小説
2002. 1/ 8




初夏 雨上がり〜Short Story From ClassMate2〜


 ぽつりぽつりと降りだした雨。夏のような激しさや、冬のような冷たさじゃなくて。
初夏特有の優しさと、ほんの少しの気怠さで。さーっと、静かに音をたてて。
今は授業中。お昼前の古文の時間。教卓の右、片桐先生が教科書を読んでいる。
窓の外、ほおづえをついて眺めれば、グランドはあっというまのどろんこ馬場。
学校の回りを囲む木々。青々とした葉が、小さく大きくひらひらする。
空の雲は真っ黒で、もしかしたら雷が落ちそうなそんな様子を見せている。
ここのところ、ずうっと続く雨模様。時期が時期、梅雨時だけに、しかたない。
…今日も体育館かな。
午後の一番手は体育。男子といっしょにバレーボールにでもなるのだろう。
でも、それよりも…
先生に見つからないようにと祈りながら、小さく後ろを見る。
教科書を机に立てて、なのにつむじが見えていると言う事は…やっぱり居眠りしているのだろう。
あれでもぞもぞ動いていれば、早弁に間違いない。まともに勉強している姿なんて、近ごろ見た事なかった。
と言う事は、まだ外の天気には気がついていないだろう。あとで驚くかもしれない。
…傘、持ってきてないよね。
今朝、傘を持っていった様子がなかった。確かに朝は降っていなかったからいいけれど。
梅雨の時期。しかも天気予報で、お昼から絶対に降り出す、と言っていたのに…
…でも、大丈夫かな。
帰る時になれば、なんらの形で用意している人だった。
友達の傘に居候したり、借りたり、あるいは…女の子と相合傘だったり。
一昨日がそうだった。A組の茶色い髪の女の子と和気あいあい、楽しそうな下校風景。
この位置から、その様子を嫉妬しながら見ていたっけ。
…今日もそうなのかな…
黒板が鳴り出した。片桐先生が、今の文章の要点をつらつらと書き始めていた。
ほとんどの生徒がノートに写しだす。もちろん、遅れないようにとペンを手にとった。
期末テストが近い。三年生の一学期の成績は、進学と言う意味でも重要だった。
看護学校を目指す唯。専門学校であっても、入学は容易ならざる道のりだと聞いている。
ノートにそれを書き写しながら、もう一度外を見た。
土やコンクリートを染めていく、幾億の筋。花壇に咲いた花々が、小さく揺れている。
「…あじさいでも見に行きたいな」
幸い、誰にも聞かれなかった。一番聞いてほしい人は、まだ夢の途中にいるようだった。

 下駄箱。上履きから下履きへ。もう何年間も続けてきた事。さっさと終える。
そのつもりだったけど、封筒がひとつ、革靴の上にぽつんとしていた。裏にハートの封。
想いを文字に託した手紙。古風だけど、切なさを伝える、昔からある手段のひとつ。
唯の下駄箱には時々入っている。だけど、いかにも興味がなさそうに手に取った。
…駄目なのに…
封筒には何も書いていない。かばんを開けて、中に放り込む。帰ってから読みはする。
けれど、いい答えなんて返せるはずもない。想いの人、その人以外は考えていない。
だからだろうか。ふと思い出して、同じクラスの彼の下駄箱、のぞき込む。
やはり、まだ帰っていないらしい。少し汚れた革靴が、ぽつんと主人を待っている。
そう言えば、お昼休みに教室から出ていったきりだ。午後の授業は自主休講だった。
体育と英文法と、姿を見かけなかった。どこにいるのか不安ではあったけど、いつもの事。
教室を出る時に見た彼の机。その横には潰れたかばんがかけっぱなしだった。
…待ってみようかな。
扉をくぐり、外を見る。雨を見る。水たまりを激しくうち、無限の円を作る。
花壇の近くのあじさいは、見事なまでに咲き誇る。雨に揺れる。華を見せる。
屋根はそれほど突き出ていないが、寄りかかった柱までは濡れないように守ってくれる。
音に包まれ、唯は静かに佇んだ。物想いにふけるには、絶好の状況。

