『グローカル』97/01/01(494号

(『統一』改題)


沖縄米軍基地のたらい回しを許さない!
政財官利益共同体に市民自治で対決を!
自己決定の政治をめざそう!
古い政治パラダイム脱却しオルタナティブな政策を!

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いま市民の政治・政党が
挑戦すべき課題とは何か
ローカル軸にオルタな政策かかげ選挙に挑戦しよう!

宮部 彰


(1)日本政治の空洞化と自己決定の胎動


@古い枠組みを越えられない政党政治


 九〇年代に入って以降、各種選挙の投票率は史上最低を記録し続けている。総選挙もついに六〇%を下回り、史上最低の投票率となった。この数年間の政党再編の激動は政治を活性化したようにみえて、逆にその深部において人々の政治に対する期待と希望をますます失わせる結果となった。
 なぜ、このような結果を生み出してしまったのだろうか。政党が権力ゲームに明け暮れているからだろうか、新党なるものが結局代わり映えしないものとわかってしまったからだろうか、選挙制度のせいだろうか、それとも政財官癒着と腐敗のせいだろうか。
 たしかに、これらのことが政治の魅力を色あせさせる原因となったことは事実である。しかし、本質的かつ決定的理由は、政党が社会的諸問題を解決する新しいビジョン(理念と政策)を提起できなかったことにある。安保・沖縄問題、高齢化社会問題、環境・ゴミ問題、財政赤字問題、政財官の癒着・腐敗の問題、中央集権的政治・官僚システムの問題、これらの諸問題を解決する説得力あるビジョン(理念と政策)を既成政党は、ついに人々に対して提起できなかったと言わなければならない。つまり冷戦が終焉した後の新しい「安全保障」のビジョン、経済成長がこれ以上望めなくなった時代の社会的連帯・共生のビジョン、環境問題を解決する新しいシステム、中央集権的政治・官僚システムの弊害を解決する道筋などを、どの政党もわかりやすく鮮明な形で提起できなかったからだ。
 その結果、各政党の理念・政策・選挙公約はほとんどその違いを見つけることが困難なほどに同質化してしまった。総与党化になったから同質化したのではない。戦後政治のパラダイム(枠組み)であった冷戦的思考、永続する経済成長の追求、環境制約の無視、中央集権の効率性に代わる新しいパラダイムを政党が発見し、踏み出せなかったからだ。冷戦的思考でしかない極東有事研究、経済成長主義の遺物である肥大化した公共事業の継続、環境問題を無視しつづける原発・ゴミ政策、中央集権的政治・官僚システムの腐敗にもかかわらず遅々として進まない地方分権・情報公開、これらの事実は依然として政党が既存のパラダイムを本当の意味で脱却できていない証左である。唯一の野党となった共産党も、このパラダイム(枠組み)の中での改良主義的反対派でしかない。
 この既存のパラダイムからの転換の必要性の観点から見るならば、福祉国家か新自由主義かという選択肢、大きな政府か小さな政府かという選択肢、改憲か護憲かという選択肢などは、上滑りの選択肢でしかない。新保守・保守・リベラルという政治的相違も、既存のパラダイムを前提とするかぎりは時代の要請に応えられず、政治的意味を失っていると言わざるをえない。
 この既存のパラダイムに根底から挑戦する新しい政党・政治の登場なくして、政治は活性化しないし、総与党化は避けられないし、投票率の低下は確実だろう。
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A四つの基本理念と新しいパラダイム


 小選挙区比例代表並立制のせいで、自民党は比較第一党となり自民党単独(事実上の連立)政権が成立した。今後の国政選挙によって政党再々編が起こるのか、それとも現状のように自民党一党優位体制が固定化するのか、については不透明で確定できない。だが権力ゲームが優先し、政策的同質化がますます進行することだけは確実だろう。新保守・保守・リベラルという政治的イメージの違いさえすでになくなっていると言えるのかもしれない。
 そのことは総選挙が政策論争なき選挙だったことに端的に現れている。唯一違いが明確であった消費税問題も、消費税一〇%論者の小沢が「アップ反対」を唱えたために茶番となった。安保・沖縄問題は争点にされず、行革はバナナのたたき売りのように省庁再編を競い合っただけだった。地方分権・情報公開・公的介護保険など市民にとって重要な諸問題について、各政党は掲げはしたが肝心の中身の違いについては争われることはなかった。なぜこのような事態になってしまうのか、それは既に指摘したように既成政党が同じパラダイムを共有しているからに他ならない。自治・連帯・エコロジー・非武装の基本理念に即して、新しいパラダイムの必要性を考えてみたい。
 第一の基本理念である市民自治についてはどうか。行革は選挙の最大の争点と言われたが、省庁再編や内閣機能の強化を競い合うことに終始した。官僚の不祥事と機能マヒを政治がコントロールすることで解決できるとするパラダイムを既成政党は共有している。しかし、この発想はとんでもない間違いである。中央集権的な密室政治、そこにはびこる政財官癒着を改革しないかぎり、問題は根本的に解決できるはずがない。薬害エイズや「もんじゅ」の問題は、市民の徹底した追及がないかぎり解決できないことを示したのではなかったか。そのためにも市民自治の方向での地方分権、市民に開かれた徹底した情報公開、利益誘導政治を断つための企業・団体献金の即時廃止が求められている。だがどの政党も、官官分権を越えることができず、不徹底な情報公開法を容認し、企業・団体献金の廃止を積極的に主張しようとはしていない。中央集権的パラダイムから分権・市民自治パラダイムへの転換が求められているのである。
 第二の基本理念である連帯・共生についてはどうか。経済成長が見込めない時代の「社会的連帯のビジョン」、言い換えれば「財源難の時代の福祉ビジョン」が問われている。
 だが既成政党の財源対策は、弱者に厳しく広く薄く取る消費税アップで足並みをそろえている。公的介護保険も増税プラス自己負担であり、その他の福祉政策でも自己負担増が進められようとしている。他方では、企業優遇の税制や公共事業にはおしげもなく税金を使っている。つまり、「経済成長と福祉がセットで拡大する」時代が終わったにもかかわらず、景気対策には効き目のないケインズ主義(税金投入)が用いられ、福祉対策には市民の社会的連帯を掘り崩す新自由主義が適用されているのである。「企業の経済成長をテコとする福祉国家」というパラダイムから「市民の社会的連帯を促進する福祉」への転換が求められているのである。
 第三の基本理念であるエコロジー・環境問題についてはどうか。一時期の環境ブームは影をひそめ、既成政党は積極的イニシアティブを発揮しようとしていない。地球温暖化に対処するための二酸化炭素排出抑制の目標実現はめどが全くたっていない。環境問題の解決にはゴミ問題に象徴されるように、大量生産・大量消費・大量廃棄の構造からの転換が必要なことは明らかである。だが経済成長主義のパラダイムは依然として既成政党を深く蝕んでいる。そのためリサイクルやゴミ有料化対策は進められているが、本質的問題である生産・製造段階での規制が全く放置されているために、ほとんど効果があがっていない。産業廃棄物問題は岐阜県御嵩町の町長襲撃事件を引き起こすまでに深刻化しているが、既成政党は自治体レベル、自治体間の問題としてしか理解せず何の対策も採ろうとしていない。経済成長至上主義のパラダイムからの脱却が求められているのである。
 第四の基本理念である非武装についてはどうか。安全保障については、沖縄の基地問題や有事体制問題という重要な政策的争点があったにもかかわらず、争点にすらされなかった。有事体制の必要性そのものはどの政党も認め、「どこまでできるか」の違いがあっただけであり争点にならなかった。沖縄の基地問題についても「整理・縮小」はどの政党も言うが、その具体的中身に触れようとはしなかった。わずかに民主党が「駐留なき安保」と「多角的地域安全保障体制」を掲げただけだった。また小沢は「普通の国家」論を全面に押し出さなかった。だが総じて、自衛隊と日米安保を前提にし、「国家を単位として脅威に対処するものとしての安全保障」という冷戦型思考の根底にあるパラダイムを、どの政党も脱却できていない。「国家を軸とした脅威への対処」というパラダイムから「市民を主体として脅威をなくす」パラダイムへと「安全保障観」の転換が求められているのである。
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B国家を包囲する地域直接民主主義の胎動


 かつて「政治が混迷しても優秀な官僚体制があるかぎり日本は安泰だ」と言われたことがあった。だが現在、機能マヒに陥った官僚システムに対する批判が吹き荒れている。中央官僚システムの弊害が露呈しているのは、官僚の倫理や質が低下したためではない。古いパラダイムからの転換の必要性を官僚もまた認識していないからに他ならない。中央集権にしがみつき、経済成長政策を踏襲し、国家の恩恵としての福祉観を脱却できず、環境よりも開発を優先する政策を官僚は継続している。そもそも官僚システムは、継続性を本質としている、だから転換を押し進めるのは政治の役割であるべきだ。だが政治が、すでに述べたように既存のパラダイムを脱却できていないのである。すべての原因は政治の無力・閉塞状況にあると言えるだろう。
 そのような中で、地域・地方自治体では国策に対抗する地方分権・直接民主主義の息吹が芽生えている。沖縄の基地撤去の運動、巻町の原発反対の運動は、住民投票という方法を活用し国家の硬直した政治に異議を唱え始めている。産業廃棄物問題で揺れる御嵩町をはじめとして、自分達の地域のことは自分達で決定しようとする自治体・市民が全国的に広がりつつある。
 官僚が既存の政策にしがみつき、議会と政治家が選択肢と争点をつくらず公共的政治議論の役割を無視している中で、市民・住民は直接投票という制度を活用することで政治の活性化を生み出しているのである。それは、「議会制民主主義こそ民主主義、直接投票は民主主義の否定」という既存の政治制度のパラダイムへの根本的批判である。確かになんでも直接投票で決めるわけにはいかないし、シングルイシューの争点という限界もあるかもしれない。だが、自己決定権を主張する市民・自治体の胎動が、この政治の閉塞状況を打破し「社会的諸問題を解決する手段」としての政治の復権を実現するための核心であることは疑いえない。
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(2)力の蓄積と政策共有が市民派の課題


