小説
2002. 1/ 8




Idol talk〜Short Story From ClassMate2〜


 つまらなそうな表情のひかりに、可憐は突然話しかけた。ネタもまた、突然の物。
「ひかりさんは、お弁当好きですか?」
話しかけられたマネージャーは大きくため息をついてから、ちらりと可憐を見た。
なんだか楽しそうな表情で、少しばかりひかりの方を見上げている。
ひかりは可憐の方を見るわけでもなく、むしろ外の景色を見るように顔を右にした。
さっさと流れる対向車線の車たちは、ライトの明るすぎる光を残して消えていく。
右斜め前。如月大橋の上はまだ渋滞中。渋滞大橋の名に恥じないような車の列。
のろのろとも動かない列に、いらいらとむかむかが心を占拠しはじめる。
「…別に」
「じゃあ、誰かに作ってあげた事は?」
可憐の質問の意図なんてぜんぜんわからなかったし、知ろうとも思わない。
むしろ、わけのわからない事を聞かれて、どんどんストレスがたまる。
それでなくてもこの渋滞。おまけに帰り道。可憐を家に連れていけば終わりなのに…
左手で握るハンドルの、人差し指がリズムを作る。いらだちを表す、激しいリズム。
「んな事あるわけないでしょ」
黙っていてほしいと表情にだして、可憐と視線を合わす。また、大きく息を吐く。
けれど、相手は笑顔でこたえる。わかっていてやっているようだ。
「じゃあ、明日のお昼ご飯、ひかりさんの手作りお弁当に決定ね」
「…」
言葉がない。
ひかりは右手でおでこを押さえると、こめかみの辺りの血管がぴくぴくと脈打っている事に気がつかされた。
何度目かわからないため息。あきれた表情。
もう可憐を見るつもりもない。目をつぶり、下を向いたまま話す。
「…ちゃんと向こうで用意してあるわよ。昼はドラマのロケなんだから」
今の仕事のメインはドラマ。いわゆるトレンディドラマのヒロイン役である。
可憐の演技は、本物の役者に比べれば落ちるが無難にこなす、と言う評価だった。
競演の役者人気と元からの可憐人気、前後に生じたスキャンダラスな話題のおかげで、視聴率は抜群だった。
ちなみに、可憐はスキャンダルには関わってはいない。
「もう飽きちゃった。あそこのお弁当あまり美味しくないし」
垂れた前髪をくりくりといじりながら、可憐は少し演技がかった声をだした。
けど、お弁当が美味しくない事は可憐の本音だし、ひかりも認めるところである。
少なくとも、あれを「美味しい美味しい」なんて言いながら食べてる人を見た事はない。
しかし、食べられるだけましだろう。芸能人なんて、売れなければ食べられない。
「贅沢言うなら食べなくてもいいわ。ダイエットになるし」
少し動いた前の車。空いたスペースにひかりは車をゆっくり進ませる。
いつもと違う国産のAT車。リムジンではないし、運転手もいない。
今日のスケジュールが少々変則だったせいだ。運転するのは嫌いではないが、仕事で乗るのは嫌いだ。
ましてや、渋滞で狭い車内で可憐とふたりきり。気が潰れそうだった。
「ダイエットはいや。でも、ひかりさんのお弁当は食べたいの」
ひかりらしい冷たい言葉を、可憐は予想していたようだ。バックミラーに写る笑顔はいかにもそう。
私とふたりきりの時、こんな表情なんてしない娘なのだが…
「そんなくだらないこと言っている暇あったら、さっさと明日のセリフ覚えてよね」
今日の午後のロケでは、可憐らしくないミスが多かった。
NGは少ない方だし、ロケ現場では優等生なのだが…そんなイメージのかけらもなかった。
心のない演技が当たり前で、セリフだってほとんど忘れていて、覚えていても棒読み。
監督からたっぷりと嫌味を言われて、正直ひかりの方が疲れたロケだった。
「大丈夫、ちゃんと覚えたから。だから、ご褒美にお弁当作って」
「いやよ」
しつこい可憐をいっその事どつこうかとも思ったが、大切な商売道具を壊すわけにはいかない。
ハンドルを握る両手に力を込めて、体内のいらいらをなんとか逃がす。
だが、そんな様子をかまわないで可憐の無邪気な笑顔は続く。
両手を太ももの下に隠すような格好で、リズミカルに体を左右させる。
新曲のドアノックダンサーのリズムだ。
「ひかりさんのお弁当のおかずだと…どっちかって言うと、和食な感じかな?」
「どうでもいいでしょ、そんなの」
強くなる口調にも、可憐は我が道を行く。あくまでも、お弁当の話を続けたいようだ。
右手の人差し指で唇をなぞり、明るい星が見える空を見上げるようにして、考える。
「でも…タコちゃんウインナーとか厚焼き卵さんとかでも面白いかも」
よほどつぼにはまったのだろう。大きく口を開いて、きゃははっ、と笑った。
でも、その笑顔がどこか苦しそうな事にひかりは気がつかなかった。
渋滞の元凶、大橋前の信号がようやく見えてきた。
だが、この様子だとあと五、六回は変わるのを待たねばならないだろう。
そう思うと、気が重い。
「笑う時は口に手を当てなさい」
「大丈夫ですよぉ。この車に私が乗っているなんて絶対に思わないから」
「誰が見てるかわからないでしょ」
ハンドルにおでこをのっけて、ひかりは疲れ切った声を出した。
可憐が忙しいのなら、そのマネージャーであるひかりもまた、忙しいのだ。
可憐がくたくたなら、そのマネージャーであるひかりもまた、くたくたなのだ。
…食事だってまともにとってないんだから…
大きなため息の後、可憐の方を見れば、まったくもって元気な様子。
昨日まで、お休みくれだとか疲れたとかお腹すいたとか、駄々をこねていたのに。
…子供のお守りは…もう、どうでもいいわ。
ひかりは、一転してシートに背中を預けると、目を閉じてあくびをした。
そして、可憐の話に少しだけのった。さっきとは違って、小さな声。のんびりと。
「だいたい…なんで食べ物にちゃんやらさんやらつけるのよ」
「だって、そう言った方が可愛らしいじゃないですか」
ひかりの返事に驚くわけでもなく、同意を求めるような声を出す。その声も、小さい。
「…可愛かったら食べられないでしょ」
「へー、ひかりさんもそういう風に思うんだ」
少し文句を言ってやろうと隣を見れば、可憐はシートの上で膝をかかえていた。
エアコンの吹き出し口をじっと見つめて、小さく、胎児のように丸まっていた。
…こんなに小さい娘だなんて、ぜんぜん気がつかなかった。
こんな姿は、絶対にテレビなんかじゃ見せない。おそらく人前でも見せないのだろう。
少なくとも、今まで見た事はなかった。
だから言葉をなくしてしまい、ぼやくような言葉しか考えられなかった。
「…なによ」
「ううん。意外だなって思っただけ」
ちょっと首を傾けて、ひかりを見た。柔らかい笑顔だった。

