百年の満月 「……まさか、博士が本当のことを言ってるとは思わなかった。」  まだ見知らぬ街の路地を、幾つか折れた袋小路にたたずむ、小さな店。  その前にぽつりと一人立って、僕は思わずそうつぶやいた。  僕は手にひろげたままの、何処かくせのある筆致で描かれた地図の紙片に、もう一度目を遣る。    飾り気のない店先のショーウィンドには、青や透明な乳白の、掘り出したままのような鉱石や、チェックや幾何学模様の色とりどりの絹の切れ端、碧や紅の細やかな鳥の羽などが、つつましやかに並んでいる。  だけどその硝子の飾り棚には、僕が、ひいては博士が求めているものは見つからなかった。  しばし迷いながらも、僕はそっと店の扉を開いた。  扉の鈴がちりん、ちりんと奏でた、軽やかな音に後押しされて、狭い店の中へと足を進める。  店の中には、客も店員の姿も見えなかった。幾つかの木製の飾り棚に目をやるが、品物はそんなに多くはない。  藍色の矩形に月や惑星が描かれたポストカード、星座早見盤、ミニチュアの銀色の天体望遠鏡。  割合としては空に関するものが多いが、眠る黒猫の陶器の置物、何故かゼリービーンズなんてものもあったりする。  そんな雑多な品達を、人がいないことにちょっとほっとした気分で、僕は眺めて店内を巡る。 「……驚いた。本当に、あったよ。」  店の一番奥、年代物のレジが乗ったカウンターの脇の、硝子箱の中。そこに、僕は探していたものを見つけた。  深い紺色をたたえた硝子製の円い蓋、そして一から十二の代わりに、旧い字体でN、E、S、Wの文字が四方に描かれた文字盤。  そして中心軸には希少な蒼い鉱石を据え、その周りを幾つかの歯車やぜんまいが取り巻き、ふたつの針へと繋がっている。  僕は、懐中というにはやや大きい、不思議な意匠の時計を、少しだけ感慨をもってしばらく見つめていた。 「その月時計、気に入った? 壊れているから、月は映さないのだけど。」  不意に、空のほうから低く柔らかい声が流れてきて、僕はびっくりして硝子箱に向けていた顔を上げた。 「でも、ごめんね、その時計は売り物じゃないんだ。大事な品物なのでね。」  声の方を見上げると、カウンター脇に隠れていた狭い木製の階段に、女の人がちょこんと座っていた。  組んだ膝にひじをついて、地軸くらいの角度に首を傾げて、面白そうに僕を見つめている。 「……ある人から、この月時計を直して欲しいと、依頼を受けて来たのですが。」  僕は何処か釈明でもするような心持ちで、言葉を返した。何故だか微かな緊張が走って、ほんの少し身体が熱くなる。 「ああ、じゃあ君が助手さん、だね。博士から手紙が届いていたよ。月時計を、直させて欲しいって。」  少し驚いたように目を開いてから、狭い段の上にすらりと立ちあがると、女の人は軽やかに階段を駆け降りてくる。  飾り紐で無造作に後ろに束ねた、腰ほどまである黒髪が、ふわりと軌跡を描いた。 「じゃあ、あなたが、『鳥』?」  目の前に立った女の人の瞳を見上げて、僕は確かめるように尋ねる。  濃紺のデニムをはいた足はすらりと長くて、瞳の位置も僕よりも数センチ高い。  女の人は、髪と同じように黒いその瞳を一瞬きょとんとしたように開いて、それから悪戯っぽく微笑って、ふわりと細める。 「博士が、そう言ってたんだ……面白いね。じゃあ、それがわたしの呼び名。君は『助手さん』で、いい?」     * 「ほう、留学が決まったか。どこの街だね? まあ、座ってコーヒーでも飲み給え。」  博士はいかにもくつろいだ風情でコーヒーを飲みながら、首を傾げて尋ねた。  僕は博士の勧めに応じて、椅子に座って、珍しく博士がいれてくれたらしき珈琲を一口のむ。  そのとたん、予想だにしないあまりの甘さに、僕は激しくむせ返った。 「角砂糖、六つほど入れておいたが、多すぎたかね?」  むせる僕に、博士はまるで悪戯が成功した子供のように笑いかける。  僕は中央都市の大学で、鉱石工学の助手をしている。  子供の頃から、鉱石の原石を集めたり、石に月や日の光をあてて反応させたり、鉱石のラジオとか細かい工作をするのが好きだった。  言ってみれば、その子供の頃からの趣味を、研究という名のもとに大人になっても続けてる、という言い方も、まあ、できなくはない。  