小説
2003.11/27




濡れるの。


 たしかに外は雨でした。
お昼寝をする前は、それは見事なぴーかんお天気だったんです。
それがこの、とびっきりの大雨とは、自然とは恐ろしいものです。
夕方だというのに真っ暗で、街灯は一生懸命に道を照らしてくれていました。
その道は、まるで川みたいな状態で、歩くたびに、靴がぐちゅぐちゅ鳴きました。
濡れるのを覚悟して、ぼろぼろのでよかったと、そんなことを思います
 ようやくと、たどり着いた八十八駅は、混雑の真っ最中でした。
なにせ、みんなが家に帰る時間帯の、突然の豪雨だったんです。
傘を持っている人は、それほど多くないらしく、狭い駅舎で雨宿りをしていました。
迎えを待つ人、上がるのを待つ人、公衆電話に並ぶ人、途方に暮れる人、様々です。
とりあえず傘を閉じ、きょろきょろと見回しましたが、もちろんいません。
「改札の前で待ってるって」
 電話を取った美佐子さんは、そう言っていたんです。
だから、反対側の奥にある改札口にいると考えるのが妥当というか、普通なんです。
とはいえ、そこまでの道のりは、楽なものではありませんでした。
 ちょうど電車が到着したこともあって、人の川と壁が、いたる所にできています。
バス乗り場へと向かう人たちの流れを渡り、タクシー待ちの長蛇の列を迂回します。
待ち合わせなのか、障害物のように立つ人たちを避けに避け、ようやくと見えました。
 その人は、改札口の前の柱に寄りかかって、寂しそうに下を向いているんです。
湿気のせいか、とても目立つ大きなふたつのリボンも、ぐずっと垂れ下がっています。
その横顔は、ふたりの関係がはっきりする前に、いつも見せていたものでした。
だから、どきっとしました。
「唯!!」
 名前を呼んでも、雑音が多すぎるせいか、気がついてくれません。
人の多さにいらいらしながら、早足で、唯ちゃんへと近づいていきます。
右から来る人を避け、左から駆けてくる人を行かせ、前を行く人を追い抜きます。
すると、唯ちゃんへ真っ直ぐ続く道が、急に、開けたんです。
「唯っ!!」
 もう一度、彼女を呼びました。
今度は耳に届いたのでしょう。唯ちゃんは、ゆっくりと顔を上げました。
そして、声のした方向を見て、信じられないというように、目を大きく開きました。
「おにい、ちゃん…」
 それは、まるで、映画の一場面でした。
ふたりの間にできた道を、唯ちゃんは、一直線に走ってきました。
そして、体当たりかと勘違いするほどの勢いで、お兄ちゃんに抱きつくんです。
つるつるとすべる足元も、なんとか踏ん張って、唯ちゃんを受け止めました。
「こ、こらっ!! 危ないだろ」
「だって…お兄ちゃんに会えるなんて…」
 唯ちゃんの口振りは、まるで、数年ぶりの再会のようでした。
「あのなぁ…」
 大げさだな、とお兄ちゃんは苦笑しつつ、なんとなく、唯ちゃんの頭を撫でてみました。
気持ちよさそうに目を細める唯ちゃんには、もう、あの寂しさの色はありません。
顔を上げれば、幸せいっぱいの笑みが、そこにはあるんですから。
だから、お兄ちゃんはほっとしながら、同時に気にもなりました。
「お前、なに落ち込んでたんだよ」
「えっ?」
「待ってる時、下、向いてただろ」
「違うよ。ただ、ひとりだとつまんないって…それだけだよ」
 唯ちゃんは、お兄ちゃんの目を見てそう言いました。
うそや隠し事があるように、お兄ちゃんには思えません。
それでなくても、ごまかすのが下手な女の子です。
鈍感なお兄ちゃんでも、気がつけてしまえるんです。
「だったら、いいけどさ」
「もしかして心配してくれたの? ありがとう、お兄ちゃん」
 そう言って、お兄ちゃんのほっぺたに、唇を寄せる唯ちゃんです。
家なら当たり前でも、さすがに駅では恥ずかしいのか、顔をほんのり染めもします。