@総選挙での市民派の分岐の根拠

 既成政党と政治が、その無力・閉塞状況を深めている中で、「市民の政治・政党の形成」を共通の目標としてきた私達市民派はどうであったか。
 総選挙では市民派は共同の政治行動をとることができず、いくつかの傾向への分岐が避けられなかった。既成政党とのブロックで国政に展望を見いだそうとする傾向は、その中でもさらに新社会党・社民党・民主党へと分岐した。既成政党とのブロックの限界を主張する部分は、市民新党にいがたを除いてローカルでの市民派の力の蓄積という方向性を選択した。そしてそれとは別に、シングルイシューの対案を提起し超党派的に圧力をかける市民運動と、原理的反対派の市民・大衆運動が位置している。
 市民運動についてはひとまず置くとしても、「市民の政治」をめざす広義市民派が四つに分岐した根拠はなんだろうか。
 まず第一の根拠は、国政選挙というものの路線的戦術的位置づけをめぐる分岐である。市民派が単独で国政選挙に挑戦し当選を勝ち取れないという認識は、「平和・市民」の敗北を踏まえ市民派の中では共有されていた。したがって国政選挙の位置づけは、ローカルで市民派の力を蓄積してから市民派単独で国政選挙に再挑戦するという立場と、よりましな既成政党と部分的または全面的にブロックを組んで国政選挙に挑戦しその中で良質な議員や勢力との連係を強め市民派政党を展望するという立場の分岐として現れた。そして市民新党にいがたは、当選可能性はなくとも市民派単独で国政選挙に挑戦し市民派の力量を蓄積するという選択をした。この分岐は、国政選挙を路線的にどう位置付けるかや、戦術的活用の方法をめぐった分岐である。
 第二の分岐の根拠は、市民派の政策的共有化が不十分だったことにある。それは市民派の基準や中身の重点をどこに置くのかをめぐる分岐でもあった。「憲法、安保・沖縄」問題の政策と労働者主体に重点を置く人々は、新社会党とのブロックを選択した。「反官僚市民中心主義」の政策と市民主体を重視した人々は民主党とのブロックを組んだ。社民党との関係を重視した人々は、その中間に位置している。もちろんこの分岐には戦略的判断も関係している、だが政策的重点の置きかたの違いや政策の部分性が関係していることも確実なのである。
 第三の分岐の根拠は、そもそも市民派単独の政党形成を展望するのか否かという潜在的であるが戦略的なものである。「平和・市民」は社会党護憲派の一部とのブロックであったが、その敗北は市民派単独で勝利することの厳しさを自覚させた。後退戦をいかに闘うかが問われる中で、市民派単独選挙をめざしローカルを重視する傾向、市民派単独の困難性を踏まえ既成政党とのブロックを重視する傾向、運動を重視し選挙は既成政党を支援する傾向へと現状では分岐してきているのではないか。
 国政選挙の位置づけの違い、政策と主体をめぐる重点の置きかたの違い、市民派単独政党をめざすか否かの相違、これらの論点を議論を重ねて克服することが求められている。私達の立場は、市民派主導政党をめざし、政策的総合性を獲得し、力の蓄積の場としてのローカルを重視する立場である。(本文先頭へ)  (もくじに戻る)

Aローカル政党形成の意義と課題

 私達がローカルを積極的に重視する第一の理由は、ローカル(地域)には市民派が政治的に登場できる条件があるからだ。現状では、最低一〜二人の地方議員を当選させることができるだけの政治的条件が地域(ローカル)にはあり、五%以上の市民派への支持がある。国政選挙では既成政党以外に投票する選択肢が実現できなくとも、地方選挙では市民派の理念や政策を選択肢として提供できるのである。そして何よりもローカル(地域)では、継続して政治的に登場できるがゆえに、主体的力の蓄積に適している。全国共同で取り組む国政選挙では継続して政治的に登場できないがゆえに、力が蓄積される好循環を作り出せていないのである。ただし、市民新党にいがたの国政選挙への挑戦を、私達は支持する。それは国政選挙への挑戦を、地域における市民派の力の蓄積のために積極的に位置づけているからである。ドイツの「緑の党」が膨大な地方議員を生み出したうえで国政選挙に挑戦したことは再確認されるべきことである。
 第二の理由は、市民自治・地方分権の基本理念に照らしても、ローカルを重視すべきであると考えるからだ。決して国政選挙に勝利するためだけに、ローカルで力を蓄積しようとしてはならない。中央集権的政治官僚システムは、市民自治・地方主権に根本的に再編されなければならない。国政は地域(ローカル)に貢献するかぎりにおいて、その必要性を認められるべきである。国政を変えるためには、永田町政治に参入することを自己目的化するのではなく、ローカルが個性と自律性を維持したままで、その全国的連合の共同の力によってはじめて可能となるだろう。
 しかしローカル重視方針にも、いくつかの課題と困難性がある。それは地域での市民派が地方議員を中心とした政治的まとまりでしかない点にある。つまり日常的継続的政治性は議員に限定され、市民活動家は日常的には運動を担っている。だから、選挙時だけの政治的結集という形になってしまう傾向が強く、政策的総合性の蓄積が議員に限定され、議員の複数化やローカルパーティーのために必要な組織性への志向が弱いことである。その意味でも、「市民新党にいがた」の試みは大いに検討・議論し学ぶべきモデルに他ならない。(本文先頭へ)  (もくじに戻る)

B市民派独自の総合的政策の必要性


 市民派主導政党の形成のためには、市民派独自の総合的な政策の共有が欠かせない。既成政党の評価の分岐も、市民派の政策が部分的か、独自性がないか、または漠然としたものでしかなかったことに原因がある。それは別の表現をすれば、市民派の基準と中身が何であるのかを改めて問い返すことが求められているということでもある。
 冒頭で述べた既存のパラダイムを批判する四つの視点は、自治・連帯・エコロジー・非武装の基本理念に即したものである。この四つの基本理念では市民派は大まかな合意があると言ってよいだろう。しかし大切なのは、この四つの基本理念の一つでも手放してはならず、その総合性が極めて重要であるということだ。
 非武装や連帯(福祉)だけの観点を重視すれば新社会党を支持することで足りることになるだろう。市民自治だけを重視すれば民主党の「市民中心主義」のイメージに足元をすくわれかねない。市民自治のイメージと連帯(福祉)を重視すれば社民党でもよいのかもしれない。市民派の独自性とはこの四つの理念を兼ね備えていることに他ならない。
 だがそれだけでは不十分である。理念は具体的政策とセットではじめて政治的に生きてくる。具体的政策なき理念は、イメージに足元をすくわれてしまう。総選挙では市民派的有権者の多くが、政策的には問題のあるものが多くあったにもかかわらず、管直人の薬害エイズ問題への対応のイメージや「官僚中心主義から市民中心主義へ」というキャッチフレーズに共感して民主党に投票したのではないだろうか。また村山政権の問題性を知りながら、土井社民党の市民的イメージに期待して投票した人も多かったのではないか。私達はそれに対して、市民派独自の政策を対置しうるだけの政策的力量を持っていただろうか。せいぜい「イメージが上滑りで実態が伴っていない」「議員の体質は変わっていない」などの批判をしえたにすぎないのではないだろうか。
 たとえば行革問題についても、労働者の首切りや福祉切り捨てを批判するだけでは、不十分であり部分性を避けられない。官僚システムの弊害をどう解決するのかの視点や、財政赤字問題との関係からの政策が絶対に必要である。福祉問題についても、低負担・高福祉を主張するだけでは不十分だ。防衛費や公共事業費や恩給費などの不必要な支出を福祉に回すことによって現状よりは改善されるとはいえ、低負担・高福祉は財政問題の観点からは原理的に不可能である。
 自治・連帯・エコロジー・非武装の基本理念の観点から、新しいパラダイムに基づく具体的で魅力ある政策を練り上げよう。
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C問われるオルタナティブな政治思想


 市民の政党と政治をめざす上で、オルタナティブな政治思想を深めることが問われている。私達は、既存の政治的パラダイムである「冷戦型安全保障」「経済成長至上主義」「中央集権主義」「福祉国家路線」からの転換の必要性、ローカルの重視、具体的政策とその総合性の大切さを訴えてきた。これらの問題意識をかなり大胆に政治思想的に抽象化すれば、それらに共通するものは「多元性と普遍性の関係」「異質性と同質性」をどのように構想するのかという問題意識に他ならない。
 「冷戦型安全保障」からの転換とは、異質なものを排除し同質的国民に統合する国家が絶えず脅威を作り出している構造からの転換であり、「経済成長至上主義」からの転換とは、多元的で異質な価値をGNP(貨幣)という同質性に還元する構造からの転換である。「中央集権主義」からの転換とは、地域的な多元性と個性を画一的に統制する構造からの転換である。そして、「福祉国家路線」からの転換とは、多様性にあふれた社会的連帯の可能性を国家の画一的保護と同質的個人(孤立した個人の自己責任)へと分裂させる構造からの転換に他ならない。
 そして「ローカルの重視」は地域的個性を尊重し、多様な諸個人の社会的連帯・共生は地域においてこそ可能であるという問題意識であり、「政策的総合性」の主張はシングルイシュー的に多元化している政策をいかに普遍性との関係で調整しうるのかという問題意識である。
 これらの政治思想的問題意識は、文化相対主義をめぐる「普遍的人権と文化的相異」の関係の問題であり、普遍的独裁を原理的に否定できない民主主義と、無秩序の暴力を回避できないリベラリズムの関係をどのように解決するのかという、古くて新しい問題である。また、社会主義が諸個人や民族の多様性や自由を抑圧し普遍的独裁に行き着いたことの総括をめぐる問題でもある。市民派政党形成に即せば、「自立した市民」という抽象的で普遍的な主体イメージと、農民や労働者という固有性をもった主体の関係の問題である。また市民派が多様な見解の相異を共同のルールやマナーのもとに、いかにして普遍的共有化(同質化ではない!)を進めていけるのかという問題でもある。それは古い政党観が同質性を重視し、中央集権・密室・非公開の組織論を採用していたことに対し、市民派が分権・公開の民主的組織をどう構想できるのかという問題とも関係している。
 政治が普遍性やトータリティを欠かすことができないものである以上矛盾した表現ではあるが、多様性と自己決定を重視した「差異の政治学」がオルタナティブな政治思想として作り出されなければならないのである。(本文先頭へ) (もくじに戻る)


(3)グローカルな視点で行動しよう!


@グローバルとナショナルにグローカルで対抗を


 日本の政治の閉塞状況は日本だけに特別なことではなく、世界的な問題である。アメリカの大統領選挙が「センターとミドルの戦い」と言われたように、また投票率が「先進国」で軒並み低下しているように、政党政治の空洞化は世界的現象である。南の諸国も地域紛争や難民問題や、また新自由主義の経済政策による格差の拡大と貧困の放置にみられるように、政治は機能マヒに陥っている。毎日平均四万人もの五歳以下の子供が死亡している現状を解決する力を政治は持ちえていないのである。それらの根本にはオルタナティブとしての社会主義の崩壊の影響が作用していることは、改めて言うまでもないことだろう。
 現代社会がかかえる諸問題・諸困難はグローバルな問題である、それは一国的枠組みの中では解決されえない。にもかかわらず地球環境問題やルワンダの難民問題に対する諸国家の対応には、明らかに一国的利害を優先する傾向が顕著になってきている。その背後にはグローバルに展開する多国籍資本の利害が影響していることも確実である。多国籍資本の活動を制約する規制や、多国籍資本にとって意味のない行動は抑制されるのである。国家単位の政党政治のシステムが機能マヒに陥っているにもかかわらず、国家は一国的利害と多国籍資本の利害を優先し、さらにはナショナリズムを利用して国家のアイデンティティのゆらぎに抵抗している。
 市民運動の側も一国的枠組みをこえて活動している。国際的NGOは発言力をつけ、国家の側も無視できなくなってきている。またNGO独自の国際会議も頻繁に行われるようになってきている。それらの多くははいまだシングルイシュー的なものだが、社会主義に代わるオルタナティブへ向けた議論も様々な形をとって始まっている。これらの試みが長期のジグザグの過程を経なければならないことは避けられないが、グローカルな視点でオルタナティブを再構築していく作業の重要性はいくら強調してもしすぎるということはないであろう。グローバルに展開する多国籍資本とナショナリズムで延命しようとする国家に、市民のグローカルな行動で対抗しよう。

