小説
2003. 2/14




ナイト・フライト


 教室に、誰かがいる時点で驚かされたのに。
俺の席で、雅史が寝ている。
これには、さすがに、なんだ? って思った。
いや。別に、雅史がいたって構わない。
あかりと話す時に、たまに座ってる事もあるし。
けど、放課後の、しかも、こんな時間に、だ。
わざわざ俺の席で寝る理由なんて…ないだろ。普通。
まぁ、雅史の事だから、席を間違えたんだろうな。たぶん。
「おい、雅史」
 名前を呼んでも、返事はなかった。起きる気配もなかった。
耳を澄ませば、規則正しい寝息が、腕のすき間から聞こえてくるだけだ。
部活が忙しいみたいだし、疲れてんだろうな。
しばらくは寝かしておいてやるとしよう。
どうせ、すぐには帰れないしな。
 居場所のない俺は、仕方なく、あかりの席に座った。
椅子が小さいのか、なんとなく、座り心地が悪い。
ついでに、机の中に手を入れたが、なにも入っていなかった。
ったく、マンガの一冊や二冊ぐらい持っておけっての。
学校に何しに来てんだ、あいつは。
 窓から外を確認すれば、雨は、まだ、上がりそうもない。
止むのかどうかが一番の問題だが、それを気にすると話にならない。
雅史が傘を持っていれば、すべては解決するが、可能性は低そうに思える。
天気予報のお姉さんは、晴れだと、自信満々に言っていたしな。
 さて、それならそれで、なにして暇をつぶすか。
…あ、そっか。
やる事なくて寝てるのか、雅史は。
部活が雨で中止になって、傘もなくて雨宿り、と。
そんなところだろうか。
けど、俺の席で寝る理由にはならないよな。
夢の中にいたら、事情聴取もできやしない。
ぼんやりと、雅史の耳を見ていたら、絶好の暇つぶしが頭に浮かんだ。
さっそく、できるかどうか、確認してみる。
が、雅史は、両腕をまくらにして、机に伏せるようにして、完全に眠っている。
絶妙におでこを隠してあるのは、落書阻止のためとしか思えない。
抜けているようで、押さえるところはきっちりと押さえるんだよな、こいつは。
修学旅行の時ですら、なにも書かせなかった実績の持ち主だ。
「ちぇっ!!」
 悔し紛れに、がら空きの、雅史の脇腹を指でつっつく。
すると、雅史は身体を小さく反応させて、ぅん、と、妙な声まで出してきた。
これは、結構面白い。
もう一度、腕を伸ばして、指に力を入れて、脇腹に触れようとした。
「…ひろ、ゆき…」
 しかし、ぴくん、としたのは俺だった。
普段よりも小さい声とはいえ、いきなり名前を呼ばれたら、驚いて当然だろう。
寝てるって、思っているんだからな。
同時に、不安にもなった。
まさか、起こしちゃったのか?
それとも、だたの寝言だろうか。
顔を覗き込もうにも、腕のまくらの中に隠れたままだ。
仕方ない。
「…雅史?」
 恐る恐る声をかけてみる。
静かすぎる教室に、雨の音が、やけに大きく聞こえる。
ほんのちょっと待ってみたが、返事はなかった。
なぜか、赤く染まった耳を見つめながら、もう一度、声をかけてみる。
「雅史、起きたのか?」
「…浩之…どこ?」
 寝ぼけ気味の声がした。
起きている、というよりは、起きかけな感じだった。
まだ半分、夢の中にいるらしく、言っている事も寝ぼけてる。
「どこって…」
