小説
2002. 1/ 8




恋愛組曲・ドアをノックするのは誰だ?・〜Short Story From ClassMate2〜


 俺さまは、両手をポケットに突っ込んだまま、冬晴れの空を見上げている。
真っ青で、雲はなくて、お日様の光がなんともぬくくて気持ちいい。
猫が日向で寝る理由がわからんわけでもない、なんて余計な事を考えてしまう。
ていうか、光がないと寒いぞ。
まぁ、たまには日向ぼっこもいいのかもしれない。
でも、俺さまがこうしてぼけーっとしているのは、日向ぼっこをしたいから、ではない。
必然的な成り行きってやつだな。
思わずあくびが出てしまう。寝不足でお肌が荒れ気味の俺さまだから仕方ないよな。
昼下がりの八十八駅前は、平日という事もあってか、人通りは少ない。
ましてや、待ち合わせをしているのは俺さまだけみたいだ。いや、さっきまではいたんだけどね。
ふと時計を見れば、俺さまがここに着いてから早くも十分経過。
約束の時間から二十分も経っているではないか。遅刻するとはまったくもって信じられんぞ。
俺さまにしては珍しいため息は、少し白くなりかけて、どこかへ消え去ってしまった。

 付き合いだしてからというもの、いずみは毎日電話をかけてくるようになった。
いやまぁ…それはそれでいいんだけどさ、
俺さまが気持ち良く眠っている時に、起きるまでベルを鳴らし続けるのはやめて下さい。
あと、留守電におどおどしいメッセージを入れるのも止めてください。
さすがの俺さまもノイローゼになっちゃうぞ。
ま、それはともかく。
「じゃあ、約束どおりに一時に八十八駅前ね。遅れるなよ、りゅうのすけ」
そんな会話で終えたのは昨日の電話。すごく嬉しそうな声だったのを覚えている。
それはそうだろう。
最近、諸事情で俺さまはものすごく忙しくて、いずみとデートどころか顔を会わせる暇すらなかったのだ。
同じ学校とはいえ、成績が違うから仕方ないわけ。
特に、諸事情をさぼったら留年確定ね、と脅されれば、誰だっておとなしく諸事情に出席しますって。
だが、いずみの方は諸事情がないらしい。付き合いの悪いやつだなぁ。
そんなわけで、久しぶりのお休みはいずみとのデート、となるはずだったんだけどね。
まったく…俺さまを待たせるとはいい度胸だな、おい。
指の関節をごきごき鳴らし、とても人には言えないような事を想像している俺さまの目の前に、
いつの間にかひとりの女の子が立っていた。
真っ赤なストールと、しましまのセーターに短めのスカート。
ベレー帽を深めにかぶっているから、顔はよくわからないけれど、背はさほど高くない。
うーん、俺さまに用があるのかな?
かといって、いずみがいつ来るかわからない状況では、俺さまから声をかける事はできないのよ。
なにせあいつと言ったら、自他共に認めるやきもち妬きなのだから、見られたら…命はなさそうだ。
いや、おそらく骨すら残らないだろう。 だから、他人のふりをしていると、女の子は意を決したように顔を上げ、
はかなげな声を出した。
「あ、あの…」
「ん。俺さまに何か用かな?」
これは不可抗力だよな。女の子から声をかけてきたんだから。
と、自分に言い訳するのが情けない気もするが、とりあえず女の子に微笑みかけた。
というより、自然とそうなってしまった。なにせ、かなり可愛いのだ。紅潮した顔がとてもとても素晴らしい!