 衣替えの時期、唯は早々と夏服に替えてしまった。
まだ夏に少しあると言うのに、暑い日が続いていたから。
涼しげで、清楚なイメージ。白が強調されるセーラー服。カラーの赤いラインがポイント。
そう、中学時の制服はセーラー服。外の暗さに綺麗に映える。
下駄箱の外、校門の前。屋根のぎりぎり、雨には濡れない限界地点。
クリーム色の柱に寄りかかって、時間をすごす。ほとんどの生徒は帰ってしまっているだろう。
それでもここにいるのは…待ち合わせのため。でも、約束しているわけではない。
「まさか降るとはなぁ」
下駄箱。彼の声。だけど、じっと我慢。自分の側にやって来たら声をかけるつもり。
胸が踊り、弾み、どきどきする。意識しだした自分の気持ち。
ほんの半年前までは、当たり前にできた事なのに。
「あなたくらいよ。今日、傘をもってこないのは」
そして、もう一人の声。女の子。聞き覚えのある、澄んだ声ははずんでいて。
予想外。ちょっとした混乱。そんな話をしているって事は…同じ考えなんだろう。
「しょうがないだろ。朝は降ってなかったんだから」
「天気予報くらいは見るでしょう」
「…明日は明日の風が吹く、って知らないか?」
くすくすっ、あなたらしいわね、と彼女が続ける。ふたりが靴を履き終える。
その気配が、唯の真横を通り過ぎようとした。
…こっちに気がつかないで…
だが、ふたりの視線が唯をとらえた。ごく自然に、当たり前に足を止め、声をかける。
「なにやってんだ? こんなところで」
「…りゅうのすけ君」
まだ黒い詰め襟の彼。きょとんと、不思議なものを見つけたような表情。
笑顔になれない。苦しげに瞳を曇らせ、せめて気がついてくれれば、と甘い希望。
だが、りゅうのすけは相変わらずの表情のまま。
「あ、唯ちゃん。待ち合わせ?」
そして、女の子が声をかけてきた。こちらは唯と同じく、早くも夏服。
けれど、清楚な感じは彼女の勝ち。それを強調したがる、真っ白なヘアバンド。
…ほら、言わなくちゃ。いっしょに帰ろう、って。
心が背中を押す。だが、足も口も動かない。うつむいて、あやふやにごまかした。
「う、うん。ちょっと…」
返事ついでにちらりと見た彼女の笑顔。その時、唯は初めて嫉妬という感情を知った。
また下を向いて雨を見て。自分の気持ちを悟られないように、小さく祈る。
だが、それ以上はかまうつもりはなかったらしい。傘を持つ女の子が一歩進んだ。
「そう。それじゃあ、またね」
「じゃあな、唯」
「うん…じゃあね」
ひとつの傘にふたり。彼女の小さな傘に肩を寄せあい、背中は楽しげな感じ。
見送り、雨の中に消えていく。見えなくなってもなお、動けなかった。
「いっしょに帰ろう」
そう言う為に、ずっと待っていた。他の女の子がいてもいいじゃない。なのに…
自分の頑固な心に、嫌気を覚えた。ため息をついて、しばらく立ち尽くしていた。

 …また、そうかな。
同じシチュエーション。
セーラー服が独特の色使いのブレザーに変わり、おだんご頭が複雑なリボンになり、年をとって、学校が違う。
でも…雨で、傘で、待ち伏せ。肝心の部分は変わってはいない。
あの時と変わらない気持ち。いや、あの時以上の気持ちで彼を待つ。
心は正直。彼が自分に冷たくしても、それは別にかまわない。
いっしょにいる事すら、彼は嫌がり、離れ、遠くにおこうとする。だから近くにいたい。
下に飽きれば上を見よう。黒い雲。でも、遠い遠い北の方は白い光が一筋見えた。
もしかしたら雨はやむかも知れない。そうしたら、いっしょに帰る口実がなくなる。
…唯とじゃ…理由がなければいっしょに帰ってくれないよね。
理由があったって帰ってくれないかもしれない。他の女の子なら…断るなんて絶対にしないのに。
彼がいろんな女の子に声をかけているところ、何度も見た。
彼がいろんな女の子とぶらぶら歩いているところ、何度も見た。
女の子と腕を組んで学校にやってきて、体育倉庫でふたりきりでいた事もあった。
