harvest rain  蛍石を含んで微かな青に色づいた、鉱物質の乾いた大地を揺らして、幾十ものエア・キャラバンが駆けてゆく。  微かな青に覆われた移民星の大地の上で、新しい仮の宿りを、あるいは終の住処を求めて旅を続ける、機械仕掛けの隊商。  そのとある一台の幌にもたれて、淡い眠りに就きながら、少年は夢を見ていた。  少年が幼い頃、旅のさなかで捨ててきた遠い土地での、記憶の欠片を。  −−この地が、僕が、君達を受けいれたら、僕は君に逢えなくなる。  背を向けて俯いたもうひとりの少年の胸から、ぽつりと生まれた言葉。  その言葉は、まるで雨の最初の水滴のようにぽつりとこぼれ、後から、後から、降り注ぐ雨のように、胸の内から想いを溢れさせる。  −−だけど、僕は君に逢うことができなくなるのは、嫌なんだ!  −−でも、君が受け入れてくれなかったら、僕達はこの地から旅立つしか……。  夕暮時に巻き起こる、ほんの数刻で消え去ってしまう激しい雨のように不意に叩きつけられた言葉に、少年は戸惑いの言葉しか返せない。  少年のそんな戸惑いの言葉に、少し肩を震わせて、微かに鉱石のような青を含んだ髪をさらりと揺らして、もうひとりの少年はゆっくりと振り向いた。    −−怖いんだ。君にも逢えずに、たったひとりで人をずっと育んでいけるのか……。  髪の色と同じ青を帯びた瞳に不安を映して、ぽつりとその少年は呟いた。  自らの選択によっては、その小さな肩に背負うことになる、重い責任を目の前にして。  その瞳に、未だ戸惑いのなかにいた幼い少年は、何も応えてやることはできなかった。 互いの瞳を見つめあったまま流れた数瞬の沈黙、それが青い髪の少年に、もうひとつの選択を決意させた。  −−受け入れなければ、いつかまた君に逢えるかもしれない、だから。  きっとそれは、何も言葉を返してやることができなかったから。  −−だから僕は、人をこの地に受け入れない。人を潤す雨を、この空に呼ばない。  不意に、船体が大きく後ろのめりに揺れて、それが少年の記憶の残像を断ち切った。  胸に疼くような夢の余韻からまだ醒めない瞳で、少年はぼんやりと窓の外を見る。 眠気を誘う微かな振動だけを伴いながら流れて続けていた、何処までも続くかのように思えた淡い青の荒地は、何時の間にか車窓から消えていた。 「ほら、いつまでも寝てないでいいかげん起きな。この丘を越えれば、もうそろそろ見えてくるはずだよ。」  後方でもぞもぞと動き出した少年の気配に気づいて、キャラバンの舵を取っている初老の女性が呼びかける。  年齢の割には力強い張りのあるその声に、ようやく夢の残像からはっきりと醒めた少年は、積荷をよけながらもぞもぞと船体の前へとはってゆく。  プラスチック製の樽に詰め込まれた、沢山の穀物や牧草、新たな実りを生む種子、疲れを癒す果実の酒。梱包や移動する手段は機械仕掛けとなってすっかり様変わりしていても、人々が生きるために運ばれるその中身は、遠い祖先の頃とあまり変わることはない。  ようやく運転席までたどり着いて、モニターに映しだされた電子方位計に周辺の地図、そしてキャラバンの正面の風景を覗き見る。 「土と砂ばかりで、ろくに草も生えてない。こんな所に本当に住めるの?」  前方を駆けるキャラバンの砂煙に霞みながら、目の前を流れてゆく乾ききった殺風景な台地を眺めながら、ぽつりと少年は呟いた。 「そこが開拓の民の腕の見せ所だろうに。そんな弱音を吐くくらいなら母さん達と一緒に残ればよかったものを。あそこは良い土地だったと思うけどねぇ。」  太い右腕で円い舵を動かしながら、少しうそぶいた風で少年の祖母は応える。   「そんなこと言いながら、ばあちゃんだってはなから定住する気なんかないくせに。」  軽くはき捨てるように呟いた少年に、気にする風でもなくモニター上の地図を眺めて肩をすくめる初老の女性。  彼らはこの移民星を旅する、開拓の民達だった。 「母親と別れてまで選んだくらいだ、お前も当分旅からは離れられないかもしれないねぇ。」  そんな祖母の言葉には応えずに、少年は運転席の脇の硝子窓を開けて顔を出した。とたんに乾いた緩い風が、短い前髪を撫でる。  窓のすぐ下では、船体が吹き出した空気に砂の粒子達が巻き上げられ、揺らめく水面のように周囲に漂っている。その淡い青の砂煙をつき抜けて、時折ざわめいた波のように丘陵の斜面や岩場が流れ去ってゆく。  波の振動を感じながら、何だか海原に漂流する小さな船みたいだ、と思う。  集落に定住した母親のこと、開拓の民のこと、そして、先程の夢の欠片のこと。  暫くの間、繰り返す砂の波穂にぼんやりと想いを漂わせていて、ひときわ大きな隆起を乗り越えた、その時だった。  さらりと、急にそれまでとは違う、微かに温かい風が少年の頬をとらえた。 「ほら、見えてきたよ。」  ひときわ大きな傾斜を越えたその先に、彼らがまたひとつ集落の種子を植える、新たな大地が広がっていた。  モニターの正面には、乾いた淡い水色の空を鋭角に切り取って、赤褐色の嶺が遠く、遥かな南の方角へと連なっている。  その無数に連なる嶺の狭間を抜けた水流が、幾百もの時を経て岩や大地を削り取って生まれた、ほんのささやかな緩い傾斜の谷間が広がっていた。  この移民星に人々がやって来た時代よりもずっと遠い時間に、海へと還るためにこのささやかな谷を切り出した水の粒子は、今では乾いた空の高みへと昇華してしまい、もう何処にもいない。  その跡にはただ、水滴とひとときの旅を共にした、削られた赤い褐色の土だけが谷に取り残され、淡い青の砂と交わって横たわっている。  創り主を失った、そんな小さな谷間は、南に広がる山裾とキャラバンが越えて来た北側のなだらかな丘陵に抱かれて、乾いた眠りに就いていた。 「先発隊の調べだと、かなり深いけれど水脈はありそうだと言っていた。だから最低限の飲み水は確保できそうだけど、問題は雨が来るか、かね。」  少年の祖母が、キャラバンの下方に息づく谷間を眺めて、楽しそうに言う。  その声を聞きながら、少年は前髪を撫でる風の感触を、暫く感じとっていた。  少年の元に届く、僅かに湿り気を帯びた、微風。  それは、かつて水の流れが作り出した小さな通り道を抜けて、暖かな南方の海から旅を続けてここまで来た、この谷の風。  その風の感触は、何処か無邪気でいて、少し警戒している、何故だかそんな気がした。 土の見た目も、流れる空気の匂いも、確かに悪くはないと思う、けど。  −−この土地には、たぶん、いるんだ。  そんな頬に当たる風の感触に、少年は心の中で、ぼんやりと確信した。 「そうそう言い忘れていた。集落造りが落ち付いた頃に、研究員さんが都市から派遣されて来るそうだよ。うちの天幕に迎えるから、おまえちゃんとお世話するんだよ。」  その少年の思いに水をかけるように、しれっと付け加えられた祖母の言葉に、少年は露骨に苦い表情を浮かべて、祖母の方を振り向く。 「まあ、そう嫌そうな顔するんじゃないよ。今回は気象官さんだそうだから、もしかしたら雨を特別に降らせてくれるかもしれないよ。」  ちらりと横目で少年の表情を窺いながら、祖母は豪快に舵を回して船体を谷間へと下させてゆく。  −−本当に大切なのは、雨じゃない。  舵を取って楽しそうに冗談を言う祖母に、少年は心の奥でそっと、反論した。  −−全てを決めるのは、その土地が僕達を受け入れるか、ただそれだけなのだから。    *  低層の淡い水色に、ひとすじの薄く噴出した水素の軌跡を残して、小型の観測艇が空を駆けてゆく。  丸みを帯びた小ぶりの船体に、真白い双つの翼。その翼の両端には、夜間飛行用のシグナル・ライトがひとつずつ備えつけられている。   「『燈火』より、気象局観測艇コントロールセンターへ。本艇は約十二分後に目的地に到着します。付近の気圧と気流のデータ、送信します。」  観測艇の名を告げて、娘は遠く離れた都市へと通信電波を送信した。  主に夜間観測向けに使われる、『燈火』と書いて『あかり』と読むこの観測艇を、娘は個人的に気に入っていた。  この艇で夜間観測の任に就くと、何だか燈したランプを両手に持って、のんびりと空を散歩している気分になるから。  だから、今回の長い出張でも、少々無理を言って一緒に連れ出してきた。  ピロッと高い電子音が鳴って、返信電波の受信を娘に告げた。緩やかな円弧を描くよう舵を軽く切って機体を旋回させながら、片手で耳元の通信片のスイッチを入れる。 「やあ、辺境への観測出張お疲れ様、ヨシノ君。」 「お父さ……局長!」  水色の通信片へと、都市から空気を駆けてきた電波が届けてきた予想だにしない声に、娘は思わず驚きの叫びをあげた。 「うん、現地測定の方はあまり根を詰める必要はないから、休暇旅行のつもりでゆっくりしてくるいい。」 「これも任務ですから、そういう訳には。」  のほほんとした緊張感の無い、組織の長の声に、思わず眉間を抑えてつぶやく。  そんな気象官の娘の苦々しげなつぶやきを気にするでもなく、あくまで穏やかに届いてくる局長の声。 「その方が、きっと君にとって良い勉強になるよ、ヨシノ君。」 「……了解しました。」  取りあえず応えておいて、娘は自分からさっさと通信を切断した。 −−何が「ヨシノ君」よ。全く、昔っから公私混同ばかりなんだから。  娘は、思わず心の中でぶつぶつと文句を呟いた。自分の父親ながら、相変わらずのほほんとしていて、何を考えているのか判らない。  気象局にはもっと頭が切れる有能な研究員が沢山いるのに、どうしてあんな人が局長にまでなったのだろうと、思う。  軽くため息をついてから、観測艇の遥か下方に広がる大地を眺める。  凪いだ海面のように広がる、淡い青色の砂丘。