それにしても、どこか見覚えのある女の子なんだよね。病的に白い肌とか、肩から垂らしてある長い栗毛とかね。
でも、可愛い女の子を忘れるはずないし…錯覚かなぁ。
彼女もまた、俺さまの精悍な顔をじっと見つめてなにやら考えているみたいだ。そして。
「あ、あの…りゅうのすけ君、だよね」
「い、いかにもりゅうのすけだけど」
偉くはないのだろうが、自分の名前を言う時は、どうしても胸をはってしまう俺さまだ。
えっへん、と無意識のうちにたくましくて分厚い胸板を突き出してしまった。
だが、彼女は俺さまの鍛えに鍛えて最強に強まった男らしい胸板には興味がないらしい。
両手で口を隠して、目を大きく見開いて、驚きと喜びをいっぱいに表現している。
「りゅうのすけ君にまた会えるなんて…夢みたい…」
「…また、って…どっかで会ったっけ?」
俺さまの頭の中に、ふたつの選択肢があった。
ひとつは彼女に会わせて「本当だよね」と答えるやつ。もうひとつが素直な答え。
まぁ、素直でいい子の俺さまらしい選択だな。
だけど、これが裏目になるなんて思いもしない事だった。
喜びに満ち溢れていた笑顔が、いきなり、なんの予告もなしに曇りだすなんて…ねぇ。
まだなにもしてないじゃないか。まともに話してもいないんだぞ。
だーっ! 涙を拭うんじゃないっ! 周りの人間が誤解するではないか。
ていうか、もうしてるじゃないか。
「…そうだよね。もう、私の事なんて…忘れちゃったよね…」
「ちょ、ちょっと待った! いきなり泣き出すのは反則だぞ」
「だって…りゅうのすけ君、私の事、覚えてないみたいだから…」
「そ、そうは言っても…」
「りゅうのすけ君、私が市民病院に入院していた時…毎日木に登ってきてくれたよね」
市民病院に木登りって…そう言えば、冬休みにそんな事した気がする。
確か、あれは病院の前をたまたま通った時だった。
なにげなしに見た病室から、空を見上げていた女の子。
遠目ながらに可愛いってわかった途端に、ナンパしたんだった。
しかも、彼女の病室が二階だったもんだから、わざわざ木登りしたんだよなぁ。
名前は…そう、桜子ちゃん。毎日のように木登りしては彼女とおしゃべりしたんだよね。
本当になんて事のないおしゃべりだったけど…毎日がすごく楽しかった事を思い出した。
だけど、こんな女の子だったっけなぁ?
もっとこう…おとなしくてさみしげで、感情はあまり表に出さないけれど、
時々見せる笑顔がとてもいい感じの女の子だった気が…
でもまぁ、木に登って、病室の窓越しにナンパした記憶なんて、少なくともあれこっきりだし、
人に話した事もないのだから、桜子ちゃんに間違いないのだろう。
「さ、桜子ちゃんの事を忘れるはずないよ。ちゃんと覚えてたって」
「本当に?」
少し赤い瞳を、人差し指で軽く撫でながら、桜子ちゃんはちょっと鼻をすすった。
もちろん笑顔だし、俺さまをやっぱり見つめ続けているんだな。うん、それならよかよか。
しかし…焦るよなぁ。本当にわからなかったんだからさ。俺さまもやきがまわったか。
「でも…やっぱり忘れてたよね。りゅうのすけ君、女の子がいっぱいいるもんね」
そ、そういう誤解を招くような事を言うんじゃありません。まったく…この娘は。
「ね、ねまき姿じゃなかったから、わからなかったんだ。あれ…じゃあ退院したんだ」
「そうなの、お正月に退院したの。でも…また会えるなんて…本当に嬉しい」
「ははっ、俺も嬉しいよ」
正直に告白します。俺さまは、桜子ちゃんの事をまったく忘れてました。ええ、忘れていましたとも。
人間ってねぇ、それなりに幸せになっちゃうとそんなもんだって。
でも、桜子ちゃんはそうではないみたい。いかにも不満そうに唇を尖らせている。
「りゅうのすけ君、二九日から来てくれなかったから…もう会えないのかなって思ってたの。
本当はね、もっともっといっぱい会いたかったのに…」
「ち、ちょっと、いろいろとあってさ」
しかし…女の子ってのはよく覚えてるなぁ。二九日って言えば…確か温泉旅行に行ったんだっけ。
あの時、俺さまといずみは…ぐへへへ。思い出しては胸がきゅんと鳴った。
だが、きゅんと鳴った途端の桜子ちゃんの質問にはかなり強烈に締めつけられた。
