小説 |
2004. 3/25 |
好きなの。-新婚組曲- さんざんと、降らし続けたせいでしょうか。 昨日までいた黒い雲は、今日はどこかに行ってしまいました。 空は青色、真っ青で、白い雲すらありません。 だから、屋上の扉を開けた途端に、目を細めてしまいました。 こんなにまぶしい空は、何日ぶりなのでしょう。 あまりにも気持ち良くて、伸びなんてしちゃいます。 その下ではためく洗濯物は、普段の倍もあるように見えました。 雨のせいで、たまっていたのでしょう。 シーツや枕カバーやシャツ。純白の波はまた、まぶしく思えます。 その脇をすり抜ければ、ベンチがひとつ、ありました。 少し低めの金網から、外の景色を眺められるようにと、こちらに背を向けていました。 そこには、緋色の制服を着た先客が、やはり、背中を向けて座っていました。 年がいのないお団子頭といい、色気のないうなじといい、間違えようがないんです。 あまりにも、すきだらけののん気な背中に、色々と思いをはせてしまいます。 はたいてやろうか、首をしめてやろうか、こめかみをぐりぐりしてやろうか。 どうしようかと悩んでいる最中に、その人が振り返るから驚きます。 「あ、ダーリン。遅かったね」 「…あ、ああ」 すべてがわかっていたかのような行動に、どきどきと鳴る心臓を押さえられません。 奥さんは、ダーリンのこととなると、神が宿ったかのような勘のよさを発揮するんです。 化け物を見つけてしまった人みたいな目をしても、でも、奥さんは気がつきません。 「急患さん?」 「お前には、呼び出しなかったのか?」 「うん。なにもなかったよ」 ずるいなぁ。 そういうため息をもらせば、奥さんは、にっこりと笑いました。 きっと、ダーリンの疲れを癒そうとして、そうしてくれたのでしょう。 ですが、どうにも素直に受け取れません。 予定どおりに休めた奥さんに、ちょっとばかり、嫌な感情を抱いてしまいます。 少し不機嫌になりながら、距離をおいて、どかっと座るダーリンです。 すると、奥さんは、お尻をずらして、ダーリンに、身体をぴったりと寄せてきました。 奥さんの、制服越しに伝わる体温は、ひどく高く感じます。 「…なんだよ」 「どうしたの、ダーリン。疲れちゃったの?」 「別に。それより、それ、やめろって言っただろ?」 「なにを?」 天然にとぼける奥さんに、ぐうを作るダーリンです。 「仕事中にはそう呼ばないって約束しただろ?」 「あ、ダーリンのこと?」 「…それ」 「だって休憩中だもん」 「いつ呼び出しがくるか、わからないだろ?」 「屁理屈だよ、それは」 どっちがだよ。 ダーリンは、けれども、それは言いませんでした。 この、不毛で不当な戦いは、奥さんの方が圧倒的に強いんです。 言うも言わぬも奥さんの、胸先八寸なんですから。 「とにかく、仕事中は絶対にやめろよな」 「うんっ」 しぶしぶとした気分を、ふはぁっと吐き出します。 最近、ふと思います。もしかして、これって尻にしかれてるってやつなのか、って。 空の青さが目に染みます。みけんを、指できゅいきゅいっと押しました。 ちゅうちゅうという音に、顔を向けると、紙パックのコーヒーを吸っていました。 その視線に気がつくから、奥さんは、それを差し出してくるんです。 「ダーリンも飲む?」 「…ああ」 薄茶色の紙パックを奪い取れば、ダーリンは、一気にちゅぅっと吸いました。 砂糖水のように甘ったるく、こってりとしているのは、牛乳が濃いのでしょう。 こんなに甘いのばかり飲むから、増えただの、はいらないだのとうるさいんです。 そう、心の中でぼやきます。 自然と視線は奥さんの、お腹の辺りにおちていました。 「なぁに?」 「…なんでもない」 「それよりもね、ダーリン」 「なんだよ」 「あ、うん。その…気がついてる?」 「なにが」 「間接キス、しちゃったね」 きゃっ。奥さんは、両手で顔を隠します。 でも、真っ赤に染まった耳だけは、おだんごの下の耳だけは、表に出たままでした。 ダーリンは呆然として、目が点になってしまいます。 結婚する前から、付き合う前から、こんなの当たり前だったんです。 それを、間接キスだなんて言われても、今さらなんです。 今さらなんですけれど、そんな風に言われて、そんな風に照れられたら。 「…な、な、なに言ってるんだよっ!!」 