小説
2002. 1/ 8




恋愛組曲・痛快ウキウキ通り・〜Short Story From ClassMate2〜


 カレンダーでは春が近いのに、先月から続く寒さは相変わらず。
また雪が降りだしそうな、重そうな白黒い雲。最高気温は四捨五入でぴったし零度。
そんな午後でも、用事があれば出かけるしかない。ましてや、恋人との待ち合わせだ。
だから、桜子は八十八駅までやってきて、ずっと立ちぼうけしているのだ。
それにしても、と桜子は思う。彼はいったいどこでなにをしているのやら、と。
「あのさ、桜子。明日空いてるかな。どうしても話したい事があるんだけど…」
「空いてるけど…用事があるから、夕方には帰らないといけないの。それでもいい?」
「いいよ。午後、ちっと付き合ってくれればいいからさ。そんなに時間かからないし」
「でも…りゅうのすけ君が遅刻してくるから、あまり時間ないと思うな」
「だ、大丈夫だって。明日は絶対に遅れないから」
電話ごし、やたらと自信ありげに、しかも絶対とまで言い切った彼。
だから、遅刻は覚悟していたのだが…それにしても遅すぎる。
長針二回転分の遅刻とは、尋常ではない。
…本当に、どうしたのかな。
真っ先に思いついたのは寝坊だった。
医大に合格してからというものの、今までの睡眠時間を取り戻すかのごとく、
お昼ごろまで寝続ける事などはざらだった。
だが、電話してみたところ、彼は家にはいなかった。とりあえず、午前中に家は出たらしい。
どこかでなにかがあったのかも、と不安にはなったが、彼に限ってそれはないだろう、
と理由にもならない理由で打ち消していた。
だったら、なぜ?
お気に入りの、真っ赤なダッフルコートの大きなポケット。
右側が膨れているのは、ずっとPHSを握っているから。
だが、甲高い呼び出し音はまだしない。
桜子は、駅舎の柱によりかかり、いつも彼が走ってくる方向を眺め続ける。
遅刻する彼を、この場所で、こうやって待つ。もう何度となく繰り返した事だった。
その度に、彼いわくの、どうしようもなかった理由を聞き、許してあげていた。
だが、今回はそうもいかない。
この寒い中、二時間も立ち続けて待ち続けているのだ。おまけに、連絡すらない。
だったら、このまま黙ってぷんすかしたまま家に帰っても許されるだろう。
それでも、「どうしても話したい事」が気になり、そうはできなかった。
それに、待ち合わせに来なかった、という事は今までなかったのだ。
結局、彼を信じるしかなかった。
もっとも、タイムリミットになれば、渋々帰るつもりだけれども。
「…りゅうのすけ君のばか」
長くて真っ白いマフラーの下、もぞもぞと、とんがった声が鈍く響いた。