 「こんな所で寝てると、風邪ひいちゃうぞ」
そう言って、身体をゆすられた気がした。いやいや、っと小さく首を振った気もした。
「可憐ちゃん…ほら、起きなよ」
聞き覚えのある声。優しい声。でも、とっても久しぶりの声。そして…期待していた声。
顔を上げて、ゆっくりと目を開けて。お日様のまぶしさで一瞬世界が真っ白になる。
「…りゅうのすけ君…」
手をかざして、光を遮って、すき間から見えた人の名前をつぶやいた。
「どこでも寝ちゃうんだな、可憐ちゃんは」
「うん。この前なんて、雨の中で寝てたんだから」
手を伸ばして、可憐を起こそうとする彼は苦笑い。だから思わずほほ笑み返し。
彼の手につかまって、立ち上がった。パンパンと、制服のスカートを軽くはらう。
「また、りゅうのすけ君に寝顔見られちゃった」
そう言って、居眠りしていた時にかけてもらった上着の事を思い出す。
期末テストの答案の入っていたポケット。微かにしたたばこの匂い。
その時と、同じ上着。
「可憐ちゃんの寝顔知ってるの、俺だけだよね」
「うん」
りゅうのすけが笑う。可憐もまた、笑った。

 学校の屋上。お昼前の出来事。ふっと頭をよぎる。目を細めて、つらそうに。
いつもと違う可憐。そんな様子を見て、ひかりは原因を漠然と感じとった。
「学校でなにかあったの?」
「え?」
「可憐がぺらぺらしゃべるなんて、そうとしか考えられないもの」
今日、午前中の仕事を全部お休みして、学校に顔を出してきたのだ。
補習のプリントの提出や、先生との話があったらしい。
もっとも、詳しい事は聞いていないが。
丸まった可憐は、明らかに動揺している。
少し考えて、視線を泳がして、フロントガラスの外を見ながら答える。
口もとは、膝にかくして。つぶやく。
「うん。失恋してきたの」
車が少し動いた。目の前、一瞬輝く。たまたま明るい看板の、スポットライトが当たっただけ。
けど、はっきりと見えた彼の顔。笑顔のやさしい、詰め襟の同級生。
「失恋?」
「もしかしたらまだ恋にもなってなかったかな。そんなに…ショックじゃなかったし」
自分では、淡々と語ったように思ったが、ひかりからすればそのショックは明らか。
…そのせいで、あたしがぐちぐち言われたんだからね。
どうでもいいや、なんて思っていたさっきが嘘のよう。
いつものような、冷静な表情と冷たい口調に戻った。
「なにがそんなに、よ。それが原因なのね。今日のロケの失態は」
「あんまり…関係ないと思うけど」
「…大ありじゃないの。まったく、理由を聞けばあきれちゃうわね」
顔を完全に膝にうずめた。だから声がくぐもった。もっともっと小さくなった。
子供に戻るように、今の可憐はさみしい存在。
いつもの、テレビで見せる可愛い仕種や、雑誌の表紙を飾る艶やかな笑顔は、ここにはない。
ただの、恋の破綻を悲しむ女の子が、ちょこんと座っているだけ。
だから、ひかりはそれ以上何も言えなかった。可憐も言葉のひとつも発しなかった。
車は、まだ、止まったままだった。