ダーリンは、やっぱり真っ赤になりながら、ぷいっとそっぽを向きました。 思い出したように、微かに残ったコーヒーを、一心腐乱に吸い出します。 その甘さに、奥さんの甘さを感じたような気がして、ますます赤面してしまいました。 「えへへ。ダーリン、真っ赤だよ」 子供っぽい奥さんの言い種が、ダーリンを、ますます窮地に追い込んでいきます。 赤くなんてなってたまるか、照れてたまるかと、こらえられれば楽なんですけど。 意識してしまえば、ごまかすことすらできません。 さわやかな風に、頬を冷やしてもらっても、焼け石に水なんですから。 ふざけるなと思いつつ、奥さんを見てみれば、同じように大沸騰中でした。 「人のこと言えるか、バカっ」 「てへへっ」 奥さんの笑い声に、ダーリンは、ちょっとだけいらいらします。 照れかくしに、腕にしがみついてきたのを振り払うと、ベンチの端まで移動しました。 奥さんは、当然のようについてくるんです。ぺたりと肩を寄せてくるんです。 「なんなんだよ、お前は」 「恥ずかしいね」 「恥ずかしいのはお前だけだっ!!」 くすくすと笑い続ける奥さんの、頭をこつんとこづきます。 それから自分を落ち着かせてから、ストローを口に含みます。 残っていたコーヒーを、一気にちゅうっと吸ってしまいました。 ぬるくなったコーヒーでも、口の中は、十分に冷やされた気がします。 ですが、それもすぐに終わってしまいました。 ずずっずずっと、液体と気体を混合した、貧しい音がしたんです。 そういえば、もらった時よりも、ずいぶんと軽くなっちゃっているんです。 「なんだよ、もうないぞ」 「あーっ!! もしかして、全部、飲んじゃったの?」 確認をするように、もう一度、吸い上げれば、実はそれが最後でした。 透明なストローが、茶色に染まることは、もう二度とありませんでした。 「…みたいだな」 「ひ、ひどいよダーリンっ!!」 大切なものを目の前で壊されたような、奥さんは、そんな沈痛な顔をしました。 大げさな、と思いつつ、でも、それがダーリンには、小気味好くも思えました。 「あー、うまかった。ごちそうさまでしたっ!!」 うやうやしく紙パックを返上すると、奥さんは、それでもまだ信じていませんでした。 いえ、信じていたからこそ、ストローを吸いたてたんです。 もちろん、音はずるずるとしか鳴りません。吸い上げられるものは、空気だけなんです。 「うーっ!!」 しょんぼりの神様にのりうつられたように、肩を落とす奥さんに、同情はしません。 だって、あんなに辱められてしまったんですから。 今、ここから飛び降りてもおかしくないくらいの恥辱を受けてしまったんです。 これでおあいこです。むしろ、この程度で済んでよかったと思うべきなんです。が。 奥さんは、両の手の平に、紙パックを乗せました。 飼っていた愛玩動物が死んだ時みたいに、空気はどんよりとしていました。 うつむきがちに紙パックを見つめる目は、痛々しいほどに生気を失っていました。 「…あ、あのなぁ…」 奥さんに、さすがのダーリンも、引いてしまうんです。 悪いことをしたというより、この雰囲気が、ダーリンには耐えられないんです。 この青空の下には似合わない、重たい沈黙が、ダーリンにはがまんならないんです。 同じのを買ってきたほうがいいのかな、なんて思ってもしまいます。 打破策が思い浮かばず、意味のない苦しみも、奥さんから破ってくれました。 「ダーリン…」 紙パックを見つめたまま、ぼそっとつぶやいたんです。 「な、なんだよ」 「最近のダーリン、愛がないよね」 予想外の言葉に、ダーリンは、まるっきり反応できませんでした。 愛? なんだそれ、と考えている間にも、奥さんは言葉を続けます。 「愛してるなら、はんぶんこにするよね? 私の分、残しておくよね?」 「そ、そっかぁ?」 「そうだよ。愛してないから…全部、飲んじゃうんだよ…」 手の平の紙パックを、いとおしむように、大切そうにベンチの下に置きました。 そして、奥さんは、ゆっくりを顔を上げました。 この世の悲しみを、すべて背負っているような、とても重たい表情でした。 あまりに大仰な展開に、ダーリンは、冷や汗をかいてしまいます。 「ダーリン…」 「な、なんだよ」 「うん…」 奥さんは、一瞬のためを作ります。 