「いろいろって?」
「…え、あ…ははははっ。たしか…急な用事があったんだよ。うん、急な用事だ」
「それでも…あの日、あなたが来るのをずっと待ってたのに…」
思わせぶりな台詞を、子供みたいにすねた口調で言われたら、さすがの俺さまだって、どっきーん、なんてしてしまう。
まったく…どこまで素でやってるんだか。
「ご、ごめん。だけどさ、次の日行ったら、桜子ちゃんいないし…」
「だって、二日続けて検査だったから、病室にはいなかったと思う」
なーんだ。だったら桜子ちゃんだっていけないんじゃないか。けど…言えないよなぁ。
「…もしかして、ものすごく怒った?」
「怒らなかったけど…一晩中泣いちゃった」
な、なんだよ、いまのぞぞけは。
思わず身悶えてしまいそうなくらいに激しすぎて、身体がぷるぷると震えてしまったぞ。
おまけに背中には冷たい汗がつつーと伝っていく。
桜子さん…頼みますから、目が笑ってないというのはやめてください、お願いします。
「だ、だけどさ…退院できてよかったね。本当におめでとう」
「…りゅうのすけ君には、もっと早く知らせたかったのにな」
こ、こだわるなぁ、桜子ちゃんは。相変わらずの上目づかいに、罪悪感がのしかかる。
俺は悪い事はしてないはずなんだけど…いやまぁ、約束は破ったけどさ。
「は、ははっ。そ、それよりさ、あ…桜子ちゃんって、八十八町に住んでるの?」
「どうして?」
なんだかしらないけど、いきなり口調が冷たいぞ。それに、視線が冷たいぞ。
もしかして、話題を変えようとしている事がばれたのかな。でも…謝ったからもう許してよ。
「いや…だって、こんな所で会ったから。ほら、別に遊ぶ場所があるわけでもないし」
「ここからね、大学病院に通院しているの。お家は、如月町の先なんだ」
「へー。あれ…それじゃあ、まだ完治したわけじゃないんだ」
「うん。でもね、かなり良くなったんだって。だから、こうしておしゃべりできるの」
言われてみればそうだ。桜子ちゃんって、ちょっとおしゃべりしただけですぐに疲れちゃったんだよね。
いきなり無口になってさ、あれはあれで怖かったけど…
でも、それでも俺さまのアイスクリームメルティントークを聞こうって必死に隠そうとしてさ。
そんな時、いつも思ったんだっけ。俺さまって本当に無力なんだよなーって。
そのあとの桜子ちゃんのさみしげな口元が、もっともっと俺さまを苦しめたんだよね。
けど…今はそうじゃない。俺さまの目の前で、普通に話しているんだからね。
「でも、退院できて本当によかったよね。俺まで嬉しくなっちゃうよ」
「うん、ありがとう。だからね、どうしてもりゅうのすけ君には知らせたかったの」
「どうしても?」
「うん。だって…退院したら、最初にりゅうのすけ君とね…」
ごにょごにょごにょって、そんな歯のない老人みたいにされちゃうと、なにを言っているのかわからないってば。
どうやら、照れているみたいなんだけど…なんだろうなぁ。
「よ、よく聞こえないよ」
「だ、だからね、退院したらね、最初にね、りゅうのすけ君とね…するってね…」
結局、ごにょごにょごにょ。真っ赤になっているくらいだから、想像もできないくらい恥ずかしい事なんだろうな。
でも、なにも思いつかない。まさかあれって事はないよね。
「…俺となにかしたいの?」
「やっぱり…約束の事、忘れてる」
「約束?」
「ううん。もういいの」
うーむ。ひとりで勝手に完結されてしまうと気になってしまうが…まぁいいや。
それにしても俺さまは俺さまの知らない所で勝手に約束をしていたらしい。困ったもんだ。
彼女は寂しそうにうつむいて、口もとに右手をあてた。それから、また笑顔に戻る。
「ところで、りゅうのすけ君はどうして駅にいたの?」
「えっ?」
なんか聞かれたくなかったなぁ。別にやましいわけではないんだけど…なんとなくさ。
「どうしてって…うーん」
「誰かと待ち合わせしているの?」
「う、うん」
「相手は…恋人、なの?」
桜子ちゃんは瞳をうるませながら、問い詰めるように身体を寄せてきた。
ちょっと待て、なんでそんな目で見るんだよ。なんか俺さまが犯罪者みたいじゃないか。
「恋人…でしょう?」
時々思う。女の子って、こういう時って妙に意味深長な口振りになるんだよね。