何をしていたか誰もが知る噂となり、真実とわかり、先生に呼ばれ、停学をくらった。
けど、唯はそういった同級生の女の子とは違う扱いだった。
特に編入してきてから…彼と同じ学校になり、同じクラスになってから。
まるで嫌われているかのように、無視をしたり、かまってもくれなくなったり。
唯にすれば、りゅうのすけは同級生でクラスメイトで兄で家族。
同じ家に住んでいる事だって自然で必然。その事を誰かに変にとらえられ、からかわれ、時に中傷されても…
ただ、それが真実以上の含みがあるのが嫌だった。どうせなら、真実なら…と思う事もあった。
でも…そばにいられるだけで幸せなのだ。普通なら、こんな事はないのだから。
そう思うだけでも、気持ちが全然違ってくる。
…今日みたいな日は…特別だよね。
両手で持つかばん。とんとんとん、と、つま先立ちしてリズムをとる。
かばんにつけたペングーの小さなマスコットがかばんを叩き、音を作る。
そして傘。雨。待ち伏せ。今年は…

 下駄箱のふたを開ける音。靴を床に落とした音。ほこりっぽい床で足を乱暴に突っ込む音。
引きずるように上履きを取り上げ、上段に入れる音。
そして、おそらくそこからグランドを見ているのだろう。
雨に、泥んこに、嫌になるようなため息。頭をかく音。そして…つぶやき。
「まいったなぁ…」
その声が合図。ちょっと強ばった笑顔を作ったのは、緊張、しているから。
柱の影から勢いをつけて半回転。かばん、傘、スカート、リボン。跳ねるように踊る。
「お、お兄ちゃんっ!」
「…なんだ、唯か」
なんだはないでしょ、と心の中。慣れたくなくても慣れてしまった事。
自分の中に勢いのあるうちに言葉を続けようとする。なぜか、大きな声になってしまう。
「あ、あのね…」
「お前なぁ、何度言えばわかるんだよ。学校でそう呼ぶな」
りゅうのすけの大きなため息の意味はわかったけど、唯だってそれくらいで大きく傷つくほどやわではない。
あまり気持ちを込めないでペコリと謝り、呼びなおす。
「ごめんなさい。でね、りゅうのすけ君」
「なんだよ」
一瞥をくれただけでまた外を見た。強がる表情の下に見えた、困った表情。理由は雨。
それでも、唯は恐る恐るという感じで話し出した。上目づかいが妙にはまる。
「りゅうのすけ君は…傘、持ってきてるの?」
「なけりゃ濡れて帰るだけだ」
むすっとした声。唯を見ないで空を見上げる。
雲は動いてはいるけれど、向こうの空は晴れているようにも見えるけれど…
今、この時点では雨が降っている。これは当分止まないかもな…
「唯と…いっしょに帰ろうよ」
見てくれるかわからない。でも、傘をそっと差し出した。頬を染め、少し照れながら。
「…傘だけ貸せ」
「いいよ。はい」
差し出された傘を見てあ然。こめかみぴくぴく。唯はくすくす。
ピンク、と言うよりは桜色。黄色の細い線が縁をとるようにアクセントをつける。
手に取った手前、とりあえず広げてみる。ひとりなら、十分だろう。
「これ…唯のか」
「うん、そうだよ。梅雨の前に買ったんだよ」
りゅうのすけのどこか怒った口調も、うなづく唯は嬉しそう。
この傘では、さすがのりゅうのすけもひとりでは帰れないだろう。
横に女の子がいなくてはいいわけできない。
だが、唯に対しては変な意地があった。というより、やけっぱちに近い一歩。
「じゃあな、唯」
「えっ?」
振り返りもせず一言残して、りゅうのすけは雨の中に包まれていく。
桜色に黒の詰め襟。早足で、しかも器用にグランドの水たまりを避けていく。
ア然として見送る事しかできなかった。しばらく呆然とするしかなかった。
もう、唯の事など頭の隅にもないのだろうか。さっささっさと、背中が校門から消えた。
「お…お兄ちゃんの馬鹿ぁ!」
騒音並みの数値を出しそうな大声。
でも、誰に聞かれたってかまわない。憂鬱な気持ちが支配してしまう前に振り払ってしまいたかった。