A九七年の行動目標


 市民派政党の形成、市民の政治の実現という中期的展望を基本にすえながら、私達はこの九七年に何をなすべきだろうか。政治がトータルなものである以上、私達のなすべきテーマは多岐にわたらざるをえない。また、市民の政治・政党の形成のためには、市民運動の活性化によって政治的争点をつくりだすこと、市民的政策が深まり共有化されること、そしてそれらを踏まえて具体的に選挙に挑戦することが必要である。この観点から、以下の課題に取り組むことが最低限求められている。 
 まず第一に、沖縄の基地撤去の運動である。政府は普天間基地の海上ヘリポート案を沖縄に押しつけようとしている。そして五月に期限切れになる反戦地主の土地強奪を正当化するために、米軍用地特別措置法の改悪を通常国会で強行しようとしている。米軍基地の沖縄県内でのたらい回しを許さないために、沖縄の闘いと連帯しつつ百万人署名運動のさらなる拡大をはじめとして本土の運動を大衆的に発展させよう。
 第二に、東京都議会議員選挙への市民派の挑戦である。市民の政党・政治の実現にとってローカルでの選挙を戦い力を蓄積することが問われているが、この東京都議選はその第一歩として重要である。既成政党の候補を破って当選した青島都知事を生み出した都市部の市民に、市民の政治・政党への選択肢を提供し、ローカルな場から市民の政治・政党への気運を促進しなければならない。
 第三に、行革・地方分権・情報公開・NPOなど市民の政治の実現にとって重要な課題が、通常国会の焦点になっていることを踏まえて、市民の立場からの政治的キャンペーンを展開することが必要である。内閣機能の強化と省庁再編に誘導されている行革論議、市民自治にまで行き着かない官官分権、不十分な情報公開法要綱案と骨抜きの危険、政府による統制色の強いNPO法案などを批判する言論戦を強めよう。それは市民派の政策を深めるためにも是非とも必要なことである。
 第四に、「被災者に公的支援を」行う市民立法を実現することである。阪神・淡路大震災から二年たつにもかかわらず政府は、再開発には多額の資金を投入するが、被災者には一銭も援助していない。「生活再建援助法案」に賛同する国会議員七四名(九六年十二月六日現在)になり、通常国会に議員立法として提出される。市民の生存権を保障する公的援助の実現へむけてがんばろう。
 第五に、破壊活動防止法の団体適用や組織犯罪対策法などの弾圧体制の強化に反対する闘いを展開することである。九六年末にも適用されようとしている破防法の団体適用は結社・表現・思想の自由を奪うものであり、また組織犯罪対策法は盗聴を合法化し通信の自由やプライバシーを侵害するものである。反対しよう。
 第六に、戦後補償の実現を政府に迫っていくことである。政府は「従軍慰安婦」への国家補償を拒否し、国民基金というまやかしで決着させようとした。それと呼応するかのように、「従軍慰安婦強制連行はなかった」などと歴史的事実をねじまげ、教科書から削除しようとする言論・運動も起きている。アジアの戦争被害者の要求を実現するために国際的ネットワークを強め運動を前進させよう。
 第七に、高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開、新規原発建設反対の運動を強めることである。「もんじゅ」の事故から一年経つが、政府・動燃側は運転再開の立場を維持し、その機会をうかがっている。住民投票によって巻町での原発建設は厳しくなったが、他の建設予定地では新規建設を進めようとしている。
 第八に、「人権小国」日本を変革する諸運動に取り組もう。新宿ホームレス排除から一年、居住権さえ保障しない行政の姿勢を改めさせよう。在日外国人の参政権など政治的諸権利、公務員就労権を確立させよう。雇用機会均等法の実効性を保証するために、罰則規定を盛り込せよう。
 第九に、環境破壊を規制する諸政策を実現させることである。今年は京都で気候変動枠組条約締結国会議が十二月に開催される。原発建設キャンペーンに利用させず、政府に積極的行動を取らせるための世論を作り出そう。ゴミ・産業廃棄物問題は放置されたままで、年々深刻化している、ゴミ焼却促進や産廃の野放しをやめさせ、製造段階での規制を実施させよう。
 第一〇に、消費税アップ、福祉切り捨ての諸政策に反対することである。消費税は福祉充実に反して「弱者」に犠牲を強いるものであり、公的介護保険もその内容の問題点以前に新たな負担を強いるものだ。企業優遇の税制や予算措置をやめさせよう。

B九八年参院選・九九年統一地方選を跳躍台に!

 八九年の参議院選挙での社会党の圧勝から九五年の参議院選挙までの五五年体制の崩壊と政党再編の過程で、市民派の政治勢力形成の試みは一旦のサイクルを終えた。「平和・市民」の敗北は、市民派政党形成の戦略的展望の再確立を私達に突きつけた。昨年九六年の新選挙制度のもとでの総選挙は、そのことを改めて再確認することになった。
 この一連の政治過程での最大の総括の核心は、市民派が単独で政治的に立つことの大切さであった。五五年体制と革新勢力の崩壊過程の中で、その良心派・護憲派とのブロックによって市民派の政治勢力としての全国的登場を展望した戦略は、基本的に終わったと言えるだろう。永田町政治と呼ばれる政治スタイルと一線を画し、市民派が単独で、少なくとも市民派主導で政治勢力を形成する展望が問われているのである。全国的政治勢力としては、今はその力がないことを私達は率直に認めなければならない。だがそのことを理由に、市民派政党の形成に消極的になるとすれば、それは政治への希望を断念することに他ならない。
 新党ブームに期待をよせた市民・有権者は、その期待が裏切られることで政治的受動性を深めつつある。だが政治は極めて飛躍と断絶に満ちている。自民党一党体制の崩壊は、その直前まで多くの人々には予測もできないことだった。ソ連・東欧の崩壊も同様だ。フランスではミッテラン社会党政権の誕生によって総与党化が完成。社会党政権への期待が失われ、緑の政治勢力が地方選などで躍進するようになるまで、十年以上の歳月が必要だ
った。日本ではやっとその出発点に立ったにすぎない。
 日本における総与党化した政党政治が市民の政治的希望と欲求に応えられないかぎり、市民派政党形成への胎動は不可避である。それが凝縮する時期へ向けて、市民派がローカルを軸として主体的力を攻勢的に蓄積し準備することが問われているのである。その第一歩を全国的連係のもとに踏み出すターニングポイントが、九八年夏の参議院選挙と九九年四月の統一地方選挙である。
 市民派政党の形成、オルタナティブな政治の創出へ向けて共に奮闘しよう!
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97年「グローカル」新年座談会
グローカルな時代の

政党・運動・オルタ


出席者


第一章 ローカルか国政か、政党か運動か


「グローカル」とは


 司会 今、沖縄や巻に続いて産業廃棄物処理場問題で揺れている岐阜県の御嵩(みたけ)町など、全国的にも住民が直接投票を求める運動が広がっています。
 ローカルから政治に切り込む動きがかなり出て来ています。国政にはない、市民の政治の捉え返しが始まっているんだろうと思います。
 九〇年代になって、リオの地球環境サミットから、環境問題は国のレベルだけでは解決できないという考えが浸透してきました。地球的に考え、対抗しなければという問題意識が出てきて、これは資本のグローバルリズムに対抗して市民運動もグローバルな闘いの姿勢をとってくるということだと思います。
 また一方では、国家を主体とする日本の政治はかなりの機能マヒに陥っています。先進国と言われる国々では、選挙の投票率がかなり落ち込んでいます。そればかりか、今の日本では国家官僚に対する批判が吹き荒れていますが、中央集権型の官僚システムが機能マヒに陥っています。そういう点では、行政改革に対して市民派がどういう対応をするかがこれからの大きな論点になっていくでしょう。
 私たちも新聞名を「統一」から「グローカル」に変えたのですが、今日はグローバルな動きや視点と、ローカルな政治や運動との関係をどう立てるかについて議論をお願いします。

最初から全国的な視野を持った地域政党


 高見 なぜローカルか、私たちも随分と考えた。しかし、初めから「ローカルな政治」をやろうとは考えなかった。ただ、「政治」をやろうと思った。市民のやる政治は、自分たちの住んでいる所で顔が見える声が届く所でやる政治だと考えました。
 何よりも私たちの仲間は市民運動をやってきた者が殆どで、選挙はこれまでは社会党に投票してきた人が多かったようです。九三年の政変で連立政権が生まれ、社会党が変質していった時に、これでいいんだろうかと集まったんです。
 市民運動をやっているときは、行政や企業が市民の知らない所で開発を決めることに不満をもっていたわけですが、それを決定する政治に関わろうとは思わなかった。今でも多くの市民運動はそうだと思います。
 ただ、それだけでは市民運動の目指すものが解決できないのではないか。そして政治的な動きが必要だとは思っていた。
 それで、政治をやるんであれば政党じゃないかという議論になった。では、どういう政党を作るのか、この本(「市民新党にいがたの挑戦」)にもありますが随分と議論したんです。で、ローカルパーティを立ち上げたわけです。
 その場合も国政と地方の政治が全く別とは思わなかった。国全体も国際政治も含めて変えていかなくてはと最初から考えていたんです。
 新潟でも東京でもどこでも外国の材木で家を建て、外国の食物を毎日食べ、米の問題ひとつとっても決して地方だけで解決できる問題はそう多くはないと初めから分かっていましたから、私たちはローカルパーティを作りながらも全国の仲間と横に繋がって政治をやりたいと思っていました。
 私たちが最近言っていることは、新潟でやっていることを各地でやっていただいて、横に繋がり、自分たちの責任において自己決定権を行使できる民主主義の政治を取り戻したいと考えています。

地域の市民運動の中から政治的課題を引っ張りだす


 司会 「市民新党にいがた」の場合、最初から全国政治が考えられていたという点で、いわゆるローカル政党と若干ちがうかもしれません。元祖ローカルパーティの「神奈川ネット」で活動しておられる猪股さんにお願いします。
 猪股 私はローカルにこだわりたい。ローカルな政治で、地域を変えていくことにこだわりたい。
 もちろん地方の政治も、実際には食料問題や環境問題とか経済問題とか、地方の問題だけではかれなくなっている。例えば、食品包装容器の告知も、国の政治を越えてWTOという世界的な枠から、地方の条例で規制していたところまで口をはさみ変えようとしている。
 地方で政治を語る時も国際的な関係の中で言わざるを得なくなっている。だから、ローカルな政治にこだわることは国家や国際政治に直結している。
 私がローカルにこだわるもうひとつの理由は、政治と市民運動を切り離すという考えにたてないからです。
 今までの既成政党は、選挙の時だけ市民の側に入ってくる。あとは市民生活や運動とかけ離れたことをやっている。
 私たちは「地域ネット」から代理人を出して役割分担しています。そして「地域ネット」は政治的課題を市民運動の中から引っ張り出してくる。そこから、自立的市民を増やしていくという言い方をします。
 そうしないと、ナショナルな選挙をしてもおまかせ民主主義でしかないのではないか。自立した市民の運動としての活力なくして、ナショナルな政治はないと思います。いろんなローカルパーティがあっていいと思いますが、私は「神奈川ネット」のスタイルでいいと思っています。
 司会 よく話にでる、制度圏と運動圏の関係、政党と市民運動の関係をどう考えるかということですね。重要な討論の柱になると思います。大野さん、グローバルなところから二人の話を聞いていていかがでしょう。(対談先頭へ)(もくじに戻る)