樹はおろか、緑色の植物が育った痕跡さえ見当たらない、乾ききった荒地。  こんな土地で、ずっと旅を続け集落を建てる開拓の民達は、どうやって暮らしを成り立たせているのだろうと、乾いた大地を眺めたまま想いをはせる。  開拓の民は、システムにより制御された都市から遠く離れた荒野を、集団でキャラバンを組んで移動する。そうして旅のさなかに人の宿る新たな土地を探しては、そこに集落を創る。  農耕や遊牧といった、遠い昔からの原始的な手段を用いて営まれる集落がその大地に根付けば、ある者達は集落を育む者としてその土地に定住し、またある者達は彼らと別れ、さらなる仮の宿りを求めて旅を続ける。  大地が枯れ、集落が根付かなければ、造りかけの人の営みは再びもとの荒野へと還ってゆき、開拓の民は新たな土地へと離れてゆく。  そうして終わりなき旅を続ける彼らがこの星に残してゆく集落の種子は、何時か永い永い時間をかけて繋がり、新たな都市へと育まれてゆく。 −−そう言えば、今回の観測出張を企画したのも、局長だって言ってた……。  地質学や博物学の研究所では、移民星の調査のために、辺境での暮らしに慣れている開拓の民のもとに、研究員を長期派遣するケースは多い。だが、無人観測機や、空挺からの観測を主とする気象官が、こんな長期での観測に就くことは、あまりなかった。  ましてや、入局した当初は局長の娘と見做されていた自分が、人一倍勉強して、女性ながらに念願の空挺観測課に配属されて、やっと仕事が認められるようになってきた時期だと、言うのに。 −−いったい、あの人は何を考えているのだろう……。  もう一度軽いため息をつきながら、娘は『燈火』の両翼のフラップを操作し、着陸の態勢を整える。緩い円弧を描く右翼の影に、小さな谷間に寄り添うように建った、開拓の民達の天幕が見えてくる。  着陸を示すシグナルを双つの翼に灯して、観測艇を大きく旋回させながらゆっくりと降下する。南の方角に連なる山々から、ほんの微かに降りてくる湿った風を、コンソールの計器が捉えた。  その急な計器の変化に、確かに観測地点としては面白いかもしれないと、気象官としての興味を少しだけ覚えつつ、南側の谷間に目をやった、その時。  谷間を埋めて、淡くもはっきりと輝く、白。  その大地の白は、ほんの一瞬だけ娘の視界をかすめて、儚い幻のように娘の脳裏に残像だけを残して、消えた。  慌てて翼の通り過ぎた軌跡を振り返るも、後にはただ、赤褐色の斜面が広がるばかり。  錯覚だったのか、と思ってみても、乾いた谷間に降りたあの真白い大地は、くっきりと娘の記憶のフィルムに焼きついている。  まるで祈る民のささやかな祭壇のように、慎ましくそこに在る綿のような白色。    あの白はいったい何だろうと、次第に薄れてゆく残像を心の奥で見つめる。  ひとつだけ、思い当たるものが、見つかった。 「……もしかして、雪? まさか、そんな……。」  娘の胸のうちから、無意識に呟きと思考がこぼれてくる。こんな乾いた暖かい土地では、雪を積もらせることなど今の気象局の技術では到底不可能だろう。  でも、もしかしたら局長なら、あの父ならば、やりかねない、と思う。  何と言っても、この移民星にはじめての雪を降らせた、張本人なのだから。  あるいは、局長は最初から何かを知っていて、自分をこの谷に派遣したのだろうか。  その疑念にしばし想いを巡らせてから、やがて娘はそっと首を振って、諦めて無線通信機のスイッチを入れた。 「開拓の民のエア・キャラバンへ、応答願います。こちら気象局観測艇『燈火』。本艇はこれより集落の外れに着陸致します。宜しくお願い致します。」    *  無線通信に応えた、張りのある女性の声に従って、集落の東の外れの、まだ創られて間も無い畑の傍らに観測艇を降下させた。  風防を開けると、砂っぽいざらざらした風が娘の黒髪をさらさらと撫でた。  白い研究員の上着をはおって、操縦席から大地へと降りる。靴の裏に、さくっとした砂混じりの土の感触。  『燈火』の機体の冷たさに背を預けて、風景を眺めながら無線の交信相手を待つ。  観測艇の降下に気付いた子供達が数人、物珍しそうに、遠巻きに機体と娘を見ている。  軽く会釈すると、遠慮がちに笑って、少しだけ機体に近づいてきた。  みんな頭や肩口に、幾何学図形や動物のシルエットをあしらった、砂よけの布地を巻いている。  土や砂で微かに紅く汚れたショールのその模様は、故郷の惑星での、遠い歴史の果てから繋がってきた、遊牧の民の意匠。  そんな布地を纏った、黒い瞳の素朴な子供達を見ていると、気象官の白衣をはおってここに居る自分が、何だか酷く場違いな気がしてくる。 −−何故、私はこんなところに居るんだろう。  一瞬、目の前の風景や子供達に、任務を忘れて、そんなことをぼんやりと想う。  あまりにも遠い場所に居る自分に、ふと心細さを憶えて。  そんな娘の物想いを、嬉しそうにはずんだ力強い声が、破った。 「まあ! 無線で届いた声が妙に可愛らしいと思ったら、娘さんだったとはねぇ!」  気がつくと、娘の目の前に太った初老の女性と、小柄な少年が立っていた。 「はじめまして、私は気象局空挺観測課のヨシノと申します。約二ヶ月の観測の間、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。」  慌てて気象官としての自分に戻って、迎えに来てくれた二人に挨拶の言葉を述べる。  そんな娘に、何処か懐かしそうに、嬉しそうに目を細めて、初老の女性は応えた。 「あたしはトキ。トキばあさんって呼んでくれればいいよ。二ヶ月ってことは、ちょうど初夏の祭りの頃までだね。それまでよろしくねぇ。」 「お祭りが、あるのですか?」  トキの楽しそうな物言いに、娘は少し首を傾げて尋ねる。 「ああ、私達開拓の民はどんな土地にいたって、秋の収穫を祈って五の月にはみんなで祝うのさ。せっかくだから祭りが終わるまでゆっくりしていくといいさね。」  がっしりとした温かい手で、娘の細い手をしっかりと握りながら、トキは笑った。 「こっちはあたしの孫だよ。この子があんたのお世話をするからね。ほれ、気象官さんに挨拶しな。」  初老の女性に背を押された、傍らの少年がじっと気象官の娘を見つめる。  先程の子供達と同じ黒の瞳に、素朴さではなく、静かな冷たさを浮かべて。 「あんた、農作業はできるのか?」 「……え?」  少年の、挨拶代わりの思いもかけない言葉に、娘は思わず小さく聞き返した。 「僕らは、この土地で生きていけるかどうかの瀬戸際なんだ。農作業もしない研究員なんかを、養ってゆく余力なんて、ないんだ。」 「これ、またお前は! 気象官さんには気象官さんの、大切な仕事があるんだ。判ってもいないくせに生意気なこと言って、邪魔をするんじゃないよ!」  慌てて初老の女性が少年を諌める。だが、その声にもひるまず、少年は冷たい瞳で気象官の娘を見据える。  辛い環境に生きる開拓の民として都市の気象官に向けられた、疑念を秘めた瞳で。  その少年の瞳に、何故か、娘は自分が気象局に入った頃のことを思い出した。  最初の頃は、誰もが自分のことを、局長の公私混同で入局した飾りのようなものだとみなしていた。口には出さずに、娘を見るその瞳の表情で、声もなく語って。  そんな苦い思いに、ふと、着陸する前に届いた局長の言葉が重なる。 −−私は、休暇旅行のつもりなんかでこの地に来たわけじゃない。  気象官としてこの地に派遣されたからには、何かを学ばない限り、局には帰れない。  さっきまで憶えていた心細さは消えて、代わりにそんな静かな覚悟が、娘の心の内に、芽生えた。 「いえ……やります。やらせてください。」  気象官の娘は、かがんで少年の黒い瞳をまっすぐに見て、落ち着いた声で答える。  足元で、娘の白衣の裾が、この谷の赤褐色の土にさらりと触れた。 「あなたが、私に農作業のことを教えてくれるなら。」   *  早朝の風は、荒地の蛍石質の砂を連れて、北側の丘陵を越えて吹いてくる。  夜気を残して谷間へと降りてくるその風は、春とは言え冷たく頬をかすめる。  おそらくこの北風は、昼夜の温度差から生まれた、砂の荒地を行き来する近場の風だろうと、思う。少なくとも、遠く旅を続け、大きな天候の変化をもたらす季節の循環風ではない。  澄んだ空気の冷たさに、白衣をはおった両肩を少し縮めながら、そう娘は分析した。   「ヨシノさん、その格好で作業したら、せっかくの綺麗な白衣が汚れちゃうよ。」 「……実は、これしか外着を持ってこなかったんです。」  トキの驚きの声に、少し恥ずかしそうに俯きながら、娘は応えた。 「あの子の言うことなんて、真に受ける必要はないんだからね。無理はいけないよ。」  そんな気遣いの言葉に軽く微笑んで、気象官の娘は弱い北風がさざめく、淡い色の空を見上げた。早朝の無垢で冷たい空気のおかげか、昨日よりも気分は落ち着いている。 「でも、この地のことを自分の身体で調査して学ぶのが、私の任務ですから。」  そう言い残して、両手に錆びた鉄の容器をさげて、少年とふたり井戸に向かう後ろ姿を見送りながら、トキは懐かしそうに少し目を細めて、呟いた。 「やっぱり、局長さんの娘さんだねぇ。」  縄に結わいた容器を、開拓の民が掘り起こした井戸の底へと落としてゆく。  乾ききった大地の深みを、血液のようにさらさらと流れてゆく、細い水脈。  遠い何処かで天から大地へと墜ちて、暗い大地の懐を旅して海へと還りゆく水の流れを、鉄の容器で掬いあげる。循環を妨げられ抵抗する水の重みが、両手にずっしりと伝わる。  水を湛えた鉄の容器を、両手にひとつずつ持つと、重みで思わずよろけそうになる。  