小説
2002. 1/ 8




音のない言葉〜Short Story from ClassMate2〜


 こんな時間の住宅街は、不気味なくらいに静まりかえっていて。
それほど明るくない街灯が、ぽつりぽつりと並んでいるだけでは、道も暗くて。
だから、桜子は、転ばない程度の早歩きで、ここを通り抜けていく。
暗い道はやはり怖い。厚着の季節とはいえ、変質者だっているかもしれない。
「最近、そういうの流行ってるらしいから気をつけろよ」
この前、そんな事を恋人に言われた。いやな流行だと思ったが、用心はした方がいい。
でもそれも、次の十字路までだった。
その角を左に曲がれば、少しだけ幅の広い、街灯の多い道に出るし。
目的のお店の光だって、ここから見える。
それは、近所で唯一のコンビニエンスストアだった。
店内から漏れる明かりはまぶしかった。青白く、鈍く輝く看板は、どこか不気味だった。
静かすぎる住宅街の中の終夜営業は、どことなく、雰囲気が浮いている。
…あいてるといいな。
一息ついてから、桜子は、明るさに引かれるように歩き出す。
別に、お店自体に用事があるわけではない。
夜更かしの、時間つぶしの立ち読みや、夜食を買いに来たわけではなくて。
用があるのは、入り口の外に置かれている、ひとつだけある緑色の公衆電話だった。
この時間。だいたいは、桜子の希望どおりなのだけど。
「あっ…」
少し離れた場所で、桜子はため息をついた。
先客の影が、光の中に浮かび上がっていた。

 外のガードレールに寄りかかって、先客の背中を見つめていた。
桜子の恋人と同い年くらいで、同じ背丈くらいで、黒いセーターを着た男の子。
薄着なのは、たぶん、家が近所なのだろう。さすがに寒いのか、少し震えていた。
「夜半から雪が降るかもしれません。暖かくしてお休みください。では」
夕方の天気予報。笑顔の素敵なお姉さんは、さらりとそう言っていたけれど。
なるほど、空気はとても冷たい。痛いくらいに冷たい。
この前、同じような時間に、同じように電話をしに来た時と、同じような格好なのに。
それなのに、身体はとっくに冷えきっていた。雪のように白い肌は、透き通っていた。
おまけに、北風が強かった。
かなり伸びた栗毛が、風に激しくなびくから、桜子はコートのフードをかぶった。
…もっと、厚着してくればよかった…
不満そうに頬を膨らましても、寒さばかりはどうしようもない。
身体を小さく丸めて、両手はポケットの中に突っ込んで。それでも、寒いけれど。
暖かそうな店内も、カウンターの店員さんが、なんとなく怖くて入りにくかった。
用事があるわけでもなければ、ただ、暖を取るために入るのは、気が引けてしまった。
もともと、この空間は好きではなかった。
…まだ、終わらないのかな。
思いながら、くしゃみをひとつ。恥ずかしそうに鼻をすすって、丸めた指でこする。
先客もまた、受話器を顔からずらして、大きなくしゃみをした。
かなり寒いはずなのに、男の子は、背中を丸めて電話を続けている。
…相手は彼女なのかな。
もしかしたら、自分と同じ境遇なのかもしれない。
家から電話をかけられなくて、たまにしか電話できなくて、これが久しぶりの電話で。
なら、長くなっても仕方ない。
それはそれで納得はできるけど、やっぱり、いらいらともしてしまう。
落とした視線は、でこぼことしたコンクリート。ため息が、こぼれた。
「りゅうのすけ君…」
ぽつりと、恋人の名前をつぶやくけれど、北風が、すぐに吹き飛ばす。
最後に顔を見たのは、半月も前のことだった。
毎日、学校で補習を受けている彼氏。病み上がりで、外出もままならない彼女。
お互いの時間を重ねることは、なかなかに難しいことだった。
それでなくとも、桜子の両親には秘密の付き合いだから、電話すらも不自由で。
両親が寝た頃に、こっそりと家を抜け出て、厳しい寒さの中、コンビニまで来て。
こうやって、先客のお話が終わるのを待つ。
もちろん、本当は会いたいけれども。
できれば、毎日、声だけでも聞きたいけれども。
今は、連絡がとれるだけでもいい、と、考えるようにはしていたけど。
最後の電話は、先週の頭まで、さかのぼれてしまうのだから。
やはり、寂しかった。
ふと、空を見上げる。
深い海色。月こそいないけれど、ぽつぽつと、星が見えて。雲なんて、どこにもなくて。
天気予報のお姉さんは、明日、どんな顔をするのかと、そんな事を考えた。
「雪なんて降るのかな」
「降るよ、たぶん」
独り言に返事がくるなんて、予想ができるはずもなくて。
息が止まるくらいに驚いて、それから、声のした方向に顔を向けた。
寒そうに、両手で身体を抱え込んでいる男の子が、すまなそうな表情で、そこにいた。
「電話、終わったから。長くなって、ごめんな」
「…ううん」
やっぱり、そうだったんだと直感した。だから、自然と笑みがもれた。