ローカルで対抗軸を立てる


 大野 農業問題、食糧問題が専門なので、そこに引きつけながら最近感じていることを述べます。今の農業は行き着くところまで行った状況があって、農民が農政が悪いといっていたのは八〇年代初めまで。今は自分の生業について国政に対する期待が殆ど無くなっている。九五年の参議院選挙で農民連合を作ろうという動きがあったが、私はいきなり国政選挙では誰も相手にしないだろうと言ったんです。
 自給率を上げろと農業側は要求してきたが、自給率はどんどん下がってくる。
 国際的な輸入という、国政として解決せねばならない事があるとしても、根本のところで対抗しようと思えば、自分の足元である地域でどうなんだ、メシの中身はどうだというところから積み上げないと解決しないことが見えてきた。
 もうひとつ、アジアを歩いて来て感じるのは、日本の農民の抱える問題とタイの農民の抱えている問題に共通性が出て来て、同じ土俵で語り合える状況になってきたことです。グローバルな自由貿易の影響を、日本もタイの農民も同じく受けている。ではどう対抗していくかというと、対抗軸はそれぞれの地域での取り組みだろう。
 これからアジアの農民同士の出会いのネットワークを本格的に作ろうとしているんですが、出会いの前提として地域の取り組みがあります。問題はグローバル化していても、運動のグローバル化の前提としてローカルな闘いがある構想でないと有効でないという気がしています。

制度を変えるたたかいと地域の経済的自立


 司会 では、全体をつなぎながら白川さんにお願いします。
 白川 私はこの一年、沖縄にこだわってきました。そこに何か新しいもの、人びとによる自己決定権の行使ということが出て来ている。それは、巻町の住民投票などの運動に明らかに連動しています。
 九十年代に入って日本が変わるとすれば、地域から変わる、地域が主要な戦場になるのではないかという予感があったが、沖縄と巻の運動をみて確信を持ちました。政党と議会という代表制政治の仕組みに対する不信は非常に強くなっています。
 総選挙の結果は一言で言えば、政党システム全体に対する不信といっていい。それに代わる人々の動きが住民投票として出ている。 これからは、中央政府と同等の権利をもつ地方政府をどのように実現していくかということが、日本の政治システムを変える展望として重要になってきている。
 それから、薬害エイズでも反原発運動でも、情報公開のテーマは運動にとって焦眉の課題です。しかし、それが政治システムを変える展望の中でどう位置づけられているかははっきりしていない。だから、情報公開には熱が入るが地方分権はなかなか運動のテーマにならない。
 ある日、突然に政権を転覆させて政治をまったく変えるという革命のリアリティがなくなって、では政治の仕組みを変えるのにどこからやるのかというと、ある種の制度を変える闘いになる。それをどう位置付けていくのか、これまでの市民運動では考えられてこなかったのではないか。昔で言えば、改良主義ですね(笑い)。
 もう一つの問題は、それぞれローカルで自立していく時に、大野さんからは農業問題の視点から出されましたが、経済的自立をどう考えるのかという問題です。それはグローバルに考えなければなりません。沖縄県は、基地を撤去したあとの構想として「アクションプログラム」と「国際都市形成構想」を出した。その中身としてリゾートをどかどか持って来る開発でいいのかという疑問もある。
 むしろ、アジア全体のグローバルな経済成長の中でこのままの開発を進めては大変なことになるという議論も当然あります。では、経済的自立はどうするかというのが大切な議論だと思います。(対談先頭へ)(もくじに戻る)

政党を作って政治をやる

 大野 白川さんの言ったことを基準にすると、高見さんは地域と国が政治ということで連続している立場、猪股さんは地域を変えることで全体を変えるんだと、ちょっとニュアンスが違う気がします。
 司会 新潟の場合は、静岡市議の松谷清さんたちが言われているローカルパーティとはちょっと異質かなと感じていました。市民が政治をやるというのがキーワードで、国政かローカルかといえば両方やるという考え方です。私たちには、国政には手が出せないからローカルで我慢するという傾向が少しあるが、「にいがた」の場合はそれがない。
 高見 私たちも国政は遠いという意識だった。しかし、例えば新潟という地域の有権者は国政選挙にも投票するわけです。中央政治というのは新潟から離れた東京にあると皆思っているが、住んでる新潟に国政がある。分けて考えること自体が初めから負けている。国政はたくさんの票を集める必要があるから、初めからそれをパスして、とりあえずは地方で議員を増やしてネットワークで登場するという発想とは違う。
 我々は次の参議院選挙を考えています。それを考えないで、政治をますます将来に押しやる事は非常に危険ではないか。市民運動をやること、農業問題をやること、議員で活動すること、それらはもちろん大事でそこが出発点なんですが、それだけでは駄目だと思う。
 市民運動組織とは別に、政党という形で政治を扱う市民の組織が必要です。
 そして、政党は政治をやるためにあるのですから、政党が市民運動をやらないのは当たり前なんです。ドイツ緑の党も、最初は運動の延長に政党があると思っていたんです。
 しかし、今の緑の党の整理の仕方は運動と政党とは別物だということです。互いに相補い拮抗する関係にあり、議論するという関係です。巻町の人達も、自分たちがやるのは住民投票まであって政治、特に国政はできないと言ってる。では、政治は誰がやるかといったら既成政党にお任せすることになってしまう。あるいは、絶望してあきらめてしまい、向こうの思う壷にはまることになる。ますます官僚政治がはびこる。
 もうひとつ、例えば阪神大震災で市民立法を作ろうという運動ですが、あれも自分で法案まで作っても。それを既成の政党にお願いすることにとどまっては、本当の市民の政治を作ろうというところに行かないと思う。つまり、政治の場で勝負しない限りは、全部向こうに吸い取られていって、運動の課題も実現しないと思うし、政治はいつまで経っても改革されないと言いたい。
 司会 運動が市民立法を提案して、ある程度の実現できる状況があるので、それはそれでリアリティがある。高見さんは、部分性に止まらずにトータルな政治の主体として政党を考えていますが、これは私たちと似た所があります。

市民の論理に立つトータルな政策が必要


 白川 シングル・イシューの運動はシャープでリアリティもあるが、とりあえずの運動目的達成の手段としての制度改革であったり提案であったりする。では、別の問題とのつながりはどうなっているのかというと、残念ながら議論もないし交流もない。
 猪股さんはやらなかったが、「神奈川ネット」は民主党については、NPO・情報公開・市民参加の政治というセンスをもった候補者も多いし政策的にも優れていると見てこれを応援した。
 しかし民主党は、市民が外交をやるという発想はなく、国家が外交や安全保障をやるのは当然で、「安保再定義」を認め、「有事法制」を認めている。「神奈川ネット」は市民外交を主張しているが、政策に一貫性がなく既成政党に妥協している。
 我々の方から市民の論理を貫いたトータルな新しい社会の構想を出していく必要がある。ローカルに足場を置きながら、まとまりのある提案を高見さんたちがされていることは素晴らしい、これを見本にしてローカルでそれぞれ本を出した方がいい(笑い)。
 もうひとつ、進め方では「にいがた」は選挙で成果を取って来ていて惨敗して来てないのが大きい。
 高見 いや、惨敗しています(笑い)。まだ私たちも二年ですから、これから二年先を目指していますが、我々を乗り越えてゆくローカルパーティがどんどん出てこないともたないかもしれません。
 市民の政治の基盤が今ほど広がっているときはないのに、なぜ選挙をやらないのか。それは、いろんな政治グループ、とりわけマルクス主義的なグループが、議会に対する整理をまだ十分にできていないからではないか。
 民主主義を実現するには、議会制度が最も可能性があり、議会政党として名乗るべきで、政党政治を通して共通課題としての政治を始めていくことが求められていると思います。いずれ全国政治をやるというのではなく、ローカルの立場でいま「政治」をやるべきなのです。

運動圏と制度圏


 猪股 先ほどの話のように、神奈川ネットは、自分たちが政治契約をして、それを実現してくれるところに毎回お願いするというスタンスですが、それは非常に危ないと思う。部分だけでなく、全体をどう見るのかについて責任をもつべきです。本当に国政にチャレンジしていくなら、神奈川ネットとしてもすっきり整理させなければならない。ローカルと国政の関係についての高見さんの話はすっきりしていると思います。それは神奈川ネットの抱える問題です。
 しかし、議員と市民運動の関係でいえばすっきり整理できない。政治的な壁や、国や国際的問題が含まれているかは、運動しながら引き出していかねばリアリティのある政治活動ができないと感じている。核燃料の輸送ルートの問題や内申書問題など、運動のなかで情報公開の必要性が迫られ、それを政治の切り口にしようと考えるようになる。
 確かに議員には政策をつくったり立法活動など、運動とは独自にやることはたくさんあるが、市民運動と政党の役割分担について「市民新党にいがた」のようにはすっきりとは整理できない。「にいがた」ではそのようなドロドロしたものが出てこないのかなと思っていますが。
 高見 静岡の松谷さんは、「運動圏と制度圏」という整理のされ方をしておられますね。
 多分、猪股さんは、まだ自分を運動圏に置きたいという気持ちがあるんだと思います。松谷さんは一番ローカルパーティを作りたいと言っていた人だが、まだ躊躇しているように見える。運動を作ってきた人達に推されて議員になったわけだ。それはそれとしていいと思うが、そこにとどまっていていいのだろうか。運動の目的をトータルな政策にまとめるのは運動だけでは無理です。

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第二章 横の議論が公共性・政治をつくる


トータル志向のうさん臭さ


 白川 神奈川ネットの場合、トータルな政策を出しているわけです。それが内容的にいってあいまいなことが多い。だから、民主党とつながる必然性がある。
 同じ「市民」と言っても、僕から言わせると、国家寄り。安保や外交の領域で言うと既成政党の考え方を取り入れている。トータルの政策を作るプロセスは一部の人に限られていて、地域の人を含めて日本の政治をどうするかについての議論をガンガンやっているかというとそこはほとんど関心ない。
 猪股 トータリティに関心を持たないというやり方は、ある意味で正解だと思う。トータルを志向すると複雑で組織が大きくなり集権的になっていく。
 大野 「市民」は、高見さんが言われた総合性・トータリティに対してうさん臭さを感じているのではないか。結局それは調整の世界に入るわけで、調整の世界に入ると、自民党政治や官僚制に取り込まれてきた。
 民主主義に挑戦すればするほど一方は我慢し、ということが当然出てきますよね。それに対するうさん臭さ、そこのところをどう見るのか。今の話をうかがって思うのはそこです。
 それより総合性を捨ててしまって運動のリアリズム、リアリティで押していくしかない所に来ているのではないか。農業の問題でもずっとやって感じているのはそのことです。
 白川 トータリティだけをいうとそのとおりだと思います。社会を見る原理、依って立ついくつかの原理を共有することが大切だ。沖縄県民投票は、自分達のことは自分達で決めるという生き方の自己決定の原理が素直に出てきています。
 そういう原理をしっかり立てる。寄せ集めでないトータリティ、国家とは違う我々の生き方が運動を越えて原理になってきている。それぞれの運動にとってその原理はどうなんだという議論をもっとやったらいいと思うんですが。(対談先頭へ)(もくじに戻る)

一般意思・公共性


 高見 総合性、全体性のうさん臭さについては僕らもそうだった。戦前の天皇制皇国史観もそうだし、マルクス主義的社会主義とか戦後民主主義も裏切られた経過があるから、どうもうさん臭い。現実の政治は利害調整だ。業界の代表の利害、企業の利害、労組の利害などの特殊意思が寄ってたかって地球を食い物にしてしまっている。
 私はルソーをよく持ち出して議論しますが、自分達の中の特殊意思とは別の、自然や他者との関係を考えた一般意思(普遍価値)を表現した法を基礎にしたのが民主主義国家で、その法の制定に参加するのが、市民なのではないか。そういう風にして近代国家は作られたはずなんです。
 しかし、資本家達は自分達の特殊利害を国の利害なんだと擦り込ませてきた。そのなれの果が日本の政治です。トータリティの全てがうさん臭いわけではなく、本当のトータリティが必要だ。
 司会 だから、沖縄の問題は特殊といえば特殊だ。個別の利害を打ち出して安保の問題にはあえてふれない。しかし、地域主権・生存権、抵抗権みたいな形で国家のうさん臭い政策に対して新しい普遍性・トータリティを生み出している。
 白川 だから読売新聞は、国策が公共性であり、沖縄と巻の運動は地域エゴだと言う。地域エゴでいいんだという考え方は七〇年代から住民運動の中にあって、人権・生存権で考えると国家の側に公共性があるのではなく地域の側にある。人権とか生存権とそれを支える自己決定権という新しい公共性が対置されている。