そして、明かに確信しているんだよね。今回の桜子ちゃんもそうだもん。
だから、しばらく、というほどに長くはない時間、思考回路が止まってしまった。
自分でもよくわからないけど、とにかく、素直にうん、と言えなかったんだ。
けど、うそをつく事でもないし、俺はようやく返事をした。頭を縦にこくん、と振った。
「そ、そうだけど…」
「りゅうのすけ君、前に恋人はいないって言ったのに…うそつき」
そう言った桜子ちゃんの目。病室で、空を見ていた時と同じような目をしていた。
少し寂しげで、それでもどこか強気な…あるいは、無表情に近い目。弱いんだよなぁ。
「ふ、冬休みが終わってから付き合いはじめたんだ。あー、その目は疑ってるな」
ベレー帽で鼻から下を隠している桜子ちゃん。上目づかいににらむから…とても怖い。
だけど、でも、本当の事だけに仕方ないんだってば。いいわけじゃないんだって。
「ほ、本当だよ、桜子ちゃん。いずみが来たら聞いてみなよ」
「ふーん。いずみちゃんって言うんだ、りゅうのすけ君の恋人。やっぱり…可愛いの?」
いかんとは思っていても、ばか正直な俺さまだ。思わず吹き出してしまった。
別にいずみが可愛くないなんて思ってはいない。だけど…ねぇ。
「ははっ。確かに見た目は可愛いけど、性格とか言葉使いとかは、男みたいなんだ」
「ふーん。りゅうのすけ君って、そういう女の子が好みだったんだ…」
「いや…別に、好み、ってわけじゃないけどさ。ただ…気がついたら好きだった」
なぜか格好つけて、遠い目をする俺さま。
実のところ、好きとか嫌いとか尋ねられると少々微妙な返事しかできないのだ。
今のところは、好きだろう、が正確だろうな。
「…恋人のいるりゅうのすけ君、か」
なにがおかしいのかよくわからないけれど、桜子ちゃんはくすくすと笑いだした。
「ねぇ、私もいっしょに待ってていいかな。いずみちゃんに会ってみたいの」
「いいよ。もう少ししたら来るはずなんだけどさ…あいつ、なにやってんのかなぁ」
「…早く来ないかなぁ、いずみちゃん」
桜子ちゃんは、背中の大きな柱に寄りかかると、目を細めて自分の栗毛を撫でだした。
お日さまに包まれて、少しうつむき加減の彼女は、とっても綺麗だったし、それに。
やっぱり…笑ってたほうがかわいいや。

 気がつけば、いずみと待ち合わせてる事なんて忘れて、
お互いの知らない時間を少し大げさに話している俺さまと桜子ちゃん。
おしゃべりをしていると、桜子ちゃんが元気になったんだな、って実感できた。
病院でこうしていた時よりも、もっと会話が弾んでいるし、なんと言っても笑ってくれる。
正直、いずみとふたりでいる時よりも楽しいような気が…って、いずみに言ったら絶対に殺められてしまうだろうけどさ。
「へー。じゃあ、桜子ちゃんも八十八学園通えるんだ」
「うん。だけどね、簡単なテストがあるんだって。だからね、毎日勉強してるの」
「ははっ、俺と同じだ」
「あ、もうそういう時期だもんね。じゃあ、やっぱり普通の大学に行く事にしたんだ」
なるほど。普通に聞けばそうなるわけか。なんだか知らないけど、新鮮な考え方に思わず納得してしまった。
俺さまにとっては、試験と入試は同義語ではないからさ。
「ははっ。試験と言えば試験なんだけど、そうじゃなくて…補習の追試」
「え?」
「三年間遊びすぎちゃったからね」
俺さまの言葉に、桜子ちゃんは一瞬戸惑ったみたいだけど、なぜか納得している。
本当に、どうして納得しているのか聞きたいところだけれども、そんなひまはなさそうだ。
だって。
「…ねぇ、りゅうのすけ君」
いたずらな顔をする桜子ちゃんは初めて見た。
それに、どこかくすぐったくなるような、子猫みたいな声も初めて聞いた。
くぅー…可愛いったらありゃしない。
「な、なに」
「あのね…お願いがあるの」
俺さまの真横で背伸びをする。どうやら耳元でささやく、をやりたいらしい。
当然の事ながら、腰をかがめ、彼女が楽にそれをできるようにしてあげる。
耳に少し熱い息がかかった。俺さま唯一の弱点をいきなり責めてくるとは侮れん。
でも、そうじゃないよね。はいはいわかってますって。お嬢様は何をささやきたいの?