それでも一応は歴史のある工学分野で、学ぶことは山ほどあり、実験にも慎重な準備と精密な測定が必要で、僕を含めて研究者達は決して遊んでいるわけではない。  とは言え、他の分野に比べると、何処か変な研究者が多いのも、また事実だと思う。変という言葉が悪ければ、子供っぽいと言ってもよい。  僕の指導教官である博士も、鉱石工学界では月鉱石の分野の権威なのだけど、子供っぽさでもまた、ある意味権威だった。  人柄は良いじいさんなのだけど、とかくたわいもないジョークで人をかつぐのが大好きで、特に助手として側にいる僕は、格好の獲物だった。  だから、遠い田舎街の大学への、短期間の研究留学が決まった時には、これでしばらく静かに研究できると、ちょっと嬉しかった。 「……不思議な偶然もあったものだ。」  僕が留学先を告げると、ちょっと驚いたように、博士はそうつぶやいた。  そうして、それまでは何か悪戯を考えている子供のような顔で話していたのに、急に研究者らしい真面目な表情になって、何かを考え込みはじめた。  何処か深刻そうに、旧い本棚にしまわれた研究書を読み解くような、遠い表情のままで。  そして、思考の淵から戻ってくるやいなや、博士はこんな風に切りだして、思いもよらぬことを語りはじめた。 「君に、ひとつ頼みがある。月読鳥の民とその時計についての言い伝えは知っているかね。」  月読鳥の民とは、遠い昔、北の国に住んでいた民で、鉱石工学でも、月に関わる鉱石の分野の研究者の間では研究対象の一つとされている。  彼らは、本来は空を渡る鳥の一族なのだが、冬の間や月の触の前後には、人間の姿を取って人里で暮らす。  そして、鳥の姿と人の姿の変化、空へと飛び立つ時とその道しるべ、そんな月読鳥の民の生命の全てを司るのが、月時計と呼ばれる懐中時計だと言われている。  彼らは、子供が生まれると、その子供のために月の鉱石を掘り出し、祈りをこめて、その鉱石を動力にした時計を創る。月時計は、天空の月の満ち欠けや影の力を映しだし、彼らに旅を続ける力と導を与える。  だから、一人の月読鳥の民に、一つの月時計。この絆は、彼らの生命と暮らしを、月が刻む時の旋律に繋ぎ止める礎のようなものだった。  だが、そんな彼らの礎が、やがて彼らの平和な暮らしを脅かすものを生む、格好の餌となってしまった。  その希少で工芸品としての価値も高い月時計や、月読鳥の民自身が持つ工芸の能力。  それは欲の深い人間に狙われる羽目となり、やがて彼らは、月が灰色の雲に覆われるように、歴史の流れの中で姿を消していった。 「あの街の、とある骨董屋に、ひとつ、壊れた月時計が眠っている。」  何だか講義のようだと思いながら、私がかいつまんで月読鳥の民の伝承を答えると、博士は静かにうなずいて、話を続ける。 「私は若い頃、君と同じようにその街に留学に行ったのだ。そこで、数少ない月読鳥の民に出逢った。」 「綺麗な、純粋な瞳をした、まだ若い娘だった。……その不思議さ、純粋さに惹かれて、私は彼女に恋をした。」  僕は、博士が語るとんでもない話に、驚いて博士の目を見つめた。その瞳には、あの悪戯っぽい輝きはなく、真剣な色が宿っている。 「月読鳥の民は、月時計が時を知らせたら、本来の姿に戻って遠く旅をする。だが私は、彼女を空へと還したくなかった。ずっと人の姿のままで、側にいて、欲しかったのだ。」  その、僕の視線を避けるように、博士はコーヒーカップを机に置き、立ちあがってくるりと後ろを向く。  微かに、煙草に火を点す音が、聞こえた。 「だから、愚かな私は、月時計を壊した。……そうして、彼女は翼を失って、今もあの頃の姿のままで歳を重ねながら、街に住んでいる。」 「……また、ご冗談を。留学の餞別に、とっておきのほら話を贈ろうと思っても、今度ばかりはそうはいきませんからね。」  僕は、背を向けたままの博士に、やや場の雰囲気に押されながらも、疑いの言葉を投げかける。  これまでだって、真面目そうに見せかけておいて、心の中ではあの悪戯っぽい表情をこらえていたことだって、度々あったのだから。 「確かに私は、いつも君に冗談を言って楽しんでるのは認める。だが、これから言うことだけは、真面目な、真実の頼みだ。」  だが、博士はくるりと振り向いて、静かな口調で僕の疑いの言葉を一蹴した。 「月時計を、直して欲しい。もう一度あの時計に、月を灯して欲しい。」      *  月時計は、一応持ちだす許可を取ってから、こちらからあらためて届けに行く、と『鳥』は言う。  