こんな風にして、娘と少年は、集落の井戸で水を掬っては、外れにある畑まで何度も水を運んだ。  白の上着をはおって水を運ぶ研究員の娘の姿に、井戸に集った開拓の民の物珍しげな視線が突き刺さる。最初はその視線が少し気になったが、何度も重い水を運んで往復するうちに、気にする余裕すら娘にはなくなっていた。  ようやく畑を潤すために必要な水を運び終えた頃には、娘の手のひらは赤く痛み、両腕は水の重みを支え続けた疲労で、じんじんとうずいていた。  ひび割れた褐色の土のたもとから、花や実を結ぶために、弱々しくもその緑の葉を空へ向かって広げる畑の作物達。  そんな作物達に、散水機が高い噴出音を奏でて、僅かばかりの水滴を降り注がせる。育とうとするその根や葉を、そっと元気づけるように。 「気象局が、もっと雨を降らせてくれれば、こんな苦労も要らないんだがな。」  しゃがみこんだ娘の隣で、疲れも見せず立ったまま散水を眺めていた少年が言った。 「降雨艇の派遣は、どの土地も平等に一、二ヶ月に一回という規則があるから。」  土がつかないように裾をたくしこんでしゃがんだ娘が、ぽつりと応える。 「乾いた辺境で、水が足りなくて苦しんだあげく、土地を捨てる民がいても?」 「……たとえ、この土地で水が足りなくなったとしても、特例を作る訳にはいかないわ。」  そう答えながらも、もしも自分がいるこの地に水が足りなくなったと知ったら、あの局長は雨を降らせるのだろうかと、一瞬娘は心の中で考えてしまう。 「それに、雨を少し降らせるだけでも、膨大が資源がいる。気象局だって万能じゃないわ。」  棘のある少年の言葉に、少し言葉を詰まらせつつも応えて、娘は作物の葉にそっと触れてみる。緑色の薄い葉の表面に、ちいさな滴が転がって、地面に落ちた。 「この葉は、どんな作物を実らせるの? 花は咲かせるの?」  ふと、このちいさな葉のことを知りたくなって、娘は尋ねた。 「この畑は全部ジャガイモだ。夏になれば白と薄紫の花をつける……育てばだけどな。」 「夏じゃ、私は見れないなぁ……。じゃあジャガイモは花が落ちた後の、実なんだ。」 「……ジャガイモは実じゃない。根だ。」  少しあきれたように気象官の娘の横顔を見て、少年は訂正した。  耕されて空気を含んだ、裸の畑に入る。靴の底にきゅっと、ふくらんだ土を踏みしめる感触。  波穂のようにでこぼこにうねる畦の上に、少年と娘に両端を握られたロープが、真っ直ぐな直線を刻む。等しい間隔を保って、ひとすじ、またひとすじ。  一通り畑に直線の模様を描いたところで、少年は気象官の娘に、黄色く丸い種子の詰まった袋を差し出した。 「これは、何の種なの?」 「春蒔き小麦だ。収穫までの期間が短くて繊細な品種だが、うまく育てば美味しいパンの原料になる。」 「……パンって、こんな種から育った植物で作られてるの?」 「おまえ、何にも知らないんだな、本当に。」  少年の馬鹿にしたような口ぶりに一瞬むっとしそうになっだが、ふと気が変わって、気象官の娘はふわりと微笑んだ。 「じゃあ貴方は、上昇気流と下降気流の違いや、何故上昇気流が雨を呼び出すかって、知ってる?」  小首を傾げて、まっすぐに見つめて訊いてくる娘に、少年はぷいと横を向く。 「それに、空と海がどうして青いかも、知ってる?」 「……おまえは、そんなこと本当に知ってるのかよ。」  くるりと振り向いた少年の問いに、娘は悪びれた風もなく首を横に振った。 「ううん、私も知らない。だからこの星について、誰もがみんな知らないことばっかりなんだ、ってこと。」  娘の言葉に背を向けて、少年は刻んだ溝に春蒔き小麦の種を植え始めた。  その背中に、もうひとこと、娘は付け加える。 「ついでに、私には『ヨシノ』っていうちゃんとした名前があることも知ってる?」  溝にそって小さな穴を掘り、そこに数粒の種子を植え、眠らせるように土をかぶせる。 やがて目を醒ましてもう一度土の下から芽を、茎を伸ばし、黄金色の穂を実らせるよう、祈りを込めて。  穴を掘る度に、温かい土の感触とともに、爪の隙間に砂粒が入り込む。  はじめは何処か儀式みたいだと感じた小麦の種蒔きも、二本目、三本目の溝になると、そんな事を考える余裕はなくなっていった。  早朝のうちは南側の山肌に隠されていた陽が、いまや南天の高みに昇って、娘の背中にその日差しをじりじりと照りつける。  加えて、水を運んだ際に残った両腕の痛みと、種子を蒔くためにかがめる腰に蓄積する疲労が娘の残された体力を奪ってゆく。  少年とふたりで、やっと全ての溝に小麦の種子を蒔き終わった頃には、もう立つのも精一杯な状態になっていた。  何だかどうでもよい気分になって、白衣が汚れるのも構わずに畑にしゃがみこむ。  そのまま、ふうと息をついて大地にころんと横たわる。  とくん、とくんと、自分の鼓動が背を預けた温かな地面から響いてきて、何だか自分がこの畑の土のひとかけらになったような気分になる。  青い砂粒を巻き上げた風が、さらりと横たわる娘の上を通り抜けてゆく。 −−本当に、私、どうして此処でこんなことをしてるんだろう。  汗ばんで火照った身体で、ぼんやりそんなことを想った、その時。  掘り起こされた土に半ば埋もれて、日差しに淡く輝く白い欠片が娘の目に留った。  不思議な面持ちで、娘はそっと、白い欠片達を手に取った。  永い時間を経て手のひらに在る、ひんやりした感触。  その感触が教えてくれた、この地に来て大地に触れなければ決して知ることのできなかった、この移民星の小さな谷間が通り過ぎた時間と歴史に、静かな感慨を覚えながら。 「これくらいでもう、へばったのか?」  倒れた気象官の娘に気づいて、少年が近寄って声をかける。 「ねえ、この谷が昔は海の底だったか、冷たい水が満ちた湖だったって、知ってる?」  少年に、娘は少し微笑んでそんな言葉をかける。  そうして、訝しんで近寄った少年に、そっと自分の手のひらを開いて見せる。  土に汚れた娘の手のひらには、真白い貝殻の欠片が、ひとつ転がっていた。 「私達、この星について、知らないことばっかりなのね。」 「……ヨシノって、変な奴だな。」  横になったまましみじみと呟いた気象官の娘に、不思議そうに少年は声をかける。 「年上の人の名前を呼ぶ時には、『さん』って付けるべきだって、知ってる?」    *  娘の携帯端末が湿度の上昇を告げたのは、数日後のまだ暗い暁の時間だった。  慣れない農作業で強ばった身体を休める、娘の浅い眠りの淵に、無機質に響く信号音。  慌てて本来の任務を思い出して携帯端末で『燈火』のレーダにアクセスしてみるも、観測機は谷の周囲には雨雲の存在を補足していなかった。 −−誤検出、かしら?  首を傾げながら上着を羽織って、天幕の外に出る。  暁の谷間は、少しずつ闇が薄れてゆく群青色の空に包まれている。その群青の空の低みを、何処か密やかに南からの微風がすり抜けてゆく。  その密やかな風の中に、気象官の娘は、ほんの微かだが確かに感じ取った。  まぎれもなく、ごく近くに降る、明け方の雨の匂い。  風が抜けてくる谷間の南の斜面を、空挺観測官の目でじっと見つめる。雲の姿は見えないが、淡く霞のように、空気の塊の影がごく小さく地に落ちているのを、捉えた。 −−もしかして、『燈火』から見えた、あの白い谷間……。  一瞬、『燈火』を飛ばして上空から捉えようかと、迷った。  だがその直後、気象官の娘は端末だけを抱えて、直感で南の谷間へと駆け出していた。 「……一体、何なんだよ。」  そんな娘の後ろ姿を見送って、慌しい娘の動きに目を醒ましていた少年が呟く。  放っておこうかと思ったが、あの娘が何をしにこんな早朝に駆けていったのか、どうしても心の隅で気になってしまう。  やがて、軽い舌打ちを残して、少年も南の谷間へと娘の後を追って駆け始めた。  息を弾ませながら、赤褐色の谷間の奥へ、奥へと駆けてゆく。  ひとつ、またひとつ、斜面を越えて谷間の奥に行くにつれて、しっとりとしたほのかな靄のような空気が、辺りを取り巻きはじめる。  そうして、息が切れそうになりながら、ひときわ大きな岩場を越えた、その奥に。  細やかな、塵のように細やかな雨の粒子が、小さな谷間に降り注いでいた。  狭い谷間の斜面を覆う、真白い綿毛のような草花を、音もなく静かに包むように。  突然目の前に開けた、幻のような風景に一瞬目を奪われながら、気象官の勤めを思い出して娘は端末を開いて、雨と空気の流れをトレースして記録する。  それはあまりにも不思議な雨だった。遠い南の山脈の向こうから、まるで迷い子のようにこの谷まで舞い込んできた、湿った季節風のひとかけ。それが、此処の上空で憩うようにふわりと舞い上がり、ごく小さな霞のような雨雲を作っていた。  まるで、誰かがこの谷間に咲く白い花のために、雨を呼び寄せたかのように。  記録を端末に任せて、身体に墜ちた感触さえ微かな雨粒に濡れながら、娘は雨の降り注ぐ白い谷を見つめた。 「雪じゃなくて、花、だったんだ。」  観測艇からほんの一瞬見えて脳裏に焼きついた、慎ましく白く輝く谷の光景を想い起こして、娘は軽く微笑んで呟いた。  水滴に揺れる花弁にそっと触れようと、花の傍でしゃがんで手を伸ばした、その時。 「花、食べちゃだめっ!」  不意に響いた高く鋭い声が、花弁に触れようとした娘の指を止めさせた。  はっとして顔を上げると、細やかな霧雨に煙る花の群生の向こうに、何時から居たのか一人の少女が立っていた。    肩のあたりで切り揃えられた髪は、まるでこの地方の鉱石質の砂のように、微かに青みがかっている。そして、半ば怯えたような怒りの表情を浮かべた瞳も、同じ深い青を帯びている。  