「留年しちゃおうよ」
「…はい?」
おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいっ!
そういう事を、その声でささやくんじゃないっ!
おまけに語尾に甘ったるいハートマークなんてつけるんじゃあないっ!
まったく、迷いもなくうなずいてしまいそうになるじゃないか。
でも…なにげに悪くない気がしちゃだめなんだってば!
「それもね、三年間留年するの。そうしたら、いっしょに学校に通えるでしょう?」
あの…そういう事は、手をぽんなんて鳴らして、笑顔で言う事じゃないと思うぞ。
「…それだけは勘弁してよ」
「私といっしょに学校行くの、いや?」
それはずるい。おまけにおねだりポーズなんてするのは犯罪に近いぞ。
しかも演技ではなくて、素でやられると、かなり困る。
えーい、この子猫ちゃんめっ!
「あのねぇ…」
「だって、りゅうのすけ君がいっしょなら、きっと楽しいと思うの」
「そりゃまぁ…そうだろうけどさ…」
煮えきらない俺さまに、甘えた顔でせまってくる桜子ちゃん。かなり本気らしいぞ。
「りゅうのすけ君がいっしょなら、どんな事でもがんばれると思うの」
「…桜子ちゃん」
「ひとりで学校に行くの…少し不安なの。だって、みんなよりも年が上だし、勉強も心配だし、病気もそう。
だから、りゅうのすけ君がそばにいてくれたらって思うの」
桜子ちゃんはじっと俺さまを見つめている。その視線はものすごく熱いんだ、これが。
もちろん、なんか言わないといけないな、と思っているんだけどさ…
どきん、なんてときめきの音が聞こえたのはなぜだろう。
うん、きっと気のせいだな…いや、だろうけど…あ、あれ、ち、ちょっと待って、なに…
いや、だって俺さまには、いずみって彼女がいるのに…まずいって、それ。
それでなくたって、いずみはやきもちやきなんだぜ。
「え…あ、そ、そうだ。電話番号教えるからさ、なにかあったらかけてきなよ。
俺、たぶん、四月からひまだしさ、桜子ちゃんになにかあったらすっ飛んでいくからさ」
「…ううん。電話番号はいい」
「どうして?」
「だって…そうしたら、毎日かけちゃうもん。りゅうのすけ君の声、聞きたいから…」
顔を真っ赤に染めて、うつむきがちの桜子ちゃん。
照れ隠しなのか、時々ベレー帽の位置を直すふりをしている…なんて、冷静に観察なんてできるわけがないんだな。
だーっ! ときめくんじゃない、俺。可愛いなんて思うんじゃない、俺。
どきどきしてどうするんだよっ。そりゃ可愛いけど…一応、恋人のいずみを待っているんだぞ、俺。
だけどさ…見つめちゃうよなぁ。
だって、目の前の、しかも可愛い女の子が、顔を真っ赤に染めてさ、俺と一生懸命に話をしようとしてるんだぜ。
まるで告白の場面みたいで、他人なんて視界に入らないよなぁ…って事は、いずみが見たらまずいじゃないか!