 少し身体をかがめて、お店の中の時計をのぞき見た。
長針があと半周も回れば、日付が変わってしまうような、そんな時間になっていた。
…大丈夫かな。
ポケットの中のテレホンカードを、ポケットの中で遊びながら。
かけていいものかどうか、ここまで来て悩んでしまう。
「夜中なら、俺が取るから大丈夫だぞ」
笑いながら、恋人はそう言ってくれたけれども。
恋人が寝てしまっていて、家の人を起こしてしまった事が何回かあった。
それなのに、優しく対応してくれるから、本当に悪いことをしたなと感じてしまう。
それに、補習が終わるまで電話はしないと、恋人と約束していた。
卒業がかかっているだけに、じゃまはしたくなかったし、気を使わせたくもなかった。
「無理すんなよ。どうせ我慢できなくなるんだから」
そんなことも言われていたから、我慢しきれずにかけるのは、悔しくもあった。
桜子は、いかにも冷たそうな緑色を、しばらく見つめて悩んでから。
…りゅうのすけ君、ごめんね。
受話器に手が伸びていた。ポケットのテレホンカードは、電話に飲まれていた。
鈍く光る赤い数字は、右端だけだった。残りは、ほんのわずかしかない。
うる覚えの電話番号を、人差し指で、ひとつひとつ、ていねいに押していく。
そのたびに、受話器から、違う音色が流れてくる。
…出てこなければ、すぐに切れば大丈夫だよね。りゅうのすけ君、起きてるよね。
もちろん、自分自身への言い訳でしかないけれど、桜子には、それで十分だった。
「りゅうのすけ君…」
すべて押し終えると、恋人の名前をつぶやいていた。すぐに出てきますように…
つるるるる、つるるるる、つるるるる、つるるるる。
ベルが鳴るたびに、頭の中で数えていく。受話器を置くタイミングばかりを考えていた。
つるるるる、つるるるる、つるるるる、つるるるる。
もう切らないと、と思った瞬間。突然、ベルの音が止まった。
明らかに、つながっていた。だから、桜子は少し慌てて口を開いた。
「あ、あの…夜分遅くすみません。杉本と申しますが…」
言いながら、誰が電話を取ったのか、そればかりが気になっていた。
本人なのか、家の人なのか。できれば、本人であってほしいけれども。
しかし、なかなか返事がなかった。
「もしもし…あの…」
「…ん?」
「あ、りゅうのすけ君?」
「…桜子、か?」
かなり遅れてきた声は、間違いなく、恋人の声だった。
とりあえず、ほっとはしたけれど、明らかに寝起きの、不機嫌そうな声だから。
「う、うん。私だけど…もしかして、起こしちゃった?」
「いや…起きてたから大丈夫だぞ」
うそだって、すぐにわかった。
今ごろ、胸のあたりをぼりぼりってかいてるはず。恋人の、寝起きのくせだった。
やっぱり電話しなかったほうがよかったかも、と、桜子は少し後悔した。
そんな気持ちが、声にも出る。
「起こしちゃってごめんなさい。迷惑だったら切るけど」
「…だから寝てないってば。真面目に勉強してたんだからさ」
一瞬、間をおいてから、桜子は思わず吹き出してしまった。
そんなところが、いかにも彼らしくて、それがなんだか嬉しくて。
ごめんねと、ありがとうと、そんなことを思いながら。
「どうしてそこで笑うんだよ」
「だって…なんでもないです」
桜子が、くすくすと笑うと、電話口の向こうも、釣られて笑い出した。