市民運動と政党の分業関係


 大野 人権とか平和的生存権とかは運動の中からでてきたもので、それ自身は目新しいものではない。確かに、市民運動を潰さないためには政党を作って分業=役割分担した方がよいというのはよく分かるし、知恵だと思う。しかし総合性や仕組みをつくるところで、政党だけを強調すると分からない。
 司会地域や自治体の規模の問題も政党のありようにかかわってくる。千人の町だったら、選挙する必要がなく、政党もいらない。
 大野 それはあります。地域でやっているところは、行政を巻き込んでいるところは運動も成功している。何かを作り出しているのはそういうところ。そこで市民の政治が大きな役割を果たすというのは分かる。
 猪股 政党の役割は市民の声を聞いて政策化していくというだけでなく、市民自治をいかに政策化していくのかが問われている。反対の市民運動ではなく、対案提起型の市民運動が出てきている。自治する市民と考えたときに、政党の役割はどうなるのか。政党として市民運動に仕掛けて市民自治を促進していく役割もあるのではないか
 高見 だいぶ分かってきました。政党だけが総合性をもつ必要はないし、政党だけが政策を作る必要はない。一人一人がつくればいいし、市民運動が運動する中で阪神大震災や教育などいろんな所で提案としての政策をつくればいい。
 そういう時に政党の役割は何かといったらばそれは選挙だ。選挙をやるしかけとしての政党は残ります。それをパスしてきたというだけです。今までの政党の多くは、利害を求める後援会の集まりでしかないんです。
 そういう意味では、トータルな政策を議論しそれで選挙をする政党が日本にはなかった。僕らはそれをやろうといっているだけです。

必要なのは市民運動同士の横の議論

 白川 市民の政治のシンポで高木仁三郎さんは、市民運動の側の原子力政策についての政策提起能力が強くなっているが、逆に横の運動同士の対話が弱くなっているといっていた。自分のところに入ってくる仕事を片づけることを優先せざるを得ない状況だ。誰かがやってくれればとは思っているが、自ら進んで違う市民運動同士が議論しようとはしていない状況がある。
 大野 国際NGOでもそうです。今日のテーマの一つはグローバリズムですが、世界銀行・IMFという体制をどうするかは、世界の開発問題を考える時、大きな存在です。GATT・WTO、APECなどの問題はつながっているが、国際NGOを見ていると、WTOやっている人、IMF・世銀をやっている人はそれぞれそれしかやらない。同じグローバリズムの世界システムの問題なのに。
 妙な現象だなと私は横から見ている。それぞれ外務省を相手にロビー活動もするし、議員を動かしたり、国連や国際会議に行ってロビー活動もする。そして高度な政策立案能力ももっている。しかし、それぞれのテーマ以外はやらない、一体どうなっているんだ。
 高見 運動が専門化・細分化されていくのは必然だ。そのことをきちんとやろうとしたら、どんどんタコ壷を掘っていくしかなくなる。
 大野 国際問題で官僚に対抗するためにはそれしかないというのもあるのでしょう。
 高見 トータルな視点は官僚にもないわけだから、トータリティにおいて官僚に勝るときが出てくる。学者も運動もNGOも全てタテ割になっていて、それをつなぐのが政党の仕事だ。政党の役割は運動からエネルギーをもらって、それを政治の場である地方議会や国会へ送り出す道具・手段として位置づけている。
 運動やっている人はそれに忙しいから、横の連絡をとってくれるものがあればいいなで終わっている。

公の議論を復権させる


 司会 地域でも、運動は皆シングルイシューだから政策論議がなかなかできず地方議員は大変だ。様々な問題で政策的判断を問われるが一人でやっているのが現状でしょう。
 白川 猪股さんが言っていたように、議員に出ることで予算書などを読んで態度表明をしなければならず、運動がやっていない領域について私は知らないでは通らない。だから、議員を出すのは政策議論のいいきっかけにはなる。ただ、その議員一人だけ勉強させて、梯子をはずしてしまうというのが多い。
 高見 私自身、九五年参院選に立候補して、マスコミから取材されて直ぐに答えられないことがいくつもありましたよ。選挙は議論の場です。だから自民党候補に政策議論で負けてはダメなのです。本来は選挙は議論なのに実際は議論していないからつまらない。議会でも議論していない。だから、民主主義が育たない。
 白川 市民運動が「もう一つの議会」みたいなものをつくる必要がある。いろんな政策について公開の議論することが必要だ。自分達の運動の政策だけではなしに、全然関心のない他の運動の提起を受けてどうするんだということを。そういう場をなんらかの形でもっていかないと、ともかく公の議論が不足している。(一同、「そうそう」)
 司会 昔はどうだったんだろう。議論なしですんでいた?
 白川 六〇年安保にしても、六九年反乱にしても、安保とかベトナム戦争とか運動の背景があったから人々が議論に参加した。戦争に荷担するのかしないのかとか。それを朝日ジャーナルが媒体になるとか。そういう意味では共通の関心があった。
 司会 誰もが関心をもつ「国民的関心」がなくなった中で、議論の仕方が多様化している。
 高見 巻町では、原発について議論があったわけです。
 ゴミ問題や都市計画で行政が打ち出してくる政策に反対となると当然議論になるわけです。しかし、意識的に政策的争点を作っていこうとしていない。沖縄の問題でも安保・防衛について議論しないとおかしいわけだが。それを向こう側は避けている。

まちづくりにおける市民の議論


 白川 大野さん、例えば山形県の置賜でまちづくりをやっていますね。その時に議会・行政の仕組みを含めて議論をすることにはならないのですかね。
 大野 置賜の運動がもっている面白さは、極めて総合性をもっていることです。一人の農民が有機物の循環の町づくりをしようと言い出して、生ごみを堆肥にして市内の農地で作った農産物を市民の食卓や学校・病院給食に供給していく。市内の農業と市民の生活を結び付けていく方向に広がっている。
 発端は農業問題ですが、それをやっていく中から、例えば給食に入れましょうとなったら、教育委員会・教師・栄養士・調理師等、学校関係者との議論になっていく。そうすると教師は、農家の子どももいっぱいいる地域のなかで、お父さんたちの仕事である農業をどう教えてきたんだというふうに議論が広がっている。
 あるいは老人のデイケアセンターに地域の野菜を入れるということになると地域福祉と地域農業との関係みたいなことが議論になるとか、総合的な街づくりの議論に発展してきているんですよ、少しずつ。
 というのは最初の有機的な循環の体制を作るときに、菅野君を中心とした若手の連中はあらゆるところを歩き回ってオルグしていくわけです。普通なら、農業関係と農協と市の清掃課とだけの話にするけど。そんなものは一番後回しにして、消費者グループとか商工会議所とか婦人会とか市の企業とかPTAとかお医者さんとか、そういう所からオルグしていって、最後に行政、農協を巻き込むという布陣つくっていったところからそういう総合性が出てきたということになると思う。
 最初は議会でも、有効性もないものにこんな予算ばかり食って、と自民党を中心に反対がいっぱいあった。それが議員が変わっていく。市長が公約にそれを入れていくなど市長が変わっていく。運動がもっている総合性というのがあるんだろうと思う。

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第三章 地域自立経済のビジョン


輸入農産物で支えられている沖縄の伝統食文化

 大野 もうひとつ、白川さんが言った経済の自立の問題…。九月に沖縄に数日行った。みんな知っていることかもしれないけど、沖縄というのは伝統的なおいしい料理がある、豚肉とか山羊とか。それのかなりの部分は輸入物でしょう。
 沖縄の伝統文化とか伝統食とかいうけれど、それは輸入にささえられている。その一方で沖縄北部に行くとどんどん耕作放棄が進んでいる。一方で那覇圏には人口が大集中している。そこでは基地経済とサービス産業。そこを基盤にして国際都市にしてでっかい秋葉原をつくろうかという話ですよね、今の自立計画というのは。その一方で砂糖きびという主要産業は国がどんどん支持価格を下げていって安楽死を待っている。
 沖縄の基地問題にしても、どういうふうに経済自立していくかというところにつきあたった所で、一番基本の農業とか食とかいうところが空洞化している。そこの議論というのが、沖縄で聞いてもあまりないらしいですね。あってもほとんど見えてこない。
 一方で、音楽とか沖縄の言葉を復活させることも含めて、若者たちの沖縄文化を自分たちのアイデンティティーにしようという動きがある。ところが、沖縄文化の一番基層にあるはずの伝統食文化が輸入農産物で賄われているという現実については彼らは全然意識ないわけ。ですから、経済自立という場合にそこのところをどう見るかというのを基本に据えないと議論にならないんじゃないか、と思って帰ってきた。
 白川 難しい問題ですね。これだけ情報化とか国際化が進んでいる中で、自給的要素がきっちりないと駄目なんだけども、いわゆる自給型でいくのかと言われると…。
 大野 そこまで言ってないわけですよ。すべてを自給しろなんてことは到底できない。だけども農地を放ったらかしにすることはない。一方で文化の自立と言いながら食文化については依存しているのではないか。自給できる範囲は自給したほうがいい。
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農業の自給・経済の自立
 大野 沖縄の農業というのは植民地型農業だと思う。つまりあそこで砂糖きびの生産に特化させられたのはやっぱり島津藩の政策でしょう。それはフィリピンのネグロスが砂糖きびの島になったと同じようなもの。つまり、植民地型の農業というのは本国がないと自立できない経済です。
 いま僕らがネグロスでやろうとしているのは、砂糖きび農業労働者が百姓になっていく、つまりいろんなものを自分たちで作っていく、食う物も売る物も。総合的な百姓になっていく。そこで人々が取り敢えず食っていく基盤を作ろうといいうところから始めている。沖縄の農業も程度の差こそあれ、植民地型農業に作られてきている。その農業をどうするかという議論がないままの自立論というのはなりたたない。
 高見 非常におもしろい議論です。私はあまり農業のことわからないんですが、新潟なんか本当にモノカルチャーで水田ばっかりで、グローバルとローカルという話でいえば、WTO、GATTが出てきて新潟なんかの棚田が荒れていくという問題と同じことなんでしょう。途上国の自立を言う前に先進国が自立せよ、と言いたいわけです。電力の問題で言いますと、新潟は三一七%の自給率ですが、東京は三%、埼玉一%。
 つまり、自分の今住んでいる場所で基本的な食料だとかエネルギーがどういう風になっているのか考える必要がある。
 新潟の水原町はフードトピア計画というのがありまして、米は六〇〇%ぐらいなのを将来三〇〇%にし、不足する肉や卵を全部一〇〇%にするという。二、三万の町ですけど、そういうことをやり始めている。新潟はもう東京に米を出さないと言ったらどうしますか。
 電力も取られっぱなし。柏崎原発も東電だから新潟では一ミリアンペアも使ってない。新潟の東北電力の電気が雷で停電した時に、柏崎の東電だけは煌々と電気が灯っていたということがあって、こんな馬鹿なことがあるかと。これはおかしい、ということにみんなそろそろ気付き始めている。