その場では、ぼうっとしてしまっていてそのまま了解したのだが、後になって、彼女は僕の居住先も聞かないままでどうやって届ける気なのだろう、ということに気づいた。  身辺が落ち着いたらもう一度骨董屋に行こう、と思ってはみたものの、あの路地の奥の店、月時計、そして『鳥』と、何だか全てが夢の中の出来事だったような気がして、もう一度店にたどり着ける自信は、あまりなかった。  数日後、僕は宿を引き払って、大学へと足を運んだ。   研究棟の一角に居住区があって、留学生はそこに部屋を与えられる。その部屋の準備ができたと、大学から連絡があったのだ。  キャンパスはこじんまりとしていて樹木が多く、感じが良かった。木漏れ日が明かりと影を落とす小さな中庭を、若い学生達が楽しそうに話しながら行き交っている。  その大学としては割と小さな区画に、黄色く色づき始めた樹々に埋もれるように、教室棟、教務棟、旧図書館棟と、煉瓦造りの旧い建物が点在している。   その中の一つ、研究棟に赴き、教授や研究スタッフに挨拶をした後、居住区の部屋を教えてもらう。  教えてもらった部屋は、居住区の一番奥だった。ここも煉瓦造りで旧かったが、これから訪れる冬の冷気には強そうで、過ごしやすそうな建物だ。  そんなことを思いながら、ほっと一息ついて自分の部屋の扉を開ける。  その瞬間、驚きのあまりに、僕は思わず声をあげそうになった。 「こんにちは。月時計、持ってきたよ。」    部屋の椅子に座って、僕が開いた扉にくるりと振り向いたのは、まさしくあの骨董屋で出逢った、『鳥』だったのだ。 「どうやって、ここを……?」 「この街に大学なんてここしかないから、学生のふりして忍びこんで、助手さんの名前を頼りに大学内を探し回ってきた。」  僕のうわずった声の問いに、少し首を傾げて『鳥』はそんなことをしれっと言う。すっと立ちあがるのにつられて、長い黒髪がさらりと揺れた。  そんな『鳥』に、僕は何と返せばよいか言葉を見つけることができず、ただその場に荷物を置いて立ち尽くす。 「……というのは冗談。本当は私、ここの院生なの。しかも、専攻は助手さんとおんなじ鉱石工学。」  困った風で立ち尽くす僕を見て、くすくすと楽しそうに笑って、彼女は本当のことを明かす。  こういう所まで博士に似ているというべきか、優れた鉱石工学の研究者の素質を持っているというべきか。  それにしても、僕だって鉱石工学の研究者なのに、どうして常にだまされる側に回ってしまうのかと、ちょっと恨めしく思う。 「あ、そう……。」  僕は煙草は吸わない性なのだが、こういう状況では、煙草を吸える人がうらやましいと、よく思う。 「というわけで、よろしくね。」  悪びれる風もなく、彼女はすっと、細い手を差し出す。  完全に彼女のペースに乗せられた僕は、それ以上何も言うことができずに、つられて右手を差し出す。  人の姿をとった、『鳥』の手は、ほんの少し、暖かかった。     *  こんな風に、僕の留学先での生活は始まった。  講義を受けたり、図書館に調べ物に行ったりする時間を除いて、基本的には研究棟の鉱石工学の研究室にいることが多い。  居住区も研究棟にあったから、大半の時間は研究棟で過ごすことになる。これは、ある意味で効率的な環境で、僕には好ましかった。  ただ、留学前に思い描いていた静かな研究環境には、ちょっと程遠くなってしまった。  何故なら、鉱石工学の研究室にはたいてい『鳥』がいて、必然的に彼女と一緒に行動することが多くなったから。  もっとも、普段一緒にいて会話をしている限り、『鳥』は普通の大学院生とあまり変わることはない。  博士と同じくらい歳を重ねているとしたら相当な年齢のはずなのだが、彼女が何を想って今大学院生として過ごしているのかは、わからなかった。  他にも、遠い昔の博士とのいきさつのことや、月読鳥の民のこと、聞きたいことはあったが、結局、彼女には聞かなかった。  たぶん、それは決して聞いてはいけないことだろうと、僕は思ったから。     * 「確かに、これじゃ博士には直せないだろうなぁ。」  深夜の居住区の自室で、僕は、感嘆のため息をもらしながら思わずつぶやいた。  月時計は、細心の注意を払って青硝子の蓋をはずしてみると、とても綺麗で均整のとれた構造をしていた。  