鳥は鳥に 〜Camomile milk tea〜 雪が舞い始めたのは、ちょうど『海』へと差しかかった時だった。 岩山の遥か向こうに、鳥の領域と人の領域を隔てる、ごく淡い乳白色の霧が見える。 凛として凍てついた、何処か厳かな気配に満ちた、暗い灰色の空。 その空の遠い彼方から、ちらちらと、真白い粒子が降りてくる。 地上へと還ってくるその粒子達に気づいて、僕はふと空を見上げた。 永い旅の中で、もう見飽きるくらいに、雪の降る夜道を歩いてきた。 なのに、その夜に出逢った粉雪は、不思議と僕の目を惹いて歩みを止めさせる。 くるくる、くるくる、まわりながら降りてくる、細やかな六角形の氷の結晶。 そのかたちが、まるで舞いあがる白い風媒花のように、今夜は妙にくっきりと映る。 (まるで、白い花みたいだ。) ぼんやりとそう思ってから、ふと、遠い昔に出逢った鳥のことを、思い出した。 「……そう言えば、今夜は冬至だったっけ。」 一瞬ふわりと漂って消える吐息と一緒に、無意識にこぼれた、僕の呟き。 僕は、そのまま白い花弁を見上げたままで、『海』の方へと歩を進める。 多分、この雪の花の贈り主であろう、あの鳥のことを想いながら。  *** 傷ついて森に倒れていた鳥に出逢ったのは、もう何年の前のこと。 僕が『旅人』の定めに従って、鳥達の世界を歩いて旅をしていた時だった。 空から墜ちて、凍てついた大地に崩れたその鳥は、真白い服を纏った娘の姿をしていた。 ひとりで消えようとしている鳥に、干渉してはいけない。 本来は、それが鳥の領域に立ち入ることのできる『旅人』達の掟だった、けど。 翼を傷つけた、あまりにも儚い娘の姿に、思わず僕は手を差し伸べてしまった。 −−貴方は、『旅人』?  目を醒ました鳥の娘は、ぼんやりと不思議そうに、こう呟いた。 「君達の世界を、ただ歩くことしかできないのだから、多分そうなんだと思うよ。」 何処か破綻した表現なのは承知の上で、僕はこう応える。 ひとりで旅をする鳥の本能を捨てきれないままで、翼だけを捨てた、中途半端な存在。 『旅人』とはそういうものだと、僕はずっと思っているから。 −−人かと、想った。何だか、懐かしい気がしたから。 僕の燈した灯の傍にしゃがんで、鳥はこんな風に僕に言った。 ふんわりと湯気の漂う、白い花のお茶を飲みながら。 「人に、逢ったことがあるの?」 −−わたしへと繋がった、遠い、遠い、誰かが。微かに、憶えているわ。 人の領域と鳥の領域の境界には、『海』と呼ばれる乳白色の霧が横たわっている。 人と鳥は離れて生きていて、どちらもこの『海』を越えることはできない。 中途半端な存在である、僕達『旅人』を除いて。 遠いはるかな昔、人と鳥はひとつだったと、伝えられている。 僕達には、地上に降りた鳥が人の姿に見えるのも、あるいはひとつだった頃の記憶なのかもしれない。 ふたりが別れる前の記憶。人も、鳥も、胸の片隅の何処かで、たぶん憶えている。 鳥は美味しそうに、僕が淹れたお茶を飲んで、すうと息をつく。 ちいさく、中心にささやかな黄色をたたえた白い花が、カップの淵に浮かぶ。 甘い香りを漂わせるその花から抽出された薄い黄色と、熱いミルクの白。 ふたつの色が溶け合ったその飲み物は、優しくほんのりと身体を温める。 −−助けてくれたお礼に、いつか、この飲み物と同じものを、貴方に届けてあげる。 「この花は、人の領域にしか咲いていない。君には、摘むことはできないよ。」 −−じゃあ、その白い花の飲み物に、よく似たものを、代わりに。 