肩に羽織った幾何学形の模様のショールは、見慣れた開拓の民のものと一緒だったが、何処か巻き方に違和感を感じた。 「食べたりなんかしないから、大丈夫。ちょっと触ってみたかっただけだから。」  開拓の民の子供だろうかと思いつつ、安心させるように娘は軽く微笑んだ。 「本当に? すなねずみや山鳥は、すぐ花や茎を食べちゃうから……。」 「今みたいに貴方が大声で護ってあげれば、みんな逃げちゃうでしょうに。」  警戒しつつも近づいてきた少女の言葉に、娘は思わずくすっと笑って言い返す。 「だって、すなねずみ達には、きまりがあるからできないもの……。」  意味の通らない少女の言葉に会話は途絶え、しんとした霧雨の気配だけが周囲を包む。  谷間の奥に隠れた、白の草花が群生する何処か聖域めいたこの場所だけに、音もなく降り注ぐ、細やかな雨。  額に、頬にさらりと触れても濡らすわけではなく、ただひんやりとした感触だけを残して溶け去る滴は、何だか幻のように不確かで、優しい感じがする。 「はじめて空から此処を見た時、雪みたいだなぁって思ったの。」  そんな感覚に身を任せながら、半ば独り言のように、娘は傍らの少女に話しかけた。 「ゆきって……なあに?」  不思議そうに深い青の瞳を瞬かせる少女。この少女もまた、娘には不確かな幻のような錯覚を与えた。その錯覚が何故か心地よくて、娘に言葉を紡がせる。 「雨の粒が、上空で凍って白い氷の結晶になってね、綿みたいにふわり、ふわりと舞い降りてくるの。降り積もると、この花みたいに大地を白く包むのよ。」 「ふうん……。私、見たことない。ここにも、ゆき、降らないかなぁ。」  白い花弁を潤わせる淡い雨雲を見上げて、少女は手を広げる。少しずつ細やかな水の粒子は朝の空気に溶け込み、消え去りつつあった。 「この星は暖かいから、自然の雪は降らないみたい。私の父がね、はじめてこの星に人工の雪を降らせたのよ。無理言って降雨艇を出させて、母のためにって。」 「誰かのために、ゆきを呼んで降らせたの?」 「そうよ、冬至祭の夜に母のためにって。公私混同して、馬鹿みたいよね。」  首を傾げて尋ねる少女に、少し苦笑いして応える。何故こんなことまで話しているんだろうと思いつつも、不思議と悪い気分はしなかった。 「ふうん……、人間って優しいんだね。この雨と、おんなじ。」  そんな気象官の娘に、少し緊張を解いて、少女はふわりと笑った。 「この雨も花のためにここに降ってくれてるのよ。この子達には、水が必要だから。」  そんな少女の不思議な言葉とともに、真白い草花の谷間に降る雨は、次第に明けてゆく暁の空気に溶け込んでいくように、すうっと消えた。  まるで夢でも見ていたかのような、不思議な降雨。だけど、それはあやふやな幻や錯覚ではないことを、傍らの携帯端末が記録したデータが物語っていた。 「あなたは、ずっとこの谷で暮らすの?」  携帯端末を閉じて立ち上がった気象官の娘に、少女が問いかけた。 「ううん、私は派遣された気象官だから。夏までには都市に戻らないと。」  娘の答えに、そうなんだと小声で呟いてから、少女はぽつりと、言った。 「ねえ、今度あなたの所に、遊びに行ってもいい?」  軽く頷いた娘に、少女はふわりと微笑みを返した。 「何処に行くのかと思ったら、こんな所で何してるんだよ。」  軽く息を切らして、ようやく少年が気象官の娘に追いついたのは、その時だった。 「気にしてわざわざ追ってきてくれたの? たった今まで雨が降ってたから記録してたのよ。」  突然現れた少年に驚きつつ、やわらかい言葉で娘は応えた。  そんな娘の言葉に少し目を伏せて、雨、と訝しそうに呟いてから、少年は真白い谷間を不思議そうに見渡す。  そこで、少女の青い瞳と目が合った。  幼い日の少年の記憶と同じ、青みがかった髪と、同じ色の瞳。 「おまえ……。」  見開いた黒い瞳に緊張をたたえて、少年が呟く。そんな少年の態度に怯えるように、少女が数歩あとずさる。 「どうしたの? 同じ開拓の民の子でしょ?」  奇妙な少年の緊張に気づいて、娘が尋ねる。一瞬の沈黙の後で、少年は頷きを返した。 「僕はヨシノを連れて先帰ってるから、おまえも暫くしたらちゃんと集落に帰れよ。」  少女にそんな言葉を投げかけてから、少年は娘の手をとって半ば強引に谷を降り始めた。  真白い花の群生と青い瞳の少女、そして幻のような霧雨の光景がふたりの背後に遠ざかってゆく。 「どうして一緒に集落まで連れていってあげないの? 喧嘩でもしてるの?」  先程から少女に妙な態度を取る少年に、娘は訝しそうに尋ねる。 「あいつには、近づかない方がいい。」  黒い瞳に、今まで見せた冷たさではなく何処か真剣な色をたたえて、少年は答えた。     * 「……人の忠告、全然聞いていなかったのかよ。」  土汚れで煤けた白衣を着た娘の傍らに、ちょこんとくっついていた小さな人影を見つけて、少年は軽くこめかみを押さえた。 「いいじゃない、農作業を手伝ってくれるって言ってるんだから。ねぇ。」  少年に言い返して、娘は青い瞳の少女と目で頷きあう。 「……どうなっても、知らないからな。」  ぶつぶつ言いながらさっさと麦畑に向かう少年の後を、気象官の娘と少女がのんびり歩いてゆく。  この集落に『燈火』で降りてから半月経って、娘はようやく集落の暮らしに慣れつつあった。  気象局の研究員という娘の立場に、何処か敬遠していた開拓の民達も、毎朝井戸に水を汲みにくるその娘の姿に慣れたのか、次第に打ち解けて親しげに話しかけてくれるようになった。  ただ一人、相変わらずそっけない物言いの、少年を除いて。  農作業をしながら、娘は時折空を見上げて、空気の流れを調べる。  いつもと同じ、この谷間を洗うように行き来する、荒野の緩やかな風。  蛍石質の砂を、まるで凪いだ波打ち際のようにゆっくりと流しては吹き戻すこの風が、何処かこの谷間をさらさらと洗うようで、娘は気に入っていた。  だけどこの風が吹いている間は天候が変化することはまずない、ということもまた気象官の娘は冷静に分析していた。  天候が変わる可能性があるとすれば、南に連なる峰を越えて、遠い風が湿った空気を連れて吹き降ろしてくる場合だろう、と思う。  この数日、そんな期待を持たせる南風も、あの幻のような雨も現れはしなかった。  雪のような白い谷で出会った少女は、あの時以来、娘のもとに現れるようになった。不思議と、できるだけ他の開拓の民がいない時を見計らっているかのように。 「せっかく育ってきたのに、本当に踏んじゃっていいの?」  少年から、今日は『麦踏み』をやるとは聞いていたが、実際に麦の穂を目の前にするとやっぱり躊躇する。 「踏むことで穂分かれして、沢山実を付けるようになる。穂自身が強くもなるしな。」  そんな少年の言葉を確認して、靴を脱いで裸足で畑に入る。日に乾いた土のざらざらした温かさが伝わってくる。そのまま、思い切って育ち始めたばかりの、薄緑の苗をきゅっと踏みつける。  その踏まれた小麦の若い苗の弱々しい感触に、一歩踏む度に、強く育つように、と心の中で願いをかけたくなる。  青い髪の少女は、随分長い間、麦の苗に同情するような表情を浮かべて迷っていたが、気象官の娘の姿を見て、おそるおそる小さな足で麦を踏み始めた。 「大丈夫かな、この草達……。この草も、育つと白い花を咲かせるの?」  やがて全て踏まれて地面に横たわった麦を眺めて、上目遣いで少女は娘に尋ねた。 「ううん、この辺は小麦畑だから、夏の終わりには穂が実って一面黄金色に染まるわよ、きっと。」 「人間ってすごいんだね……。こんな広い土地に草を育てて黄金色に染めて……。」  凪のように緩やかな谷間の風に、肩までの青い髪を揺らせて、ぽつりと少女が呟く。 「育てば、だがな。……このまま雨が降らなければ枯れるかもしれない。」  そんな少女の感嘆の言葉に、冷たい少年の一言が釘を刺した。 「この子たちにも、雨が必要なんだ……。」  南の空を見上げて、青い瞳に微かに心細そうに不安の色を浮かべて、少女は呟いた。     *  待望の雨は、さらに数日してから、ようやく谷間へと降りてきた。  定期的に巡回する気象局の降雨艇が、開拓の民の谷間の上空へと差し掛かったのだ。  その気象局の降雨を、降り始めから見てみたいと言い出したのは、意外にも開拓の民の少年の方だった。  麦畑の傍で、少年と少女を連れて三人で降雨が始まるのを待つ。  水滴が落ちてくるはずの天空を見上げても、薄い雲の欠片も見えない。ただ、低層の空気を伝わって、ごうん、ごうんと鈍く響く降雨艇のエンジン音だけが届いてくる。 「……雲もないのに、降雨艇はどうやって雨を降らせるんだ?」  何処かぎこちなく、ぼそりと少年が気象官の娘に尋ねる。 「方法は二つあるわ。一つは、上空の空気に、温度が全く異なる空気を吹き付けて気流を創りだすの。空気中に水分があれば、それで雨雲の発生が促進されるわ。」  少年の問いに、娘は解かり易い言葉を選びつつ答える。きっと、少年が自分に農作業を教える時も、こんな感じだったんだろうなと、思いつつ。 「もう一つは、雲を作らないで、化学変化で直接水滴を創る方法。ちょっと強引な方法だけど、ここの大気みたいに雲を作れるほどの水分すらない場合に使うの。」 「雨を降らせる手助けをするか、空で絞り出すかの、二つだな。」  少年が自分の言葉に置き換えて、納得する。  砂絵のような淡い水色の空に、低く唸るように響く降雨艇の飛行音。  その低い調べに、ぱちん、ぱりんと、まるで炭酸水の泡が弾けるような音が加わった。  ぱりん、ぱちん、乾いた低層の空で、なにかが生まれて弾ける微かな音。  そんな繊細な音の泡が谷間の上に広がり、幾重にも重なった、その時。  