幾つもの細やかな歯車やぜんまいが繋がっていて組みあがっており、年老いた博士の目では、手を出すことはできそうにない。  慎重に調べてみると、幾つか部品の欠損や、工学的な不明点もあったが、機械としては直せそうな気が、した。  だが、根本的にわからないところも多かった。  最もわからないのは、中心に据えた月鉱石と、精巧に組まれた機械達。それが、どう繋がって光源を得て、正確な月の位置と形を映すのか。 「……博士は、何で今になって、月時計を直したいと思ったのだろう。」  研究棟の窓から、ぼんやりと月明かりが差し込んでいる。その明かりを眺めて、ふと『鳥』のことを考えながら、僕は想った。 「……『鳥』は、今でも空に還りたいのだろうか。」     * 「あれ、助手さん、知らなかった?」  この地方はかつては多くの月読鳥の民が住んでいたらしく、調べてみるといろいろなおとぎ話や伝承が今でも残っていた。  博士が話したのと全く同じ内容の、人と月読鳥の民の悲しい恋の話もあって、幾つかは芝居となって今も演じられているとのことだった。  『鳥』は骨董屋の帰り道、僕は食料の買い出しへと、二人で研究棟を出た時にそのことを話したら、彼女は意外そうな顔をした。  もう藍色に染まりかけた空、冷たい夜風のきざし。この地方の秋の夕暮れはずいぶん早い。  東の空には、微かに赤い、満ちた月が昇り始めていた。 「この街じゃ、結構人気あるんだよ。私のおばあちゃんなんか、月読鳥の娘の役を演じたらこの地方でトップだって、有名だったんだから。」  話から、彼女の祖母は、人の姿をとった時は女優をやっていたのだろうと推測できた。まあ、本物の月読鳥の民なら、演技も真にせまるだろう、けど。 「私だって、大学の演劇部で、月読鳥の娘の役、演ったことあるんだよ。歌も、歌ってね。」 「あ、そう……。」  誇らしそうに言う彼女に、僕は生返事を返す。頭の中では、全く別のことに想いを巡らせていた。  彼女の祖母は、月時計を壊されて鳥に戻れなくなった娘を、どんな想いで演じたのだろう、と。  「あ、助手さん、その顔は信じてないな。」  ところが、彼女はそんな僕の態度が不満だったらしい。  少し怒り加減で僕にこう言ったと思いきや、急に地面に荷物を置いて、すっと立ち、小さく呼吸をする。  そうして、人気の少ない大学の中庭で、ふわりと舞いながら、歌をうたう。        終わりの来ない夜を 願う恋人たちの    瞳はとても小さな 月でできてるね    まばたくたび満ちてゆく すべて忘れないために    あたたかく薫る闇を やさしく照らすために    百年が過ぎ 全て消えても    僕の想いこめて その月は昇るよ    青く水に沈んだ 庭にたたずんで    あなたを抱き寄せたなら 開いてゆく夜    指先はいつも脆い カタチなぞるだけ けれど    確かなものはすぐに この手を離れるから    夜の光に 浮かびだすもの    それだけを信じて あの月は昇るよ  中庭に灯りはじめた街灯の白い燈が、舞いながら歌う『鳥』を照らして、地面にしなやかな影法師を描く。  もう、永い時を人の姿のまま過ごして、空に還れないままで、いるのに。  夕刻の中庭に高く響く彼女の歌声は、無邪気で、力強くて、悲しみを感じさせない。  それが、僕の瞳には、よりいっそう切なくて、綺麗に映った。 「どうよ?」  気がつくと、少し照れくさそうな、それでいて何処か自慢気な表情を浮かべて、『鳥』が目の前に立っていた。   「……『鳥』、男役だったの?」  何だか、感じたことを言葉にできなくて、代わりにこんなことを言ってみる。 「もう、どうしてそうなるのよっ!」  彼女は少しむっとした風でそう言い放つと、背を向けて、さっさと街の方へと歩いてゆく。  その、遠ざかる背中に、僕は一瞬迷った後で、やや遠まわしな物言いで、こう尋ねた。 「月読鳥の娘は、やっぱり鳥の姿に戻って、空に戻りたいんだろうか。」  『鳥』は、少し驚いたようにぴたりと足を止める。その沈黙の隙間をぬうように、冷たい秋の夜風が、舗道低く通りすぎていった。 「……もし私だったら、やっぱり人の姿をしていても、鳥は鳥だから、と思う。」  振り向いて、ひざに両手をついて少しかがんで、彼女は答えた。 「そうか……。ねえ、『鳥』、どうして月読鳥の民は、人の姿をとるのだろうね?」 