 りゅうのすけが、時間があるの、と尋ねた。
可憐はちょっとお話するくらいは、と答えた。小さな、ブランドの腕時計を見ながら。
そして、りゅうのすけのエスコートで、屋上のあのベンチに座った。
「覚えてる? ここでりゅうのすけ君のお弁当、半分こにしたの」
「ああ。二学期の最後のほうだろ。覚えてるよ」
2月の屋上は寒い。だが、今の一言で可憐は寒さを忘れてしまいそうだった。
口もとが、ほんの少し嬉しそうに上がった。
「あれ、美味しかったなぁ」
「味まで覚えてるの?」
何となく、驚いた口調のりゅうのすけ。じっとこちらを見つめてくれる。
ちょっと恥ずかしくなって、下を一度は向いたけれど、また彼の方に顔を向けた。
そしてうなづいた。あの時の、りゅうのすけと自分の、小さな仕種まで思い出して。
「うん。だって、あんなに美味しいお弁当、初めてだったから」
「ふーん、そうなんだ。そう言えば、まだダイエットしてるの?」
「…うん。でも、少しなら食べてもいいって、ひかりさんに許可もらったの」
「食べるのも、あのマネージャーにお許しもらうんだ」
「ふふっ」
可憐が楽しそうにのどを鳴らすと、りゅうのすけがさも不満そうにのぞき込む。
とんがった唇、どこか膨らんでいそうな頬。だから、どことなく子供っぽい雰囲気。
「な、なんだよぉ」
「嫌そうな顔するんだもん。ひかりさんの名前出したら」
北風になびくウエーブかかった髪を、肩の後ろでおさえて、可憐は少し首を傾ける。
自分で一番好きなポーズ。写真なんかでも、絶対に一枚は撮ってもらうくらい。
りゅうのすけに見てもらいたいから。りゅうのすけの為だけにとる、ポーズ。
「そりゃそうだよ。可憐ちゃんと話そうとするとじゃまするし…相性よくないんだな」
そのマネージャーの顔を思い出しながら、まっぴらといった感じで肩をすくめた。
りゅうのすけ君にはそうだろうなぁ、なんて可憐は思った。
「確かにきつい人だけど…お仕事は一生懸命してくれるから」
「お色気路線に乗せようとした人が?」
可憐の顔が少し凍りついた。けれど寒さのせいではない。ひかりの顔がぱっと出てきた。
「本当はね…今、お仕事したくないんだ」
うつむいて発したのは、自分でも驚く言葉。うそと本当、ごちゃまぜに。
りゅうのすけも、どこか驚いた表情を見せた。予想もしていなかったのだろう。
「どうして?」
「…いろいろと、ね。それより…今日、りゅうのすけ君に会えてよかった」
彼の前では仕事の話はしたくなかった。けして綺麗な世界ではない。だから強引に話を変えた。
りゅうのすけもまた、そんな雰囲気を察知してくれたのか、それ以上は突っ込もうとはしなかった。
ベンチから立ち上がって、北向きのフェンスの前の可憐。見える景色のクリアな事。
右手を金網にやる。すき間を指で遊びながら。
「なんか…期待しちゃうぞ」
可憐を追うように、背中から近づいた。両手をポケットに突っ込んで、同じように町を眺める。
八十八の町。可憐の住んでいる町。そして、りゅうのすけの住んでいる町。
「私ね、今日で最後だから…学校に来るの」
「えっ? だって、卒業式は?」
「…ドラマのロケだって。どうしてもその日じゃないとだめみたいなの」
出たかったな、と本音を口にしたのは失敗だった。
りゅうのすけが可憐の横顔をじっと見ているのはわかっていたから。
がんばって笑顔を作ろうかとも思ったけど、彼の前で自分を作りたくはなかった。
だけど、うつむかないのが精一杯。りゅうのすけの顔は…とてもじゃないが見られない。
「でも…最後が俺でよかったの?」
今、駅を出た電車に目を移した。二両編成のステンレスの車体がのんびりと動く。
「だって…この学校でできた、たったひとりのお友達ですもん」
「…そんな事、ないと思うけどさ」