そう言って、鳥は音もなく、銀色の長い髪をなびかせて立ちあがった。 「もう、飛び立つの?」 −−冬至はもう過ぎたから。生まれる春を迎えにいくのが、わたしたちの定めだから。 −−もしも、何処かでわたしが消えてしまったら。 微かに、夜のように深い瞳を細めて笑って、最後にこう言い残して。 −−その時は、わたしから繋がった子供達がきっと届けるから。 生まれたばかりの陽が登る朝へと、暖かい春へと、鳥は夜天へと舞い上がった。 翼を持たぬ僕をおいて、ふわりと、雪のように白い軌跡だけを残して。  *** くるくる、くるくる、氷でできた白い花は降り続ける。 人と鳥とを分かつ、厳かな静けさに満ちたこの大地に。 ふと立ち止まって、雪の粒子が降りてくる空を、見上げてみる。 でも、無数の花のかたちが舞い降りる灰色の空には、あの白い鳥の翼は見つからない。 (確かに似ているけど、黄色い花の軸がないよ。) 少し微笑んで、見えない鳥へと心の中で呼びかけてから、再び僕は歩を進める。 後になって、あの鳥達の定めのことを、他の『旅人』から聞いた。 冬至の夜は、一年で最も永い夜。その静かで永い夜のさなかに、新しい春が生まれる。 春は少しずつ成長して、その度に夜は短くなってゆく。 そうして、大きくなった春は、やがて世界に満ちあふれる。 その春を迎えるために、あの白い鳥は冬至の夜に飛び立って、ひとりで旅をするのだと。 そんなことを思い出しながら岩山を越えた、その時だった。 不意に目の前に静かに広がった、乳白色の『海』の光景に、僕は思わず立ち止まった。 視界の低みに、淡い白色の液体のように漂う、一面の霧。 その霧に溶けるように、真白い雪の結晶が舞い降りる。 くるくる、くるくる、小さな花のように。 白い花が舞う、人と鳥を隔てる『海』のはるか遠くに。 ぽん、ぽんと、橙色の灯りが、ぼんやりと微かに燈っていた。 ちいさく、円く、あの花の黄色い軸のように。 「……なるほど。」 冬至の夜に、遠く人の領域に燈る、集落の灯り。 きっと、そのひとつひとつの灯りの下で、人々はささやかに祝っていることだろう。 平穏な一年の終わりへの感謝と、やがて来る穏やかな春を祈って。 鳥が届けた真白い雪の花。懐かしい、人の領域の黄色い灯り。 鳥と人を隔てる乳白色の霧の中で、ひとつになった白い花は、何処か僕の胸を温める。 まるで、あの白い花で淹れたお茶のように。 「確かに、届いたよ。ありがとう。」 その、思わずこぼれた僕の言葉に、応えるように。 すう、と、音もなく、何処からか白い影が夜天へと舞い上がった。 視界を横切った翼に気づいて、僕はすぐ呼びかけたけど、すでに遅かった。 もう、鳥は雪のように白い翼を広げて、舞い降りる雪の中、夜天の高みを駆けてゆく。 ひとりで、やがて来る春を迎えるために。 僕は、少しだけ微笑んで、白い花にうたれながら夜を駆ける鳥を見送った。 僕が逢ったあの娘だったのか、娘に繋がる子供だったのかは、わからないけど。 白い翼が見えなくなってから、僕はもう一度、目の前に降り続ける白い花を眺めた。 迎えるように橙色に燈る人の灯りは、まだ微かに僕の胸を温める。 その温かさに、微かな淋しさを覚えながら、『旅人』の僕は、鳥と人のことを、想う。 鳥には鳥の、人には人の、祈りや願いが込められた、永い冬至の夜。 その鳥と人を隔てる『海』の中に立ちながら、僕は僕の祈りを、静かな夜へと込める。 いつの日か、みんな、ひとつになれるように、と。                                    Fin.