「たぶん、一人で空を飛びつづけるため、だと思う。」 「え?」  僕は、そんな彼女に追いつこうと軽く駆けながら、思わずきき返した。 「月読鳥は、多分、他の鳥達ほど強くないんだと思う。だから、人の姿をとって、出逢った大切な人達の想いを抱きしめて、はじめて一人で空を飛べるんだと思うんだ。」 「だとすると、もしかしたら、月時計も単に月の満ち欠けや方位を示すだけでなくて、想いを貯める充電池みたいなもの、かもしれない。」 「助手さん、その学説、きっと論文に書けるよ。」  楽しそうに目を細めて、彼女は両手を翼のように広げて、石畳の舗道を軽く駆ける。  北の街の、冷たい秋の夜気に、彼女の白い吐息が綿雲のように浮かぶ。 「逆に、助手さんだったら、どうする?」 「え?」 「助手さんだったら、もしも月読鳥の娘が好きになってしまったら、空へ還す? それとも、月時計を壊す?」  初めて出逢った時には束ねられていた髪は、今は彼女の軽やかな動きと通り過ぎる夜風に、さらさらと揺れる。  くるりと振り返ったその瞳は、まだ細められていたが、すこし真剣な、綺麗な黒を帯びているように、見えた。  どうして、この『鳥』は、ずっと人の姿のまま、空に還れないでいるのに、こんなに無邪気で、綺麗な瞳をしているのだろうと、想う。  月時計にもう一度月を点して欲しいと真面目な目で語った、博士のことが頭をよぎる。  結局、何も言葉を返せないまま、僕は舗道に立ち尽くす。  遠くに、先程よりもほんの少し高く、幾つもの街灯の白い光に混じって、満ちた月、ひとつ。 「助手さんって、優しいんだね。今、ちゃんと本気になって月読鳥のこと、真摯に考えてた。」  何も答えられないままの僕に、不意に目を細めて、『鳥』はクスクスと微笑む。 「……多分、臆病なだけだよ。昔から、そうだった。」  自分に少し嫌気がさした僕は、彼女から視線をそらして、無意識に月を見上げて、ひとりごとのようにつぶやく。 「鳥は鳥、助手さんは助手さん、だから。でも、優しいのと臆病なのとは、きっと、違うよ。」     *  月の回転周期に合わせて、真鍮の歯車の回転速度を調節して。  鉱石が蓄える、目に見えないほどに淡い青の光を、細やかな駆動部に繋げて。  自分の研究の合間に少しずつしか手を入れられなかったけど、それでも月時計は徐々にその機能を取り戻してゆく。  時はあっという間に流れて、小さな田舎街は、もう冬を迎えていた。  相変わらず、研究漬けの日々だったけれど、僕にとっては楽しい日々だった。  その要素の一つに、『鳥』との会話があったことは、否定できないのだが。  月時計は、既に時を刻めるまでに修復されていた。  カチ、カチと、時の経過を告げる規則正しい秒針の音色を聴いていると、この楽しい日々の終わりがそう遠くないことを、実感してしまう。  それでも、僕は『鳥』を空に還すために、少しずつ月時計を直してゆく。  まだ、彼女の出した問いに対する、解をみつけていないままで。     * 「舞い降りる雪は、言えなかった言葉なんだって。」  文献調査を終えて旧図書館棟を出た僕達の目に飛び込んできた、細やかな粒子に目を止めて。  僕は、ふと遠い昔の物語に綴られた一節を想いだした。 「そう、いつか読んだおはなしに書いてあった。」 「それは面白い学説だね。」  横目で僕を見て、少し首を傾げながら、彼女は僕に感想を述べる。 「言えなかったから、こんなに綺麗なのかもね。ほら、万華鏡みたいだ。」  突然、ふわりと微笑んで、赤いセーターの両腕を地球に水平に伸ばして。  宙を見上げながら、夜の大学のキャンパスで、彼女はくるくると円を描く。  彼女の腕の宇宙の中に、ふわふわと真白い言葉達が降りてくる。  氷の結晶となって、幾千もの、雪のひとひらとなって。  彼女の描く円の中で、言葉はくるくると回転し、幾重にも白い六角の像を結ぶ。  あたかも、無彩色の鉱石を封じた透明な万華鏡のように、刻々とその模様を変えて。  そうして、誰にも届かないまま地面に落ちて、そのまま薄れて消えてゆく。  暫く、楽しそうに自転していた彼女は、急に、その地軸をぴたりと停めた。  顔に降りる雪の冷たさにも構わずに、そらを見上げたままで。 「……なんだか、ひとの生命みたいだ。」  僕は、ただ黙って、そんな彼女の横顔を見つめている。  