小説
2002. 6/23




いつだってサヨナラ


期待なんて、してなかったけど。
一応、捜してみることにしたわけ。
突然の雨で、駅は、人でごったがえしていた。
それでなくても狭い改札。むしむしっとして、暑苦しい。
とりあえず、その中を、かき分けるようにして捜してみる。
みんな、家に帰る時間。あたしも、そんなひとり。
傘を広げる人。途方に暮れる人。傘を待つ人。車に乗る人。走り出す人。
これだけ人がいるっていうのに、あたしが捜す人はいやしない。
そりゃ、期待はしてなかったけど、さ。
ちょっとがっかり。
もし、傘を持って待っててくれたら、素直に褒めてあげるつもりだったのに。
だいたいさ、どうせ家にいるんでしょ?
つまらなそうにテレビでもみて、おならでもしてんでしょ?
だったら、このあたしを迎えに来てくれたっていいじゃない。
なんのために、いっしょに住んでると思ってるの?
だいたい、あたしが濡れてもいいってわけ?
びしょびしょになってかぜひいても、いいってわけ?
ちゃんと看病してくれんの?
イヤでしょ?
だって、あたしがイヤなんだもん。寝込むのなんて。
だから、迎えに来なさいよ。傘、ひとつだけでいいから。
そしたら、また、うまくいくようなると…思うのに。
「ヒロ…」
って、気がついたら、下なんて向いてる。
指をくわえて立っている、小学生があたしを見てる。
ダメダメダメ!! こんな姿は誰にも見せないのっ!!
だから、顔を上げた。
まだ、夕方だってのに、空は真っ黒だった。
そこから降ってくるのは、えらく勢いの強い、激しい雨で。
音からして、普通のにわか雨じゃない、って感じがする。
そこに、時々、雷が落ちる。
ごろごろごろーん、って。
ぴかぴかぴか、って。
すると、きゃっ、なんて、悲鳴がするからかわいいものだ。
あたし、けっこう平気なタイプ。
なにげに、今、これぞ雷っ!! みたいな光が見えちゃって、感動しちゃったくらいだし。
ナマ雷か。
自慢になるのかな?
ちょっと電話しとこうかしら。
…バカみたい。
ま、それはいいとして。
さて、どうしよう。
待つか、電話してみるか、帰るか。
うん。
どうしようなんだけど、実は、あんまり迷わなかった。
隣にいた、OL風の女の子が、ヴィトンのバッグを頭にかざして走り出したのだ。
しかも、薄手のブラウスって…濡れたら透け透けになるってのに。
おまけにヒールだなんて。あれで走ったら、絶対に転んじゃいそう。
お化粧だって、落ちるわよ。
その点。あたしは雨に強い。
いや、まぁ。OLさんに比べたら、いつだって強いんだけど。
今日は特に最強の布陣だし。
唯一の心配は、バッグの中の携帯だけど…たしか、あれって、防水になってたはずだし。
だから、シャワーの中に飛び込んだ。
どうせ、家まで近いんだから。

びしゃびしゃ、ばしゃばしゃ。
道路なんだか川なんだか、よくわからない場所を、あたしは走る。
大きくない商店街を抜けていく、いつもの帰り道。
ちょっと枯れちゃった感じで、けっこうお気に入りなんだけど。
穴場のお惣菜屋さんとか、なぜかおまけしてくれる酒屋さんとか。いい人ばっかり。
でも、さすがにこんな天気だと、まったく別の世界みたいだった。
にぎやかなはずの時間なのに、外に出ているのは、あたしと車くらい。
だいたい、道の向かいのお店が煙って見えないんだから。
街灯だって、情けなく光ってるだけで、暗いったらありゃしない。
夜中にコンビニに行く時だって、ここまで暗くはないのに。
雨の向こう。鈍い光が、じわじわっと近づいてくる。
ちんたらっとすれ違う、真っ青なミニ。
視界が悪いから、車もスピードを出せないみたい。
中にいるのは、男と女。
なんか、触りっこしてる。妬けちゃうくらいに、楽しそうに。
…ねぇ。
贅沢に、車で迎えに来て、なんていわないけど。
どうせ持ってないんだし。
でも、もし、傘を持ったヒロとすれ違えたら。
けんかになるようなことは、絶対に言わないようにして。
「迎えに来てくれたんだ。ありがとー」
って、大げさすぎるぐらいに、喜んでやろうじゃないのよ。
抱きついてあげちゃってもいいわよ、本当に。
家に帰ったら、なんだってしてあげちゃう。
ここんとこ、ずっとなんにもしてなかったし。
本当に、なにもなかったし…
びしゃびしゃ、ばしゃばしゃ。
強い雨。強すぎるってば。あたしが帰る時くらい、弱くしなさいよ!!
ほら、この前買ったばかりのサンダルが、なんだかぐちゅぐちゅいってるし。
足っていうか、指っていうか、そこらへんが冷たくてしょうがないし。
シャツもキャミもびしょびしょで、これ以上ないくらいに気持ち悪いし。
「…もぉ!!」
なんだかバカらしくなって、走るのをやめちゃった。
ここまで濡れると、走って帰る意味なんてないわよ。
どうせ、家まであとちょっとだし。
あの、たばこ屋の角を曲がって、狭い路地をすいすいって歩けば、すぐそこなんだし。
それに…迎えに来てくれるかもしれないし。
期待、してんだから。あたしは。

