小説
2005. 8/ 9




叶うの。


 こんな季節だから、日暮れは早くて。空も重たい鉛色で。
放課後も、そんなに経っていないのに、階段も廊下も薄暗かった。
みんな帰ってしまっているのか、教室まで、誰とも会わなかった。
それで、不安になった。
 音を立てないように、扉はゆっくりと開けた。
すぐに確認する、真ん中の列の、後ろから二番目。
そこで、席の主が、身体を丸めて眠っていた。
帰っていなかったから。それと、起きなかったから。
ほっと、胸をなで下ろした。
 隣は、特徴のない女の子の席だった。
かばんもなければ、残っている様子もない。
教室に残っているのも、自分と、眠っている人と、ふたりだけ。
それでも、そこに座ることに、多少のためらいがあった。
学校で、距離をおきたがっている人の隣に座るのだ。
目が覚めたら、いつものように怒鳴られるかもしれない。
 けれども、今日が最後だった。
同じ学校に転入することができた。同じ組にもなれた。
ただ、休み時間に話をしたり、いっしょにお昼を食べたり、下校したり。
そういう、普通の同級生がするようなことは、ほとんどできなかった。
隣の席にもなれなかった。これはただ、くじ運がなかっただけかもしれない。
そうした、ささやかな、ずっと望んでいたことを叶える機会は、今だけだった。
言い訳で不安をかき消しながら、結局、座った。
 左横の人は、こちらに顔を向けて眠っている。
頬をぺたりと机につけて、軽くいびきをかいている。
どんな夢の中にいるのか、とても幸せそうな寝顔だった。
だから、幸せがうつったように、頬が緩んでしまう。
想いの人の寝顔は、いつ見ても、何度見ても、心が温かくなる。
隣の席になれたら、毎日、こんな気持ちになれたのかもしれない。
 ずっとこのまま寝かせてあげたい。ずっとこのままでいたい。
そう思う。
そんなことをしたら、かぜをひいてしまうかもしれないけど。
実際、暖房の切れた教室は、冷えはじめている。
どうしようかと考えて、怒られるかなと心配して、うん、と、うなずいた。
上着を脱ぎ、詰め襟の上から、そおっと、おおいかけてあげる。
大きな背中には、小さいかもしれない。
でも、ないよりはいいはずだった。
寒くて震えて涙がでてきて、怖い夢なんて見てほしくない。
かぜだって、ひいてほしくなかった。
 上着がないと、やっぱり、肌寒い。
両腕で胸を抱え、隣の人の真似をしてみた。
同じ高さにある寝顔は、相変わらず気持ちよさそうだった。
まるで、睡眠の快楽を訴える宣伝のように見える。
まだ起こさなくても大丈夫だよね。
にこにこと眺めながら、そんなことを思った。