だから、その次の言葉は、ダーリンには読めました。 ですが、真顔の中の潤んだ瞳に、微かに濡れた唇に、染まった頬に、硬直してしまいます。 「愛してる」 両手を重ね、顔を寄せ、まるでドラマのような、できすぎた告白でした。 静かすぎるふたりきりの屋上といい、昼下がりののどかな時間といい、完璧すぎるんです。 だから、どういう突っ込みがいいのか、ダーリンには、皆目見当もつきません。 目をしばたたかせ、奥さんを見つめたまま、なにも言わないでいたんです。 「…ほら」 急に吹いた強い風に、洗濯物が鳴きだすのと同時に、奥さんはため息をつきました。 「な、な、なにがだよ…」 「俺も愛してるぜハニー、ぐらい言えないの?」 突っ込みどころだというのに、ダーリンは突っ込めませんでした。 真顔でそんなことを言える奥さんが、どうかしているとさえ思います。 「…い、言えるか。バカ」 「ひどいよ!! じゃあ、私のこと、愛してないんだ…」 そう言って、泣くまねをする奥さんの、頭をぺしんとはたきます。 そんなうそ泣き、通用なんてさせません。調子になんてのせません。 「いったーい!!」 案の定というべきか、変身をさまたげられて、奥さんは変貌しました。 それはまるで般若のようで、にじり寄られるダーリンは、思わず後退りしてしまいます。 「やっぱり愛してないんだ!!」 「それとこれとはまた別だろ」 「言ってくれないのなら、いっしょだもん!!」 「く…口にしないだけだぞ」 「ちゃんと口にして欲しいのっ!!」 「だから…」 好意や愛情は、口にすることではないと、ダーリンは思っています。 態度や雰囲気や行動で表してこそ伝わることだと、ダーリンは思っています。 もちろん、自分の中で言い訳をしているだけなんです。 「どうして言ってくれないの? 本当に好きじゃなくなっちゃったの?」 ダーリンの両腕を、奥さんはぎゅうっと握ってきました。 泣いたり怒ったり甘えたり、あの手この手の奥さんは必至です。 でも、今度のは、この泣きそうな顔は、うそではありません。 本当の本当に、不安なのでしょう。本当の本当に、心配なのでしょう。 だから、青い青い空を見上げて、ダーリンは言いました。 「そんなの…恥ずかしいだろうが」 「えっ?」 「だから…恥ずかしいんだよっ!!」 やけっぱちに声を張り上げます。 告白をしたかのように、照れてさえしまうんです。 というよりも、裏返しの告白なんです。照れないわけがないんです。 またもや、火山の噴火のごとく、高熱を発し出すダーリンです。 「それで…わかれよ」 「やだ」 「お前なぁ…」 「だって、それって私を愛してることが恥ずかしいってことだよ?」 「…ど、どう考えたって違うだろっ!!」 「違わないもんっ!!」 「ち、が、い、ま、すーっ!!」 「じゃあ、恥ずかしくないよね? 愛の告白できるよね?」 「か、関係ないだろ?」 「あるもん!! 恥ずかしくないなら、ちゃんとできるはずだもん!!」 「な、なんだよ、それっ!!」 「いいから、ね。ほら、ちゃんとこっちを向いて…はい、どうぞ」 「どうぞじゃないっ!!」 完全に、奥さん寄りの展開です。 なんとかしないと、なんとかしないと。 そうは思うんですけど、かといって、抜け道すらありません。 ベンチの上に正座して、ダーリンを対峙する奥さんは、あまりにも強敵でした。 ダーリンだってわかっているんです。 こういう流れになってしまったら、言わない限り、奥さんを傷つけてしまうって。 かといって、そう簡単に、口にするわけにもいきません。 奥さんみたいに、好き好き大好きと、気持ちを素直に押し伝える器用さはありません。 単純な人だからこそ許される連呼なんです。 だからこそ、たまにしか言わないことで、本当だよって伝えているつもりなんです。 「ダーリン、どうして言ってくれないの?」 「だから…」 「エッチの時は言えるのに」 「そ、それとこれとはまた別だ」 「してない時は、愛してくれないの?」 「…お、終わった時も言ってるだろ?」 「夜だけなんだ、愛してくれるの…」 「この前は昼間に言ったぞ」 「ベッドの中だけなんだ」 「風呂の中だって…」 「ダーリンっ!!」 奥さんの目に、きらりと涙が光りました。 おいおいと、ダーリンは思います。思いますけど、思うだけです。 本格的にめんどくさいことになったと、後頭部をぼりぼりとかきました。 