「ばか…」
愕然とうなだれて、唇だけが小さく動く。校門に人影はない。
雨に草花が、木々の葉が、雨と戯れて揺れるだけだった。

 帰りの電車は学生が中心。唯だって、その中のひとり。
理由があるわけではないが、2両目の真ん中のドアのポケットが指定席だった。
無難な紺色のブレザーにグレーのスカート。けっこう大きめの校章が胸ポケットにパッチしてある。
どこにでもあるような、平凡でつまらないデザインの制服。
制服に合わせた色の、両耳の上のリボンだけが、もしかしたら唯の唯一の個性かもしれなかった。
八十八学園に編入する前は如月の女子高。八十八に住む唯は、当然電車通学だった。
両手で学校指定のかばんをぶら下げて、何を考えるわけでもなく、ぼんやりと流れる景色に目をやる。
もう見慣れた、あまり代わり映えのしない、つまらない景色が今日は黒い。
その理由はもちろん雨。ついさっき、急に降りだしてきて辺り一面を染めてしまった。
電車の窓ガラスにも水滴が付き始めている。その外の雨雲に切れ目は見えない。
「降るのは夜だって言ってたのに…」
ぼそっとつぶやいて、不満そうに唇をとがらせる。唯は傘を持ってきていなかった。

 八十八駅の改札を出て、その雨の激しさに唯はへきれきしてしまった。
梅雨のそれではないように、コンクリートを激しく打ってはおつりをたくさん跳ね返す。
屋根の樋に近い券売機の前の床も、もうびしょびしょだった。
唯は濡れるか濡れないかのぎりぎりのところから空を見上げて、ため息をついた。
大きな緑色の時計は、夕方に近い時間を表していた。
別に急ぐ帰宅ではないが、こんなところでひとりで時間をつぶすのは、どうにも苦手だった。
濡れない位置までひっこむ。自動改札の脇の柱に寄りかかって、人の流れを感じる。
ちょうどそれぞれの用事を終えて、それぞれの帰る場所へ戻る時間なのだ。
それでなくても雨。唯と同じように雨宿りをしたり、傘を持ってきてもらったり、人それぞれ。
「お兄ちゃんでもいたらなぁ」
つぶやいてもひとり。この中に、期待する彼はいない。
学校の帰りに寄り道していなければ、家でごろごろしているころだ。
もし寄り道していれば、ここに来るかも知れないが…雨で外出するタイプではなかった。
屋根を叩く音が激しさを増した。まるでロックのライブのように、音が埋める。
「ナンパでもいいから…来てくれればいいのに」
独り言は、雨音と喧騒にかき消されて、誰の耳にも聞こえはしなかった。
八十八学園の問題児。喧嘩っぱやくて、子供っぽいいたずら好きで、さぼりのプロ。
そして、女の子に目がない。
りゅうのすけが、この駅でナンパしている所なんて、嫌と言うほど見せられていた。
その度に、邪魔する意味で唯は話しかけていた。りゅうのすけが怒るのもかまわずに。
「お兄ちゃんがナンパしてくれたら、唯はどこだってついてくよ」
りゅうのすけは本気になんてしてくれなかったけど。かまってすらくれなかったけど。
でも、それは本音。りゅうのすけとなら、どんな場所だっていいと思っている。
…本当に…来てくれないかなぁ。
複雑な結び方のリボン。まるで心を表すように、垂れて、しゅんとうなだれている。
うつむいて、前を行く人の足を見ていた。突然、びしょ濡れの革靴が唯の前に止まる。
「ねぇ、君。傘持ってないの?」
「えっ」
あまりのタイミングのよさに顔を上げてしまった。
もちろん、期待していた人でない事くらいはわかっていた。
最近よくいる、セミロングの男の子。少し茶色がかった髪の毛。
このブレザーは、どこの高校だろうか。背が高いから、唯は見上げる格好になった。
「あ、俺、大沢大和。おおさわ、って書いてだいたく、って読むんだけど…」
「あの…どこかでお会いしましたか?」
「いや、その…そうじゃなくてさ、今…ひま?」
「は?」
ようやく唯にも状況がつかめた。
要するにナンパされているらしい。
