小説
2002. 1/ 8




チャイナ・カフェ〜Short Story From ClassMate2〜


 付き合いだしたのは、今年がちょうど始まった、寒い季節が真っ盛りの時だった。
単純に計算しても、ふたりの時間はまだ半年にも届かない、そんな若い関係だけれども。
彼氏の機嫌が悪い時は、不思議とわかってしまうもの。なにせ、原因は自分。だから。
「りゅうのすけ君。遅刻しちゃって、本当にごめんなさい」
注文したお茶を置いたウエイトレスが、背中を向けたのが合図だった。
ちょっと甘えた声を混ぜて、桜子は、向かいに座っている彼に頭を下げた。
いかにも不満そうに唇を尖らせて、そっぽを向いていたりゅうのすけ。
だが、彼女に頭を下げられては、無視するわけにもその事で怒り続けるわけにもいかなくて。
「別にいいって。遅刻したのはしょうがないだろ」
どこか照れ臭そうにコーヒーをすすり、あきらめたように何度かうなづいた。
なぜだか知らないけれど、今日はやたらと素直な彼女。多少なりとも戸惑うものだ。
「けど、せっかくの指定席だったのに…」
「別に映画は逃げないから、また今度にすればいいぞ」
とは言ったものの、りゅうのすけは落胆の色を隠せなかった。
ようやく重なったふたりの時間。久々となる今日のデートはごくごく普通に映画鑑賞。
それも、いわゆる話題の超大作の恋愛物語、十二都市十二少女物語の予定だったのだ。
どうしても観たかったから、奮発してしかも苦労して、指定席を取ったのだけれども。
今座っているのは、たまたま立ち寄った喫茶店の自由席。指定席券はもう無効だった。
「本当にごめんね」
「もういいって。俺だって、いつも遅刻してるしな」
「…そう言われてみればそうよね」
調子にのったわけではないけれど、現実を思い出してはくすくすと笑ってしまう。
なんにしても、彼氏の機嫌はよくなったみたいで、ようやく落ち着いてお茶を飲める。
目の前に置かれたティーカップは、ハイカラという言葉がぴったしのデザインだった。
隣のティーポットはもちろんお揃い。楽しそうに手を伸ばし、ゆっくりと注いだ。
煎れたての湯気と共に、ほのかに香るのは甘い甘いりんごの匂いだった。
純白に近い白。その中の紅茶色。細い指にはちょっと大きい取っ手。口元に近づけて。
大好きなお茶の匂い。桜子は、目を細めてその香りを楽しんでいる。
「桜子って、アップルティが好きだったのか」
「…前に教えたのに、もう忘れているんだ。ひどいの」
わざといじけたふりをするけど、実のところ、彼氏に話した事はなかった。
そうだっけかぁ、と疑惑の目をするから、うそだよ、とちょっと笑ってごまかした。
それから、ようやくティーカップの縁に口をつけた。のどが、ごくっと鳴った。
「あ…おいしい!」
大きく瞳を開いて、思わずりゅうのすけにほほ笑みかけてしまう。本当に美味なのだ。
「そりゃよかったね」
「今まで飲んだ中で一番おいしいの。いいお店、見つけちゃったね」
嬉しそうに言いながら、桜子はティーカップを両手で包み込んだ。湯気に、彼が煙る。
今日、たまたま入った喫茶店だったが、入った瞬間から好感を得ていたのだ。
ベージュを基調とした店内も、多くも少なくもないお客さんも、
耳に残らないし邪魔にならないくらいの音楽もよかったし、
なにより、メニューを見た時点で驚かされた。
見た事も聞いた事もないような紅茶の葉がたくさんあったのだ。だから。
「りゅうのすけ君も、コーヒーじゃなくて紅茶を頼めばよかったのに」
幸せそうな桜子の声だったが、彼氏の険しい表情に、ちょっとしゅんとしてしまう。
なにげにまだ怒っているみたいだった。誠意が足りなかったのかしらん、と思う。