きっと、自らは変わらないままで、博士や、沢山の大切な人達が老いて消えてゆくのを見てきた、『鳥』の横顔を。  その時、ようやく僕は、はっきりと自覚した。  『鳥』に向けて、届くことのない僕のちいさな言葉が、確かにこの胸の内に生まれていたことを。  その、ちいさな言葉は、ひとひらの雪となって、ふわりと地面に舞い降りて、消えた。  「雪が、地面に降りて溶けてしまったら、もう、何も残らないんだね。みんな、一夜の幻なんだね。」  臆病な僕は、雪となってしまった言葉の代わりに、こんなことをつぶやく。  言えなかった言葉も、人の生命も、みんな微かな瞬きのように、すぐに過ぎ去って、幻燈のように消えてしまう。  そう想うと、僕はまるで宇宙に投げ出された塵のように、切ないほど、ひとりになった気がして、思わず瞳を閉じた。 「そんなこと、ないと思うよ。今は見えないけど、ほら。」  目を開くと、僕よりも背の高い彼女がすらりと立って、道しるべのように、天を指差していた。 「月がいつも見てくれてるから。」 「えっ……?」  聞き返す僕に、彼女はくすっと微笑んで、灰色の闇に包まれた天を、ほら、ともう一度確信を持って、指差す。 「雪が消えてもずっと憶えていて、いつまでも輝いてくれるから。だから、月読鳥の民は、月を導べにするんだよ、きっと。」 「……そっか。」  彼女は、いつか、月読鳥の民は強くないのだと思うと、言った。  だけど、月時計を手にした彼らは、きっとどんな鳥よりも、強い翼を持つのだろうと、僕はふと、思った。  彼らは、迷うことなく、いつも信じているから。  たとえ空の果てで自分が消えても、その想いをこめて、ずっと月は輝いてくれる、と。 「……きっと、だから博士は、もう一度月時計に月を灯したいんだと、思うんだ。」  ぽつりと冷たい空気に残した、『鳥』のそんなつぶやきを吸収して、一夜限りの雪は、まだ降り続いていた。     * 「助手さん、すごい。 まさか、本当にここまで直せるとは思わなかった。」  規則的な駆動音を奏でながら、時を刻み天球の月の方位を正確に示す月時計の内部機構に、彼女は見入っていた。  僕がこの街の骨董屋で、『鳥』に出逢ってから、半年近く。  月時計は、遠い昔の姿を、ほぼ取り戻していた。たったひとつの、機能を除いて。 「これならきっと、おばあちゃんも喜ぶよ。」  居住区の僕の部屋に遊びにきて、ずっと直りかけの月時計を見つめていた彼女は、はしゃぎ気味に、はじめて僕の方を見た。  そんな言葉に、僕は彼女の祖母のことを、ふと考える。  今は、飛べない孫を街に残して、遠い国へと旅をしているのか、それとも、もう亡くなったのか。  やはり、これも聞いてはいけないこと、のような気がして、僕は月時計へと思考を戻す。 「でも、どうしても月が灯らない。もう、全ての部品は揃ってるし、機械は正常に作動しているはずなのに……。」  残ったのは、蓋となる青硝子の半円球、外れたままの、首かけ用の銀の鎖、そして、月時計本体。  僕は、コーヒーを飲みながら、手掛りを求めるように彼女を見る。だが、彼女は静かに首を横に振った。 「でも、助手さんなら、きっと見つけられるよ。ここまで直せたんだもの。」  骨董屋へと帰る『鳥』を見送って、僕は少し冷めたコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。  まだ低い東の空に、満ちた月が昇っている。机の上の月時計を振り向くと、ちゃんと一本の針が、まっすぐその青白い輝きを指し示していた。  『鳥』にあの問いを出された夜から、ちょうど四度目の満月だと気づいて、僕はぼんやりとあの夜の会話を思い出す。  街灯と月明かりに映える、彼女の歌、月読鳥の民のこと、僕と、彼女の問い。 「……もしかして。」  不意に、僕はあることに思い立った。もしかしたら、あの夜、僕は自分で月時計の最後の解を言っていたのかもしれない、と。  僕は、月時計に外れていた銀の鎖をしっかりと付け、『鳥』を追って研究棟から冷たい月夜の下へと、駆けだした。  ここ数日降り積もった雪で、キャンパス内も一面真白に染まっていた。  青白い月影を受けて、雪が微かに銀色に輝いている中庭を、僕は白い息をはきながら、走る。  あの満月の夜に、僕は軽い気持ちで言った。月時計は、ひとりで空を飛ぶための、想いを貯める充電池のようなものだ、と。  