「…なんだよ」
「うん。りゅうのすけ君の声、久しぶりだなって。元気だった?」
「ぼちぼち、ってとこかな。桜子は大丈夫なのか?」
「うん、すごく元気。ところで…ごめんなさい。電話しちゃって」
「なにが」
「補習が終わるまで電話しない、って約束したのに」
「絶対に無理だってわかってたからな。別に気にしてないぞ」
「…それってなんか悔しい」
「でも、俺としては、桜子の声が聞けて嬉しいんだけどさ」
「本当に?」
「ああ、本当だぞ」
「…そうなんだ。私のことなんて忘れてるのかと思ってた」
「ひどいなぁ。俺は、ずっと桜子のことばかり考えていたんだぞ」
「そうなんだ。ところで、補習の方はどうなの?」
「だからさ…」
「なに?」
「…いや、なんでもない。出すものは出したし、あとはテスト次第ってとこかな」
「あまり無理しないでね。どっちでも大丈夫だから」
「どっちってなんだよ。だいたい、俺が留年するとでも思ってるのかよ」
「うんっ」
「嬉しそうに言うな。俺は真面目なんだからな」
「でも、留年したら、いっしょに学校に行けるんだよ。素敵でしょ?」
「高校はもういいぞ。こうなったら、意地でも卒業してやるからな」
「それはそれで応援するね」
「…ところで、桜子の方はどうなんだよ。身体の方は大丈夫なのか」
「どんどんよくなってるんだって。学校が始まる頃には、通院もなくなりそうなの」
「そっか。そりゃよかった」
「うん。りゅうのすけ君のおかげ」
「桜子が努力したからだろ」
「ううん…りゅうのすけ君がいてくれなかったら、今も入院してたと思う」
「そんな事ないぞ」
「りゅうのすけ君に出会えなかったら、絶対に退院してなかったもん」
「桜子って、けっこう頑固だよな」
「おじいちゃんみたいに言わないで」
「なんだよ、それ」
「うちのおじいちゃん、頑固だったんだって」
「ふーん」
「そうそう。八十八学園の制服、今日、届いたの」
「へー。どうだった。似合ってたか」
「それがね…まだ、着てないの」
「えっ、なんで。桜子、すごく楽しみにしてただろ」
「うん。でもね…」
「ははぁ、さてはサイズがあわなかったな。スカートがきつかったとか」
「ち、違いますっ」
「でもさ、まだ着てないんだから、わかんないだろ」
「…いじめっこ」
「冗談だぞ。悪かった」
「りゅうのすけ君に、一番に見てもらいたかったから…だから、着てないの」
「そっか」
「そうだよ。お母さんなんて、なんで着ないの、って、ずっと聞いてくるし…」
「そりゃ光栄だな。でもさ、絶対に似合ってると思うぜ」
「着てみないとわからないと思うけど」
「大丈夫、保証するぜ。俺さまの目を信じてもらいたいな」
「…少しだけ、信じてみる」
「少しだけ、ね」
「追試、来週だったよね」
「ああ」
「じゃあ、そのあとにデートしようね。りゅうのすけ君は、詰め襟で」
「なんでだよ」
「一度ね、制服でデートしてみたかったの」
「意外とマニアックだな、桜子って」
「だって…そういうのに、ずっとずっと憧れてたんだもん」
「制服デートか」
「それだけじゃなくて…普通のお付き合いみたいなの」
「そりゃ無理だ」
「どうして」
「俺が普通じゃないから」
「ぷっ」
「笑うなよ」
「でも、私も普通じゃないもの。十八歳の高校一年生だし」
「どうやっても無理じゃん」
「そうだけど…憧れだから」
「ま、制服くらい、いくらでも着てやるぜ。夏じゃなけりゃな」
「ありがとう。じゃあ、約束だからね」
「…ところでさ」
「なぁに」
「やっぱり…寂しいか」
「りゅうのすけ君は…どうなの」
「なんていうか…すごく心配でさ。身体の事もあるけど…なんか、な」
「私は…また、会えなくなっちゃいそうで…少し、怖い」
「ごめんな。時間、作れなくて」
「あ…でも、そう思ってくれてるだけで、十分だから」
「けど、よくないよな。やっぱり、きちんとしないとだめだよな」
「えっ?」
「俺、卒業できたら、桜子の両親に会いに行くぞ」
「だけど、そんな事したら…」
「大丈夫。やっぱり、付き合ってる事、許してもらった方がいいしさ」
「…りゅうのすけ君…」
「桜子、今、外からだろ」
「…うん」
「こんな時間に外で電話なんてしてるなんて…俺が心配だしさ」
「大丈夫だよ。ちゃんと、明るい所で…」
「だーめ。それでなくても、桜子はかわいいんだから…あぶなっかしくてさ」
「…でも、お母さんたち、許してくれなかったら…」
「何度でも行くよ。今までの俺が悪かったわけだし、それくらい、なんともないぞ」
「…ありがとう、りゅうのすけ君」
「だから、卒業できるように応援してくれよな」
「うんっ!! あっ…あのね…」
「…聞こえてるぞ。カード、もうないんだろ」
「うん…ちょっとしか残ってなかったから…」
「なぁ、桜子」
「なに?」
「明日の夕方、空いてるか」
「えっ」
「いつもの場所にさ、いつもの時間に。補習が終わったら、飛んでくからさ」
「りゅうのすけ君…」
「忙しいか」
「う、ううん。絶対に行くから。あ…制服着て、行くからね」
「楽しみにしてるぞ」
「りゅうのすけ君も制服だからね。それじゃあ…あ、あのね、りゅうのすけ君」
「ん」
「…大好き」
「俺も」
「それじゃあ…また明日、りゅうのすけ君」
「帰り、気をつけろよ。変な奴、多いんだからさ」
「うん、わかってる。走って帰るから大丈夫」
「その方が心配だな。桜子、すぐ転ぶし」
「…そんな事ないもん」
「本当に気をつけろよ。なんかあったら、すぐに叫べよ」
「うん、ありがとう。じゃあ…おやすみなさい」
「おやすみ、桜子」