 口を丸めて、はぁ、と息を吹き出すと、目の前が、一瞬だけ白く染まった。
別に意味があったわけでもなくて、口元を、またマフラーの下に埋めこんだ。
そして、両手はポケットの中。下ろした髪がじゃまでなければ、フードだって被っていたはず。
ますます寒くなり出した外気だから、誰かさんに文句のひとつも言いたかった。
…本当に帰っちゃうよ、りゅうのすけ君。
分厚い雲と時間のせいだろうか、街路灯やネオンサインがどんどんと灯り始め、
帰宅する学生やら会社員やら買い物の主婦やらで、駅前もだんだんと人通りが増えてきていた。
もう少ししたら、自分も帰宅の途につかなくてはならないのだ。
時間は、あまりない。
今日は家に親戚が来る日。その時だけは家にいろ、と母親から厳命されていた。
もちろん、りゅうのすけがいけないのだ。連絡はないし来る気配すらないのだから。
とはいえ、正直、帰りたくなかった。
どんなに遅れてきてもいいから、声だけでもいいから、彼に会っておきたかった。
ここのところ、お休みに誘っても、彼の用事だとかで、会えない事が多かった。
まるで避けられているみたいだった。
そこへ来て、「どうしても話したい事」があると言われたのだ。
それを悪い方に考えては、昨日は昨日で悩んだのだから。
それで今日、会えないとなると、泣くだけではすまなくなるかもしれないのだ。
心も身体もうつむきがち。
大きな冷たい柱に背をもたれ、つま先が、こつんこつんと静かなリズムを作り出す。
目を細めて、コンクリートの地面をぼんやりと眺めだす。
早かったり遅かったり、右を向いたり左を向いたり、
真っ黒なてかてかだったり、少し疲れた紺色だったり。
ただ、桜子の前で足を止める人はまだ表れる様子はなかった。
けれども。ゆったりとしたペースで横切るかと思っていた白い足が、突然、止まった。
「…どうしたの?」
桜子の前で足を止めたのは、猫だった。
そして、真正面を向いてお座りをしていた。
思いっきり顔を上げ、じっと桜子を見つめる猫に、興味と疑問が湧くのは当然の事だ。
驚かさないように、ゆっくりとしゃがみ込むと、同じように桜子も見つめ返した。
真っ白い身体と、どこかプライドの高そうな目。だが、その顔はまだ幼さを残している。
首輪はないものの、人間に慣れているところをみると、おそらく捨て猫なのだろう。
「ねぇ、あなたも待ち合わせなの?」
久方ぶりに話し相手を見つけたからなのか、呼びかけながら、自然と笑みがこぼれる。
だが、猫の方はいかにも気まぐれらしく、大きなあくびをしては、そっぽを向いた。
「もぉ…大きなあくびなんてして。まるでりゅうのすけ君みたいね」
むしろ、そんな仕種を楽しむような口調の桜子は、恐る恐る右手を伸ばしてみる。
のら猫らしくない純白の毛を、無性に撫でたくてたまらないのだ。
要は、人恋しい。
身体を真横に向けている猫。その首筋に指先が触れそうになった瞬間、
猫はにゃにゃんと鳴きながら、桜子に背中を向けて飛んでいってしまった。
「あ…」
まるで、恋人に捨てられた女優の演技の如く、右手が、寂しそうに猫の影を撫でる。
深く息を吐き出しながら、伸ばしっぱなしの腕を引っ込める。
そして、顔を上げた。
真正面より少し右側に、猫と入れ替わるかのようにして表れた人を確認するためだ。
「遅れてごめん」
残念無念、と苦笑いをして、桜子を見下ろしている男の子。ぽつねん、としていた。
「…りゅうのすけ君」
いつもなら、会えた事が嬉しくて、いらいらなんてすぐに飛んでいってしまうのだ。
なかなか会えないふたりだから、今日にしたって、実は久しぶり。
おまけに、やっぱり来てくれたんだ、という安堵感もあって、嬉しくないわけがないのだ。
だが、さすがに今日はそれで許すわけにもいかなかった。
ダッフルコートの上からひざを抱え込み、桜子は身体を丸めた。
そして、猫の走っていった方をじっと見つめる。口調も冷たくする。
「猫、逃げちゃった」
「猫って…あ、ごめん」
「…捨てられちゃった仲間同士だから、お友達になれると思ったのにな」
「捨てられたって…とにかく、ごめん」
「…謝ってばっかり」
「けど…そうしないと許してくれないだろ?」
「ううん。りゅうのすけ君が遅刻してくるのはわかってたから、別にいいの。
だって、絶対に遅れない、なんて自信満々に言うんだもん」
「…本当にごめん」
見上げた彼は、苦笑い。でも、本当に反省しているみたいだった。
もしこれで、何事もなかったかのような顔をしていれば、さすがに愛想も尽きただろうが。
桜子は、ため息をついてから立ち上がった。背の高い彼を、正面に見上げる。
「だけどね、いくらなんでも遅れ過ぎだと思うな。おまけに、連絡もしないなんて」
「連絡しようと思ったんだけど、時間がなくてさ」
「そうなんだ。三時間もあったのにね」