迎えよりも早く、我が家が見えてきた。
ぼろっちい、2階建ての安アパート。アポロハイツ、205号室。
こんなに激しい雨だと、雨漏りの心配をついついしちゃうような、そんなアパート。
でもね、それでも、あたしの家だし、あいつの家だし。
今のあたしの帰る場所。いまさら実家になんて帰れますか。
ごろろろろろろぉぉぉぉぉーーん!!
すっごい大きな音がして、さすがに、あたしも肩をすくめちゃった。
雷、近づいてきてるのかしら。
怖くないけど、丸焼きだけはごめんだから。
そんなの、美しくないし。あたしにはふさわしくないじゃない。
ぴかぴかっ!! ぴっかぴかぴかぴかっ!!
「きゃっ!!」
走る、走る、走って、階段も駆け上がる。かんかんかん、って、音が響く。
けど、気をつけて、ゆっくりと。
雨の日は、特にすべりやすいんだ、この階段。わかってても、時々、こけるし。
あいつなんて、上から下まで、一瞬にして滑り下りてたし。あざ、消えたかな…
それから、狭い廊下を慎重に走った。
真正面が、205号室。あたしたちの部屋。
いかにもな、木目の扉。その右側の小さい窓は、ちょうど、台所にあたる場所なんだけど。
あれ?
真っ暗だ。電気がついてない。
ヒロ、出かけたのかな?
それとも、まだ寝てるの?
あたしが出かける時、背中向けて、ぐーぐーいびきかいてたけどさ。
とりあえず、あたし、ノブに手をかけた。
雨に濡れてびしょびしょで、すごく冷たい。
ぐるるるるるる、なんて、消化不良みたいな音をたてて、空が鳴いていた。

鍵は、かかってなかった。
で、真っ暗って。
出かけてんな、こりゃ。
それにしても…あいつ、やっぱりケンカ売ってんだわ。
あたしがどんだけ言ったって、絶対に鍵をかけ忘れるんだから。
よっぽどいい根性してんのよね!!
「鍵かけろって、何度言ったらわかんのよ!! 泥棒が入ったらどーすんのよ!!」
「盗られるものなんてねーだろ!!」
冗談言わないでよ!!
あたしの服は、安くないんだからね!!
最近は、そうでもないけどさ。
ったく…帰ってきたら、文句を言ってやる!!
ちょっとは気をつけてよね、くらいで。
強気になんて言えないし。けんか、買いたくないし。売りたくもないし。
これ以上、こじらせたく、ないし…
ごろろろろろろーん!!
頭の上で鳴ってるんじゃないかって、それくらい音が大きい。
慌てて扉を開ける。立て付けが悪くて、扉が、ぎーこぎーこと鳴く。
ぴかかかかかっ!!
「…ただいまーっ」
暗闇に向かって、あたしは声を出す。
返事はなし。
さみしいもんだけど、言わないと言わないで、もっとさみしい。
ぱたんと、扉を閉めて、バッグを放り投げる。
どすん、って…そっか、携帯、入れてたんだっけ。
…ま、いいや。
だって、身体の方が大切だし。
シャツもキャミもスカートもサンダルも、あたしだって。
もー、びっしょびしょ。濡れ濡れ。
今、初めて気がついたけど、身体がすっごく冷えてる。
なにげに、肌寒いくらいだし。
これ、早く身体を暖めないと、かぜ、ひいちゃうな。
ぼたぼたと、水滴が垂れる垂れる。お風呂上がりみたいに、髪から滴り落ちる。
なんか、犬みたいに、ぷるぷるってやりたくなった。
でも、じっとがまん。
部屋、濡らしたくないし。
とりあえず、手で、適当に水を切って。サンダルを脱いで。
このまま、お風呂場に飛び込もう。
幸い、すぐ左の扉がお風呂場だから。
そんなに、部屋を濡らさなくてすむ。
ごろんごろんごろろろろん!!
ぴかっぴかっぴかかかかっ!!
窓ガラスが、かたかたって鳴る。いっせいに光る。
それで、思い出した。
電気、つけてないじゃん。
あたしは、玄関の横にあるスイッチを、全部、入れた。