ぽつりと、降雨の最初の水滴が、娘の腕に落ちた。  それを合図に、次々とやや大粒の滴が落ちては、大地に跳ねて音を奏でだす。 「そう言えば私、降雨艇の雨を直に見るのって、はじめて……。」  それは雪のような花が咲く谷で見た、あの幻のような雨とはまた違う意味で、不思議な雨だった。  相変わらずの凪いだ波のような風が流れる空を伝わって、湿った雨の匂いもない乾いた空気の中を降り注ぐ、人工の雨。  ひとつひとつの粒子は大きいけれど、代わりに本来の雲が生む雨よりも、何処かまばらで密度が薄い。  水滴が地面に落ちる調べ、泡が弾けるような空の化学変化の音、そして降雨艇の低い響きが音楽を奏でるなかを、少しでも大地が潤うようにと儚い願いを乗せて、雨は落ちてくる。 「人って、雨も降らせるんだ……。」  その雨の滴に、この大地の砂と同じ青の髪を濡らして、微かに怯えた風で、ぽつりと少女が呟いた。  畑のひび割れた褐色の土に落ちた水滴が、何事も無かったかのように吸い込まれる。  開拓の民が訪れるまで、永ら、十分な草も育てることを忘れるほど乾いていた、この谷間の土に。 −−こんな降雨くらいじゃ、足りないかもしれない。  気象官の娘の心の何処かで、そんな不安の呟きがよぎる。  一度根付いた不安は、胸の中で少しずつ、自らの無力さに変化しながら膨らんでくる。  開拓の民とともにこの地に在る気象官としての、自らの無力さに。  炭酸水のような音が上空から消えた数瞬の後に、潮が引くように降雨は止まった。  何も変わっていない淡い空に、ただ降雨艇の名残の低い響きだけを後に残して。 「この降雨のおかげで何とか、麦もしばらくは元気になる。ほら。」  雨が止んでからも黙ったままの娘と少女に、少年がぼそっと言って、畑を指差した。  相変わらず小さなひびが入ったままの土に根を張った、まだ若い麦の畑。  何時の間にか、生まれたばかりの小さな穂を、空へと立てていた。  まるで手を伸ばすように、空の高みに在る自らの実りへと届くように。 「……わたしも、がんばらなきゃ。」  か細い茎を真っ直ぐに立てた麦畑を見て、ほっとしたように少女が呟いた。  そんな少女の傍らで、気象官の娘は、少し縮こまってそっと麦畑に背を向けた。  少年の素朴な声と少女の何処かほっとした声に、何故だか、涙がこぼれそうになって。     *  降雨艇がもたらした雨の後は、開拓の民の谷には、一向に雨は降ってこなかった。  空気の流れを測定していると、時折南から谷へと吹き降ろしてくる風が観測されたが、どの風も雲や雨を連れてくるまでの勢いまでは、無かった。  そうして、開拓の民の集落は乾いたままの五の月を迎えた。  すっかり慣れた手付きで、娘は井戸の底に鉄の容器を下ろして、細い水脈から水を汲み取る。開拓の民の命綱であるこの井戸の水も、はじめて此処で水を汲み取った頃よりも随分水位が低くなっている。毎朝の仕事だけに、着実にこの谷に水が不足していることを突きつけられているようで、気象官の娘を不安な気分にさせる。  唯一の水源がある井戸の周りは、必然的に開拓の民達の集会所になり、広場となる。  毎朝、娘が畑を潤すための水を汲みに来る時にも人は沢山居たが、とりわけこの朝は生き生きとした声が飛び交い、楽しそうな賑わいが周囲を包んでいた。 「今朝は妙に賑やかですけど、何かあるんですか?」  集落の仕事があるという少年の代わりに、一緒に水汲みに来たトキに尋ねる。 「ああ、五月の祭りの準備が始まったんだよ。祭りは年に二回の楽しみだからね。」  軽々と幾つもの水の容器を抱えながら、賑わいに目を細めてトキが答えた。  そう言えば、この集落に降りた時に、ちょうど五月の祭りの頃まで滞在することになる、といった話をトキとしていたことを、娘はふと思い出した。  気がつけば、時間はあっという間に過ぎて、もう都市へと帰還する時期が来ている。  自分はこの谷間で、ろくに水の足りない開拓の民の手助けもできないまま、結局何を学ぶことができたのだろう、と軽くため息を浮かべた。 「……それに今年は、この一回だけになるかもしれないからね。」  ぽつりと付け加えたようにこぼれた、トキの一言。その思いがけない言葉に物思いから還って、娘は尋ねるようにトキの横顔を見た。 「五月の祭りには、収穫を祈る他にもう一つ意味があるんだよ。お世話になったその土地とのお別れ、という意味がね。」 「……どういうことですか?」  今度は、はっきりと言葉にして、尋ねる。 「初夏になっても秋に収穫を迎える見込みがなければ、開拓の民は集落をたたんで、冬を越えられるように別の集落へと移るんだよ。今年も、このまま水が足りなければ、おそらくこの土地とは別れることになるだろうね。」 「そんな、せっかくここまで育ててきたのに……。」  それまで娘の中でずっと漠然と抱えていた不安が、不意にトキの言葉の中ではっきりと現実の形を取り、その現実が娘の言葉を詰まらせる。 「そりゃあ淋しいけれど、こればかりはどうしようもない、私ら開拓の民の宿命さね。あら、そう言えば……。ほれヨシノさん、あそこでうちの子が仕事してるから、ちょっと行ってきなよ。ほら、水はあたしがここで持っててあげるからさ。」  元気付けるように娘の肩を叩いて、少し悪戯っぽい表情で、トキは井戸の広場の一角を示す。遠目に見てみると、少年の周りに、開拓の民の幼い女の子や歳若い女性が何やら集まっていた。さらにその娘達を遠巻きにして囲むように、人々がその様子を見物している。  トキに半ば背を押されるようにして、何処か狐にでもつままれたような風で、娘は少年のもとへ近寄った。見ると、女の子や娘達が少年の手にした籠から、くじ引きのようにひとつずつ何かを取っている。  しばらくぼんやりと眺めていたら、気がついたら人の流れに押されて、少年の前まで来てしまっていた。少年は、来たのか、といった表情を一瞬見せて、娘に籠を差し出す。  雰囲気に押されるまま、手を入れて、豆のようないびつな玉を取った。  そっと開いてみると、手のひらの上に、真っ赤な大豆の粒が、ひとつ。  それを見た周囲の女性達や見物人達から、一斉に拍手と歓声が巻き起こった。 「え、何? 私、何かしたの?」  驚いてきょろきょろと見回すと、拍手に混じって、気象官さんが当たりを引いた、今回の祭りの巫女は気象官さんだ、だの開拓の民の興が乗った声が聞こえてくる。  どういうこと、と慌てて振り向いた娘に、少年は肩をすくめて返した。 「まあ……、雨を祈る巫女さんの務め、がんばってな。」  珍しく、小さく悪戯っぽい笑みを、ふわりと浮かべて。     *  くじ引きで赤い豆を引いてからというもの、その日は開拓の民達からあちこち引っ張り回されて息をつく暇もなかった。  巫女の歌う歌を憶えさせられたり、舞い方を教えられたり、果ては祭りの衣装の試着とかで、はしゃぐ娘達にまるで着せ替え人形のように民族衣装を着させられたり。  ようやく解放されたのは、もう西の丘陵の影に夕陽が半ば隠れた頃だった。 −−気象官の私が、雨を祈る巫女の役なんて、なんて皮肉なのかしら。  夕暮れの集落を歩きながら、早朝、トキに聞いたこの土地との別れの話を思い返しながら、ぼんやりとそんなことを想う。  南に連なる峰が、切り立った黒の影になって空を切り取る。夕暮れの柔らかい光は、いつも通りの風を受けて空に舞う青い砂をちらちらと輝かせながら、緩やかにその彩りを変えてゆく。  そんな風景を目を細めて眺めると、『燈火』で自分が降りてきた日のことが、随分遠い過去のように、思える。  トキの天幕まで帰り着くと、そんな夕刻の紅い光に包まれて、杭に座ってぽつりと少女が娘の帰りを待っていた。  心細そうに俯いて、西日に照らされた地面に小さな影法師を落として。  そう言えばここの所、少女は何処か落ち込んでいて、元気が無いように見えた。  今思うと、雨が降らずにこの土地から離れることへの、不安だったのだろうかと、漠然と娘は思う。そして、その考えは気象官である自分の無力感を否応なく募らせた。  そんな少女の隣に、ふうと息をついて娘は座った。何処に行ってたの、といった風情で少女が娘の顔を覗きこむ。 「お祭りの巫女に当たっちゃって、まる一日修行させられてきたの。」  そんな娘の言葉に、よくわからない、というように少女は首を傾げる。 「土地への感謝と雨が降るようにとの祈りを込めて、祭りの広場で歌を捧げるんですって。私、お邪魔してるただの研究員だし、歌上手くないから嫌だって断ったのに……。何だか、まるでみんなのおもちゃみたいだったわよ。」 「うたって、どんなの? ねえ、試しにやってみせてよ。」  ぶつぶつ言いながらむくれる娘に軽くくすくすと笑いながら、少女は返した。 「だから、私は歌は上手くないんだってば……。」  ちょこんと座ったまま上目遣いでじっと娘を見つめる、期待を込めた少女の深い青の瞳がそんな抗議の言葉を詰まらせる。じゃあこっそり練習の代わりにね、とため息をついて、娘はそっと息を吸う。  そうしてたどたどしく小さな声で、憶えたばかりの開拓の民の祈りの歌を、紡いだ。      南の風が谷を 越えてふいたら   女はまた今年も 種を蒔くだろう   夏の日 光浴びて そよぐ麦草   それだけ 思いながら 種を蒔くだろう   harvest rain 音もなく降りそそげ   harvest rain 傷ついたこの土地(つち)に  気がつくと娘の歌声をトレースするように、少女が瞳を閉じて、何時の間にか輪唱するように声を紡いでいた。  言葉になるかならないかの、澄んだ高い和音のような小さなハミングが、夕暮れの空気に透きとおって、溶け込んでゆく。 「貴方の方がずっと上手いじゃない……。