「…どこ? どこにいるの?」
「俺か? 俺はここにいるぜ」
「…いじわるしないで、よぅ…」
 いじわるもなにも、顔を上げろと突っ込みたくなった。
寝ぼけているというよりは、寝言と会話しているような気がしてきた。
なんにしても、まぬけすぎて、腹が少し痛くなった。
「浩之、どこにいるの?」
「だから…ここだって」
「ねぇ…どこにいるの、浩之…」
 声が、せっぱ詰まってきた。
必死になって俺を探しているのがわかる。
雅史、雅史、と何度か声をかけたが、気がついてくれない。
寝言だから、しょうがないけどな。
それにしても、どんな夢を見てるんだ、雅史は。
「本当に、俺がわからないのか?」
「浩之…ねぇ、浩之。出てきてよぉ…」
 笑っていられるのも、ここまでだった。
しばらくもしないうちに、うんうんと、雅史がうなされはじめた。
何度も何度も、俺の名前を口にして、本気で助けを求めていた。
さすがに、このまま寝かしておくのはかわいそうになってきた。
夢の中とはいえ、泣き出しそうな雅史を、ほおってはおけなかった。
立ち上がって、雅史の肩をぐらぐらと揺らし出す。
「ほら、朝だぞ。起きろよ、雅史」
「浩之…助けて…助けて…」
「な…ま、雅史っ、起きろって!! 全部、夢だ、夢っ!!」
 それで、ぴたりと寝言が止まった。
静まり返った教室には、雨音だけが耳につく。
顔を伏せたまま、雅史が身体をもぞもぞとやりだした。
それで、思わずため息をついてしまう。
夢の中から助けてやるのって、けっこう、大変だ。
脱力して、あかりの席に倒れこんだ。
「雅史」
「ん…」
「起きたか、雅史」
「…ひろ…ゆき?」
 雅史が、ゆっくりと顔を上げる。
顔を上げて、怯えたように周りを見て、俺を見つけた。
紅潮した顔に、濡れた唇。眠たそうな目は、真っ赤に染まっている。
たぶん、泣いていたんだな。
「…大丈夫かよ、雅史。すげーうなされてたぜ」
「浩之? 本当に…浩之なの?」
「なんだよ。あかりにでも見えるか?」
 笑いかけると、ううん、と、首を横に振った。
俺をまじまじと見ておいて、まだ、夢の中にいると勘違いしているらしい。
起きたら本当に俺がいて、混乱しても仕方がないのかもしれない。
そこまで酷い夢なんて、見たことないから、わからないけどな。
「ったく、心配したぜ」
「…ごめんね…」
 謝りながら、両目をごしごしと擦って、鼻をずずっとすすった。
そして…肩を震わせはじめた。
まるで、女の子を泣かした時のような、猛烈な罪悪感が俺を襲いはじめる。
いや、ちょっと待て。
俺は悪くない。俺が泣かせたわけじゃないっ!!
「あ…ちょ、ちょっと待てよっ!!」
 椅子を転がす勢いで立ち上がる。
雅史の肩に、手をかけようとする。
その瞬間。
「…浩之っ!!」
 ふわっと、なにかが、俺に絡みついてきた。
それが、雅史の腕だとわかった時には、雅史の顔が横にあった。
どこかで食べたことのある甘い匂いが、俺の鼻をくすぐった。
「ま、雅史?」
「…浩之っ、浩之っ…」
 ぎゅうっと、俺にしがみつくように、俺にしなだれるように。
雅史は、俺に抱きついていた。
そして、何度も何度も俺の名前を呼んだ。
そんなに怖い夢だったのか?
もっと早く起こしてやればよかったな。
抱きつかれたまま、ちょっと、後悔した。