誰もいないのかと思ったけど…なんだ、いるんじゃない。
一番奥に置いた、こんなアパートには不釣合いな、少し大きなベッドの上。
ヒロが、あたしを見てる。
相変わらずのポーカーフェイスで。
帰ってきたのか、みたいな顔で。
それから…あかりもあたしを見てた。
なんだか、複雑な表情をして、ヒロの腕の中で。
風が、かたかたって窓を鳴らす。雨が、びしばしって叩きつける。
いや、いるんだけど…
きょとんとしちゃって、なにがなんだかわからなくなって。
鼓動が早くなってくる。胸が、きゅうぅって、締めつけられる。
なんで、ヒロと…あかりがいるの?
なんで?
なんで…裸、なの?
ベッドで?
ふたりで?
なに、してんの?
ヒロ、出かけてたんじゃないの?
なんで?
なんで…
「…志保」
あかりに名前を呼ばれて、あたし、急に目が覚めた。
急に、冷静になった。
ベッドの前には、シャツやらパンツやら、乱雑に脱ぎ捨てたままになっていて。
ヒロは裸で。
あかりは裸で。
腰まで、シーツをかけて。
その中の、見えない手と手は、しっかりと握ってるみたいで。
言い訳も、説明も必要のない、あまりにもわかりやすい状況で。
つまりは、いたしてる最中、だったわけだ。
そりゃ、電気はつけないわけだ。迎えになんて、絶対にこないわけだ。
あたしのことなんて、これっぽっちも考えてなかったわけだ。
さもなきゃ…この家で、できるわけがないじゃん。
ヒロとあかり。
ベッドの上。
裸。
何度も何度もまばたきして、けど、やっぱり、見えるものは同じ。
見たことのない、見覚えのある場面。
いつか、って思ってたけど…
息苦しくなって。マラソンのあとみたいにぜいぜいして。
だから、あたし、笑顔を作った。
友達に、冷たい顔、できないし。
「あ、いらっしゃい」
「…え、あっ、あのっ…」
「いいよ、続けてて」
「…志保っ!! あ、あのね…あの、これ…」
「でも、あたし、出てくつもりないからね。ここ、あたしの部屋なんだから」
「志保、聞いて!! そうじゃなくてね、あの…これ、私が…」
「聞きたくないわよっ!!」
びっく、と、あかりの身体が跳ねた。
けど、にらんだのは、あかりじゃない。ぼけっと、間抜け面をしてる方。
なんだよ、って顔してる。邪魔するなよ、って。
なによ、それ。
冗談じゃないわよ!!
あたしが雨に濡れてる間に、なにしてんのよっ!!
あたしを迎えにもこないで、なにいちゃいちゃしてんのよっ!!
だいたい、そのベッド、あたしとあんたの寝床でしょ?
それなのに、どうして他の女が寝てるわけ?
それも…どうしてあかりなのよっ!!
よりによって…わかってるけど、でも…なんで…
けど、それは言葉にしなかった。できなかった。
唇をぎゅってかんで。
鼻をすすりたいのをがまんして。
無理矢理、自分を押さえ込んで。
あたしの顔、見られたくなかった。
ヒロの顔もあかりの顔も、見てられなかった。
だから、つば、ごくって飲んで。
「…続けなさいよ」
「…志保…ねぇ、話を聞いて。浩之ちゃんは悪くないの、私がね…」
「中途半端じゃあかりに悪いでしょ…ほら、続けなさいよ、ヒロっ!!」
精一杯に叫んだ。なのに、声が枯れちゃって、情けなかった。
やっぱり、なにがなんだかわかんない。わかりたく…ないよ…
あたし、下を向いたまま、お風呂場へと向かう。
部屋が濡れたって、もう、かまわない。
手探りで電気をつけて、扉を開ける。
すごく、かび臭い。
お風呂の掃除だけは、ヒロがするはずじゃないよ。
ちゃんと、掃除、しなさいよ…
「志保…浩之ちゃん? えっ? ちょ…ダメだよっ!! お願い、やめて、浩之ちゃんっ!!」
言われたとおり、ヒロ、続きをしだしたみたい。
乱暴に、お風呂場の扉を閉めた。
うそでしょ。冗談でしょ。
こんなの、ありえるわけ、ないじゃない。
夢よ、夢。
よくある、変な夢みたいなものでしょ?
だから、さっさとしちゃえばいいんだ。
いつものように、さっさとイッちゃえばいいじゃないよ。
あたしが、シャワーを浴び終わるまでにね…