そんな唯ちゃんがかわいいなと、口には出しませんでした。
にやにやして見つめていると、唯ちゃんは、照れくさそうに口を開きます。
「ところで、お兄ちゃんはなにをしてたの?」
「なにって…」
 そっか、と、お兄ちゃんは理解しました。
唯ちゃんは、美佐子さんがお迎えに来ると思っているんです。
そういえば、手にしている桃色に、気がついた様子もありません。
いきなり抱きついて、そのままでいれば、気がつかなくても当然ですが。
「いや、傘、持ってきたんだけどさ」
「それって…唯の?」
「他に誰のを持ってくるんだよ」
 笑うお兄ちゃんに、きょとんとする唯ちゃんです。
まさか、自分を迎えに来たのだと、思ってもいなかったのでしょう。
「だって…電話した時に、お兄ちゃん、まだ寝てるって言ってたよ」
「起きたら、ちょうど美佐子さんが出ていくところでさ。だから、変わってもらったの」
「お兄ちゃんが自分から言い出したの?」
「そうだぞ」
「…唯のために?」
 お兄ちゃんは答えません。ただ、にこにこって笑うだけです。
それを見上げる唯ちゃんは、少しだけ戸惑って、いっぱい喜んでいるんです。
そんな雰囲気が、食べちゃいたいほどにかわいらしくて、いじわるしてしまいます。
「なんだ。美佐子さんの方がよかったのか?」
「そんなことないよ!! お兄ちゃんが…いい」
 お兄ちゃんを抱く腕の、力がいっそう、強くなりました。
「唯は、お兄ちゃんがいればいいの…」
 抱きついたまま、顔を上げる唯ちゃんの、瞳は潤んでいました。
視線は常に、お兄ちゃんだけをとらえ、他のすべてを否定しているんです。
微かに開いた唇は、バニラアイスのように甘そうで、今すぐに食べてしまいたいんです。
なんて表情を見せるのでしょうか。なんというかわいらしさなのでしょうか。
まるっきり芸術品なんです。閉じ込めておけるものなら、閉じ込めてしまいたいんです。
いえ、もう、そんな御託はいいんです。言葉だっていりません。
 唯ちゃんのまぶたが、そおっと閉じられるんです。
お兄ちゃんは、そうすることが当然と、ゆっくり顔を近づけました。
ふたりの唇は、たくさんの言葉以上の意味をもって、重なるはずだったんです。
ごつん、と、誰かに肩をぶつけられなければ、重なっていたはずなんです。
「…っ!!」
 それは、とても弱い力でしたが、愛のじゃまをするには十分でした。
お兄ちゃんは、反射的に顔を上げます。誰だよ、って、にらんでやるつもりでした。
ですが、それは無理でした。
電車が到着したらしく、この周辺は、人人人でごったがえしちゃっています。
こんな中では、肩がぶつかるぐらいは、あってもしょうがないような気がします。
とはいえ、じゃまはじゃまなんです。
 おまけに、それで気がつきました。
この、柱の横の愛の交歓を、にやけながら眺めている奴がいっぱいいたんです。
お兄ちゃんが見回せば、みんな、慌てて視線を外しますが、ばればれなんです。
見せ物じゃないと、お兄ちゃんのお腹の中は、沸騰寸前まで達してしまいました。
「…どうしたの、お兄ちゃん?」
 その声に、意識が唯ちゃんへと戻ります。
いつまでたっても下りてこない唇に、唯ちゃんは、なぜなぜ顔をしています。
それに、なにか不安そうな、怯えるような目をしていました。
 だから、お兄ちゃんは、ぎこちない笑顔を作りました。
「あ、いや…そろそろ帰ろうぜ。美佐子さんに心配かけちゃうし」
「えっ?」
 続きはしないの?
唯ちゃんの目は、不満そうに、そう訴えてきます。
お兄ちゃんだって、続きをしたいのはやまやまです。
とはいえ、もう、この場所でしたいとは思いませんでした。
これ以上、唯ちゃんを好奇の視線にさらしたくないんです。
「行くぞ」
「…うん」
 お兄ちゃんにうながされ、渋々、唯ちゃんは身体を離しました。