ねえ、私の代わりに巫女の役、やらない?」  少女の小さな歌声に驚いて、気象官の娘は歌を止めた。 「うたって、不思議だね。何だかほっとして少し元気が出てくる。」  娘の言葉に首を横に振って、そう言いながら少女は立ち上がった。  西の低い空から、永い距離を渡ってきて紅くなった夕暮れの輝きが、少女の短い髪を照らす。振り向いてさらりと流れる青い髪に映える紅の輝きは、ちょうどこの谷間の砂と土の大地を想わせる。 「ねえお願い。お祭りで祈りのうた、うたって。わたし、楽しみにしてるから。」     *  そんな青い髪の少女が娘の前から姿を消したのは、祭りの数日前のことだった。  それはいつものように、三人で散水機で僅かばかりの水を麦畑に与えている時だった。  散水機は噴出音ばかり大きくて、実際に麦に降り注ぐ水の粒子は霧のように小さい。井戸を通じて開拓の民を潤す水脈自体が、既に枯れ始めて底を尽きかけていた。  麦の若い穂も日差しだけを浴びて、乾いた赤褐色の土と同化するように萎れている。  そんな麦の姿に、少年の胸の内で、旅のさなかで幾度となく味わってきた、集落を捨てる時の苦い思いが重なる。 「……お祭りが終わったら、みんなこの地を去っちゃうのかしら。」  そんな少年の想いを聞きとったかのように、ぽつりと、娘が少年に呟いた。 「……行っちゃうの?」  娘の何気ない言葉に、開拓の民の服を纏った少女が、思いもよらず反応した。  まるで、少女の身体の中に降り積もっていた不安の堰が、その言葉に断ち切られたように。 「どうして? わたしがまだ迷っているから? わたしが雨を呼べないから?」  きゃしゃな身体から、少女は何かが弾けたように言葉を溢れさせる。 「……別に、おまえのせいなんかじゃない。」  そんな少女の妙な言葉に、何かを言いかけた娘を制して、静かな真剣な眼差しを向けて少年が応える。 「じゃあ、どうして行っちゃうの? この子達が、谷を一面の黄金色に染めるように育てるんじゃなかったの?」 「……この小麦達が枯れて刈り入れできなかったら、冬には今度はみんなの食べるものすら無くなって、生きてゆけなくなっちゃうから。」  気象官の娘が、少女の剣幕に驚きながら、ぽつりと応える。  だが、その娘の言葉に、今度は少女の青の瞳が驚愕に大きく見開かれた。 「この子達をこの谷に植えたのは、育てるためじゃなくて、刈り入れて食べるためだったの……? そんなこと、知らなかった……。」 「……人間も、他の動物と同じだからな。食べないと生きていけない。」 「そんな……、わたし、わからない。どうしたらいいのか、わからないよ……!」  くしゃっと張り裂けたように言葉を溢れさせて、少女はぱっと駆け出した。  その姿は、乾いた空気にすっと溶けるように、途中で視界から、消えた。  後に、ただ風に舞う、少女の髪の色と同じ砂だけを残して。 −−やっぱり、近づかない方がよかったんだ。  青い髪の少年から溢れ出した言葉と、拒絶。この谷に来た日にキャラバンの中で夢に見た幼い日の記憶が胸の奥にあとから、あとから溢れ出して、少年は唇を噛み締めた。  どうして……、と傍らで呆然として立つ気象官の娘の姿に気づいて、そんな記憶を振り払って、少年ははっきりと言った。 「気にするな、ヨシノのせいなんかじゃない。」  それは多分、あの瞬間の自分が、誰かに言ってもらいたかった、言葉だった。     *  この移民星の周囲を巡るふたつの衛星の片割れが、谷間に降りた夜の闇に淡く光を投げかける。そんなふたつの衛星は、故郷の星に倣って、一ノ月、二ノ月と呼ばれていた。  ニノ月の真白い明かりを頼りに、気象官の娘はひとり、天幕の外を何処へと無く歩いていた。  この谷のこと、開拓の民のこと、そしてあの少女のこと。いろいろな想いが歩を進める娘の胸の中で、浮かんで消える。  そんな胸の中の想いは、何時か水蒸気が雲を結ぶように、ひとつの想いに帰結する。  結局、自分はこの集落で何を学ぶことができて、何をすることができたのだろう、と。  気がついたら、『燈火』の停めてある集落の外れまで歩いていた。  ずっと飛行させていなかった観測艇の機体は、砂煙を浴びて薄青く汚れている。何だか、まるで自分の白衣みたいだと思いながら、ぼんやりと機体を見つめる。  ふっと、とある事を思いついたのは、その時だった。  もしかして無意識にその事を考えていて、こんな夜に『燈火』まで歩いてきたのだろうか、と思うと我ながら苦笑いが漏れた。雪を降らせる時に同じことをした自分の父親を、気象官として公私混同だと思っていたのに。 −−でも、私がこの谷のためにできることは、このくらいしかない。  迷いを振り切るように心の中で呟くと、娘は観測艇のキャノピーを開いた。  操縦席に座って、計器類のスイッチを入れる。暗い艇内に懐かしいグリーンやブルーのシグナルがぽつり、ぽつりと灯る。  エンジンには火を入れないで、一瞬躊躇してから、通信電波を開いた。 「こちら観測艇『燈火』。気象局観測艇コントロールセンター、応答願います。」  暗い操縦席にぽつりと響く娘の声を乗せて、通信電波は遠い都市まで飛んでゆく。暫くして戻ってきた電波に、自分の名と、局長宛にプライベートの通信を繋いで欲しい旨を、告げた。 「久しぶりに声が聞けて嬉しいよ、もっとプライベート通信を使って構わないのに。」  やがて、組織の長とは思えぬ、懐かしいのほほんとした声が『燈火』に届く。 「局長、お願いがあります。緊急に降雨艇を派遣しては戴けないでしょうか。」  そんな声に対して、あくまで子としてではなく気象官として、娘は願いを伝える。 「この谷にはずっと降雨がなく、水が不足してます。このままだと開拓の民達はこの谷を放棄せざるを得なくなる……公私混同なのは十分承知の上です。費用は私の給金で贖います。だから、お願いです……。」 「そうか……。でもね、ヨシノ君、それはできないよ。」  数瞬の間の後に返ってきた、穏やかだがきっぱりとした返答。 「どうしてです? 貴方は昔、母さんのために降雨艇を出させて都市に雪を降らせたじゃないですか!」  思いもしなかった拒絶の返事に、娘は思わず声を荒げる。 「懐かしいね……。あのあと一回分の降雨代を返すまで大変だったなぁ。でも、おかげで母さんと一緒になれて、君という贈り物まで授かったから、悔いはないけど。」  そんな娘を静めるように、そんなちょっとおどけた声を届けてから、穏やかな声に戻って局長は応える。 「でもね、僕が降らせた余興のような雪と、君の望む降雨とでは、性質は違う。」 「何処が違うと言うのです!」 「その大地で人が生きてゆけるかを決めるのは、結局は大地の意思なのだと思う。雨が降るかどうかというのは、多分その意思の現れにすぎない。」 「君の願う降雨は、本来人を受け入れない大地に、意思に反して人の都合を押し付けてしまう可能性がある。僕達は僅かな雨を降らせることはできるけれど、天候を操ってよい訳では、ないんだ。」  まるで、目の前の子供を優しく諭すように、反応を見るように間を空けて。 「それを忘れると、きっと何時か僕達はこの移民星も、失ってしまう。」 「……じゃあ、気象官は、何故降雨艇を出して雨を降らせるのですか……?」  自らの無力さのあまりに熱くなる目頭を抑えながら、娘は何とか言葉を絞り出す。 「その大地の人々を、そして何よりもその大地自身を励ますためだよ。」  その言葉を最後に、観測艇を都市を結ぶ通信電波は、交互に沈黙のみを伝えあう。  その沈黙の中に聞こえた、娘の微かな泣く声へと、ぽつりと付け加えるように穏やかな声が届いた。 「正直言うと、君がその願いを僕にぶつけてくれただけで、嬉しかった。五月のお祭りが終わったら、もう帰っておいで。お土産話を楽しみにしているよ。」     *  暖かな夜風がたゆたう中、天幕までひとりで帰る道は、随分永く感じた。  とぼとぼと歩を進めてようやく天幕の灯りが見えた時は、また涙が出そうになった。  もう数週間もしたら、幻のようにこの谷間から消えてしまう、儚い風景に。 「お帰り。さっきいい物見つけてさ、ずっと待ってたんだよ。……どうしたんだい。」  天幕の入り口で待っていたトキが、娘の赤く泣き腫らした目に気づいて、尋ねる。 「トキばあさんとっておきの香草茶をいれてあげるからさ、ほら、話しておくれよ。」  無言でなんでもない、と首を横に振る娘の背を優しく叩いて、トキは娘を迎え入れた。  乾いた香ばしい穀物の風味がするお茶が、ほっと娘の気持ちを落ち着かせる。  そんなお茶の香りとトキの暖かさに押されて、娘は先程の事をぽつり、ぽつりと話した。  観測機の通信電波で、局長に緊急の降雨を依頼して、断られたことを。  そんな娘の話に、やがてトキは何処か懐かしそうに、くすくすと笑い出した。  訝しそうに見つめる気象官の娘に、自分もお茶を一口啜ってから、今度はトキが穏やかな口調で話し始めた。 「まだあたしが若い娘だった頃さ。その時も気象局から男の研究員さんが長期観測に来てね。何でも、局への借金返済のためとかぶつぶつ言ってたけど。」  少し悪戯っぽく目を細めて、聴き入る娘の様子を確かめるように、ゆっくりと間を取る。 「その集落じゃ、この谷以上に水不足に見舞われてね、人の飲み水さえ足りなくなる有様だったよ。それで、その研究員さんも局長に直訴したのさ。特別に降雨艇をよこせってね。」  驚きの表情を見せる娘に、トキは何処かとぼけた風で、こう言葉を継いだ。 「……確か、名前をヨシノさんって言ったかな。風の噂じゃ、今じゃ気象局の局長さんになったと聞いたけど。」  地面に水が染み込むような、静かな衝撃が娘の身体に走った。  