脱ぐのももどかしいって、こんな感じなんだって、初めて知って。
全部、そのまま洗濯機にほおりこんだ。
適当に洗剤を入れて、適当にボタンを押して、ぐーん、って回り出して。
で、思ったんだけど。
あのスカートなんだけど。
別にしないとまずくなかった?
全部、紫色に染まっちゃわない?
でも…どうでもいいじゃない。
キャミ、お気に入りだったけどさ。
浴槽に入る。
きゅっきゅって、蛇口をひねって、お湯を出す。
熱い熱いシャワーを、勢いよく出して、頭から浴びる。
すっごく冷えてたんだ。
じわじわって、全身に、血が回りはじめてるのがわかる。
雨とは違って、あったかいお湯。すごく、あったかい。
ざああああ、って。
雨みたいな音。けど、雨じゃない。雨じゃないけどさ…
なんで、バカ正直に続けるわけ?
今度こそ、迎えにくるってもんじゃないの?
ベッドを下りたら、すぐにここに着くってのに。
着替えなくたって、裸のままでいいのに。
傘だっていらないのに。
あたし、いつまで待たせるつもりなの?
こんなに濡れちゃってるじゃないよ。
こんなに冷えちゃってるじゃないよ。
もしかして、途中なのが嫌なの?
続き、してもいいから。拒まないから。
前に、そういうのしたじゃないよ。
力ずくでさ。
あのあと、すごくケンカして…
けど、そういうの…今なら、全部、洗い落とせるじゃないよ。
シャワーで、全部、流しちゃえるじゃないのよ。
もぉ、早く…来なさいよ。バカっ…
らしくないため息なんてついちゃって。
顔を上げたら、あたしと目が合った。
曇ってて、よく見えないあたし。
だけど、目が赤いのはわかった。
顔色が悪いのもわかった。
大丈夫なの?
どうしてこんなに顔色が悪いの?
両手で頬をこする。ごしごしごしってこする。
まだ、血行が悪いのかな?
足が、がたがたって震えてる。
身体が、ぶるぶるって震えてる。
シャワーは熱いのに、なんで、こんなになってるの?
あたしがあたしを見た。
前髪がぺたって、おでこに張りついてる。
情けない顔してる。負けた顔…してる。
震えが止まらない。
もう、立ってられない。
力、抜けちゃって、そのまま、ぺたって座り込んだ。
わかってた。わかってた。ずっとずっと、わかってたけど…
容赦なく、シャワーは降り続いて。
これ、本当にお湯なの?
すごく寒いじゃない。
すごく冷たいじゃない。
すごく…痛いじゃない。叩きつけて…痛いよ。
なんか出てくる。
あたしの目から、暖ったかいのが出てきてる。
じわっと、溢れて。
ぽろぽろって、落ちて。
雨といっしょに、流れていって。
冗談、やめてよっ…
頭をぶるぶるって振った。
そんなの、あたしが流すもんじゃないじゃないよ!!
どうして、あたしが泣かなくちゃいけないのよ!!
けど、あたしは濡れたまま。冷えたまま。
蛇口をもっともっともっと、力一杯にひねった。
本当に…かぜ、ひいちゃうわよ…