思い出したように左手を返して腕時計を見る。
りゅうのすけからもらった、去年の誕生日プレゼント。
ちょっと前になくしてしまい、泣きながら捜した、思い出の品だ。
「ねぇ、りゅうのすけ君。どうして三時間も遅刻できるの?」
「どうしてって…」
そこで口ごもってしまうから、桜子だっていぶかしがってしまうのだ。
だいたい、いつもの遅刻なら、言い訳のひとつでもしているはずなのに。
「着替えようとしたら、変な鎧しかなくて、普通の服を捜すのに時間がかかったの?」
「ちがう」
「じゃあ、縄で縛られたおねえさんに追いかけられて、逃げるのが大変だったの?」
「ちがう」
「なら、どうして?」
言い訳でもいいから、理由を教えてほしかった。
三時間以上、りゅうのすけは外出していたのだから、どこかでなにかをしていたという事なのだ。
それでなくても、昨日の電話が気になって仕方ない。
どうしても言いたい事ってなに?
いやな事が頭の中に浮かぶから、少し涙目。
だが、彼は口を開こうとはしなかった。
「最近、そういうの多いよね。お休みになると、用事があるって言って、
デートもしてくれなかったし、用事の中身を教えてくれないし…
なんだかこそこそしてた」
「そうだっけ?」
「お家に電話しても、朝からどこかに出かけたってしか教えてくれないし…」
「美佐子さんには何も言わないからな」
「…私にも、何も言わなかったじゃない」
思わず、口調が強くなる。怒鳴るように、吐き捨てるように、桜子とは思えない言葉。
りゅうのすけは、苦笑いを浮かべたまま、後頭部をぽりぽりとかいた。
桜子の髪と同じように伸ばし続けている前髪の、その下が困り果てている。
「…ねぇ、なにをしていたの?」
りゅうのすけは、しばらくだんまりを決め込んでいたが、
桜子の視線に負けるように、ポケットに手を突っ込んで、なにかを取り出した。
そして、右手で握り隠している。
「…本当はさ、もっと格好よく出したかったんだけど」
言いながら、右手をゆっくりと開いた。手の平に輝くのは、銀色の、真新しい鍵だった。
最初は車の鍵かと思ったが、免許のないりゅうのすけには必要のないものだろう。
だとしたら、どこかの家の鍵くらいにしか見えないけれど…彼の家の鍵だろうか。
「その鍵はなに?」
「なにって…アパートの鍵だけどさ」
どこか拍子抜けしたような声で、りゅうのすけはそう答える。
だが、桜子はきょとんとしたままだ。
いきなり、アパートの鍵と言われても、それがなに、としか返しようがなかった。
もしかしたら、彼がよくやる、手の込んだいたずらかも、とまで考えてしまうのだ。
だから、すねたように唇を尖らせて、じっとりゅうのすけをにらみつける。
「それが遅刻した理由なの?」
「そう。これをもらってくるのに時間がかかったんだ」
「鍵をもらうだけなのに?」
桜子のその一言に、左手で後頭部をかきながら、照れ臭そうに笑う。珍しく、頬が赤い。
「部屋を探すのも借りるのも初めてだろ。だから、いろいろと大変でさ。
今日も、ただ鍵をもらうだけかと思ったら、手続きやらあってさ…そしたら、こんな時間だもんな」
りゅうのすけは何事もないかのように、あっさりとそんな事を言ってのけた。
だが、桜子の方はそうではなかった。目を大きく開き、少しあ然としてしまう。
「部屋を…アパートを、借りたの?」
「そう。けっこういい部屋なんだぜ。
駅からも近いしさ、ちゃんと日も当たるし、それに、そんなに狭くないし…
不動産屋の親父もさ、掘り出し物だって言ってたんだ」
なんだか楽しそうに話すりゅうのすけが、だんだんとわからなくなってきた。
りゅうのすけの話についていけないどころか、理解すらできなくなっているのだ。
「…そんな話、聞いてないよ」
「そりゃそうだ。誰にも話してないんだからさ」
「だけど…私には話してくれてもいいじゃない。それとも…話せなかったの?」
なにせ今の今まで、そんな話は聞いていなかったのだ。
隠し事をしないでほしいとは思わないけれど、それはそれで重要な事。
相談のひとつがあってもよかったはずだ。
頬に不満をたっぷり含んで、一歩前に詰め寄った。どうしたって納得できなかった。
だが、返事はなかった。
ただ、桜子の右手をつかんで、持っていた鍵をそっと握らせた。
冷たくなった手の中にある、彼の体温が心地好かった。
だけど…そうではないのだ。
「ごまかさないで、りゅうのすけ君。一人暮らしするなら、相談してほしかったのに」
「俺、一人暮らしをするなんて言ってないぞ」
「えっ?」
はっとした桜子は、急に真面目な顔をして、鍵を渡してくれた人へ視線を上げた。
大好きな、柔らかい笑顔の彼。けれど、どこかしら真剣で、緊張しているのがわかった。
せきばらいして、生唾のんで、しっかりと桜子の正面に向いて、沈黙。
それから。
「あのさ…桜子も、いっしょに、暮らそうぜ」