 雅史は、声を殺して泣いていた。
俺に精一杯しがみついて、なにかを追い出すように泣いた。
そんな雅史に、俺は、なにもしてやれないし、なにもできなかった。
髪を撫で、背中を優しく叩き、よしよしと、声をかけてやれる程度だ。
サッカー部とは思えないほどに細い身体を、せめて、抱き寄せてやれる程度だ。
気休めになるかどうかすら、怪しいところだ。
友達なのに、情けなかった。

 雑音を消すように、雨は、降り続いていた。
明かりのついていない教室は、自然と暗くなっていた。
今、何時だろう。
机と机の間にうまっていては、時計も見られなかった。
というか、ようやく、そんな事を気にする余裕ができたらしい。
 雅史は、まだ、俺に抱きついている。
音のない泣き声は、今はもう、薄れて、消えていた。
それでも、髪を撫でてやる。背中を撫でてやる。
どんな夢を見たのかわからない。
けど、夢ならどうせ忘れてしまうし、現実ではない。
甘い匂いにマヒしながら、元気になれよ、って思った。
つか、この匂い…バニラの匂いだ。
「…ん」
 冷めてきた頬に、そろそろ、頃合いだと感じた。
現実的に、いつまでもこのまま、ってわけにはいかない。
あまり遅くなると、校舎から出るのに難儀してしまう。
「…落ち着いたか?」
 できるだけ優しく声をかけたつもりだ。
雅史が、こくこくと、首を縦に振った。
首筋に触れる毛先が、少し、むずがゆい。
「それならよかったぜ」
 そのわりには、俺に抱きついたままで、離れる気配がない。
落ち着きはしたけれど、まだ、怯えているのかもしれないな。
現に、こうして撫でてやると、ぎゅうって、腕に力を入れてくる。
俺は夢じゃないって、そうして確認しているようにも思えた。
「…浩之」
 ためらうように、雅史が音を出した。
いつもよりも少し静かな、でも、いつもと同じような話し方だった。
「ん? なんだ?」
「…ごめんね、浩之。気持ち悪いでしょ?」
 久しぶりの雅史の言葉が、それだった。
「はぁ?」
「浩之は、優しいから付き合ってくれたけど…だって、男同士だよ」
 言われてみれば、そうなんだけどな。
最初に飛びつかれた時は、一瞬、引いたけど。
「そんなこと、思いもしなかったな」
「どうして?」
「そりゃ…雅史、だからな」
「えっ?」
「いや、他に理由なんてないぜ。お前こそ、俺でよかったのか」
「…浩之が…いい」
 恥ずかしそうに、雅史は言う。
くっついている頬が、急に熱くなったのは、雅史のせいだ。
「そっか。光栄だな」
「うん。だって、浩之だから…こうしたんだよ」
 そりゃそうだろうな。
いきなり泣きつける奴なんて、俺ぐらいだろう。
下手な女子にでもやらかしたら、大問題になりかねないし。
友達だから、ってことだ。
友達だから…
「なぁ。雅史」
 そろそろ大丈夫だろう。
そう思って切り出そうとしたのは、もちろん、俺の中の疑問の事だ。
夢の事は、さすがに聞けないが、俺の机で寝ていた理由。
これならば、問題ないだろうと思った。
けれども、なにかを察したように、雅史の気配が、急に重くなった。
俺を抱く力が、強くなった。
敏感になってるのか?
「雅史?」
「…気になるんでしょ?」
「ああ」
 わかった。そう言って、俺の耳元で、小さく深呼吸をする。
そんなに真剣に覚悟を決めないといけないことなのか。
席を間違えた、なんて軽々しいことではなさそうだった。
「浩之…あのね」
 すべてを覚悟したような声だった。
「お、おう」
「明日ね、あかりちゃんが…」
 いきなり出てきたあかりの名前に、またもや混乱させられた。
しかも、明日? なんの話をしているんだ?
横目に雅史の表情をのぞきとろうとしても、耳しか見えなかった。
「…あかりが、なんだよ」
「あかりちゃんがね…浩之に…」
 雅史は、そこで言葉を止めた。
泣き出しそうな雰囲気だ。たぶん、こらえているんだろう。
俺は、雅史の背中を撫でながら、言葉の続きを想像した。
あかりが、俺に? なにかするのか?
まさか…刺し殺されるとか、突き落とされるとか。
ここんところ、なんだかぎくしゃくしてるから、有り得なくもない。
鼓動が早くなったのは、俺なのか雅史なのか、わからなかった。
「雅史?」
「ごめんね。なんでもない」
 今日は、もう、なにも聞かない方がいいみたいだ。
かといって、あとになって聞けるかどうか。
たぶん、無理だろうけどな。
だいたい、あかりの話は明日らしいし。
…本当に、なにがあるんだ?
「…ま、気をつけておくぜ」
 くすっと、雅史の湿った笑い声が聞こえた。
「うん…ねぇ、浩之」
「ん?」
「もうちょっと、こうしてていい?」
 バニラにココナッツミルクを混ぜたような、甘えた声だった。
「ああ」
 ぎゅうっと、雅史は抱きついてくる。
ぴったりと頬を寄せ、唇を寄せ、ありがとう、と耳もとで言った。
それが、なんだかすごくいやらしかった。
自分が女子だったら、もうどうにでもしてくれと、言っていたかもしれない。
そうしたら、雅史はどうしたんだろ。やっぱり、どうにでもしたのか?
今の俺が言ったら…どうするんだろ。
別に、なにかを期待したわけでも、想像したわけでもないのに、のどを鳴らしてしまった。
「…どうしたの、浩之」
「なんでもねーよ」
 ていうか…俺、やばいな。