どこかあたふたした話し方。おそらくあまりこういう事に慣れていないのだろう。
顔を真っ赤にして、一生懸命なのは認めるけど…ほんの少しだけ、嬉しいけれど。
「もしよかったら、雨宿りついでにお茶でもしない?」
「あの…ごめんなさい。私、待ち合わせなんです」
唯は頭をぺこりと下げて、うそをついた。自分でも驚くほど冷静だった。
逆に男の子はなんとかしようと、言葉を考えている。目が唯を見たり見なかったり。
「えっと…あ、だったら、その人が来るまででいいからさ」
「…時間、ないから」
「いや、ほら、そこの…ピアキャロってお店なんだけど…それでも、だめ?」
「…ごめんなさい」
「あそこのケーキとか、結構いけるんだ。甘いものとか好きそうな顔してるし…」
…お兄ちゃんも、こんな感じなのかな。
しつこい、と思ってみても彼の言うとおりに傘がないから、
ここから離れるわけにもいかなかったし、どこか憎めない相手だった。
けど、付き合うつもりは毛頭なかった。
ぺらぺらと、しゃべり続ける彼。とりあえず、言葉がなくなるまで待った。
「ね、どう?」
「本当にごめんなさい」
「…残念だなぁ。俺はいつでもオッケーだから、見かけたら声かけてよ。それじゃ」
ナンパの彼はそう言い残すと、すこすこと人込みに消えていった。
背が高いから、完全に消えるまで、唯はその頭を目で追いかけていた。
それから、ほっと一息つくように、大きくうなだれた。
意中の人でなければ…ついていくつもりなんてないんだから。
「なんだ、お茶くらいおごってもらえばいいものを」
唯の前、また男の子の気配がした。けど、これは唯がよく知っている人の感じがする。
この声も、びしょびしょのサンダルも、覚えがあった。元気に顔を上げた。
「お、お兄ちゃん!」
「ばか。町中でそう呼ぶな」
「ご、ごめんね」
不機嫌そうな顔をしたりゅうのすけがそこにはいた。詰め襟ではなく、もう私服に着替えている。
この雨だと少し寒そうな、みやむーざるのプリントされたTシャツに、雨で濡れて濃い青色のジーンズ。
家にいて、いかにも急に飛び出てきたような格好だ。
「でも、りゅうのすけ君も意地悪だね。見ていたなら…助けてくれればいいのに」
「別にいじめられてたわけじゃないだろ」
「…困ってたんだよ。しつこくて」
「そんなの知るか。だいたい俺様は人の恋路のじゃまはしない主義だからな」
そんな事を言いながら、りゅうのすけは唯の前に傘を差し出すと、無理矢理に近い感じで受け取らせた。
答えの不満と傘の嬉しさで、唯はこれ以上ない複雑な表情を見せた。
「ほれ。忘れていっただろ」
「あ…ありがとう。おに…じゃなくて、りゅうのすけ君」
「天使のような俺様が鬼かい」
「え、あ…そうじゃなくて…ごめんね。でも、わざわざ持ってきてくれたんだ」
唯の嬉しそうな顔が可愛いすぎたし、がらでもない事をしたと思っているせいか、
りゅうのすけはそっぽを向いて言い訳する。
頬が少し赤らんだ。
「ば、ばか。美佐子さんが気がついたんだよ。傘、忘れてるって」
「だけど、持ってきてくれたのは…りゅうのすけ君だよ。急いで来てくれたんだよね」
受け取った傘を抱き締めるようにして、唯はりゅうのすけの顔をのぞき込んだ。
照れている。恥ずかしがっている。そんな表情がたまらなく好き。じっと見つめていたい。
「ほ、ほら。帰るぞ。美佐子さん、心配するから」
「りゅうのすけ君といっしょなら、お母さんは心配なんてしないよ」
ふたつの傘がぱんと開くと、駅舎からゆっくりと離れていった。寄り添うような距離。
傘の下から見上げて話しかける唯。それにぽつぽつと答えるりゅうのすけ。
久しぶりに、ふたりきりの時間を持った気がしていた。

 …あの頃は…やさしかったのになぁ。
りゅうのすけを待って隠れていた柱に、唯は完全に座り込んでいた。
制服である事も、スカートである事も、汚れる事も、全部わかっていての事だった。
体育座りで両腕で膝をかかえて、口元を隠して、子猫のような痛々しい瞳。