「りゅうのすけ君…まだ怒ってるでしょう」
「まぁ、ね」
「…本当にごめんなさい。今度は遅刻しないようにするから」
「だから、遅刻はもういいんだってば」
小さめのカップに、砂糖を多めに放り込みながら、彼はぶっきらぼうに言った。
「そうじゃなくてさ…なんで、具合が悪かった事を黙ってたんだよ」
「…ん」
そこを突かれると言葉がない。意図的に黙っていただけに、なおさらたちが悪い。
桜子の遅刻の原因は、朝起きてからずっと気分がすぐれなかったから、だった。
それでも無理して出てきたのだが、こういう時はついてない。駅までのバスは大混雑。
思わず途中下車してしまうほどだったし、当然ながら遅刻してしまったのだ。
待ちくたびれた彼氏に会えた時も、まだ気持ち悪かったし、顔色も青かったらしい。
今はこうやって座っていられるからか、朝から比べればはるかに体調はよかったが。
「…だって…」
「だって、じゃないだろ。朝、素直に電話してくれればよかったんだよ」
「そうしたら…デートしてくれなかったでしょう」
「そりゃそうだぞ」
「だけど、りゅうのすけ君からのお誘いだったし、どうしても見たい映画だって言ってたから…
今日はやめようなんて、言えないもん」
死ぬ思いまでしてここまで来たのだ。怒られ続ければ、桜子だって黙ってられない。
とはいえ、その姿勢は少し上目づかいに、言い訳をする子供のようだった。
「それに…久しぶりのデートだったし」
「だからって、桜子に無理させてまでデートしようとは思わないぞ」
「私は…無理してもデートしたかったんだもん」
「けどさ、そんな事で倒れて、付き合ってるのがばれたらどうするんだよ」
桜子の両親には非公認のお付き合い。知られたら、間違いなく離別が待っていた。
だから…桜子の目にも涙が浮かびはじめていた。想像が、確定のように鮮やかすぎた。
「…それでも私にとっては、そんな事、じゃないんだよ」
「俺だってそうだけど、入院なんてしたら本当にどうするんだよ」
りゅうのすけの心配はもっともだと思う。だけど…どうしても会いたかったのだ。
お互い、自由のように見えても、結局は不自由な、会いたい時に会えない関係。
彼が補習なのは仕方ないとしても、せめて、自分がごく普通に出歩ければ、と思う。
そうしたら、もっともっと会えるだろうし、いっしょにいられるはずなのだ。
けれども、そうするには時間も、身体も、環境も、すべてがあまりにも不自由だった。
だから、病室でふさぎ込んでいた頃を思い出しては、自嘲気味にもなるもの。
「…やっぱり、普通の女の子の方が…いいよね」
「なんだよ、それ」
「ちょっと歩いたり、おしゃべりしたりするだけで疲れちゃう女の子…いやだよね」
「あのな、なんでそんな事考えるんだよ。俺、そんな事を言ったか?」
「言ってないけど…」
「だいたい、普通の女の子って、どういう女の子だよ」
「だから…」
桜子は言葉に詰まった。
自分の中の普通は、それこそ、どこにでもいるような、平凡な、本当に普通の女の子。
頭の中で想像できても、それを言葉にする事はできなかった。
「それは…りゅうのすけ君の方がよく知ってるでしょう」
「どうしてだよ」
「女の子、いっぱい知ってるし…」
「なにが言いたいんだよ」
「…知らないっ!」
「自分で言っておいて、俺にあたるなよ」
「…いじめるからだもん」
少し涙目に、視線のやり場に困った桜子が見たのは外。窓際の席だから、景色は大通り。
春休みにはまだ遠いけれど、それでもぬくぬくしているような、
そんな休日だけに、出歩いている人は多かった。
本格的に無難で普通でありきたりな恋人同士も多かった。