「ううん。こういうふうに普通に話してくれるの、りゅうのすけ君しかいないもん」
くるりと身体を彼の方に向けた。髪が、スカートが、揺られるように跳ねた。
りゅうのすけは一度顔だけ向けて、少し考えてからまたフェンスから外を見る。
右手だけ、ポケットから取り出して、先程の可憐のように金網とたわむれる。
どうにも言葉が見つからない。だから、可憐が口を開いた。
「冬休み、夜中によく会いに来てくれたでしょ?」
「あれは…たまたまだよ」
「あれ…とっても嬉しかったの。友達、として会いに来てくれたから」
「…可憐ちゃん」
「りゅうのすけ君みたいな人が側にいてくれたら…もっと頑張れるかもしれないな」
「俺みたいな人?」
「うん。普通に接してくれる人。それに…やさしい人」
「うんうん。まさにその通りだな」
腕組みして、褒められた、と何度も何度もうなづいては納得するりゅうのすけ。
そんな仕種を彼らしい、なんて思っている可憐の顔は、仕事の時以上の真剣な表情。
ちょっと小耳にはさんだ噂、りゅうのすけに聞きたかったから。
「ねぇ。りゅうのすけ君は…恋人、できたの?」
えっ、と急に乾いた笑いになる。瞳が右に左に動揺する。いつもの彼とは違う仕種。
それが答え。だったら、相手は…
「それって…唯ちゃん?」
はにかんで、笑顔をころして、りゅうのすけらしい照れ方。ゆっくりうなづいた。
まるで初恋のように、うぶな乙女のように、可憐の心がきゅんとなった。つらい瞬間。
表情には出したくない。だから、今日初めて演技をした。笑顔を作った。
「そっか。そうだよね。ずっと…一緒にいたんだもん。おめでとう」

 ふたりの間に沈黙が流れ、じっと町を見ていて少したった頃。
「ごめん。俺…そろそろ行かないと」
腕時計を気にしていたのは、実はりゅうのすけの方。お昼休みの前。
フェンスから離れて後ろを向くと、昇降口にのんびりと向かっていく。
その背中を追いつき、追越し顔をのぞき込んだ。もう少しだけ…話をしたい。
「もしかしたら…この後、唯ちゃんとデート?」
やっぱり恥ずかしそうに無口になる。唯ちゃんで頬が、デートで耳まで赤くなった。
「いいなぁ。ね、どこに行くの?」
「…スケート。お弁当たくさん作っていくからね、だと」
不機嫌そうなりゅうのすけの顔。かわいらしくて思わず吹き出しそうになる。
そんな顔を見て、お弁当と聞いて、可憐は急に思い出した。大声を出してしまった。
「あー、そう言えば、もしかしてお弁当半分こしたの、唯ちゃんに言った?」
「ああ、言ったぞ」
悪びれもしないで、なにも気がつかないで、ごく自然に、当たり前そうな表情だ。
可憐は口元に手を当てて、少し元気がなさそう。声が小さくなった。
「りゅうのすけ君の上着、返しに行った時の唯ちゃんの瞳。そういう理由だったんだ」
唯はりゅうのすけの事が好き。たまにしか登校しない可憐ですら気がつく想い。
あのお弁当以来、自分の中に同じ想いを抱き出した事を、唯も気がついたのだろう。
だから…あの瞳。冷たいわけではないけれど…あきらかに恋敵として見ていた彼女。
同時に、自分もまた彼女を恋敵として見ていたっけ。
かないっこない、相手。
「そんな事ないって。あいつ、よく可憐ちゃんの歌、歌うぞ」
嫌われている。可憐がそう思い込んでいると思い込んでいるのだろう。
りゅうのすけの真剣な表情に、可憐はほんの少し心が癒された気がした。
「そうじゃなくて…女の子としての私が嫌いなのよ」
「なんで嫌うの?」
ちょっと考える。そこまで言う必要なんてない、と思う。
けど、少しだけ気がついてほしい、なんて本音が思う。葛藤。
「…秘密。唯ちゃんに聞いてみれば?」
「意地悪だね、可憐ちゃん」
ふふっ、と可憐は笑った。けど、声に元気はなかった。

