お兄ちゃんには許せません。
どうしてそんな顔をするのかと、そんな仕種をするのかと、怒りたくなりました。
だって、本当に、純粋に、かわいすぎるんです。
唯ちゃんは、妹でなくてはいけないんです。かわいいなんて、ダメなんですから。
そんな風に、女の子を全開にされたら、お兄ちゃんは大弱りしてしまいます。
 何も言わず、何もせず、お兄ちゃんは、外だけを眺めます。
詰め襟を脱いで、少しは涼しいはずなのに、恥ずかしい汗をいっぱいかいています。
ハンカチを取り出して、それを拭けば、とろとろと、にじみでてくるんです。
 ただ、雨宿りをしていただけなのに、どうしてこんなになるんでしょう。
どうして唯ちゃんがこの前の道を通って、お兄ちゃんに気がついちゃったんでしょう。
気がつかなれけば、そもそも雨が降らなければ、こんなに疲れなかったんです。
 でも、このハンカチや詰め襟で、こんなに素敵な表情を見られたんです。
お兄ちゃんだって、やっぱりちょっとは、よかったな、って思うんです。
ぶかぶかの詰め襟姿に、ちょこっとは、男心をくすぐられもしちゃうんです。
「…なんか、たばこの匂いがする」
「か、嗅ぐなよ、バカ」
「お兄ちゃんの匂いだね」
 くんくんと、鼻を鳴らした唯ちゃんの、その先っぽをつまみます。
苦しそうに開けた口から出てきたのは、予想もしないくしゃみでした。
 くちゅんくちゅん。
唯ちゃんが二回もすれば、自然と手を離します。
「…大丈夫かよ」
 お兄ちゃんは、さすがに心配になって、唯ちゃんの顔をのぞき込みます。
どことなく赤ら顔で、くしゃみを押さえるように、口元に手を当てていました。
「大丈夫だよ。唯は、かぜなんてひかないもん」
 なんて、言ったそばからくしゃみをされては、説得力は皆無です。
上を重ねたとはいえ、下のシャツはびしょびしょで、髪だって水滴が垂れています。
いくらなんでも、身体が冷えないわけがありません。
 それに、唯ちゃんは女の子なんです。
お兄ちゃんより身体が弱くて当たり前なんですから。
唯ちゃんは、自分の腕で身体を抱きかかえています。微かに震えているようにも見えます。
 空はまだ、黒い雲でいっぱいでした。
雨だって、まったく降り足りないように、激しく落ちてきています。
道の向かいの家すら、煙に隠れてしまっているんです。
 だから、お兄ちゃんは決めました。
だってもう、ハンカチで拭けないくらいにびちょびちょなんですから。
「唯」
「なぁに?」
「家まで走るぞ」
「えっ?」
 言うやいなや、お兄ちゃんは、軒下から飛び出していました。
見ている以上に雨粒は強くて、かさ代わりに、かばんを頭上にかざします。
生ぬるいより、ちょっと冷たい雨でした。
まったく濡れていないシャツが、さっそく雨に打たれます。
でも、ここからなら、家まではそう遠くありません。
びちょびちょになったって、すぐにお風呂に入れば、かぜだってひかないはずです。
 雨の中で待つお兄ちゃんに、唯ちゃんは、少し困った顔をします。
だから、早くこいよ、って、お兄ちゃんは手招きをしました。
それで、ようやく決意したのか、足元のかばんを手に取りました。
そして、お兄ちゃんの隣へと、駆けてくるんです。
「行くぞ」
「うんっ!!」
 ふたりの姿は、そしてすぐに、降り続く雨の中へと消えていきました。

(了)


(2002. 8/ 8 ホクトフィル)

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