あんな風に出歩けない、自分がなんとも悲しくて、本当になにもできなかった。
そんな、弱まった桜子をかわいく思いながら、彼氏は少しぬるまったコーヒーを飲む。
紅茶のお店とはいえ、コーヒーもなかなかのもの。だから、一息ついてから、一言。
「いいだろ、桜子が普通じゃなくたってさ」
えっ、と驚く普通でない彼女に、あごを両手で支えながらほほ笑みかける。
「桜子の身体が弱いっていうのはさ、俺にしてみれば普通の事だぞ。
大体、まだ通院だってしているんだぜ。無理させるわけにはいかないだろ」
「…りゅうのすけ君」
「それにさ、そういう事なら、桜子だって普通の男の方がよかったんじゃないのか?」
「普通の、男の子?」
きょとんとする桜子に、いかにも演技の混じったため息をみせて、窓の方に顔を向けた。
彼女の大好きな横顔を、お昼前のお日さまが、春前のにぶい光で照らしている。
少し見とれていたが、突然、彼が正面を向くから、思わずうつむいてしまう。
「そう。いっしょに歩いていても、ごちゃごちゃ言われないような、普通の男の事」
いろいろな意味で、特に悪い方の噂で近隣都市一帯に有名人のりゅうのすけである。
桜子と町を歩くだけで注目を集め、ひそひそこそこそと噂話になってしまうのだ。
時々ではあるけれど、ある種異様な視線を感じずにはいられなかった。でも。
「そんな事ないよ。私、気にしてないし…それに、ちょっとだけ嬉しいの」
桜子は顔を上げると、真顔で言い切った。それは、掛け値なしの本音だった。
彼氏が有名人だという事は納得しているし、だからこそ、りゅうのすけ、なのだ。
そこまで考えて、彼女ははっとさせられた。なんとなく、意味がわかったのだ。
「俺だって、桜子が普通じゃない事なんて、気にしてないぞ」
向かいに座る有名人は、わずかに残ったコーヒーを一気に飲むと、にやりと笑った。
それは、底に残っていた部分が甘すぎたからではなかったようだ。
「それに…ちょっとだけ嬉しいしさ」
「…嬉しいの?」
「そのおかげで出会えたわけだろ?」
確かにそうだった。桜子が入院していなければ、こんな関係にならなかっただろう。
おそらく、知り合いにすらならなかったはず。桜子も、それは考えていた事だった。
「けどさ、また入院されると困るしさ…だから、具合が悪かったら素直に言ってよ」
桜子は、じっと彼氏を見つめ続ける。優しい笑顔と嬉しい言葉に、ちょっとだけ、涙。
人差し指で、瞳を軽く拭いながら、思い出したようにうんうんとうなずいた。
「俺も、そういう時は素直に言うからさ」
「…うん」
「わかればよろしい」
長い長い前髪の下。いたずらな瞳が見え隠れして。涙の止まった桜子も、笑顔になった。
照れ隠しのように、ティーカップの、少し冷めたわずかな残りを飲み干した。
それから、まだティーポットに入っているお茶を、桜子は静かに注ぎだす。
そんな仕種を黙って見つめていたりゅうのすけ。彼女が動きを止めると、口を開いた。
「そうそう。俺、決めたんだ」
「なにを?」
「俺…医者になる」
お医者さん、と聞き返すと、彼氏はいたって真面目な顔でうなづいた。
なにせ初耳の事。おまけに突拍子もない、予想もしない宣言だけにあ然としてしまう。
「ほら、医者になれば、桜子がいつ倒れたって大丈夫だろ?」
「…私、ずっと病弱なままなの?」
「いや…そういうわけじゃないけどさ…」
桜子が、ちょっとすねたふりをするから、りゅうのすけは苦笑いをしてしまう。
「なんにしてもさ、桜子と出会ってから漠然とは思っていたんだ」
高校を卒業してからなにをするか、したいか。結局は、課題として残ったままだった。
けれど、身近な人が看護婦を目指し、桜子の事を考えていると、結論が出た。