徴ボランティア制度の提案


 高見 もうひとつ言いたいのは「徴ボランティア制度」の提案なんですが、公とは何かということです。社会の自分たちが主人公でありみんながつながっていることの自覚というのは、これだけぶつぶつに切られて家族も地域も崩壊しているみたいなことでは駄目なのであって、労働が社会的なものだとわかっていただくためには、ある年齢の一定の時期に農業だとか福祉労働だとか国土の森林保護だとかいうことに従事してもらう。
 これはあえて義務として、社会主義じゃないんだけども(笑)。現場に出てはじめて、生きる意味だとか将来の進路だとかを、人と人あるいは自然とのふれあいの中で考えていくのでなければ農業の問題もピンとこない。
 東京の少年刑務所の試みで具体的にやられているらしいですが、所長が、親からも地域からも相手にされないその子たちを老人ホームに連れていった。はじめは斜めに見ていたが、ちょっと車イスを押したらありがとうございます、といわれたと。ありがとうといわれた経験のない少年が、爺ちゃんばあちゃんから言われたということで、ああ自分も結構役にたっているんだ、と思ったと言うんですよ。話半分に聞いても良い話だと思う。
 地域社会勤労奉仕法という名前を付けたのですが、そういう経験がなければ農業や福祉がいかに大事かという実感は出てこない。徴兵制に代わる徴ボランティアという言い方だけど自分のためにもなる、そのような政策はどこも言ってないがやれることだと思う。
 司会 市民的公共性、というかトータリティを培う契機の問題ですね。

農業だけでない経済の仕組みも


 白川 大野さんにお聞きしたいが、ネグロスの試みを進めるためには、国際的産直などの市民間での国境を越えた支えがないとだめだと思うんですが。
 大野 本当は支えがなくてやらなくちゃと思うんですが、今のところ、現地に蓄積がないわけですよね。ずっと植民地で、まず資金面での支援がどうしても必要です。しかし、お金やもので支えることの弊害は大きい。今度はそれに依存していく。そうではなくて、対等という関係を作らなければだめです。
 そのために、市民の交易をやる。ネグロスの農民がつくったバナナを日本の生協の組合員は市価のバナナの四倍くらいで、高く買って食べて、その利益を還元していく。そうして、とりあえず最初の蓄積の問題を解決する。
 次に農民が百姓ではないという問題を解消する必要がある。全島が農業労働者で、土地も農民も農業知識もない。バナナをいれたらバナナに依存するというように、さとうきびとバナナが入れ替わっただけではだめです。バナナを売って、よその島から米を買うというのではしょうがない、米も野菜も作れて、自給できるようにすることが必要。
 しかし、自給を中心にした循環型農業だけでは行き詰まっていくと思う。一方アジアでは、グローバルな経済成長も始まるし、そうすると土地を売って出て行ってしまう。農業の生産だけではだめで、つくったものがきちっとまわっていく経済の仕組みをつくらないといけない。そこで、スラムの人たちと漁民、農民セクター、農業労働者セクターそれぞれを有機的に繋げていく経済の仕組みをつくっていきましょうと話を発展させていく。それが九二年か九三年ころ。
 例えば、スラムで生活している人が生ゴミを集めて、土地を獲得して、堆肥や餌にして、農民のところにもっていく。その餌で育った豚、堆肥で育った農作物を今度はまた、スラムに持っていって、スラムの人たちがそれを売ると言うかたちで新たな仕事をつくるという経済の循環をつくる。
 舟もないような漁民もとれたものを加工して、あるいは塩や干物を作ったりして、それを農民が買う。そしてその見返りに農作物がいくと言うような仕組みをつくって、それぞれ協同組合、協同組合経済をつくって、ものの循環と金の循環の両方を、ネグロスという島を単位にして、自立的にはたらくようなものを作っていこうという計画を、向こう側と議論して、やっと九五年あたりからその方向で計画作りが始まったという段階です。

新しい価値基準で価格を見直す


 司会 経済のグロ−バル化は日本にも影響していて、日本経済も空洞化している。
 猪股 川崎の空洞化も、それは凄まじい。たとえば、福祉だとか、健康やイデオロギー、あるいは芸術など違う分野で新しい産業でも起これば別だが。なかなか、川崎の中で新しい産業というのは難しい。
 高見 空洞化を押し止めるには、自立のための仕組み、さきほど言ったバランスのとれた地域づくりの、きっちりとした政策を持つ必要がある。それを政治の力で枠をきっちり引いて政策的に出さないと経済の原理だけでは解決できない。そのことが、逆に、自分たちを依存的にし、非自立的にしているのだから。
 大野 たとえば、山村経済だけみても過疎地化し、今はもう最後の段階にきている。何故かというと、日本の山村を支えているのは単純にいうと米とシイタケです。しかし、中国からの輸入で、高知はシイタケの生産量がピーク時の四分の一になっていて壊滅状態。そうすると、山で人が暮らせない。グローバルの力というのは押し止めようがないくらい凄まじい。
 白川 よくいわれるが、山村の農業に従事している人はモノをつくっているだけではなくて、環境を保全をするなどのコストを払っている。
 高齢者介護のサービス労働などについている人などは、非常に評価が低い。つまり、人間の命や環境などに価値基準をおいて、価格を設定しなおす。そういうことをやらないで、全部、市場原理に委ねると、それはもうどうしようもない。
 大野 どういう仕組みをつくっていくのか、制度づくりの問題に結局なる。
 高見 ヨーロッパは直接所得補償のような政策をやっている。井上ひさしさんが、山間地の人たちの役目というのは、単に米をつくるだけではなくて自然破壊を防ぐような仕事をなさっている、だから、準公務員化すべきだと言っている。まったくそのとおりだと思う。長い眼でみた政策、市民の眼でみた農業、中山間地にいる人たちからみた価値で価格を組み換えなければならない。
 猪股 神奈川でも、それの縮小版だが、例えば使う人たちが水源のところまでも責任を持っていくべきという議論をしている。今回、はじめて水源地の森林を守っていくコストを水道を使っている人たちにも負担してもらおうということになった。一世帯あたり五十円くらい。
 それも、水源地の自然を守ろうという市民の運動から、水道の料金が高いという運動まで含めて話し合われた結果として出てきたと思う。だから、東南アジアと日本や都市と農村の関係などのさまざまな視野にたってお互いの価値を認めあう関係を作っていかなければならない。

私たちがやりたい運動・議論・政党


 司会 最後に、今年、あるいは今後どういうことをしたい、どういうところに力を注ぎたいとかあれば。
 猪股 議会で活動をしていて感じるのは、着実に市民の意識や市民運動が変わってきていること。それから、社会的にも環境問題や人権問題が、改めて問い直されてきている。その動きを促進しているのが、情報を市民の側により引き寄せてくる運動だと思う。今の官僚体制も、情報を官僚たちで独占してしまっている問題が出てきているのではないか。情報を開示させていくために、今年はひと頑張りしたい。
 大野 全国の百姓の仲間、農民といっしょにつくっている、アジア農民交流センターという小さなグループがある。それを本格的に梃子入れして、グローバルな状況の中で、アジアの農民どうしが出会って交歓できて、それぞれのロ−カルの場に持ち帰っていく往復運動の場をつくることを運動の目標としたい。
 個人的には、自分の食いぶちの三分の一か五分の一を自給する百姓をやろうと思っている。完全に百姓をやらなくてもいいわけで、野菜は作るとか野菜の半分は作るということで自給するとその分稼がなくて済む。
 そうすると、日本のGNPが減る。みんながGNPを減らす分、仕事を休んで百姓をすればいい。逆にいうと、そういうことができる時代状況になってきた。客観条件がでてきた。まず、率先して五分の一自給をしようと考えている。
 高見 全国の人々があっちこっちで議論してほしい。そのように働きかけをしたい。結局、市民革命が途中でおかしくなってきたということであって、私たちが社会の主人公としてやっていくために、世界的な規模で「市民革命ルネッサンス」を世界的に実現していく。私たちは今そういうことをやろうとしているのではないかと、最近考えている。
 ただし市民の政治は市民の政党がなければならない、というのが私たちの到達した一つの結論です。市民の政党を各地で作っていってほしいし、各種選挙にチャレンジしてほしい。九八年参院選にはそれの萌芽を作りたいというのが、私たちが考えていることです。
 司会 いろんな場で、今日のようなテーマでの議論が広がればと思います。本日はお忙しいなかありがとうございました。

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阪神大震災から二年
11・29市民=議員協議会発足


生活再建援助法案通常国会提出へ


 「三度目の冬」を迎えた阪神・淡路大震災の被災者の前には、依然として「官と政」の腐った壁が立ちはだかっている。
 被災地では、既に仮設住宅での「孤独死」が百人を越え、「夏は暖房、冬は冷房」と言われる仮設住宅や公園、避難所などで未だに七万人が暮らし、仮設を出た人々も「自助努力」の限界に達している。五万世帯と言われる県外避難者を含めて、膨大な被災者たちが生活再建のメドの立たない厳しい冬の中にある。いわゆる「震災関連死」は三千人を突破したと言われている。
 「このくには『人間の国』か?」−人間を殺す軍隊への「思いやり」や私的金融機関の「救済」に公金を支出することはあっても、被災者は「死ぬにまかせよ」という冷酷な国家。
 それに抗して、誰に任せるのでなく、被災者自らが生存と居住の権利を勝ち取ろうという「市民立法運動」が実現へ向けた正念場を迎えている。
 九六年三月末、「阪神・淡路大震災被災地からの緊急・要求声明」を発表した「大震災声明の会」は、五月末に「市民発議」の「市民立法」として「生活再建援助法案」を練り上げた。その内容は、住宅全壊五百万円など生活基盤回復援助金の給付を柱として、住宅再建・中小企業再建の貸付などを盛り込んだものである。
 六月の時点での国会議員の賛同者は十七人と少なかったが、声明の会は、総選挙立候補者アンケートなども行いながら、十月には兵庫と東京にそれぞれ「被災者に公的援助を」市民=議員立法実現推進本部を設置。働きかけが実り、十二月九日現在賛同議員は参院二十八名、衆院四十七名の八十五名に達している(自民党からも二人)。参院は予算が伴う議案提出に必要な二十一をクリア。衆院は必要な五十一人にあと一歩。
 地方議会でも、被災者への公的支援を求める意見書採択の取り組まれ、東京の保谷、多摩、小金井の市議会で全会一致で可決され、ひろがりつつある。
 十一月二八日には東京有楽町マリオン前で推進本部の小田実代表ら被災市民と超党派の賛同国会議員による街頭リレートークが行われた。議員では、田英夫、中川智子、辻元清美(以上、社民)、栗原君子(新社会)、家西悟(民主)、藤木洋子、緒方靖夫、山下芳生(以上、共産)の八人が参加。
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政治は被災地に学べ