その衝撃が波が引くようにゆっくりと溶けてゆくとともに、この長期観測の初めから抱えていた疑問が、少し氷解した気が、した。  通信の中で「五月のお祭りが終わったら」と言っていた。それは、多分開拓の民の暮らしを熟知していなければ出てくることのない言葉のはず。  あの人は、開拓の民との暮らしを全て知っていた上で、娘としての、そして気象官としての私に、多分同じ経験を積んで欲しかったのかもしれない、と想う。  観測は根を詰めずに、休暇旅行のつもりでと、わざわざ通信で念を押しながら。 「……父の暮らした、その集落はどうなったんですか?」  やっとの思いで、ぽつりと娘が質問を返す。 「やっぱり降雨は断られて、結局私達はその集落を捨てたけど、その気象官さんには感謝してるし、いい思い出になったさ。」  そんな風に答えて話を終えてから、ちょっと待っててねと娘に言い残して、トキは天幕の奥へと引っ込んだ。しばらくして戻ってくると、淡い空色の布地を娘に手渡した。 「ほら、ひろげてみてよ。」  トキに促されて、娘は布地をそっと広げてみる。  それは、開拓の民の女性向けの服だった。  薄い水色に染めた布地に、群青色の糸で、通り過ぎる風のような模様の刺繍が描かれている。作業用に身体が動きやすい作りになっていても、袖口や腰の部分はささやかな緑の飾り紐で留められていた。  一緒に畳まれた、持ち主を砂から護ってきた二枚のショールは夏の麦の色で、赤褐色の砂の淡い汚れと溶け込んで、柔らかい色合いを宿している。 「あの子の母親、つまりあたしの娘がキャラバンに置いてった服なんだけどさ、ほら農作業手伝ってくれたから、随分上着汚れちゃっただろう? ヨシノさんに似合うかなと思ってね。」 「どうしてそんな、役に立たない私なんかに、みんな優しくしてくれるんですか……?」 私に、とぽつりと呟いてから、何処か弱々しく娘は問いかける。 「言ったろう、あたし達は気象官さんに感謝してるって。……それにあの子の恩もある。」  元気づけるように張りのある声で言ったあと、ふっと息をついてトキは付け加えた。  その言葉に、小さく首を傾げて、無言で娘は話を促した。 「数年前の集落のことだけどさ、初めは雨も降って順調に作物も育っていたのに、不意に雨が一滴も降らなくなって、集落を捨てたことがあったのさ。……あの子は、何故だか判らないけどそれを自分のせいだと思い込んでる。」  トキの話に、どうして、と無声で呟きながら、何故か少年とあの少女のことが頭をよぎった。  青い髪の少女に初めて出逢った時に言った、近寄らない方がいい、という言葉。  そして少女が消えたあの時に繰り返していた、おまえのせいじゃない、という言葉。  少年は、何故、どんな想いでそんな言葉を口に出していたのだろうと、想う。 「それ以来ずっと塞ぎ込んでしまって。去年母親が新しい集落に残った時も、結局母親と別れてそのまま旅を続けてさ。」  誰にも判ることのない自らへの責めを負いながら、母親と離れて暮らす少年。  まるで、踏まれても天を目指して穂をのばす麦みたいに、何て強いのだろうと、自分と比べ見て思う。 「でも、この谷に来てあの子は随分変わった。これもヨシノさんのおかげだよ。このくらいのお礼はさせておくれよ。」  そんな、とまた涙ぐみそうになる娘を抑えて、試しに着させてみておくれと、トキは娘を立ち上がらせる。 「ヨシノさんはもう、立派な開拓の民さね。局長と喧嘩でもしたらいつでもあたしらの集落に来るといいよ。昔、局長さんも農作業を手伝ってくれたけど、あんたのがずっと筋がいいもの。」     *  祭りの仕事を終えてふうと息をつきながら、二ノ月の煌々とした月影を導にして、少年は天幕への帰り道を歩く。青い髪の少女と、気象官の娘のことをぼんやり考えながら。  どうしたらいいかわからないと、少女は言葉を放って、消えた。  ならば、まだこの谷が人を受け入れないと決まったわけではない。  でも、もう残された時間は無い。結局、すぐに雨が降りない限り結末は同じだろう。  そうしたら、あの気象官の娘はどんな想いを抱えて都市に帰るのだろう、と思う。  そんな事を考えながら、眩しい月を見やりつつ歩を進め、天幕が見えてきた時。  天幕の前に、ひとりの人影が佇んでいるのが、目に入った。  月灯りを受けて淡い空色を返す、開拓の民の上着に、肩と頭に巻いたショール。それは幼い頃からずっと記憶に刻まれた、懐かしい後姿だった。  まさか、と驚いて少年は人影の方へと駆け出した。  もう少しで呼びかけそうになったその時、少年に気づいてくるりと人影が振り返った。   「お帰りなさい、どうしたの、息切らせて。」  ふわりと微笑んで、振り返ったのは、気象官の娘だった。 「……なんでも、ねえよ。」  動揺した心を抑えて、少年は呟く。そんな少年の様子に娘は目を細めて、そっかと応える。その瞳は微かに赤く腫れていた。 「ねえ、これから『燈火』で夜間飛行しようかと思って。狭いけど一緒に乗らない?」  観測艇の操縦席の周囲には、グリーンやブルーのシグナルが明滅したスイッチや計器類が並んでいる。暗い星空のような計器類を、気象官の娘は軽々と操作する。  やがて、キュンと一瞬の振動が走って、観測艇のエンジンに火が灯った。  本当は一人乗りなんだけど、と笑いながら、娘は少年毎まとめてベルトをかける。  その直後、『燈火』は夜間観測機特有の静かな噴出音を残して、夜天へと舞い上がった。  白衣よりこの服の方が操縦し易いわ、と微笑みながら娘は機体を上昇させる。  山肌の影に切り取られながら、ニノ月にほの白く照らされた谷の上空へ。 「……ヨシノって、すごいんだな。」  初めての飛行の感覚と、その飛行を悠々とこなす娘の姿に、思わず少年は呟いた。 「そんなことない、あなたの方が全然すごいもの。私、どれだけのことを此処で教えてもらったのやら。」  首を振って否定する気象官の娘の姿に、ふと懐かしい言葉が少年の脳裏に浮かんだ。 「みんな、この星について知らないことばっかりなんだ。」  『燈火』はその双つの翼にランプを燈して、静かに谷を回遊する。  まるで、月夜に遊ぶ、小さな鳥のように。  大地に寄り添うように、まだ起きている開拓の民達の天幕の灯りが、ぽつり、ぽつりと燈っているのが見える。夜天の下に広がる大地に比べて、あまりにも小さな、花のような光のかたち。 「ひとつだけ判ったことがあるの。私、この谷が好きなんだってこと。都市に返っても、この谷のこと、開拓の民のこと、きっと忘れない。」  そんな光のかたちを見つめて、ぽつりと、言葉を探すように娘は言った。  その娘の素直な言葉に、少年も、静かな後悔と共にひとつのことが、判った。  きっと幼かったあの日に、あの青い髪の少年に、そう言ってあげれば良かったのだ、と。 「せめて、祭りの巫女の役目だけは頑張らなきゃ、ね。あの子も楽しみにしてたし。」  そんな娘の独白に、自分も楽しみにしてると返すのだけは、やめておいた。    そのまま何の言葉もなく、観測艇は月明かりに護られてしばらく舞い続けた。     *  気が早い初夏の夜明けが、遠い東の夜空を薄い菫色へと溶かしてゆく。  そんな早朝に、少年はひとりで谷の奥へ、奥へと駆けていた。かつて、気象官の娘が雨を観測した時に後を追いかけた赤褐色の谷間を、今度は姿を見せない少女を追いかけて。  急な斜面を越えながら、繰り返しあの少女の事を考える。考えてみても、おそらく開拓の民が行き着く結末は変わらないように思えた。  それでも、少年の足は、青い髪の少女を探して駆け続ける。 −−せめて、自分のように辛い想いを残したままで、娘を都市に返したくはない。  心に燈った、そんな想いを導きの灯にして。  ようやく辿り着いた、あの小さな谷間にも、少女の姿は見えなかった。  あの雪のような小さな草花は、まだ半ばほど残っていた。散った花を惜しむように、緩やかな風が微かに吹いて、小さな谷間を循環している。 「見えないけど、いるんだろう?」  その風の中に微かな戸惑いの気配を感じ取って、少年は腰を下ろしてから空気の中に問いかけた。 「小さい頃、別の土地で、お前と同じ、青い髪の少年に逢ったことがあるんだ。」  返答のない風の中に、構わずに少年は話し続ける。 「ずっと仲が良かったのだけど、急にその少年は、僕達人間をその土地に受け入れることを拒絶した。……僕に会えなくなるのは嫌だ、と言って。」  谷間の空気に、僅かに、息を飲んだような緊張が走る。  数瞬後、花の群生を挟んで、何時の間にか少女が前に立っていた。 「私達は、一度受け入れた動物の前に姿を現したり、言葉を交わしたりすることは禁じられているの。短い生命の動物に、情を注ぎすぎてはいけないって、言われて。」 「ヨシノは初夏には帰るって知ってたから、どちらにしろ別れが来るって知ってたから、だから近づいたのか?」  少年の質問に、こくりと頷いて、少女は言葉を継ぐ。 「人間達がこの谷間に来た時、怖かったけど、嬉しかった。この谷って乾いているから、生き物達も少なくて淋しくって……。だから、もっと人のこと知りたいと思った。でも、余計わからなくなっちゃって……。」   「……人を受け入れるかは、この谷が、お前が決めなくちゃいけないことだよ。でも、これだけは伝えておきたくて。」  この谷に流れる砂と、同じ色の髪を持つ少女を励ますように微笑んでから、すっと少年は立ち上がった。 「僕は、この谷が好きだ。少なくとも今はこの谷に住みたいって、想ってる。」    少し照れくさそうな、真剣な表情になって、少年は言葉を少女に届けた。  幼かった頃、もうひとりの青い髪の少年に言えなかった、言葉を。  もっといろいろなことを学んでみたくなったから、大きくなったらどうするかわからないけどと、軽く微笑んで、少年は手を振りながら駆け出した。 