「そんなのぜんぜんかまわないよ。俺だって、桜子ちゃんの声、毎日聞きたいし」
あー、俺さまの口はなんでそういう事を言うんだよぉ。明らかに火に油じゃないかよぉ。
「本当?」
ほらほらほらほら。桜子ちゃんはかなり本気にしちゃってるじゃないか。
その証拠に、わざわざ一歩前に出て、俺さま本体と密着寸前までもちこんできた。もしや…力技?
だが、俺さまは逃げるわけにもいかず、かといって、笑ってごまかせる状態にもない。
でも、素直に言いたくもない。男として、どうしようもないよな、これって。
へへっ、と苦笑をなんとか作った。けど、桜子ちゃんは俺さまを見つめている。
こめかみのあたりをぽりぽりとかく。けど、桜子ちゃんは俺さまを見つめている。
ちょっと視線を外して改札の方を見た。けど、桜子ちゃんは俺さまを見つめている。
あー、と困ったあげくにうなってしまう。けど、桜子ちゃんは俺さまを見つめている。
桜子ちゃんはずっと俺さまを見つめている。そう、桜子ちゃんは俺さまを見つめている。
要するに、桜子ちゃんが今必要なのは、俺さまの返事なのだ。本当かうそか、という事。
当然ながらうそ…じゃないよなぁ。けど…本当、とは言い切れないんだよなぁ。
そりゃ、いずみがいなけりゃ素直に返事をしているだろうけど…どうすりゃいい?
潤みがちな桜子ちゃんの瞳に、俺さまはただただ戸惑うばかり。
どう答えれば彼女を傷つけずにすむのか、百戦錬磨の俺さまでもわからない。
だから、優柔不断にもなるって。
「う、うそじゃないけど、それはそれで…困るんだ」
「…やっぱり迷惑だよね。いずみちゃんがいるんだもんね」
くるりと背を向けて、俺さまとの距離を急激に取り出す桜子ちゃん。歩幅にして五歩。
北風が、彼女のベレー帽に強く吹きつける。真っ赤なストールを大きくなびかせる。
桜子ちゃんの背中はとても小さい。そして、とても寂しい。まるでなにかをこらえるように空を見上げている。
風に飛ばされないように、ベレー帽を右手で押さえた。
そんな桜子ちゃんをただ黙って見つめている俺さま。
だけど…どうしても押さえきれない感情が込み上げてきた。いわゆる理性ってやつがそれを押さえようとするんだけど…
恋人がいるなんて、なんだかどうでもよかった。理屈なんかじゃ説明できなかった。
ただ、空を見上げている小さい背中を、ぎゅーっと抱きしめたかった。だから、動いた。
「桜子ちゃん…」
桜子ちゃんの背中まであと少しという距離だった。
当然ながら、抱きしめるための体勢をとっていたんだけどさ…まぁ、タイミングが悪いというかなんというか。
「…ごめんね、りゅうのすけ君。変な事言っちゃって」
くるりと振り返った桜子ちゃんが見たのは…とても怪しいポーズの俺さまだった。
背後からいたいけな女の子を襲う変質者のように両手を広げ、おまけに前かがみ。
自分で言うのもなんだが、ここまで完璧な変質者をできるのは俺さまぐらいだろうな。
「あ…」
「りゅ…」
当然の事ながら、俺さまに言葉はない。桜子ちゃんの白い肌も、恐怖かなにかでひきつっているわけで。
しかもまぁ、こういう時って時が止まっちゃうんだよね。
妙な恰好のまま見つめあう俺と桜子ちゃん。
千年の恋も覚めてしまうどころか、きっと一生この事をうだうだ言われるに違いないだろう。
もしかしたら前科者になるかもな。
そして、こういう時に限って悪い事は重なるわけで…
「な、なにしてるんだよっ!」
あまりの大声に、そして、いかにも怒りのこもっている声に、俺さまどころか桜子ちゃんまで驚いてしまった。
もちろん、声の主が誰だなんて、いわずもがなってやつだな。
「人が遅刻してきてみれば…お前って、つくづく最低なやつだなっ!」