まだまだ雨は降り続いていた。止みそうもない、綺麗な筋を残す梅雨。
グランドの真ん中にできた大きな水たまりに、幾重もの波紋を作り、重ね、壊し、一瞬の美を作る。
…どうして…今は冷たいのかな。
泣きそうになった。彼の顔、思い出しては辛くなる。切なくなる。やるせなくなる。
もちろん、あの頃だってどこかよそよそしかった。特にふたりきりになる事を極力避けていた。
でも、今はふたりでいる事を完全に嫌がっていた。露骨に表情に出す。
理由はわかっているつもりだけど、やっぱりつらかった。
本当に嫌われているんじゃないかと、まくらを濡らしそうになった事だってある。
「お兄ちゃん…」
彼を思い出すと、瞳が少し濡れ出した。雨の日の物思いは、心を悲しく濡らしてくれる。
雨音が、心の痛みを大きくしてくれる。膝に顔をうずめて、大きく息をはいた。
と、その時。雨音にまったく違う音が混ざり出した。近づいてきた。
グランドの湿った土を踏む音。傘に雨が跳ね返り、どこかに飛ばされる音。
したたり落ちた水滴が地面に吸い込まれる音。それらに混じった小さな声。
「なんて格好してるんだよ。見えてるぞ」
黒い革靴が見えた。黒がよりいっそう濃くなったずぼんのすそが見えた。
けど、そこから上を見ようとは思わなかった。すねたような口調で、ぼそっとつぶやいた。
「…いいもん、別に」
「よくないだろうが。芳樹に写真でも撮られたらどうするんだよ」
「そうしたら…お兄ちゃん、助けてくれる?」
ようやく顔を上げた。唯の目の前にはりゅうのすけの足。顔ははるかに上の方。
さっき渡した桜色の傘を右肩にかけたままだ。その顔は、どちらかといえば無表情に近い。
期待した目が、りゅうのすけをとらえる。だが、見下ろしたまま何も言わなかった。
「…昔は優しかったのにね。今は…冷たい…」
「そんな事、ないぞ」
「唯の事、嫌いになったの?」
真剣な眼差しに、りゅうのすけは思わず視線をそらしてしまった。遠い遠い雨を見て、答えを避けようとする。
唯がようやく立ち上がった。でも、顔は雨を見たまま。
ふたりの間に沈黙が流れ、静かな雨音が激しく聞こえた。そして、破られた。
「傘…悪かった。返しに来たんだ」
そう言って、唯に開いたままの傘を渡そうとする。
だが、瞳をそらしたままでは、唯は納得できるはずもない。
しかしそれは、傘の事ではない。
「唯の質問に答えて!」
りゅうのすけののどかすぎる声と、唯に似合わないほどの大きな声。
ちょっとすれば泣き出しそうな表情でも、りゅうのすけは答えるつもりはないらしい。
「帰るぞ、唯」
「お兄ちゃん…答えて、お願い…」
胸元で合わせた手は、まるで神様に祈りをささげるよう。
息が詰まりそうなほど緊張していて、切実で。瞳にたたえる涙、少しづつ増えていく。
りゅうのすけはなぜか下唇を強く噛んだ。そして、何かを言いかけたが、やっぱり黙ったまま。
また、雨音だけの世界になりかけた時、ようやく言葉を紡げた。
「嫌いな奴といっしょに帰ると思うか」
「好きでもないんだよね」
力なく作った笑顔にりゅうのすけは少し切れた。思わず大きな声を出してしまう。
「ひねくれるのもいい加減にしろよな!」
「お兄ちゃんがいけないんだよ! 唯に…普通に接してくれないから」
「あのなぁ…それでなくたって、誤解される環境なんだぜ。ちょっといっしょにいただけで、
すぐに噂されるんだから…わけのわからん事言われるの、もうこりごりだ」
まるで喧嘩のように大きな声。思わず漏れる本音。
りゅうのすけはくるりと背中を向けて、グランドに視線を落とした。
すぐに、しまったという表情をしたのは秘密だった。
「そんなに嫌なんだ。唯と…噂になる事」
唯は一瞬にして落ち込んだ。肩を落として、うなだれて。
今は、りゅうのすけの背中だって見えはしない。
真っ黒な気持ちに支配されて、言葉なんてありはしない。
気まずい沈黙も振り払えはしないふたり。