 目が覚めた。
薄暗い世界は、不気味なほどに、しんとしている。
寝起きは、それほどよくはない。
机に頬を寄せたまま、まばたきを繰り返し、そこで初めて気がついた。
「あれ…」
 寝ていた人が起きている。
頬杖をついて、呆れ気味にこちらを見ている。
「起きたか?」
「…うん?」
 頭はいまだに眠っている。ぼおっと彼を見つめてしまう。
「な、なんだよ」
「あれ…もしかして、お兄ちゃん?」
「お前、寝ぼけてんだろ…」
「…うん」
 実際、なんだかよくわかっていない。
この人は隣で寝ていて、横顔を眺めていたはずなのに。
いっぱいいっぱい、幸せを感じていたはずなのに。
どうして逆になっているんだろう。
なにか魔法にかかったような、そんな気がした。
「…ったく」
 言いながら、大きなあくびをする。
いつ見ても、げんこつが入りそうだと思う。
「どうしてそこで寝てるんだよ」
「…えっ?」
 質問が、あまりにも現実的すぎて、頭が急に働き出す。
隣の席に座ってみたかったから、なんて言えない。
寝顔を見ていたかったから、なんて言えるわけもない。
悩みながら身体を起こす。なにかに包まれた感触がある。
「…あれ?」
 上半身を包み込んでいるのは、詰め襟だった。
よくよく見れば、かけてあげたはずの上着が重なっている。
いつの間にか、そっぽを向いている人は、夏服みたいな格好になっていた。
それはつまり、してあげたことを、してくれたということだった。
したことへの答えが、怒鳴り声ではなかったから、自然と笑顔になってしまう。
「…ありがとう、お兄ちゃん」
「な、なんだよ。勘違い…するなよな」
 勘違いだといつも言うけど、意味はいつでもわからない。
けれど、たぶん、勘違いしているような気はしている。
むっすりとして、ポケットに手を突っ込んで、なにか困った様子で。
でも、だから、ますます勘違いしたくなった。
重なっている襟を、自然と抱きかかえてしまう。
なじみのない匂いは、持ち主の部屋と同じものだった。
「ごめんね。寒かったでしょ?」
「…別に」
 じっと見つめれば、照れているのがわかる。
漏れ込んでくる、外灯の明かりしかなくても、赤いのがわかる。
らしくないことをした、と思っている時の表情は、一番、好きだった。
だから、くすくすと笑みを浮かべる。
「なんだよ…」
「うん、これ返すね」
 羽織っているものを脱いだ。
名残惜しいけれども、いつまでも借りているわけにもいかない。
ここでかぜをひかれたら、あまりにも間抜けすぎる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「もう余計なこと、するなよな」
 予想していたことを言われた。
けれども、怒気はない。口癖みたいに、さらりとしていた。
内心、ほっとしながら、今日はすごく優しいな、と思った。
「でも、かぜはひかなかったでしょ?」
「まぁ、そうだけど…」
 乱暴に詰め襟を受け取ると、待ち構えていたように袖を通した。
ボタンを不器用に止めるさまを、にこにこしながら見つめる。
ふたりきりの教室は、どうしても、音のない時間が多くなる。
沈黙に弱るのは、今は詰め襟を着る人だった。困ったように口を開く。
「そ、そうだ!! お兄ちゃんはやめろよ」
 いつもの台詞も、押しが弱い。だいたい、怒っていない。
思いついて、とってつけたような、そんな風にも聞こえた。
「どうして? 今日で最後だもん。噂になんてならないよ」
「最後って…卒業式が残ってるぞ」
「大丈夫だよ。誰もいないから誰にも見られないし誰にも聞かれないよ」
「そんなの、わからないだろ」
「わかるよ。だから、今日だけはいいよね。お兄ちゃん」
 語尾の方を、強調してみる。
うやむやな顔は、なにか言いたげだったが、言葉はなかった。
認めたくなさそうにあちらの方角を向くと、すっと立ち上がる。
「…ったく」
「てへへっ」
 浮かれながら、上着をきちんと着直した。
さすがにこんな時間ともなれば、冷え込みが厳しい。
前を止めながら、この制服も、あと一回しか着ないんだと、ふと思う。
窓の方に向かう人と学校で過ごすのも、残り一日。
卒業式の日は、こんな風に接してくれないことはわかっている。
こんなわがままを聞いてくれるなんて、奇跡に近い出来事だった。
どうしてこんなに優しいのか、見当もつかなかった。
「お兄ちゃん。そういえば…」
 顔を上げて、背景に気がついて、言葉を失う。
窓の外の黒い中に、白いものが、さらりさらりと降りてきていた。
「…なんだよ」
「えっ、あっ…もしかして、雪、なの?」
「見りゃわかるだろ。ごはんつぶにでも見えるのか?」
 両手をポケットに突っ込んで、同じものを見つめている。
だから、座ってなんていられなかった。自然と窓に向かっていた。
外は、銀色の幕が貼られているようだった。
なるほど、これは冷えても仕方がない。
「大雪だね。帰れるかなぁ」
「お前が居眠りしなければ、降る前に帰れたんだぞ」
 その前から眠っていた人に言われると、ちょこっと、むっとくる。
その結果で今があるんだとわかっても、やっぱり、なにか、腑に落ちない。
「だったら、起こしてくれればよかったのに」
「よだれ垂らして熟睡してるやつを起こせるかよ」
「えっ?」
 真横に立つ人が、にやっと笑う。
窓ガラスに自分を写し、慌てて口もとをこすってみる。
濡れているような気が、しないこともなくもない。
恥ずかしさが駆けあがってきて、一瞬で真っ赤になった。
「お、お兄ちゃんだって、人のこと言えないもん!!」
「俺はいいの。男だから」
「そんなの関係ないよ!!」
「女の子のそんなとこ見たら、百年の恋だって覚めるぞ」
 そういうことを言われると、心に、ぐさっとささる。
「ま、見られたのが俺でよかったな」
「じゃあ…お兄ちゃんは覚めなかったんだよね?」
「はぁ?」
「…もぉ、なんでもないもん!! いじめっこ!!」
 からかうように笑うから、唇を尖らせた。
尖らせはしても、本気で不機嫌になっているわけではない。
むしろ、楽しくて仕方がなかった。
 隣に座ったり、優しくしてもらったり、普通におしゃべりしたり。
特殊な関係だったからできなかった、普通の同級生がしていることをする。
夢、なんて言ったら笑われそうな願いが、最後の放課後に叶っていく。
今なら、最後のお願いも聞いてくれそうな、そんな気がしてくる。
「ねぇ、お兄ちゃん…」
 心のざわめきを押さえるように、雪を見つめる。胸を押さえる。
「その…お兄ちゃんは、傘、持ってきた?」
「あるわけないだろ。降るなんて言ってたか?」
「うん、言ってたよ。だから、持ってきたもん」
 意外だな、という顔をするから、胸を張ってみた。
天気予報を見るか見ないか、ただそれだけのことだけど。
「そっか。じゃあ、送ってもらうかな」
 準備の悪い人が、ぼそっとつぶやく。
それは、もちろん耳に届く。とくん、と、胸が鳴った。
横顔は穏やかで、雪を眺める目に、尖ったところはなかった。
今ならきっと断らない。今までみたいに、なんでだよ、なんて言わない。
 冬休みに買った赤い傘は、ふたりで入るには小さいかもしれない。
でも、今日は、それくらいの方がいいに違いない。
相合傘で、肩を寄せ合って雪の中を帰るなんて、素敵なことだと思う。
 ほのかな雪明かりの教室は、穏やかな沈黙に包まれている。
それを壊さないように、小さく息を吸った。胸にげんこつを当てた。
「ねぇ、お兄ちゃん…」
「ん?」
「その…いっしょに帰ろうよ」

 扉の前で、足を止める。
振り返って見上げれば、いぶかしそうな顔をしていた。
「忘れ物か?」
「ううん。あのね、お兄ちゃん…」
「なんだよ」
「その…いっぱい叶えてくれて、ありがとう」
 叶えた人が、きょとんとする。
なんのことだか、まったくわかっていない様子だった。
でも、それでよかった。
「…なんだよ。まだ寝ぼけてるのか?」
 お兄ちゃんが、呆れきった顔をする。
唯は、幸せいっぱいに、うん、とうなずいた。

(了)


(2002.12/29 ホクトフィル)

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