驚きのあまり、前方三回転半してしまった俺さまを、真っ赤になってにらんでいるのはやっぱりいずみだった。
紺のダッフルコートに長いマフラーをぐるぐる巻きにして、
うさぎさんの刺しゅうの入った手袋が妙に似合ってしまう装束で登場なわけだ。
でも…ちょっと間違って、毛糸のとんがり帽子でもかぶせたら小学生みたいだな、なんて口にしたら、
ここで一生を終える事になるのでとりあえず心の金庫にしまっておいた。
「俺って最低なのか?」
「だって…私とのデートの待ち合わせだろ。なんで他の女の子にそんな事しようと…」
強気な瞳で俺さまを見下ろしているいずみの恐い事恐い事。
しかし、いずみに見下ろされるとは思いもよらなかった。
まぁ、こんな機会でもなければなかなかないだろうな、などとのんきにかまえている場合ではなさそうだ。
「ちょ、ちょっと待て。俺が何をしようとしていたというんだ」
「なにって…自分がしようとしていた事もわからないのかよっ!」
「まさか、この白昼堂々に女の子を襲うとでも思っているのか?」
いずみは黙ってうなずいた。
そりゃまぁ、そういう恰好はしていたよ、恰好はね。
けどさぁ…それって早合点なんだってば。なんて、話は聞いてくれそうになかった。それに。
「りゅうのすけなんてだいっきらいだっ!」
乱れたマフラーを直し、いずみは踵を返して歩き出した。そして、走り出した。
一瞬、右手を伸ばして「いずみ〜」なんてやろうかとも思ったが、あまりに恰好悪そうなので止めておく。
だが、俺さまの言い訳くらい聞いたらどうなんだ、まったく。
正直、内臓全部が煮えくり返ってだしが出てしまいそうだったが、いつもの事、となんとか納得しようとした。
この手の間違い、いずみの場合は日常茶飯事だからな。
この前なんて、迷子で泣いている幼稚園児を助けようとした途端にいずみに出くわし、
二、三日口すら利いてくれなかった事もあるのだ。
慣れてはいないが…仕方ないよな。
そう、仕方ない。仕方ないのだけれども…どうしたって納得いかんぞ、こらっ。
「りゅうのすけ君、大丈夫?」
背中から、か細い声が聞こえた。
俺さまは腰を上げながら、声の主の方へと身体を向ける。
桜子ちゃんには悪いけど…一緒にいた事、ちょっとの間忘れてしまっていたぞ。
「大丈夫、大丈夫。いずみの事なら心配しなくても…」
「そうじゃなくて…りゅうのすけ君、転んじゃったから」
「え、ああ。別にしりもちついただけだし、ちゃんと受け身をとったから平気だよ」
そんな事を言いながら、おしりのあたりをぺぺぺんとはらう。
まったく…怒声一発で俺さまを倒せる女の子がいてどうするよ。あきれを通り越して感心してしまうぞ、いずみ。
「だけど…悪い事しちゃったね」
「なんで?」
「私がいなければ、誤解されなかったわけでしょう?」
「…誤解もなにも、あいつが人の話を聞かないのがいけないだけだぞ」
俺さまはにやっと笑ったが、桜子ちゃんは胸前で両手を重ねて、本当に不安そうな表情をしている。
おそらく、彼女なりに罪の意識があるのだろう。けど、悪いのはいずみだ。
まぁ、ちゃんと説明できなかった俺さまも悪いのだろうが、桜子ちゃんは無関係だ。
「桜子ちゃんは気にしなくてもいいんだよ。全然悪くないんだからさ」
「でも…」
「本当に大丈夫だってば。あいつとは昔からあういう仲なんだからさ」
「…ごめんね、りゅうのすけ君」
出会った時のように瞳を曇らせる桜子ちゃんだけど、本当に心配はいらないんだぜ。
なにせ、友達付き合いの頃からよく喧嘩していたんだからさ。勝手知ったるなんとやらだ。
にしても…あいつも成長がないというか、これからが不安になるというか…困ったなぁ。
「絶対に大丈夫だよ。行き先だって見当ついてるし、そんな顔しなくてもいいんだよ」
「…う、うん」