帰るにも、謝るにも、本人でさえ見えない何かが邪魔をする。
素直になるには、今日の天気はうっとうしすぎた。
立っている場所にも雨しぶきが入り込み、足元を濡らしている事など気がつかなかった。

 雨でも夜が近づくのはわかる。色も、雰囲気も、夕方が近い事を知らせる。
聴き飽きたチャイムが鳴った。どこの学校でも使っていそうな、個性のないメロディ。
あと一時間もすれば、否応無しに学校の敷地から追い出されるだろう。
柱に寄りかかり、つま先で地面をこつんこつんと小突いては、何も言わない唯。
その右斜め前。雨で濡れないぎりぎりで、外を見上げ続けるりゅうのすけ。
唯の傘は杖のよう。取っ手の上に両手をおいて、まるで無声映画の主人公みたい。
「おい、りゅうのすけ先輩と…唯ちゃんだ。なんか…雰囲気悪いみたいだな」
「同棲してるって聞いたけど、痴話喧嘩かな?」
「ば、ばか…にらまれてるぞ」
今、部活動を終えた男子生徒が、ふたりの横を通り過ぎてはひそひそこそこそ。
りゅうのすけは何か言いたげにこぶしを振り上げては、ぐぐっと震わせている。
「やっぱり…嫌なんだね」
ひそひそ声に顔を上げて、りゅうのすけのこぶしを見て、唯が沈黙を破った。
もっとも、背中を向けたままのりゅうのすけは、表情まで気がつくはずもない。
「いい加減帰ろうぜ。美佐子さんが心配する」
だから、振り返る。そこにいる女の子は自嘲気味。笑顔すら見せてくれず、無表情。
唯がすねた口調でぼそぼそとしゃべりだした。
「…お兄ちゃんはひとりで帰ればいいよ。唯もひとりで帰るから」
こういう時の唯はなかなか機嫌が戻らない。かと言って、ほったらかしにもできない。
どうしたものかと考えても、どうしたらいいのかわからない。だから、流れるままに。
「あのなぁ。傘はひとつしかないんだぞ。俺は濡れるの嫌だし、唯だって嫌だろう?」
「お兄ちゃんが持っていけばいいよ」
よほど怒っているらしい。唯が淡々と話す様子はいかにもそう。
肩にかけた傘。りゅうのすけは手首で1回転させる。そして、唯に差し出す。
だが、唯はまるで無視するようにそっぽを向いてしまう。
「…こんな事で風邪ひいたってつまらんだろうが。俺のせいにされても困るしな」
「さっきはひとりで帰ったくせに」
「あ、あれは…ちゃめっけを見せただけだぞ」
両肩を震わせて、息が荒くなって、唯は言葉もなく睨みつける。そんな事をしても怖くなんてない。
だが、心は伝わる。だから、素直になる。
「さっきの事は謝る。俺が悪かった」
「何を謝るの?」
両手を腰当てのように後ろに回し、少し前かがみになって、かかとでリズムをとる。
りゅうのすけを見ようとも、かまおうともしない。ぷんすかと、頬が膨れる。
あきれた顔で唯の横に移動する。怒ってるんだよ、と視線が一瞬重なった。
「子供みたいにすねるなよ。ほら、いっしょに帰ろうぜ」
「…噂されるよ。唯といっしょに帰って同じ家に入っていった、って」
「いいから。ったく、世話がやけるな」
唯の右肩、りゅうのすけの腕が伸びる。ぎゅっとつかんで引き寄せられて。
あっ、と驚いた顔。やった本人は素知らぬ顔。唯に強引に傘を渡して、持たせる。
強い力。温かくて、大きな手の平。肩にある、りゅうのすけの手をじっと見つめる。
そして、彼の胸に頭を預けてから、そっと見上げた。どういうつもりなのかな…
「こんな事したら…」
「唯の事、嫌いなんかじゃないぞ。噂だって…たくさんおまけがつきすぎるんだよ。それが嫌なだけだ」
言葉を遮り、自分の気持ちを素直に吐き出した。相変わらず、雨を見ているままだけど。
「お兄ちゃん…」
「とにかく、今日の事は全部俺が悪い。いくらでも謝るぞ」
横顔は真剣。こんな顔、久しぶりに見た。そして、遠くを見る瞳はやっぱり優しい。
他の女の子にはいくらでも見せるのに、唯にはなかなか見せてもらえないりゅうのすけ。
だから、それだけで満足してしまう。自分の気持ちを再確認してしまう。今は伝えられない、
