小説
2003. 2/14




太平洋


 空は黒くて重たくて、今にも雪が降りそうだった。
それでなくても寒がりの彼は、肩をぶるぶる震わせていた。
北風が、ふたりの間を荒っぽく吹き抜ければ、彼は身体を縮ませる。
「さ、さみぃ…」
「コート、着てこないからだよ」
 しょうがないなぁ、と、彼女はそんな顔をしている。
けれども彼に言わせれば、しょうがないのは彼女の方だった。
そういうことは、学校に来る前に言ってくれなければ、なんの意味もない。
不機嫌そうにそっぽを向くと、ちょっと待ってと彼女が言った。
なんだよと振り返れば、彼女は足を止めていた。
首にぐるぐる巻いていた、水色のマフラーを外していた。
そして、それを手にしてぱたぱたと、三歩分を駆けてくる。
彼女の意図が、鈍い彼にも、さすがに分かった。
「ちょっとだけ、しゃがんで」
 彼を見上げ、にこにこと笑う彼女は、そう言った。
「…いいって」
「ダメだよ。かぜ、ひいちゃうよ」
「お前だってひいちゃうぜ」
「私はコート着てるから大丈夫だから。ね?」
 その顔は、甘える仔犬のようだった。
だから、それ以上の抵抗はしなかった。できなかった。
言われたとおりに少しかがむ。彼女が、涼しげな首筋を包みこむ。
「…サンキュ」
 数歩、下がって、似合ってるよ、と彼女が笑う。
そうかぁ、と、彼はいぶかしがる。詰め襟には、少し派手な色だと思う。
それよりも、マフラーにある彼女の体温が、なによりむずがゆかった。
意味もなく、ほんのりと照れるから、彼はいきなり歩き出す。
そんな彼をわかっているから、彼女はこっそりくすりと笑った。
 学校から、真っすぐ続くこの道の、次の角をひょいっと曲がる。
人通りの少ない細い道は、ふたりにとっては近道だった。
そこを三歩、進んでから、ゆっくりと、彼女が口を開く。
「そういえば…」
 にこにことする彼女を見て、彼は背筋に悪寒を走らせる。
「浩之ちゃん、今日はもてもてだったね」
 彼女の声は、今のここの温度より、数倍も冷たく痛くきつかった。
どこかで突っ込まれるとは思っていたけれど、ここまでだとは予想できなかった。
どう逃げようと考えながら、彼もたどたどしく口を開いた。
「そ、そっかぁ?」
「ねぇ、浩之ちゃん。結局、何個もらったの?」
 彼女は、さらに足を早めると、彼の前に立ちふさがった。
笑顔は、まったく同じか、あるいはさらに純度が下がっている。
彼がつばを飲んだのは、のどが乾いてしまったからだった。
「な、何個って…雅史ほどには…もらってないぜ」
「雅史ちゃんはいいの。浩之ちゃんの数が気になるんだから」
「なんでだよ。別に義理チョコだぜ? 冗談みたいなもんだろ?」
 くれた女の子たちは、全員、彼の友達だった。
彼女が嫉妬するような、特別な感情はありえない顔ぶれだった。
「レミィに志保に保科さんに、来栖川先輩とマルチちゃんだから…五つ?」
 指折り数えるあかりの、その正確さに、浩之は硬直する。
「あと、格闘技の女の子もいたよね? 六つだよね?」
 浩之に言葉はない。よくもそこまで調べ上げたと、感心すらしてしまう。
同時に、嫌な汗をかいている自分に気がついた。
それを拭う手のひらは、とても冷たい。
どのようにして、あかりはそれを知ったのか。
それは考えてはいけないことのような気がして、すぐに外に追いやった。
「その顔ぶれで、義理以外にあるか?」
「本当かなぁ…本命が混じっているかもしれないよ?」
 彼女の言葉は、とてもいやらしい。
とげとげを、ちくちくと肌に当ててくるような、そんな言い方だった。
嫉妬深い彼女だと、彼はもちろん承知している。それでもじわじわ胃を刺激する。
彼女に借りたマフラーを、ぎこちなく直しながら、彼は言う。
「んなわけないだろ」
「でも、嬉しかったでしょ」
「そりゃ…けどさ、あかりから貰ったのが、一番だな」
「えっ?」
「なんだよ。まさかあれ、義理チョコだったのか?」
 大げさに彼が目を見開くと、彼女はぷるぷると顔を振った。
なんとか切り返せたかと、彼は内心、ほっとした。
そして彼は、今日、一番の笑顔を見せて、こうも言う。
「マジで嬉しかったぜ。ありがとな」
「…うんっ!!」
 あまり素直でない彼が、素直に礼を口にしたからか。
それとも、欲しい答えをもらえたからか、それは、彼にはわからない。
どちらにしても、彼女はひどく喜んだ。
そのほほ笑みは、彼の心を暖める。
「あっ…」
「なんだよ」
「うん。マフラー、ちゃんと巻かないと…」
 彼女は彼の正面に立つと、また、つま先立ちをする。
手を伸ばして、ずれ落ちそうな水色を、綺麗に巻き直す。
その間、彼女の顔が近くにあった。唇が、そこにあった。
だから。
 彼は彼女の名前を呼んだ。
彼女はなぁに、と返事をした。
そこを彼は、そおっと塞いだ。
甘い甘いチョコレートの味がしたのは一瞬だけだった。
「…お返し、な」
「…うん」
 ほんの少し見つめあって、ほほ笑みあって。
それから彼が歩き出す。彼女はそれを追いかける。
ごく自然と隣に並ぶと、彼女の肩が彼に振れた。
「あのね…」
「なんだ?」
「うん…大好き」
 真っ赤になった彼女の肩を、彼はそおっと抱き寄せた。
本当の意味で、ふたりが並べば、空がそれを祝福する。
 降り始めた雪に、彼女がわぁっと感嘆する。
その横顔に、聞こえないように、彼も同じ言葉を告げた。
一足早い、お返しだった。

(了)


(2002. 7/16 ホクトフィル)

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