「だから…本当に恥ずかしいんだよ」 「違うよ。遊びだからでしょ」 「はぁ?」 「私、ダーリンにもてあそばれちゃったんだ…」 「ひ、人聞きの悪いこと言うな!!」 あまりの言葉に、少々、本気で怒りつつ、また真似かよと思いました。 奥さんの作る妙なしなは、テレビドラマのまねっこだと、すぐにばれてしまいます。 どんなものからでも、悪影響を受ける人だとも思います。 「…だって、だって…愛してるって…言ってくれないし…」 「だから…」 「どうしても…どうしても言ってくれないの?」 奥さんの演技は、見るに耐えないほどに下手でした。 ハンカチで、出てもいない涙を拭い、鼻をすすれば、乾いた音しかしないんです。 まねをするならどこまでも、徹底的にまねしてみろ、とダーリンは言いたくなります。 でもだけど、だからといって、軽くあしらうわけにはいきませんでした。 それに。 「言ってくれなかったら…みんなに言いつけちゃうんだから…」 その言葉に、ダーリンのおでこがひきつりました。 最悪の結末が予想できてしまえば、こめかみだってぴくぴくと動くんです。 「な、なにを言うつもりだよ」 「ダーリンに…身も心もおもちゃにされちゃったって…」 ああっ。 ダーリンは、天を仰ぎ、神に嘆きました。 だって、脅しなんです。犯罪といっても過言ではない、完全脅迫事件なんです。 奥さんのどんな言葉よりも、この一言は強烈かつ強制力を持っていました。 ないことを、拡大誇大膨張気味に吹き込まれては、たまったものではありません。 この前なんて、とんでもない痴態の持ち主だと吹かれてしまったんですから。 「…くっ!! お、脅すつもりかよ」 「脅してなんかいないもん!! だけど…だって…」 くすんくすんと鼻を鳴らすこの人が、にくたらしく思えます。 同時に、こんな展開になってしまったことを、本当の本気で悲しくも思いました。 付き合いはじめた頃は、こんなこと、絶対にありえなかったんですから。 「わ、わかった。い、言えばいいんだろう、言えば」 両手を怒りに震わせて、肩から怒りを抜き、ダーリンは我慢します。 たった一言。あいうえお、のつもりで言えば、たいしたことはないんです。 ベッドの中にいるつもりで、ぼそぼそってつぶやけば、それで納得するはずです。 「本当に? 本当に言ってくれるの?」 奥さんは、もう、顔を上げて待っていました。 これ以上ないほどに、楽しそうににこにこわくわくしているんです。 だから、さっきの涙はなんなんだと突っ込みたくなります。 人の心をもて遊んでいるのはどっちだと、下唇をぐぐっとかんでしまいます。 「ほらほら早く早く。休み時間、終わっちゃうよ」 「…終わればいいのに」 「なにか言った?」 「くそっ」 「ほら、ここに正座して。もうちょっと前に来て」 遠足に行く子供のようなはしゃぎっぷりに、ダーリンはついていけません。 ただ、言われたとおりに、狭いベンチで正座をします。奥さんと膝を合わせます。 「はい、ちゃんと心から告白してね」 「いちいち注文の多い奴だな…」 「ほらっ、ダーリン」 なんだかもう、でもやっぱり、とにかくなんか、悔しいって感じです。 脅迫に屈したことも、その前の凌辱も、血の涙を流したくなるほどのものなんです。 だから、なんでこんなことをしているんだろうって思いながら、だるい口を開きました。 「だから、俺はな」 「うん」 「その、な」 「うんうん」 「その、お前をだな」 「うんうんうんっ!!」 童話を聞く子供のように、その続きを待つ奥さんは、目を輝かせています。 ダーリンは、枯れた唾液でのどを濡らすと、大きく深呼吸をしました。 落ち着いたはずの痴情が、また、むくむくと表れて、顔が熱くなるのがわかります。 なんで、こんなことになっているのでしょう。 なんで、こんな真っ昼間に、こんな屈辱的な恥辱を受けねばならないのでしょうか。 でも、あと、たった一言です。でも、やっぱり大変な一言なんです。 とても遠い言葉を、もう一度の深呼吸のあとに、ダーリンは用意します。 「その…愛してるぞ」 って、さっくり言えればいいんですけど、そこまで軽くはありませんでした。 やっぱり、裸にでもなっていないと言えないなって、ダーリンは思います。 伝えるよりも、もっと恥ずかしいことをしていなければ、口になんてできないんです。 