どれくらい入ってたんだろ。
ふらふらしながら浴槽を出て、干してあるバスタオルを手にして。
だらだらと、身体を拭いた。
湯気、出てる。
あったまってる。
シャワーでのぼせちゃうくらいに、ずっと浴びてたから。
身体中が、どくどくって、脈、うっちゃうくらいに。
頭をぷるぷるって振って、ごしごしって、乱暴に、髪の水気を取った。
ひと息、ついて。
洗面台。
あたしがいた。無表情のあたし。ぼさぼさのあたし。
隠すように手をつける。
曇った鏡。
冷たい鏡。
けど、本当に冷たいの、これ?
あたし、冷たい、って感じてるの?
感覚、ないよ、なんか。
わけ、わかんないよ。
やっぱり、夢なんでしょ?
絶対に、夢なんでしょ?
けど、夢なら、着替えぐらい用意しようよ、あたし。
まぁ、玄関から直できたんだから、それ、当たり前なんだけど。
耳を澄ます。
「…そこ、あ…んっ…はぁっ、ひろぉ、ゆきちゃぁん…」
切なそうな声が、くぐもって聞こえる。
まだ、終わってなかったんだ。
夢…じゃないのかな。やっぱり。
それにしたって、あたしの時なんて、嘗めて挿れてイッて終わりじゃないよ。
なに、時間、かけてんのよ。
着替え、ベッドの下にあるのにさ。
でも、ここはあたしの家だもん。あたしは悪くない。
バスタオルを、あった場所に掛けてから。
お風呂場を出る。
「…いや、あっ…ん…ひろゆ、き…ちゃん…」
真っ先に見るベッドの上。
まだ、ヒロが嘗めてた。
あかりの両脚を、強引に腕で押さえつけて、舌を這わせている。
器用に回した指先で、いやらしいピンク色を全開にさせて。
ぴちゃぴちゃと、わざとらしく音を立てて。
「…や、だよ…浩之、ちゃん…あ、あん…」
相当に恥ずかしいらしくて、あかり、顔を両手で隠しちゃってる。
あたしも、死ぬほど恥ずかしくなった。
なんて間抜けなんだろ。
今まで、こんなことされてたんだ。
気持ち悪くなるくらい、間抜けすぎ。
なに…してたんだろ。
「…浩之ちゃん…だ、ダメだよ…ソコ…ん…」
けど、あかりはそれどころじゃない。
ヒロの頭を押さえて、身体を反らせちゃってるし。
とろんとした表情。口もとから、よだれまで垂らしちゃって。
なんか、すごくイイみたい。
ヒロってそんなに上手いの?
あたし、そんな風になったこと、一度もないのに。
たぶん、そんな風にされたこと、一度もないんだ。
しばらく、呆然として見ていたけど。
くしゅんくしゅん!!
くしゃみをして、ようやく思い出した。
あたし、すっ裸だった。
「…志保っ!!」
それで、あかりが気がついた。あたしと、目があった。
今までの、あの表情が一変しちゃって、それがすごく不気味だった。
だって、ヒロ、まだ嘗めてるじゃないよ。
あたしがいると、なにも感じないわけ?
それ…演技なの?
それ、全部、演技だったの?
「あ、気にしないで。着替え、取るだけだから」
あたし、笑ってる。にこっ、て、笑ってる。
裸で、笑って。
やっぱり間抜け。
窓ガラスが鳴る。猫がミルクを飲むように、ぴちゃぴちゃって音がしてる。
真上から見る。
間抜けすぎる構図。
なんだろう。なにしてんだろ、この人たち。
なんで、あたし、こんなにいらいらするんだろう。
間抜けなこと、してるだけじゃない。
「…し、志保、あのね、私…」
「ねぇ、あかり。ヒロって、上手?」
「えっ?」
あかりの視線を無視して、あたしはしゃがみこんだ。
ベッドの下から、カラーボックスを引き出した。
枕側があたし。足側がヒロ。でも、出すのはいつもあたし。
ヒロは、その程度のことすらしなかった。
あたしがしてあげないと、なんにもできない男なのに。
シャツとパンツを適当につかんで、勢いよく、ボックスをしまった。
がちん、なんて、大きな音がした。
「いや…んっ…」
あかりが、間抜けな声を出した。

冷えきった缶ビール。おつまみは、ヒロとあかり。
なんか、ビデオでも見てるみたい。出てるのが、知ってる人ってだけで。
それで、全然、リアルじゃない。
だいたい、こんなのが本当なわけないじゃない。
あたしの家で、あたしとヒロのベッドで、あかりとヒロがしてるなんて。
どうにかしてる。
だから、あたし、あぐらをかいて、ずっと見てる。
壁に寄り掛かって、じっと、じっと見てる。
それで、あかりが本気で嫌がって、でも、ヒロはやめようとしなくて。
枕カバーで手首を縛って、口に、なにか突っ込んで。
太ももを愛撫していた。
まるで、レイプみたい。
見たことないけど、そういうビデオもあるんでしょ?
ウンウンと、涙を流しながら腰を浮かすあかりが、なんだか滑稽で。
ぐちゃぐちゃって感じで、しっかりと濡れちゃってるあたりが、特に。
そんなとこまで、演じるんだ。
ま、別に、そんなことはどうでもいいけど。
その枕カバー。あたしのお気に入りなんだから、破らないでよね。
シーツだって、この時期、洗うの大変なの、わかってんでしょ。
絶対に、変な染みなんてつけないでよね。
「ん、んっ、んっっ…」
あかりが、いやいやをする。身体を逃がそうとする。
ヒロは、力で押さえつける。おやじくさく、ぺろぺろ嘗めてる。
あたしは、ビールを口にする
まずい。
すごくまずい。
元々、このビールは好きじゃない。
ヒロが好きなだけ。
あたしは嫌い。大嫌い。
味なんて、しないけど。
まだ、窓の外は雨。弱くなったみたいだけど、窓は、かたかた鳴ってる。
じゅるっ、って音を立てて、ヒロは顔を上げた。
いやらしい横顔。
中指についた体液を、ぺろぺろと嘗める。
そしてそれを挿れた。
あかりの中に。
なんて下品なんだろ。
出したり入れたり。
中で、くにっと曲げてみたり。
粘っこい音が、あたしの周りで響いてる。
あかりは、必死になってこらえてる。
好きな人なら、絶対にたまらない表情。
でも、これ、ビデオだもん。
どうせ、演技だよね。迫真の演技、だよね。
あたし、全然、そういうのなかった。
濡れたことも、感じたこともない。
ヒロが、突然、あたしを見る。
指を出し入れしながら、あたしを見てる。
口元を、てかてかって光らせて。
よく見たら、毛がついてる。
にやっ、とも笑わずに。
あたしを見てる。
「…なによ」
ビールを口にする。
まずい、まずい、まずい。
ただ、ひたすらにまずい。
それでも、無理矢理、流し込む。
こののど越しの、どこが最高なのよ。
こんなの、人間が飲むものじゃないわ。
「別に…」
ぼそっと、ヒロが言った。
だったらこっち向くんじゃないわよ。
あかりを犯してなさいよ。
ぺろぺろ嘗めてりゃいいじゃないよ。
あかりを、もっと楽しませなさいよ!!
にらみつける。
ビールを飲みながら。
あたしは、ビデオを見てる。