「いずみだってさ、話せばわかってくれるぞ。そこまで頑固じゃないって」
「あ、あのね…」
先生に怒られる子供みたいに、身体を小さくして、上目づかいに俺さまを見ている桜子ちゃん。
いずみもこれくらい素直ならなぁ、とか、そんな姿がいじらしくて可愛いなぁ、とか、
そんな事思ってしまうから、俺さまはぶるぶると頭を振って邪念を飛ばした。
そして、最高の笑顔を作り上げて、桜子ちゃんのとてもとても細い肩に両手を置いた。
「桜子ちゃんは悪くないし、いずみも話せばわかってくれるよ。本当に大丈夫だって」
「う、うん。だけどね…あ、あのね…もし大丈夫じゃなかったら…私、責任とるから…」
「せ、責任って…」
それは、思いもしない桜子ちゃんの言葉だった。
だから、心臓が激しく鳴り出した。生唾をごくん、とおもいっきり音を立てて飲み込んでしまった。
一瞬、いずみの笑顔を思い出した。だけど、すぐに責任の事で頭は一杯になった。
その意味は、おそらく想像しているとおりだと思う。だとしたら…どうすればいい?
俺さまがそんな事を考えている間に、桜子ちゃんは顔をしっかりと上げて、口を開いた。
「…だ、だからね…私がりゅうのすけ君の…恋人になるから」
指先まで真っ赤に染めて、桜子ちゃんは真っすぐに、一直線に俺さまと向かい合っている。
そらす事も許されないくらいに、強くて、真剣で、真面目な瞳だった。
これって完全な告白じゃないか。冗談で言えるほど、桜子ちゃんは大人じゃない。
完全に予想どおり。だから、俺さまは本格的に困り出す。どうすれば、いいんだ?
笑って冗談にする? それとも、きちんとお断りする?
だけど…本音はそうじゃない。
桜子ちゃんは動こうとはしなかった。もう、いずみの責任どうこうではないのだろう。
ふたりから、突然言葉が消えてしまった。駅前の喧騒すら、今は聞こえなかった。
どう答えればいい。どうすればいい。やっぱり…自分に正直になるのがいいのか?
「お、俺…」
「あ…ごめんなさい、変な事を言っちゃって…あ、あのね、今の話はね…」
妙に重くなってしまった空気に耐えられなくなったように、桜子ちゃんが慌てて話を終わらせようとした。
だけど…俺さまはそれを拒んだ。無意識に話を続けさせていた。
「冗談なの?」
「そ、そうじゃないけど…だけど…」
「それとも…俺を試しているの?」
「ち、違う! そうじゃないの。私、りゅうのすけ君の恋人になりたいのっ!」
「…だけどさ…それって、いずみの代わりなんだよ。それでも、いいの?」
俺さまはうそつきだ。口先だけだ。そんな事、これっぽっちも思っていないくせに。
そうじゃなきゃ、桜子ちゃんの話を遮る必要なんてなかったじゃないか。
いずみが走り去った時に追いかけようとしなかったのは、そういう事なんだろ。なのに…
だけど…それでいいのか?
いずみの事、好きなんだろ? だから付き合い出したんだろ?
俺さまの中で、たくさんの俺さまが俺さまと激しくやりあっている。
いつもなら、すぱっと結論を出す俺さまが、初めて混乱しているのだ。
本当に…どうなってるんだ?
そんなふうに混乱している俺さまの耳に、小さくて、力強い声が飛び込んできた。
「…そんな事ないよ、りゅうのすけ君」
指先をもじもじさせていた桜子ちゃんは、俺さまを強く強く見つめたまま、口を開いた。
「だって、私…りゅうのすけ君の事が…好きだから」
俺さま、フリーズ。頭の中は爆弾畑。もう、桜子ちゃんを見つめるしかできなかった。

 次の日、俺さまはデートの約束をした。その相手とは…

(了)


(1998. 3/ 8 ホクトフィル)

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