 桜子は、名残惜しそうに受話器を下ろそうとした。その瞬間。
「…えっ?」
目の前を、なにかがふらふらと落ちていった。それは、すぐにはわからなかったけど。
ようやく気がついて、思い出したように空を見上げて、慌てて受話器を持ち直した。
嫌な音が耳に戻る。まだ切れてはいなかった。赤い数字は、棒が立っているだけだった。
「あっ、りゅうのすけ君っ」
「な、なに」
「あ、うん。えっと…窓の外、見てね。それじゃあ、おやすみなさいっ」
がんばって、早口で言ってみたけど、たぶん、最後までは届かなかった。
数字に正確な機械は、赤が丸くなった途端に、会話をとぎれさせてしまったから。
それでも、確信していた。
寒がりな彼は、今ごろカーテンを開けて、まじかよ、って顔をしているはずだ。
もしかしたら、身体をぶるっと震わせたかもしれない。
そんな様子を想像しては、桜子はくすくすと笑ってしまう。
むなしい音を鳴らし続ける受話器を置いて、使えないテレホンカードをしまって。
それから。
桜子は、手を広げながら顔を上げた。フードがするりとすべり落ちた。
雪、だった。
天気予報のお姉さんや、さっきの男の子の言うとおり、白いものが降り始めてきた。
街灯や、お店の光に照らされながら、黒い中からゆっくりと、数限りなく下りてくる。
そして、コンクリートにくっついては、次の仲間が来るのを、じっと待っていた。
「…あの時みたいだね」
桜子は右手を伸ばした。大きな粒が、そこに乗っては消えていく。
今、同じものを見ている人は、同じ事を考えているはずだ。同じ想いでいてくれるはずだ。
約束、やぶっちゃったけど。そんなに長く話せなかったけど。迷惑、かけちゃったけど。
この瞬間、この場所にいられてよかったと、伝えられてよかったと、桜子は心から思った。
頬が紅潮していたのは、寒さのせいばかりではない。
だんだんと、雪の量は増えてくる。この様子だと、明日の朝には真っ白になるだろう。
玄関も、前の道も、お隣の犬小屋も、いつものお店も、一色に染まってしまうのだろう。
だから。
「明日は雪のデートだね、りゅうのすけ君っ」
さも楽しそうに、桜子はつぶやいた。

 雪は、桜子が寝つく頃も降り続いていた。

(了)


(1999. 8/15 ホクトフィル)

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