桜子みたいな人を助けたい、というよりも、桜子の事を守りたい、という理由だった。
そんな理由でいいものか、考えもしたけれど、自分の中の桜子は大きかったのだ。
知り合った直後にあった、彼女が消えたと誤解した時の、涙の痛みはもういやだった。
相談した担任には、成績を理由に反対されたけれど、やる気を見せて説得した。
「でも、お医者さんになるのって大変なんでしょう?」
「そりゃそうだけどさ。俺、死ぬ気でがんばるからさ」
言いながら、胸元で作ったのは握りこぶしだった。
そんな彼の仕種が妙におかしくて、思わず吹き出してしまった。
先ほどとは別の意味で涙ぐんでしまう。
「…なんで笑うんだ?」
「別になんでもないけど…りゅうのすけ君なら、きっとなれると思うな」
「思うじゃなくて、絶対になるぞ」
自分自身に言い聞かせるような、そんな口調だけれども、口元はやたらと真剣だった。
だから、見とれてしまう。素敵だな、と自然と思う。なんだかんだと格好いい彼氏だ。
ただ、そう思っている事を悟られたくなくて、彼の背中の絵を見ながら口を開いた。
「あ…でも、ちょっとやだな」
「なんでぇ」
「…女の子に、エッチな事ばっかりしそうなんだもん」
なにせ、桜子と付き合う前は、そういう噂にまみれていたらしい彼。半分本気の冗談だ。
「先生にも、同じ事を言われたけど…俺って、そんな男に見えるか?」
桜子が、何度も何度もうなづくものだから、彼氏はやらたと怖い視線を送ってくる。
「でも大丈夫。私がね、ずっとりゅうのすけ君のそばにいるから」
「どうしてだ?」
まじまじと見つめる彼氏。だから、まつげを伏せて、ちょっと小声で告白した。
「あのね…私、看護婦さんになりたいなって思ってるの」
「そうなの?」
うん、と小さくうなづきながら、細い指がティーカップの縁をなぞりはじめた。
入院中は気がつかなかったけれど、看護婦というお仕事がどういう事か、
なんとなくわかったような気がしたのだ。
そして、自分もそうなりたい、と憧れるようになった。
もちろん、その前に高校があるけれど…なぜだか、焦りのようなものはなかった。
「そうだよな。桜子には天職かもしれないしな」
「…そういう言い方、するんだ」
「だって、そうしたらやっぱりあれを着るんだろ?」
「…ばか」
彼氏の視線が急にいやらしくなるものだから、わずかに身をよじり、ちょこっとにらむ。
とはいえ、あの制服にも憧れていたのだから、あまり強くは反撃できないのだが。
「でも…がんばろうね。いっしょにお仕事できるように」
「ああ」

 「…さてと、そろそろ行こうか」
桜子がお茶を飲み終えたから、りゅうのすけはさりげなく切り出した。
なんだかんだと時間はつぶれて、町を歩くには悪くない感じだった。
「どこに行くの?」
「そうだなぁ…お医者さんごっこってのはどうだ?」
「もぉ…」
「真面目にさ、身体の方は大丈夫なの?」
「うん、なんだか元気になってきちゃった」
自分でも不思議なものだと思うけれど、朝のふらふらがうそみたいに元気なのだ。
りゅうのすけ君がいっしょからなのかもね、とひとりでくすくすと笑い出す。
「でもね…もう少し、ここでおしゃべりしたいな。それから、公園でも行こうよ」
「ま、たまにはそんなデートも悪くないか」
言いながら、りゅうのすけは手を上げて、ウエイトレスを呼んだ。
桜子が、次は紅茶にしようよ、と笑う。彼氏は、あえて無視するふりをした。
ふたりきりのおしゃべりは、まだまだ止まりそうになかった。

(了)


(1998. 8/23 ホクトフィル)

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