ヒロが、あかりの枕カバーをほどいた。
あかりの、口の中のなにかを、あたしの方に投げた。
目の前で広がって、ぐちゃって落ちた。
熊の刺しゅう入りのハンカチ。
あかりのハンカチかな、って思ったけど、ヒロのイニシャルが入ってる。
今時、イニシャルもないわよ。
ご丁寧に、笑うところを用意してくれたのはいいけどさ。
あたしは、吹き出すこともできない。
あかりは、抵抗しなくなってた。
両手で顔を覆って、浩之ちゃん、浩之ちゃん、ってつぶやくだけで。
指のすき間から、つー、って涙がこめかみを伝って落ちる。
…なんなのよ。
そんなに嬉しいわけ?
泣いちゃうくらいに。
そんなにいいわけ?
ヒロの舌がよかったの?
ヒロの指がよかったの?
どうせ演技なんでしょ?
全部、演技なんでしょ?
あたしの…大親友のあかりちゃんの。
おめでとう、なんて言っておいてさ。
人のベッドでその男に抱かれて。
ヒロが喜ぶように喘いじゃってさ。
かわいらしく涙なんて流しちゃってさ。
あんたがそんなに器用だなんて、それこそ気がつかなかったわよ。
「…あかり」
ぐいっと足を開かせて、ヒロが、自分のモノを手にした。
汚くて、臭いアレ。
目の前に出されると、つーんって、するアレ。
それを、あかりの股間にあてがった。
すごく優しい目をして。
「…挿れるぞ」
「いやっ…ひ、浩之ちゃんっ…」
ヒロは、あかりのおでこを撫でる。
それから、ゆっくりと、ふたりの距離を縮めていく。
「…うっ…」
「やっ、ダメっ!!」
たまらなくなって、ヒロにぎゅっと抱きつくあかり。
背中を優しく抱くヒロ。
すぐには、腰を動かさない。じらす風でもなく、あかりを待っている。
耳たぶを優しくかんで。
首筋を、優しく愛撫して。
あたしには、一度だって、そんなに優しくしてくれなかったのに。
抱きしめてなんて、くれなかったじゃない。
いっつも自分が出すことばっかり考えて。
あたしがどれだけひやひやしてたか、わかってんの?
「あかり…動くぞ」
「…ひ、ろ…ゆきちゃぁん…」
抱き合ったまま、ヒロが腰を突き上げる。
あかりは、ますますぎゅうって抱きしめて、小さく喘ぎだす。
いやらしい音。雨の音。ベッドが、きしきしって軋む。
あたしは、いつの間にか、膝を抱えてた。
「ん…あっ…あん…はあ…」
なにしてんだろ。
なんで、彼氏のセックス見てんのかな、あたし…