遠い想い。たまに優しくしてくれるから…嫌いになんてなれないんだよ。
「もういいよ、お兄ちゃん。でも…また、当分ナンパできないね」
唯と噂になると成功率が低くなる。そんな事、友達のあきら君にぼやいていたらしい。
だったら…ずっと噂になるような事、していた方がいいかもしれない。
そうしたら、かまってくれる女の子なんてぐっと減るんだから。唯しか…いなくなるよ。
楽しそうにのどを鳴らす。さっきまでの表情がうそに思えるほど、嬉しそうな顔。
誰にそんな事を聞いたんだか、とりゅうのすけは憮然とした表情。
けど、唯の機嫌が少しでも直ったのなら、それでいいだろう。
「…唯だって、寄ってくる男が減るんじゃないのか」
「いいよ。唯には迷惑なだけだから」
「迷惑って…相手の気持ちも考えてやれよ」
かばんに入っているラブレター。明日返事をした時、男の子はがっくりとするのだろう。
だけど、他の男の子の事なんて考えたくもない。今は…隣の人でいっぱいなのだから。
告白する勇気、唯だって見習いたい。だけど…まだ、そんな雰囲気じゃない。
でも…でもいつか、絶対にこの気持ちを伝えようって思っている。心に決めている。
まだ肩を抱いてくれている彼の手の甲に、自分の指を這わせるとすっと抜け出た。
そして、りゅうのすけの顔をちらりと見上げて、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
唯は振り返って外を向いた。
「…届かない想い、ずっと抱いている女の子の事も…考えてよ」
傘を開く音。ばさっ、という音がしたから、見事にかき消された言葉。
雨音と傘の音の重なりの中、ぼんやりと聞こえた唯の声。まったくわからないけど。
「なんか言ったか?」
だが、それだってどこか事務的。ズボンのポケット、両手を差し込んで見とれる風景。
グランドの花壇、木々、そして唯の背中と傘。油絵のような重なり。綺麗な色の魔法。
りゅうのすけの鑑賞が終わる前、唯は顔だけ後ろを向いた。
「べー、だ」
ほっとしたような、残念そうな顔。舌の先を少し出して、その表情は子供そのもの。
「あ…かわいくねー」
「ふん。いつか絶対に言わせちゃうからね。唯が一番かわいいって」
傘を肩にかけて、雨振るグランドに一歩出る。革靴ごしに冷たさが伝わってくる。
まず、一呼吸。そして、スケートのターンのように一回転。正面に、彼を捕らえた。
最高の笑顔をりゅうのすけに見せるために。それと、お願いするために。
「お兄ちゃん。唯といっしょに帰ろ」
「ああ」
りゅうのすけは、柱に置いてあった唯のかばんを脇にすると、小さな桜色の下に入る。
「やっぱ…ふたりだと小さいな」
不思議とふたりの一歩目は同じだった。どろどろのグランドに、靴が少し滑った。
りゅうのすけが手にしていたかばんを受け取りながら、唯は楽しそうに声を出した。
「これくらいでちょうどいいんだよ」
照れあうように、思い出したように、時々触れ合う肩先が、なんとなく嬉しい。
それだって、りゅうのすけの左肩はほとんど外に出ているのだ。唯を濡らさないように。
だが、その事を言うつもりはないらしい。唯も、りゅうのすけも。
…ごめんね、お兄ちゃん。
心の中で謝る。時々見せる、りゅうのすけ流の、唯に対する心配り。
今日は素直に甘えさせてもらっちゃおう。いじわるされたんだから…それくらいはいいんだよね。
ふと、唯は思いついた。そして、傘の下から雨を、雲を、見た。
雨は少しづつ弱まってきていたが、ふたりが帰るまでは降り続きそうだった。だから。
「ね、あじさい見て帰ろう。お兄ちゃん」
と唯が言った。雨の中、あじさいに負けないくらいのすてきな笑顔だった。

(了)


(1997. 5/25 ホクトフィル)

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