 頭の中が、真っ白になった。彼の言葉だけが、その中で回っていた。だから。
きょとんとして、まばたきをして、目の前の彼が、まるで画面の中にいるようだった。
自分自身も、まるでここにいないような、そんな錯覚さえおこしてしまいそうだった。
けれど、そうではないみたいだった。彼の姿が、だんだんとにじんで見えてきたのだ。
そして、それが涙だと気がついたのが、ふたり同時だったのだ。
「さ、桜子?」
「え、あ…ご、ごめんなさい。私…」
「泣き出すなんて…そんなに俺と暮らすの、いや?」
ほほ笑むというよりも、にやっと笑ったりゅうのすけに、顔を横にぷるぷると振った。
「そうじゃないの。そうじゃなくて…まさか、そんな事を言われるなんて…」
あわててハンカチを取り出すと、桜子は、目の下のあたりを拭った。
だけど、涙は止まりそうもなかった。
そして、泣き顔の笑みだって、どうしようもなかった。
「…俺、ずっと考えてたんだ。
ほら、受験勉強に必死でさ、桜子にがまんばっかりさせていただろ。
今さらながら、悪い事したなって思ってるんだ」
りゅうのすけが追い込みの時期、会うことすらままならず、電話で寂しさを紛らわしていたのだ。
それが仕方ない事だと、桜子なりに理解はしていたつもりだったが…
時々、気持ちを押さえきれない事があった。
そんな時。彼が冗談っぽく言っていた。
ふたりで暮らせたら、ずっといっしょにいられるのにな、と。
桜子も、それならいいのにね、と返事をしたっけ。
いつか、そんな日がくればな、とは思っていたけれど…
今、この瞬間に、そんな事を言われるなんて思ってもいなかった。
だから余計に嬉しくて、涙が止まらないくらいに嬉しくて、笑顔になってしまうのだ。
「だからさ…その時間の穴埋めができたらって思ってるんだ。
それに、俺たち、これからもっと忙しくなりそうだろう。
でも、いっしょに暮らせたら…いつでも会えるしさ。俺、どうしても桜子にそばにいてほしいんだ。
だから…鍵、受け取ってほしいんだ」
受け取らない理由なんてなかったし、受け取れない理由もなかった。
なにより…嬉しい。
こくこくと、うなづく事しかできなくなった桜子に、りゅうのすけは苦笑いをした。
「いやー、泣くぐらいに喜んでくれるとさ、遅刻した甲斐があったなって思うぞ」
「…もぉ」
涙の合間に、桜子は、ようやく口を開いた。いかにも不満げな、それでも、弾んだ声。
顔を上げ、彼と視線が重なった。真っ赤な瞳や、濡れて光る唇が、なぜだか素敵に思えた。
「でも、これでもう…遅刻なんて関係なくなるよね」
いたずらげに笑った桜子に、りゅうのすけも、つられて笑顔を見せていた。

 気がつけば、外には雪が舞い出していた。
傘を持たないふたりが、駅舎の屋根から飛び出した。向かう先は、ふたりの新居。
これからの、時間の中心となる場所だ。
寒い季節はもう終わり。一足早い春が、訪れようとしていた。

(了)


(1998. 5/10 ホクトフィル)

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