ヒロは、器用に身体を動かす。あかりは、慣れたように背中を向ける。
それから、また、ふたりで腰を動かす。
ぱんぱんぱん、ってさ。
「あっあっあっ」、てさ。
ヒロの顔。
あかりの顔。
間抜けそのもの。
笑えないくらいに。
子供の頃、公園で見た犬の交尾、アレそのもの。
あたし、これ、すごく嫌い。動物みたいで、大嫌い。
こうして見てて、ますます嫌いになった。
だいたい、あたし、セックスが嫌いだし。
痛くて、疲れて、むなしくなって。
それでも、してた。
最初は、毎日のようにしてた。
あたしからも誘ってた。
だって、同棲してんだもん。それって、そういうもんだと思ってたし。
してればよくなるって話だったし。
ヒロが、許してくれなかったし。
がまんして声出してれば、それでいいんだと思ってたし。
そんなことで逃げられるの、嫌だったし。
そうしないと、離れていきそうだったし。
今、ふたりは、あたしの大嫌いなことをしてる。
ふたりして、大汗をかいて、息を荒くして、あかりなんて、いやな声で鳴いて。
すごく、幸せそうに。
ふたりは、両想いだから。
いつだって、あたしはいなかった。
一度だって、あたしを見てなかったよね。
それくらい、気がついてたけど、言えるはずもないじゃない。
いつも誰を抱いてたの?
あたし、それに脅えてた。抱かれてない時も脅えてた。
目の前に突き付けられて、ようやく、ちょっとだけ、わかったけど。
今だって、あたしはいない。
ヒロが、あかりの名前を呼ぶ。
あかりが、浩之ちゃん、と応える。
この人たち、なにを見てるの? なにを感じてるの?
あたし、なにを見てるの?
それから、また、身体をねじるふたり。
あかりが下。ヒロが上。
ふたり、抱き合って、腰を振って。
ぱんぱん音がするたびに、あたしはどんどん小さくなる。
小さくなってく。
顔をひざに埋める。
すべすべのひざ。
あったかい、涙がにじんでる。
なんで…なんでよ。
なんで、あたしが泣いてんのよ。
ヒロの呼吸が荒くなる。時々、気味の悪い声で喘いでる。
あかりは、ずっとヒロに抱きついたまま。ヒロの名前ばかりを漏らしている。
少し、よだれを垂らして。
うっすらと、涙を浮かべて。
けど、あたしと違う涙。
気持ちいい涙でしょ?
あたしのは、もっと、もっと深い涙。
泣くもんか、って思ってたのに。
がまんできない。こらえきれない。
情けなくて、もっともっと、涙が止まらなくなる。
ふたりは、どんな形になったって、ずっとふたりだったわけだ。
あたしが、どんな形で割り込んだって、ふたりはふたりだったわけだ。
一瞬でも、自分のモノにしたと思った自分。バカじゃん。
ヒロの動きが激しくなった。
腰の音が、ますます大きくなった。
あかりの声が、甲高くなった。
隣に筒抜けじゃないよ…そんな大声だしたら。
あたしだと思われるでしょ?
この期に及んで、そんなこと、考える。
涙が止まらない。
「あかりっ、あかりっ、い、いくぞっ…」
「浩之ちゃん、あ、あっ!!」
なによ、なんなのよ…なんなのよっ!!
おもいっきり鼻をすすって。
両手を痛いくらいに握って。
力を込めて立ち上がった。
だって…ビール、空になってたから。

抱き合ってるふたり。満足げなふたり。
はぁはぁと、さわやかなスポーツでもした後みたいなふたり。
終わった、って感じの、生臭い雰囲気。匂い。
台所にいても、どこにいても、その匂い。臭い、臭い、臭い。
それ、ベッドから取れる? いやよ、そんな臭いの、こびりついてたら。
あたし、涙をごしごしって拭って。
けど、まだだらだらと垂れてきて、また拭って。
鼻水なんて、だらーってしちゃっていて。
めんどくさいから、シャツに擦りつけた。
それから、扉を開けて、取り出して。
おもむろに、電気を消した。
明るいの、嫌だったから。
できるだけ、暗い方が都合がいいし。
ふたりなんて、暗くなったことに気がついてないし。
窓の外が光った。
ごろごろと、大きな音がした。
あかりが、跳ねた。ヒロに、ぎゅって抱きついた。
弱まった雨。風。行ったはずの雷が、また、近づいてきているのかも。
そして、あたしもベッドに近づいた。
ヒロは、肩で息をして、挿れたまま、あかりを抱きしめている。
あんだけ激しく腰振ってれば、そりゃ、疲れるわよね。
あかりは、幸せそうな表情のまま、あたしのこと、見つめてる。
「…志保」
「あかり…」
悲しそうな顔をする。けど、目は勝ち誇ってる。口もとはゆがんでる。
あたしは負けたんだ。このくそつまらない男の取り合いに、大親友に負けたんだ。
そりゃそうよ。
あかりは子供のころから、いっしょにお風呂に入って、いっしょに寝てたのよ。
あたしなんて、中学で知り合って、ようやくこの前、いっしょに寝るようになったのに。
時間の問題なんかじゃないけど。
長い長い時間の間に、ちゃっかりと、ヒロを侵食しちゃって。
ヒロはヒロで、いつだって、あかりを探すようになっててさ。
そんなの、勝てっこないよね。
けどさ、あたし、でも、やっぱり負けたくないんだ。
このバカのこと、まだ好きだし。
なにより、まだ、別れてないし。
あかりと何回セックスしようが、そんなの、関係ないから。あかりのお古でいいから。
だから、あたしだけのモノにするね、ヒロのこと。
嬉しくって、思わず笑っちゃった。
くすくすって、笑っちゃった。
「あかり…」
「…志保?」
右手を振り上げる。
ぴかっ、って光る。
刃が、鈍く輝く。
その為には…あんたが邪魔なの。
「バイバイ、あかり」
「…志保っ? えっ?」
あたしを見る目。本気で脅えちゃってる。
胸がきゅんとするくらいに、すっごくかわいい。
どうせなら、その表情のまま、バイバイしたいな。
それも演技?
でも、ちょうどいいかも。
お別れの写真は、かわいい顔のほうがいいでしょ?
ヒロは特別。
最後なんだから、貸してあげる。
お線香、ちゃんとあげるからね。
「あんたが友達でよかった」
「志保っ、やめてっ!!」
「じゃあねっ!!」
「きゃっ!!」
あかりが目をつむる。
あたしも目をつむる。
力一杯、怒りを込めて。
振り降ろす。
雷が鳴る。
ごろごろごろごろん!!
まぶたの裏が光る。
ぴかぴかぴかぴかん!!
なんだろう。
今までに経験したことなくて、けど、感じたことのあるような。変な感触。
なんか、硬くて柔らかいものを、引き裂いたような感覚。
これって…刺さった、よね? 完全に刺した、よね?
恐る恐る、ゆっくりと、目を開く。
包丁が光ってる。
肌に、刺さってる。
ヒロの…肩に。
「…ヒロ」
「浩之…ちゃん?」
「志保っ!!」
ヒロがあたしをにらむ。にらみ続ける。
今まで、見たことがない顔。すっごく真剣に怒ってる。
「…バカ…相手が、違う、だろっ!!」
苦しそうに息をしながら、肩から、血を垂らしながら、あたしをにらむ。
あかりを、全身で包み込みながら、あたしをにらむ。
なに?
なんなの?
この男…あかりをかばったの?
なんで、そんなことするの?
あかりがいなくなったら、あたししかいないのよ?
それなのに…よりによって、そんなのって…
「…ヒロっ!! 邪魔しないでっ!!」
包丁を抜く。そして、もう一度振り上げた。
両手で握って、渾身の力で。
全部を込めて。あたしの、すべてで。
振りかざして、目をつむって、おもいっきり。
もう…全部なくなれっ!!