ならば、月時計に月を灯して、彼女を空に還したいならば、多分、僕は想いを月時計に伝えなければならない。  博士のではなく、僕の、届くことのない、雪のひとひらを。  そう確信した僕の心の中で、あの満月の夜の問いに対する解は、もう自明になっていた。  中庭から街へと続く門の手前で、僕は何とか『鳥』に追いついた。 「どうしたの、助手さん?」  息を切らせた僕を不思議そうに見つめる彼女に、僕は答える。 「わかったんだ。月時計の月の答えと、ずっと前に君が出した、問いの答え。」  僕はそれ以上何も言わずに、彼女の首に銀の鎖に繋がった月時計をかける。  積もった雪に反射した淡い銀色の月明かりの中で、胸に青い月時計を携えて、すらりと立つ、彼女。  何だか、この一瞬にも、鳥の姿に戻って、夜天へと飛び立ってゆきそうな気が、して。 「きゃ……!」  満月が見ているその下で、そのまま、僕は、『鳥』を、静かに抱きしめた。 「……まさか、そうくるとは思わなかった。」  驚いて、ぽつりとつぶやいた『鳥』の身体は、硬くなって、少し震えているように、思った。  月時計が秒を刻む音と、それより少し早い旋律で響く、彼女の鼓動。  ほっそりとした背は、一夜限りの雪のように、手放せばすぐ消えてしまいそうな、もろくてはかない、人のかたち。  天球に灯る月の色のように冷たい夜の空気の中では、あまりにもささやかで、あたたかい体温を抱きしめて、僕は想う。  『鳥』が、ひとりでも空を飛んでゆけるように、月時計に想いを貯めるために、届くことのない想いを。  僕は、君のことが、好きだ、と。  その瞬間、僕と彼女の間から、まばゆい輝きがあふれでた。  まるで、何もない、暗い群青色の小さな宇宙に、星が生まれたみたいに。 「月時計が……!」  そっと体を離して、ふたりで青硝子の天球に生まれた、ほんの小さな輝きを見つめる。  『鳥』の手のひらに乗せられた、たったひとつの青い透明な夜空に、満ちた月が昇っていた。  博士の、そして僕の想いを込めた鉱石が、小さな天球の中心から、真白い光を放つ。  その底辺の大地では、幾つもの真鍮や銅や銀細工のぜんまいや歯車、光石が正確なリズムで自らの使命を果たす。   そして生まれた僅かな力が、秒の、分の、時の針を進め、時を刻み、満ち引きのリズムを伝え、そして月を動かす。  まるでそれは、月読鳥の民が空を飛ぶために創られた、たったひとつの、小さな宇宙のようだった。  そうして、その宇宙を巡る月は、自らが壊れない限り、無数の時を刻みながら、想いを乗せて青硝子の天球を巡り続ける。  いつか『鳥』がこの世から消えても、たとえ百年の時が、過ぎても。 「何だか、あまりに綺麗で、せつないね。」  小さな満月を見つめたままつぶやく、『鳥』。  僕は、そんな『鳥』の瞳を見つめて、あの問いの答えを言葉につむぐ。もう、答えは決まっているのだから。 「やっと、博士の頼みも果たせた。『鳥』、これでやっと、空に還れるね。」 「……もし私が本物の『鳥』だったら、お芝居の役みたいに月読鳥の娘だったら、そうだね。」  そんな僕の言葉に、『鳥』は少しきょとんとして、やがて思いもかけない言葉を、返した。 「……え?」  僕は、心底驚いて、彼女をまじまじと見つめる。彼女も、何があったのかといった風で、不思議そうに僕を見つめ返す。 「『鳥』、君は正真正銘の、月読鳥の民じゃないの?」  彼女は黒い瞳をまんまるに見開いて、きょとんとして何を言ってよいかわからぬ風情で、ゆっくり首を横に振る。  その信じられない彼女の答えに、僕の頭脳は混乱を極めながらも、この状況を把握するために風車のように急回転を始める。  やがて、鉱石工学の研究者としての僕の思考は、信じたくない一つの解にゆきあたった。  心底認めたくないが、全ての思考の針が指し示している、解に。 「……あの、くそじじい!」   *  近くの立ち売りの店で二人分コーヒーを買って、寒空の下、中庭のベンチで月を見ながら、僕は博士の話したことを全て話した。  遠い夜空を目指して、カップから細くて白い湯気が舞い上がって、寒い空気へと同化してゆく。  彼女は、僕の話を聞いてから、ずっとくすくすと笑っている。 「博士の仮説と助手さんの解釈には、合わせて三つの誤りが存在します。その誤りを、観測される事象から導きなさい。」  まだ楽しそうにくすくす笑って、少し瞳に涙を浮かべながら、『鳥』は僕に問いを掛ける。 