 臨時国会召集日十一月二九日には、参院議員会館で被災者に公的援助を!「市民=議員」立法実現協議会が結成された。
 被災者を含む市民約五十人と衆参あわせて三十一人(代理四人含む)の賛同国会議員が参加して行われた発足会では、まず小田実氏が「悲惨な被災の状態を継続させていることの責任を政治はとらなければならない。市民=議員立法は、今やゼロになった政治への信頼を回復させ、民主主義を回復させる取り組みだ」。
 法案作成に携わった伊賀興一弁護士は、個人の財産補償ではなく社会保障としての公的援助を目的としたものだと法案の趣旨を述べた上で、その特長・意義として@恩義ではなく権利として被災者に申請権と不服申立権を明示的に認めていることA市民生活の危機からの回復に公益性を認めていることB給付内容を具体的に法定することにより、行政の裁量任せを防ぎ、行政の果たすべき役割を明確にさせていることを上げた。
 照屋寛徳参院議員は沖縄の議員として「沖縄では戦後五一年経って未だに安保の名による基地の犠牲を強要され、避難生活を強いられている」と沖縄と被災地を重ねあわせながら、市民=議員立法成立への決意を述べた。
 兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎氏は「新しい法律はもちろん必要だが、災害救助法・生活保護法など現行法の適用実態の追及など、今できることにも議員として取り組むべきだ」
 評論家の内橋克人氏は「政治は被災地に学ぶべきだ。被災者の運動が政治を逆照射し、その閉塞状況を打ち破ろうとしている」
 同協議会は、十二月六日に第一回研究会を行い、一月通常国会で参院提出へ向けた協議を急ぐ、賛同議員の拡大を図る、当面の緊急支援策拡大にも力を注ぐことを確認した。
 また、十二月二〇日には協議会として被災地調査に入ることになった。一月一八日には東京で集会が行われる。
 「市民=議員」立法の取り組みの中で市民派議員が党派を越えて積極的役割を担い、イニシアチブを発揮している。
 「おとぎ話だったものがジュニア文学になった。ぜひ、小説に仕上げ、フィクションから現実にまでしたい」(小田実)
 「官と政」の腐った壁を下から崩す「地域からの市民の自己決定」というクサビに、「世論」という重みが加わってはじめて壁は崩れるだろう。
 「推進本部」、「市民=議員」協議会への心暖まる物心両面の協力を訴えたい。(十二月一〇日)(もくじに戻る)


12・7−8フォーラム90s
第七回フォーラム
「沖縄」から何を見るか


 十二月七日と八日、専修大学神田校舎で延べ五百五十四人を集めてフォーラムが開かれた。今年で第七回を迎え、七日には十一の分科会が開かれた。八日の全体フォーラムは「『沖縄』から何を見るか」と題して報告と討論が行われた。
 全体フォーラムは伊藤成彦さん(中央大学)の司会で進められ、内海江美子さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)と姜尚中さん(東京大学)が報告した。予定されていた鴨武彦さんは病気のため参加できなかった。
 内海さんは、沖縄での性暴力と地位協定による被害の実態を述べ、安保再定義を批判する中で大田知事は行政内で安保に踏み込めない限界をもっていると指弾した。また、「平和の礎への人名記入を韓国・朝鮮人から断ってきて、それは再度、日本に殺されることになると批判もされた。沖縄では、韓国・朝鮮とネットワークを組んできたのか、加害者意識は薄かったのではという、沖縄の平和運動の限界を知った。五二年から適用された援護法と恩給法は、戸籍と階級制によっていた。戦争犯罪者に最も高い恩給額を与えていたことが問題であったが、これらの法体系を改めずに平和の礎は作れない。」
 「構造的暴力としては、世界指導者のアメリカ国家・男性・軍人という背景をもった兵士の存在。文化的暴力として、アジア女性への蔑視。これらの事を直視してこれなかったのは、位牌継承者として男子しか許さない沖縄の女性蔑視という背景があった。」

進む「国民の再定義」


 姜さんは、今年の流行語はメイクドラマでなく再定義がふさわしい。安保に限らず再定義が始められていると話を始められた。「まず経済の再定義は規制緩和に反する者は守旧派、反動派であるかのような市場経済原理主義とでもいうものがまかり通っている。それから政治の再定義は、準翼賛体制的なものに成りかねないものに変わろうとしている。そして、国民の再定義がなされようとしている。それは、藤岡信勝、小林よしのり、林真理子、阿川佐和子などの学者・文化人の面々による『新しい歴史教科書を作る会』の動きに典型的にあられている。橋本政権の後ろには八十年代に新自由主義と強い国家を掲げた中曽根の暗躍を見逃せない。」
 「これに対して民衆の側からの再定義が必要だ。方法としての沖縄はそのシンボリックな意味を持つ。植民地の記憶なしに戦後五十年を生きられなかったのに、それを忘れていたのが沖縄によって見えてきた。沖縄は日本国家のフィクションを突き崩せる。」
 「沖縄の観光開発はゼネコンの自由な活動に荒廃を招く可能性はないか。沖縄を文化的自決権に基づく自治州・自治区とすることもあっていい。ともかく主権国家の単一性を崩していきたい。」
 二人の発言に、元東京沖縄県人会事務局長の上地哲さん、武藤一羊さん、塩川喜信さんがコメントする。
 上地さんは、「県の出した開発ビジョンは中身がない。沖縄の産業界は補助金は要らないから規制を外せと要求しており、自由な交易を方向づけられれば国家の枠を越えて自立する自信があるということだ。」
 武藤さんは、「フィリピンはグローバリズムにうわついており、東南アジアの国家間では神聖同盟が。国家はグローバリズムによって自己主張する必要性にかられている。香港でのナショナリズムの高揚と、藤岡らの自由主義史観教育は同じ文脈のナショナリズム。『民衆の安全保障』の観点からは沖縄を支援することでは足りない。安保再定義に本土での基地問題を突き付ける必要があるのでは」と提起。
 塩川さんは、「沖縄は本土の低所得地域と違い若年層が多いのが特徴で、GNPでは測れない豊かさがある。沖縄開発は全総型になる危険性が高いのでは。」 質問の後、内海さんは「おもいやり予算に反対する事は税金不払いと同じ意味をもつ」、と提起。姜さんは「直接民主主義は反撃の手掛かりになる」という事と、「最高裁国民審査の結果は沖縄と本土は相当な開きで、司法権のひどさをもっと広く知らせる方策が必要だった」と語り、二日間のフォーラムを終えた。(もくじに戻る)


12・8もんじゅ火災事故から一年
敦賀で永久凍結求め集会


 高速増殖炉もんじゅのナトリウム火災事故から一年の十二月八日、現地敦賀市で「もんじゅの運転凍結を求める全国集会」が開かれた。
 現地の原発反対福井県民会議と原水爆禁止国民会議が主催の集会には、現地福井をはじめ、北陸、関西を中心に七百人の市民が参加。
 みぞれ混じりの海風が吹き付ける中、もんじゅを目前とする白木の浜で昼過ぎに集会は始まった。
 福井県民会議の小木曽美和子事務局長は、「動燃は、問題点も反省点も明らかにしないで、運転再開と一体となる総点検に入ろうとしている。既に増殖の意味のなく、システムとして欠陥のもんじゅの運転凍結を求め、福井県知事に運転再開を認めないように、県民署名を展開して、すでに十五万人集まった。来年も続けて二十万人目標に集めていく」と訴えた。
 科技庁、動燃の出した七つの事故調査報告書に対して、三回の検討書を出して、問題点を指摘してきた事故調査検討委員会の京都府綾部市在住の久米三四郎さんは、「問題は温度計の設計、事故対策のおそまつというところではなく、もんじゅのシステム全体が病気になっていることだ。その背景には、メーカー任せにしてしまっていること、二次系、三次系を軽視していること、基礎研究を軽視していること、フランスなどの先例を学んでいないことがある」と指摘した。
 その後、地元選出の辻一彦衆議院議員、大阪の「ストップ・もんじゅ」事務局からの発言が続いた。集会のあと、少し先のもんじゅのゲートまで移動、申し入れ文を動燃職員に手渡した。
 その後、もんじゅ前での行動を終え、敦賀市内の市街地に場所を移して、報告集会を二カ所に別れて催した。
 報告集会では事故調査検討委員会の正脇京大教授、もんじゅ訴訟団の弁護士、、二〇万人署名を進める地元の増田悟さん、辻議員、ストップ・もんじゅの池島さんらが発言にたった。二〇万人署名を進める増田さんは、「署名は現在十五万人集まっているが、昨日大阪からのグループが武生市での署名集めに参加し、二七〇〇名の署名を集めることで一五万の大台にのせられた。そういう形でも、ぜひ協力して欲しい」と訴えた。
 もんじゅに対する地元福井県の意識は急速に変化している、そして国の原子力にも変化が生じ始めている。日本の原子力政策の転換を決定づける行動を全国で続けよう。
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小田実・浅井基文氏らが

日米平和友好条約を提案


 十二月七日、「市民から日米政府への提案 軍事同盟から日米平和友好条約へ」と題する集会が市民の意見三〇の会・東京の主催で渋谷勤労福祉会館で開かれ、五十人が参加した。
 最初に、小田実さんが平和友好条約締結運動の意義について述べた。第二次大戦を始めたのは天皇であり、広島、長崎への原爆投下を決断したのはトルーマン大統領だが、どちらも責任を告発されていない。
 アメリカは反共政策のために天皇制を護持し、日本は憲法をもちながら安保条約を受け入れた。日米関係は取り引きの五十年に終始した。日米平和友好条約は、社会を非武装、平和的なものに変えていく原理に基づいて日米関係を軍事条約によるのではなく、平和的・友好的なものにしていくものと述べた。
 浅井基文さんは、同条約の原案を起草し、この運動を提案した理由を、安保再定義、沖縄問題との関連で発言した。
 浅井さんは市民・議員立法への関心と保守勢力への具体的提案をする必要から日米平和友好条約作りにかかわったと経過を説明。
 国家間条約とした理由は、@現代世界は無政府的国際社会であるが批判的にとらえる必要はないA国家は相当期間存続する。B国家のエゴイズムはなくならない。国家に代わるものとして世界連邦や地球市民社会がいわれているがさっぱり具体化されないことなどを上げた。
 また、大田沖縄県知事の公告縦覧応諾を「ユダ的裏切り」と厳しく批判した。「大田知事は特別立法を避けるためと言うが、その結果、全国民にかかわるガイドライン見直しと有事立法が浮上してくるのはわかっていたはずだ」とのべた。
 「国家の安全保障」に対抗して「人間の安全保障」の考えがでてきたのをどう思うか、との会場からの質問には「国家には民主主義、人権を守る責任がある」と答えた。
 最後に吉川勇一さんが、今後の運動について「この条約案を実現しようとの賛同者を募り、アメリカの市民にもはたらきかけ、人も招きたい。日米の可能なメディアに意見広告を行うことも考えたい」と提案した。
 この運動の趣旨、意義についてや具体化していく上での課題など、今後も討論していくことを確認しあった。(もくじに戻る)


1997年私たちのよびかけ



 「被災地に公的援助を!」市民=議員立法実現へ   
 もう一押しを!