雷が鳴って、窓が光って。ガラスが、かたかたって、泣いた。
雨。窓の外は雨。いつ見ても、雨。雨。ささーって、降り続く。
古臭い、天井の蛍光灯。たしか、片方が切れてるんだっけ。
今度、替えなくちゃ。
替えるのはヒロの役目。
あんな高いトコ、あたし、届かないからさ。
洗濯機は止まったっけ?
たしか、さっき、回したよね。
でも、今日は干せないか。部屋で干すの、臭くなって嫌だし。
ヒロ、たばこを吸うから。
乾かす時ぐらい、我慢してって言ってんのに。
あたしだって、我慢してんのに。
平気で、すぱすぱって吸ってさ。
そんなにヘビースモーカーだなんて、付き合うまで知らなかった。
あんたのキス、臭いんだよ。ものすごく、たばこ臭い。
しかも、あたしの嫌いなたばこだから、もー、最悪だし。
だから、キスする前に、あたしも必死に吸って。
「…お前、臭いぜ」
って言わせたら、あたしの勝ち。ほとんど、言ってくれなかったけど。
いっつも、にやけるだけ。
いっつも、にやけて、そのたびに、あたし、負ける。
包丁が、ベッドに刺さってる。
ヒロが、あたしを見てる。
ベッドの上で、あたしを見てる。
ヒロの肩に、あかりが、枕カバーを巻いている。
あかりを縛ってたはずの、枕カバーで。
だから…汚さないでよ。
そんな、汚いものを巻かないでよ。
ほら、すぐに赤いのがにじんでくるじゃない。
血、落ちないんだから…
ヒロが、見てる。
やっぱり、にやって、笑って。
本当に、あたしを見てる?
そんなの、誰がわかるの?
だいたい…恋人に、そんな顔、するの?
頭がふらってする。
なんだろう。
あたし、立ち上がる。
やっぱり、身体中がふらってする。
「…志保っ!!」
あかりの声。
けど、きっと空耳よ。
あかりが、あたしの部屋にいるはずないじゃん。
ふらふらっと。
玄関まで行って、靴もはかないで。
あたし、外へ出た。
駅に行こう。駅に行って、傘を待とう。
雨は降ってる。ずっとずっと降ってる。
ヒロが来るまで、降り続ける。
そっか、それが正解だったんだ。
駅で、ずっとずっと待ってたら。
あたし。
そっか。
真っ暗な外。足の裏が少し痛いけど。
裸足なら、ヒロがおぶってくれるはず。
ぎゅーって首に抱きついて、時々、耳をかんでみて。
なんだよ、って後ろを向いたら、絶対にキスしてやるんだ。
それで、真っ赤になって。
だから、言ってやるの。
「好き」
って。
ヒロ。
大好きなヒロ。
あたし、ずっと待ってるから。
ヒロだけ、待ってる、から。
あたし。
駅で、待ってるから。

(了)


(2000. 4/30 ホクトフィル)

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