 「私…もう少しここにいるから」
昇降口にふたりが止まる。その雰囲気は、まるで駅のホームで別れる恋人同士のよう。
りゅうのすけの笑顔。やっぱり見とれてしまう。ほんのわずかな、冬休みだけの片思い。
「今度、いつ会えるかわからないけど」
「…でも、近所だから。また、遊びに行ってもいい?」
「もちろんだよ。可憐ちゃんならいつだって大歓迎さ」
「もぉ…相変わらずなのね。唯ちゃんがいても」
彼の彼女の名を出すたびに、子供のように憮然とする。そんな仕種も好きだった。
でも、今は彼女だけのもの。可憐の知っている彼の仕種なんて…たかが知れている。
「じゃあね、可憐ちゃん」
「可愛い彼女によろしくね」
「…それじゃ」
階段を走って降りていくりゅうのすけの背中が、今までとは違って見えた。
踊り場を回り、彼はすぐに消えてしまった。だから、小さく右手を振ってつぶやいた。
「ばいばい、りゅうのすけ君」

 「可憐…起きて?」
身体が二、三度左右に揺れた。自分の名前が何度か呼ばれた。
そして、その声がひかりのものだと気がつくと、起きるのは早かった。
ある種の職業病のような物なのだろう。
可憐の瞳が街路灯に光る。それを確認して、ひかりは声を出した。
「明日はお昼までドラマのロケ。その後はレコーディング。いい?」
「…はい」
生返事なのは仕方ない。まだ頭が起きていないのだから。
車の中、助手席のドアによりかかって寝ていたようだ。
左の頬がむずかゆくて、なでるようにかくように、左手でさすっていると、突然、目の前にハンカチが差し出された。
「…拭きなさい」
「やだ…よだれ、垂れてます?」
あわてて口元に手をやって、二度三度とこする。ひかりの方はあきれたように一言だけ。
「目の下よ」
…涙?
さすがに可憐も気がついた。そっと指先でなぞってみれば、なるほど少し濡れている。
この涙は、今日の出来事を、りゅうのすけを夢で見たせいなのか。
ハンカチを借りて目に当てる。大きく息をはく。恥ずかしいとこ、見せちゃった…
けれど、ひかりは可憐を見ていない。右にある、可憐御殿をぼんやりと眺めていた。
カッチャンカッチャンと、指示灯独特の音が車内に響く。オレンジ色が、音にあわせて壁を照らして消えて。
ひかりは、可憐の動きが止まった事を感じると、指示を出した。
「今日はお風呂入ってさっさと寝ちゃいなさい。何にも考えちゃ駄目よ。
それと…おかずは期待しないでよ。この時間じゃ、コンビニしかないんだから」
「ひかりさん…」
一気に話したのはいいが、それでもやっぱり最後の方はらしくない事を自覚していたから。
真っ暗に近い車内でも、ひかりの頬がわずかに赤らんでいる事に気がついた。
「…明日は六時半に向かえにくるから」
可憐の顔は見なかった。ハンドルに手をかけ、ずっと正面を見据えたまま。
シートベルトを外し、ドアを開けた。その間、ひかりの横顔を見つめていた。
言葉を考えながら可憐は車から降りると、もう一度車内に首を突っ込んだ。
冷たい瞳はそのままでも、どこか照れた表情に、可憐もようやく素直になれた。
「ひかりさん…ありがとう」
「さっさと寝なさいよ」
はい、とうなづいた可憐の笑顔は、作り物ではなかった。

(了)


(1997. 5/ 5 ホクトフィル)

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