気持ちよすぎる空の下で、真っ赤になって告げることではないんです。 「…ダーリン?」 「急かすなよう…」 不安げな親を見る、子供のような瞳に、ダーリンは覚悟を決めました。 たまには。たまにはこういう日があっても、いいんじゃないのかな、って。 手をつないだり、じゃれあったり、抱きしめたり、接吻したり、性交したり。 でも、それだけじゃあ足りないっていうのなら、一回ぐらい、奥さん孝行してあげたって。 たった一言のために、ここまでダーリンは考えて、うん、とうなづきました。 屈折のない視線を真っすぐに受け止めて、送り返します。 「あのな、俺は、その…お前のことを」 愛してる。 そう言おうとした瞬間、派手な電子音が鳴りだしました。 それは、ダーリンが大好きだった、古いマイコンゲームの挿入曲でした。 「えっ?」 「あ…ちょっと待ってろ」 助かったと、信じもしない神さまに感謝しながら、ポケットから取り出します。 それは、奥さんだって持っている、呼び出し用のポケットベルでした。 ダーリンは、けたたましい音を止めながら、細長い液晶画面を確認します。 「…呼び出しだ」 えーっ!! 奥さんの非難は、おおよそ、病院にはふさわしくない大声でした。 だから、ダーリンは勝ち誇れる気分にもなりました。両腕を突き上げたくもなりました。 なにか、映画の最後のような一発逆転劇です。正義は常に、神の元にあるのです。 「しょうがないだろ、仕事なんだから」 「でもでもでもぉ!!」 「続きはあとでな」 膨れた頬を指でつっつき、にやっと笑うダーリンです。 不謹慎と思いつつ、呼び出してくれた患者さんに感謝さえしました。 「ダーリンずるいっ!! 本当に逃げるの? 卑怯ものっ!!」 「仕事が優先だろ?」 「そうだけど…もおっ!! 人でなしっ!! いじめっこっ!! 七人の小人っ!!」 「なんとでも言え」 仕事なんです。文句を言う方が間違えというものです。 催促するように、また、電子音がぴろぴろと鳴り出します。 ポケットの中のボタンを押して、耳障りな音を消し、ダーリンは立ち上がりました。 見下ろす奥さんは、それはもう、悔しそうな悲しそうな表情なんです。 「ずるいよぉ…」 「呼び出しでもか?」 なにも答えず、唇をかみしめる奥さんの、前髪を何度か撫でてあげます。 それから、奥さんの前にしゃがみこむダーリンです。視線は、自然と同じになりました。 微かに震える奥さんの、両手を両手で包み込むと、真顔でその人を見つめました。 「…ダーリン?」 あまりの豹変ぶりに、奥さんはついてこられません。 逆の展開となると、いつだって、奥さんは右往左往するばかりなんです。 ダーリンは、内心で笑いながら、そおっと身を乗り出して、唇と唇を重ねさせました。 それは、触れ合うだけの、ほんの短い口づけです。 お互いの、熱い吐息が漏れる前に、空に冷やされない前に、ダーリンは伝えました。 「愛してるぞ」 「えっ…」 奥さんは、きょとんとしています。 なにが起こったのかわからないのか、わかっているからわからないのか。 敏感すぎる、ダーリンへの勘も、今回ばかりは働いてくれなかったみたいです。 だから、にやりと笑って、ダーリンは立ち上がりました。 ダーリンを、迷うことなく、一直線に愛してくれる奥さんです。 どれだけ困らせられたって、こんなに素直にかわいい奥さんです。 そんな人を愛さなくなる日なんて、きっとこないだろうな、ってダーリンは思います。 「じゃあ、あとでな」 呼び出しがあったのに、いつまでもなごんでなんていられません。 雰囲気に不似合いな電子音だって、またまた鳴り出しているんですから。 ダーリンは、奥さんの前髪をくしゃっとつまむと、嫌がらせのようにかき乱しました。 「続きは今夜にな」 「あ…ダーリンっ!!」 「なんだよ」 「うんっ!! ダーリンのこと、愛してるっ!!」 奥さんの気持ちは、優しげな風とともに届けられました。 再度の電子音を、今度は止めないダーリンです。 明日はコーヒーをおごってやるか。 ぱたぱたと走りながら、ダーリンは、そんなことを思いました。 (了) (2002. 6/28 ホクトフィル) |
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