「あのね、浩之…」
 耳もとの声が、むずがゆかった。
「今日のこと、全部、忘れて」
 取り乱したことが恥ずかしいんだろう。
俺は、そういう意味だと思った。
「ああ、わかった」
「…ありがとう、浩之」
 言いながら、雅史が、腕の中から抜け出した。
急に身体が軽くなったのは、気のせいじゃない。
「あのね、浩之。もうひとつだけ、わがまま、いい?」
 教室が薄暗すぎて、雅史の表情は読みとれなかった。
どの程度のわがままなのか。でも、まぁ…大したことじゃないだろう。
「なんだよ」
「うん…」
 そおっと、俺の前に雅史がしゃがんだ。
この距離なら、雅史が伏し目がちだということがわかる。
「雅史?」
「忘れてね…全部」
「ん?」
 少しためらうような間があった。
なんだ、と思った時には、甘い香りが近くにあった。
…んっ。
なにをされたのか、よく、わからなかった。
わかった時には、雅史は俺から身体を離していた。
「ずうっと…」
 雅史が、少しよろけながら立ち上がる。
「ずうっと友達…だよね。浩之」
 薄暗い教室に、きらきら光る、雅史の目。
無理して笑ってるのが、はっきりと見えた。
当たりまえだろ。
その言葉に、もう一度、ありがとう、と雅史は言った。
いつもみたいにほほ笑んだ。
「…じゃあね、浩之。また明日」
「ああ、じゃあな」
 座ったままの俺は、手だけ振った。
雅史は、後ろの扉から帰っていった。
ソフトクリームみたいに、柔らかくて、甘くて、冷たい感触。
まだ、唇に残っていた。

 本当に、誰もいなくなった教室。
雅史もいなくなった、俺の机。
けっこう、ぎしぎしと痛む身体を起こして。
俺は、ようやく自分の席に座れた。
ため息がでた。
ついさっきまでの事を思い出すと、混乱ばかりしてしまう。
結局、なにがなんだか、俺にはわからなかった。
雅史がここでなにを見て、どうして泣いていたのか、わからなかった。
最後のキスの意味だって、俺にはわからない。
けれども、無理して考える必要もなかった。
「今日のこと、全部、忘れて」
 雅史がそう言うんだから、忘れてしまえばいい。
それに、明日になれば、少しはわかるような気がした。
なんとなく、そんな気がした。
 机にぶら下がったかばんを手に取った。
遅くなっちまったけど、とりあえず、帰ることにしよう。
夕飯の事を考えたら、今ごろになって、腹がぐぅっと鳴った。
アイスクリームも買って帰るか。
椅子を引く。
がたっ、と、大きな音がした。
窓の外を見たら、雨はもう、上がっていた。

(了)


(2001.11/25 ホクトフィル)

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