そのご褒美のつもりで、唯ちゃんのおでこに、軽く唇を押しつけてあげました。
そして、唯ちゃんの左手を握ると、人混みの中に飛び込んでいきます。
人の流れに身を任せれば、お兄ちゃんが着いた場所へと戻ってきました。
 お兄ちゃんは、空を見上げました。
雨は小降りにはなっていましたが、やみそうな雰囲気ではありません。
「ねぇ、お兄ちゃん。残念だったね」
 同じように空を見ながら、唯ちゃんが言いました。
どことなく照れた口調で、だから、あのことだと、すぐにわかりました。
気がついていないと思っていたのに、どうやらわかっていたようです。
それでも続きを求める唯ちゃんは、ちょっとすごいな、と変に感心しました。
「まぁ、な。でも、やめておいてよかったぞ」
「どうして?」
「ただで見せるには、もったいなさすぎるからな」
 それは、行為のことではなく、唯ちゃんのことでした。
楽しそうな唯ちゃんや、嬉しそうな唯ちゃん。それに、寂しそうな唯ちゃんもです。
誰よりも愛らしいこの女の子を、そこらの奴らに見られたくはないんです。
ただ、お兄ちゃんは、そういうことを、素直に口にはできませんでした。
そうだね、と笑う唯ちゃんは、もちろん、勘違いしているようでした。
「ほら、帰ろうぜ」
「うんっ」
 唯ちゃんに、桃色の傘を手渡して、自分の黒い傘を、ぱぁんと開きます。
残っていた水滴が跳ねると、足元の水たまりが、たくさんの波紋を作りました。
その水たまりをぴょんと飛び越え、二歩、三歩。駅舎から離れます。
唯ちゃんが気になって振り返ると、まだ、傘を開いていませんでした。
「なにやってんだよ」
「行くよ、お兄ちゃんっ!!」
 唯ちゃんは、いたずら顔で、そう予告しました。
それで、なにをしたかったのか、すぐにわかりました。
お兄ちゃんと同じように、水たまりを飛んでいきます。
びちゃびちゃと、雨を蹴り上げて、お兄ちゃんの傘へと潜り込んできました。
「唯っ!!」
 やるだろうとは思っていても、やられてみると参ってしまいます。
この傘は、ふたりが並んで歩くには、少し小さすぎるのです。
雨脚が弱まっているとはいえ、肩は濡れてしまいそうです。
困惑気味に視線を向けると、唯ちゃんは、さっそく楽しそうでした。
「あのなぁ。せっかく持ってきたんだから使えよな」
「そうだけど…こういう時は、傘は一本でいいんだよ」
 お兄ちゃんの肩に、唯ちゃんは頭を軽く預けます。
お兄ちゃんの傘を持つ手に手を重ねると、そのまま後ろに倒しました。
これでは、雨避けの役目をはたしてくれません。
「な、なにするんだよ」
「ここなら大丈夫だよ?」
 そう言って目をつむる唯ちゃんに、ようやく理解できました。
駅の方からは、ふたりがなにをしていても、傘でまったくわかりません。
こんなことばかり考えるのが早いなと、苦笑いするお兄ちゃんです。
「そんなにしたかったのかよ」
「唯は、いつだってしたいよ」
 くすっと笑う唯ちゃんが、いとおしくてたまりません。
甘く見えた唇を、うやうやしく頂けば、ふんわりと、ココナッツミルクの味がします。
それだけで、柔らかい気持ちになれるんです。
見つめ合う瞳も、自然と優しくなれてしまいます。
「大好き、お兄ちゃん…」
「唯…」
 どうしても、そこで想いを口にできないお兄ちゃんです。
その代わりに、もう一度、唯ちゃんに口づけをしました。
わかりませんけれど、でも、きっと、伝わったと思うんです。
「帰ろう、お兄ちゃん」
「そうだな…」
 傘を真上にかざして、ふたりは同時に歩き出します。
街灯の明かりは、その影を、綺麗にひとつに重ねていました。
雨はまだ、やみそうにありませんでした。

(了)


(2002. 5/12 ホクトフィル)

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