「『鳥』が、月読鳥の民ではないこと。博士が恋をしたのは、『鳥』ではなくて、『鳥』のおばあさんであること。……あれ、あと一つは?」  僕はこの後に及んで、まだ何かだまされているのかと、必死に解を探す。  だが、そんな僕にくすっと微笑んで、彼女は意外な三つ目の解を示した。 「月時計を壊したのは、博士ではなくて、私のおばあちゃんであること。」  一足先にコーヒーを飲み終わって、彼女はすっと立ちあがる。  天上にひときわ強く灯る、本当の満月の明かりが、彼女の形の影法師を寒々しい地面に描く。 「月時計は、おばあちゃんの旧い友達だった月読鳥の民の、形見だったの。」  ようやく笑い止んだ『鳥』が、新しい仮説を、今度は逆に僕へと話す。 「おばあちゃんは、その月時計を舞台に持って、友達のことを思いながら月読鳥の娘を演じた。そして、その娘と、若い鉱石工学の学者が恋に落ちた。」 「その学者は、もう動かなかった時計を復元して月を灯したの。そんな月時計は二人にとって大切な、想い出の品だった。」  彼女の仮説に、僕は少なからず感慨を抱かずにはいられない。僕が半年かかって導き出した答えを、遠い昔、同じように博士が解いていた、事実に。   「でも、最後には、学者は自分の研究を究める夢のために、娘と別れた。その時に、娘が月時計を壊したんだ。」  話し終えると、彼女は少しほっとしたように、空気にちいさな白い吐息を浮かべて、もういちどベンチに座った。 「今では、おばあちゃんも後悔してる。……きっと、博士の月をもう一度灯したいという願いだけは、嘘じゃないと、思う。」  そんな彼女の言葉に、僕はあの日の博士との会話を思い返す。  そういえば確かに、頼みを僕に話す前に、博士は言っていた。これから話すことだけは、真実の頼みだと。  つまり、僕に頼む前の、月読鳥の民の話は、全てほら話だったというわけだ。  そんなほら話を打ってでも、僕に頼んででも、月をもう一度灯したかった、博士。 「でも助手さん、もし私が月読鳥の民だったら、これだけ部品が揃っていればとっくに自分で直せてると、思わない?」  そんな僕の物思いをよそに、彼女はまた思いだしてしまったかのように、くすくすと楽しそうに微笑む。 「……確かに。」  答えつつも、気づかなかった自分に思いっきり腹が立ってきて納まらない。  さらに、臆病だったために、本当のことを何も彼女に聞きだそうとしなかった自分に。 「ごめん、怒った?」  黙りこんだままの僕を気遣ってか、彼女は笑いを止めて、僕の顔を覗きこむ。  そして、ふと思いついたように、首に掛かったままの月時計を手にして、もう一度月を灯す。  ベンチの真中、僕と彼女の間の空間に生まれる、小さな夜空。 「ねえ、ちょっと私の目を見て。……私の瞳の中に、満月は幾つある?」  言われる通り、僕は彼女の、綺麗な黒の瞳を見つめる。ひとつの瞳に、ひとつの月。両の瞳で、ふたつ。 「月は、ふたりの想いから構成されていると仮定します。すると、一つの月は博士とおばあちゃんのものと推定されます。」  ここで、『鳥』は、一瞬迷ったように言葉を切って、そして、少し早口で、僕に問いを掛けた。 「……では、もう一つの月は、誰と誰の想いから構成されているか、解を導きなさい。」 「え……?」  僕が、彼女の問いをまだ解釈しきれない隙に、彼女はすっと立って、雪の残る中庭を街の方へと駆け出し始めた。 「ねえ、早くおばあちゃんに、月時計見せに行こう!」  僕は慌てて、残ったコーヒーを飲み干して、彼女の後に続く。  彼女の胸で揺れる、ちいさな天球に灯った、ふたつでひとつの月を、導にして。  気がつくと、僕達を包む大きな天球の満月は、いつの間にか、随分高くに昇っていた。  あまねく照らし拡散して淡くなった、満月の月明かり、彼女が駆ける舗道に灯る、街灯達の明かり、そして、彼女の月時計の明かり。  その光の中を、彼女を追って駆けながら、僕は心の内で、そっと祈る。  博士、僕、『鳥』、『鳥』の祖母。そんな一夜限りの雪のひとひら達。  その短い生命の想いを、願わくば、あの天空の満月が、ずっと憶えているように。  そして願わくば、朝を迎えて僕達が消えた後も、十年、百年が過ぎても、僕達の灯した満月が、ずっと光を灯し続けるように。  今宵の満月の下、舗道を駆けながら、そう、僕は祈る。