 山村雅治(大震災「声明」の会事務局長)


 新聞紙上でも「震災被災者に対する公的支援」の問題が盛んに論じられるようになりました。私たちの会が「市民=議員立法」をめざして提案した「生活再建援助法案」に対する「賛同」国会議員は、十二月三日午後五時現在、「被災者に公的援助を」市民=議員立法実現推進本部(東京)の玄香実事務局長らの要請行動などの結果、土井たか子社民党党首、阪上善秀自民党衆院議員、村山富市元首相など新しい方々が加わり、衆議院議員は合計四十三名、参議院議員は合計二十八名になりました。
 震災後二年が経過しようとしています。今なお仮設住宅、テント村、避難所などで七万人余が「棄民」の生活を送り、やむなく高い民間アパートに住む人達や、親類の家に気兼ねしながら住んでいる人たち、県外で情報も不備なまま心細く暮らしている人たちも含めると、震災直後の避難民数三十万人に限りなく近い数の市民が義援金二十四万円を与えられたきり、一切の助けなく三度目の冬を迎えます。
 天災については、行政には責任を問えないかもしれないけれども、この延々二年間にも及ぶ(まだ続くのか)「被災」については、行政に責任があります。
 共済よりも保険よりも、なによりもまず、市民の危機が国家の危機と考えるべきで、そこから国家がまず市民に生活基盤を回復するための公的援助のシステムを持っているべきです。「市民=議員立法」はそうした仕組みを創造するための市民=議員運動です。
 あとひと押しです。カンパをお願いできないでしょうか。市民の側は、東京往復だけでも音を上げてしまいます。
▽郵便振替01100−2−88465 「阪神淡路大震災被災地からの緊急・要求声明」の会
兵庫県芦屋市船戸町四−一−三〇一山村サロン TEL0797−38−2585

    一九九七年の沖縄から−−
   平和・人間本意の安全保障の夢の実現へ          
   
 由井晶子(沖縄在住)       


 二〇〇一年が四年後に迫った。二十一世紀の夢は八〇年代後半から盛んに語られた。しかし、この一年半に起こった地殻変動は予想を上回るものだった。
 沖縄県が二〇一五年までに基地全面撤去という基地返還アクションプログラムを提示し、その第一段階の二〇〇一年までに普天間飛行場全面返還など−が少なくとも日米政府の合意をみるなど、誰が予想したろう。
 そこまで追い込んだのは県民の力だったし、大田昌秀知事の県民世論を背景に政府に一歩も譲らぬ姿勢だった。潜在していた力を引き出したのは鬱積していた県民の怒りだが、いくつものたゆみない運動の蓄積が瞬発力を発揮して県民運動を押し上げた。
 人権の立場から先頭に立った女性たち。個人の権利を足場に反基地闘争を持続させた反戦地主。基地被害に抗議を続けた基地所在市町村。県民投票に行動を起こした高校生。復帰は遠くなりにけりの沖縄で、今一度アイデンティティーが再構築された。新しい年は、見覚えのある風景をどう乗り越えるかが課題の年だ。
 大田知事が米軍用地強制使用の公告縦覧代行に踏み切り、橋本内閣は振興策で海上ヘリポート建設を基地縮小にすり替えて基地縮小問題を乗り切ろうとしている。
 アクションプログラムとセットで提起された国際都市形成構想は、理想に反し、復帰以来の沖縄振興開発事業同様、結果として基地維持のための経済振興にすり替わらないか。疑問を持ちながらも大田知事を窮地に立たせたくない県民の思いは、巧みに政府の側に利用されている。安保再定義のおまけ付きで。
 四半世紀前、屋良朝苗革新首席(復帰後に初代知事)をしっかり抱き込んで、現在の状況の元凶である「沖縄返還協定」を実らせた佐藤内閣を思い出させる。
 けれども、地殻変動は起こってしまった。情報が豊富になって市民の連帯が国際的な広がりを持つ今、平和・人間本意の安全保障の希求の夢をどう実現に近づけるか。一九九七年は何が起こるかわからない年であってほしい。(もくじに戻る)

    もうやめて!これ以上あたしたちを殺さないで!    

田島喜代恵(日の出の森・水・命の会)


 そこに居るだけで心地よかった大きな森は、いま真っ赤な土ぼこりをもうもうとあげた巨大な処分場建設現場に激変してしまった。
 百年、百五十年の年輪を刻み続けたモミの木は、チェーンソーで数分の内になぎ倒されていく。私の見たものは、その間から突然とび出してきた小さなテン。両手にチョコンとのっかるほどのテンの子どもだった。
 右往左往しているところを、その子の何万倍ものブルドーザーが怪獣のような牙をむいてきておそいかかった。あの子のいのちはあれっきりだったと思う。
 私たち人間はいのちをもらって生がある。人間以上の生きものたちもすべてそうだ。いのちの輪、生態系はみごとに輪になってつながれている。そこにはほとんど無理がない。
 ところが、その一点でしかない私たちはすっかりそのことを忘れ、そしてさらに突っ走ろうとしている。谷古入の森でおこなっていることは、ほんとうに無意味であり、もっといえば、いのちをえぐり取って地獄に突っ走っていることなのだ。
 三多摩廃棄物広域処分組合は、ゴミの真の解決なんかまったく考えていない。ただただ、水源地を破壊して大穴をあけ、敷いても敷かなくても意味のない一・五ミリばかりのシートを敷いてドカドカとゴミを詰めるだけの組織。こんな組織に自分たちのゴミの始末を任せっきりの二六市一町の行政の姿勢は、未来のいのちへの殺人行為と断罪せざるを得ない。谷戸沢処分場には七百万人も殺せるダイオキシンが捨てられ、風下ではすでに被害が続出している。
 谷戸沢処分場汚水漏水問題を徹底究明するための裁判所によるデータ開示命令を拒否し、三多摩住民三六五万人の血税を毎日三十万円づつ、とうとう一億六千万円をも罰金として払い続けている異常さが現在のゴミ行政のすべてを語っている。
 内外の廃棄物資源化の知恵を駆使し、三多摩のゴミ行政の展望が開けるには巨大なゴミ処分場を二つも造らない!それしかないのである。(もくじに戻る)

      歴史認識を渦巻状に深化させよう−−憲法施行五十年を
内田雅敏(弁護士)


 憲法施行五十周年を迎える今日、アジアの各地の人々から日本の政府あるいは企業に対して様々な戦後補償の請求がなされている。既に戦後五十年以上を経過しているにもかかわらず、日本の侵略戦争によって被害を蒙ったアジアの人々の傷は今なお癒されていない。
 他方、憲法体系と相容れないはずの日米安保体制との奇妙な同居が五十年近く続き、そのひずみとしての沖縄の切り捨てがある。日本の戦後はこの相容れない二つの法のせめぎあいと、後者による前者の空洞化の歴史であった。このようなことを考えるとき、「戦争の放棄」を宣言した日本国憲法第九条の功罪についても考えざるを得ない。
 日本が敗戦したとき、学校ではそれまで“鬼畜米英”と本土決戦を避けんでいた教師たちが突然“さあ、今日から民主主義です”と唱え始め、児童たちに教科書記述の墨塗りをさせたという。
 私たちは学校において教科書に墨塗りすることによって日本の植民地支配と侵略戦争の歴史を洗い流してしまったように、「戦争の放棄」を宣言した憲法第九条をもつことによって戦争の記憶を「さらりと捨てて」、私たち自身の戦争責任、戦争賠償の問題に封印をしてしまったのではないだろうか。そしてさらに、この第九条自体が沖縄に対する差別と切り捨ての上に成り立ったものであることについて、私たちはどれほど自覚的であったであろうか。実は私にも忸怩たる思いがある。
 今から三十年前、私が学生だった一九六五年、日韓条約が締結されたとき、日本の反対運動の側には植民地支配に対する視点が欠けていた。後に戦後補償問題を契機としてそのことに気づかされたのであるが、当時どうしてそのことに気づかなかったのだろうかと不思議でならなかった。
 今また、沖縄問題を契機として憲法第九条「戦争の放棄」は、沖縄の切り捨てによって始めて可能となったということを自覚させられて愕然としている。歴史認識は、このように様々なことを契機として渦巻状に深められていくのだと思う。(もくじに戻る)

       利権や上意下達に追従しない発言する議員をつくりだそう   
     
福士敬子(杉並区議会議員)



 不思議なのだが、あれだけ腹を立てた先の衆議院選挙が遠いものに思えてくる。
 一九八三年、既成の政党政治が市民生活より党の駆け引きを優先していることに疑問を感じ、「生活者の政治」をめざして議会入りした。以来、この基本の考え方は私の中で変わっていない。
 この間、生活感覚のある女性を議会に送る運動を続け、一時期護憲を掲げる社会党と連携しマドンナ旋風を巻き起こす土台も作った。その後、社会党が豹変し、自立しきれていない女たちが男の論理に右往左往してもあまりメゲた思いはなかった。これも「訓練」という思いが大きかったから…。
 ところが、衆議院選で行われた「小選挙区比例代表並立制」は、地域に一人の当選でリベラル無所属なんて消されてしまう。死票は多い、票数に比例しない落選者復活と本当に腹を立てつつテレビを見た人は多いと聞いた。それなのに怒りの声が伝わって来ない。
 次々と、政治家や官僚の腐敗が表れる。
 赤字財政の中で福祉費は自己負担に変え、住専や無意味な大型土木工事と、市民生活に関係ない税の無駄遣いが行われている。あまりにも怒ることが多過ぎて、怒りの渦の中で外に声をあげられなくなったのだろうか。
 九七年は都議選の年である。国に劣らず都政も赤字財政を抱えながら、高齢者や児童福祉を切り捨て、臨海開発や環七の地下に河川を造るという大型建設には税の投入も惜しまない。
 赤字の原因となった臨海開発は、都心の熱帯化を広げ環境破壊の一役を負うだけで、目的とされる一局集中の解消は望めない。しかし、議会もそれを追従している。この機会に、市民の感覚はあるのだろうか。
 今、本質的な市民代表はいなくなった。市民自身が怒りの言葉を発し、利権や上位下達に従うことなく発言する議員をつくる他ない。(もくじに戻る)

破防法団体適用・組織犯罪対策法を許さない“世論”をつくろう

山中幸男(救援連絡センター事務局長)


 九五年十二月一五日、村山富市自社さ連立内閣の下で閣議決定、官報公示された。
 オウム真理教に対する破壊活動防止法団体規制適用は、九六年一月以来の六回の弁明手続きを経て、公安調査庁長官により、公安審査委員会へ「処分の請求書」が提出され、公安審査委員会(委員長堀田勝二はじめ委員七名)は、九六年十二月一六日に公安調査庁と教団側からそれぞれ意見を聴く期日を入れた。
 集会・言論・結社の自由を侵す、日本国憲法違反の破防法の団体規制が制定以来初めて発動され、九六年末から新年九七年にかけて、いよいよ決戦前夜の状況にある。
 集会・言論・結社の自由を侵す、オウム真理教信徒の犯罪なのか、オウム真理教の犯罪なのか。坂本弁護士一家殺害事件をはじめ、松本サリン、地下鉄サリン等々、それぞれの事件と犯人を結びつけるものについての評価は刑事法廷において進行している。ことが「オウム真理教」との結びつき抜きに語ることのできない事案であるが故に、国家権力の側から破防法発動といった事態を前にして、他の悪法に反対してきた(そうであるが故に発動させてこなかった)側からの動きが今一歩弱いといった感じを持たざるを得ない。
 犯罪事実に対する断罪は個人に対して限るといったものでもない。なぜならば、自民党、住専問題、等に代表されるような政・官・財を結びつけるような、汚職・腐敗事件は、組織的、「○○ぐるみ」の犯罪として認識される。ならば、ますますオウム真理教のような集団に対して、破防法ではないんだ、組織犯罪対策法でもないという国民世論を作り上げていく運動が必要とされる状況である。
 昨年三月の警察庁長官狙撃事件の捜査の進行の中で、警視庁公安部長、警視総監の首まで飛んでいくような流動的事態の中で、獄中者の人権、「犯罪者」の人権を定着させていくような源はどこに求めていけばいいのか。二一世紀を間近に、救援連絡センターの課題は重い。 (十二月一一日記)

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