「それから、ヨシノの、ヨシノさんの歌だけはちゃんと聴きに行ってやりな。ヨシノさん、お前が楽しみにしてるから頑張るって、言ってたから。それだけだ。」  両手を小さな胸に重ねて、青い瞳を丸く見開いた少女を、白い花の谷に残して。     *  五月の祭りは、まだ日も明けやらぬ早朝から準備が始まった。  いつも水を汲みに来た井戸の広場には、何時の間にか周囲に沢山の卓が置かれ、各自のキャラバンに蓄えられた酒や食べ物が並べ始められていた。  その広場の中央には、古い遊牧民の文様を土に刻んだ、円形の陣が設えられている。夜明けと一ノ月の双つの光に晒されたその陣には、何処か厳かな雰囲気が張り詰めていて、それが娘の胸を高鳴らせる。 「せいぜい恥をかかない程度に頑張ってな。あいつも、きっと来るから。」  女性達に付き添われて、衣装の準備をしに行く直前に、少年が逢いにきてくれて、少しだけ気持ちを落ち着かせて、くれた。  髪をふたつにおさげのように結って、銀色の飾り紐で留める。  白と淡い水の色で織られた裾の長い衣を纏って、裸足の足首に同じく銀色の輪を、ふたつ。手首にも、ふたつ。  鮮やかな群青色の帯で衣を止めて、揃いの色の透き通るように薄いショールを緩やかに肩に羽織る。袖と帯留めを小さな鈴がついた飾り紐で軽くゆわく。  そして、胸元に旧くからの祈りを込めた宝石を、ひとつ。  遠い過去から旅する民の巫女が纏った衣装は、質素な作りながらも、清楚で厳かな美しさが込められていた。練習の時には、わいわいと嬌声をあげていた娘達も、この朝は何処か厳かな心持ちになって、淡々と気象官の娘の着付けを手伝っていた。  しゃん、しゃんと、ふたつずつの銀色の輪が奏でる音を聴きながら、開拓の民達が周囲に集った円形の陣へと歩を進める。  巫女の衣装を纏った時から、不思議なことに緊張感は何処かへ消え去っていた。  まるで、気象官の娘が巫女を演じるのではなく、巫女の衣装が娘を操るかのように。  そっと、周囲の民の中に少女の姿を探してみたが、何処にも見えなかった。  それでも、と、ふと父の言葉を想い出して、心の中で呟いた。  あの青い髪の娘を、そしてこの大地自身を、励ますために、と。  そうして、気象官の娘は、一ノ月の月明かりを受けて、舞い、歌った。  遠い昔から、この民族の娘達が込めたのと、変わらない祈りを込めて。   南の風が谷を 越えてふいたら   女はまた今年も 種を蒔くだろう   夏の日 光浴びて そよぐ麦草   それだけ 思いながら 種を蒔くだろう   harvest rain 音もなく降りそそげ   harvest rain 傷ついたこの土地(つち)に   明日目覚めた いのちにも   同じ岸辺を つくるように   緑のなかで さざめいた   娘の歌が 絶えぬよう  緊張と疲労は、歌い終わった後になって、身体に降り注ぐように襲ってきた。  その後自分がどうしたのかは、開拓の民達の喝采に包まれたり、きゃあきゃあ喜ぶ娘達に衣装を脱がせてもらった朧げな記憶の他は、あまり憶えていない。  我に返ったのは、既に祭りの喧騒に沸く井戸の広場を、少年とふたりで抜け出した時だった。糸が切れたように力が抜けた身体を支えてもらって、何とか天幕へと戻った。  そこへ、初めて歌を聴かせた夕暮れ時と同じ杭に座って、青い髪の少女が待っていた。  驚いて近寄ろうとしたふたりを手で制して、遠巻きにすっくと立ち上がる。  いつもと同じたゆたう波のようなこの谷の風に、青い髪をさらさらと揺らせて。   「ヨシノさんのうた、聴こえた。……ほっとして、心の底から嬉しくなった。」  少し大人びた穏やかな表情で、少女はふたりへと言葉を紡ぐ。 「わたし、ヨシノさんも開拓の民も麦の畑も、みんな好き。だから、育てなくっちゃ!」  そう叫ぶと、少女はぱっと駆け出した。  月の淡い明りの下で、駆けて行く少女の姿は少しずつ成長していくように、見えた。  短かった髪がさらさらと伸びて、艶やかな蒼の黒髪が流れる。  背も遠ざかる度に少しずつ、気象官の娘と同じくらいまで伸びてゆく。  そうして綺麗な娘に成長した少女は、最後にふわりと振り向いて、あの変わらない青い瞳でふたりに微笑んで、そのまま月明かりの中に溶けて、消えた。  まるで、あの真白い花が咲く谷に降り注いだ雨から、ずっと続いてきた幻だったかのように。  それが、気象官の娘と少年が、この谷の少女を見た最後の瞬間だった。     *  それは、夜遅くまで騒いで祭りを楽しんだ開拓の民の最後の一人が、暖かい毛布に滑り込んで、あらゆる生物が寝静まった暁時にはじまった。  はじまりは、眠る娘の夢の中で、遠く、遠く聴こえてきた歌声だった。  澄んだ高い声で、静かに張り詰めた夜と朝の境界の空気に染みとおる、歌。  言葉になるかならないかのハミングは、娘の記憶の詩と重なって、眠りの淵でこんな風に、聴こえた。   かわいた月の朝に 女は踊る   海へと還る雨を 呼び戻すため   harvest rain この地球(ほし)の者たちへ   harvest rain 空からの贈りもの  次に気づいたのは、あの幻のような雨の朝に湿度の上昇を娘に伝えた、携帯端末だった。無機質に響く携帯端末の信号音に、夢の中で流れる歌声を阻まれて、ぼんやりと娘は目を醒ます。  夢心地で起き上がった娘に、天幕の隙間を抜けてふわりと強い湿った匂いが届いた。  『燈火』のレーダを見るまでもない、明らかに判る、雨を連れた雲の匂い。  ショールを羽織って、端末を手に天幕の外に出る。  まだ色濃く紺色に沈んだ暁の空の低みに、暗い灰色の雲が目視できた。  その生まれたばかりの雲を運ぶ、山から吹き降りる生暖かくも強い風。それは、この南の谷間に呼び寄せられて降りてくた、遠い南の国から永い旅を続けた季節風の欠片だった。  慌てて少年の天幕に飛び込んで、熟睡していた少年を揺り起こす。  祭りの疲れで眠そうな瞳を瞬いた少年に、興奮した声で娘は告げた。 「ねえ、起きて! 雨が降るわ。この谷に、雨が降りてきてる!」  最初の水滴がこの谷の大地に墜ちたのは、二人が天幕から出たのと同じ瞬間だった。    ひとつ、またひとつ、弾ける音を奏でて、天から還ってきた水滴がこの大地へと降りてくる。  ほんの数秒間は識別できる和音だったその音は、すぐに幾重にも幾重にも無数に降り注ぐ雨の滴の音が重なって、大地を静かに揺るがすようなひとつの調べとなって響き渡る。  やがて、目の前の風景は、無数の水滴のカーテンに包まれた。  それは、幻のように細やかに降る雨とも、気象官のもたらす降雨とも、違っていた。  生物を受け入れた大地の祈りに応えて、ずっと乾ききって傷ついた土地に降り注ぐ、豊穣の雨。  それは空から土へ、土から種へ、その大地に生きるものへと循環し、何時かまた海を経て空へと還ってゆく、大きな水の流れを創り出す。  その営みがこの谷に訪れて、倒れた麦の穂を、ジャガイモの葉を、あらゆる生命達を癒してゆく。  厳かで圧倒的な雨の調べに身を浸したまま、気象官の娘と少年は何も言葉を継ぐことができずに、ただ黙って暁に降り注ぐ雨を見つめていた。  豊穣の雨に、その髪が、頬が濡れてゆくのに任せたままで。 「ねえ、耳を澄ましてみて。雨音の遠くに聴こえない?」  やがてふと我に返った娘が、激しい雨の調べの奥から届く声に気づいて、言った。  何が、と呟く少年に、気象官の娘は目を閉じて、そっと答える。 「あの子が、雨を祈って歌う、歌声。」   harvest rain この地球(ほし)の者たちへ   harvest rain 空からの贈りもの   いつか大地を 駆けめぐり   同じ谷へと 降りてくる   季節の吐息 刻み込む   いのちの縁を 癒すもの   空から海へ 続く川   土から種を めぐるもの   いきづくものへ 続く川   実りの歌を つくるもの   季節の吐息 刻み込む   いのちの縁を 癒すもの     *  降り注ぐ雨の名残をのせた、微かに湿った風が谷を通り抜けてゆく。  その風は、集落の外れへと向かう道すがらの畑を抜けて、日差しを受けて空へと精一杯手を伸ばす、艶やかに色づいた麦の穂をさらさらと揺らしてゆく。  井戸の広場で、開拓の民達の喝采に包まれながら集落との別れを済ませて、少年とトキと一緒に『燈火』へと歩いてゆく。ちょうど、はじめてこの谷に着陸して、ふたりに迎えられた時のように。  あの時、開拓の民の子供達を眺めて、白衣を纏った自分が酷く場違いに感じたをの憶えている。  結局、帰る時もその白衣を着てゆくことにした。赤褐色の土と淡い青の砂埃に汚れたままの白衣で。都市に帰ったら洗わなくてはいけないだろうけど、この谷間の土汚れと共に学んだこと、心に刻まれたことは、きっと忘れない。 「まさか、局長さんの上を行くとは思わなかったねぇ。本当に雨を降らせちゃうなんて……。まあ、局長さんにはさすがに巫女の役は無理だけどさ。」  一夜にして変化を遂げた大地の風景を眺めて、しみじみとトキが言った。 「本当に、気象局が嫌になったらあたしらと一緒に旅をしないかい? 開拓の民専属の巫女さんになってもらいたいくらいだよ。」 「たまたま、私が歌った祭りの夜に雨雲が差し掛かっただけですってば。それに、巫女の役もあんな大勢の前で歌を歌うのも、もうこりごりですから。」  冗談めかして言うトキに釘を刺すように、気象官の娘はわざとむっとした表情を浮かべて応える。 「僕は、巫女を見る目は結構あるんだぜ。」  悪戯っぽく笑って、少年がそんなことを言う。 「……まさか、あのくじ引き、貴方が何かしくんでいた訳じゃないでしょうね。」 「じゃあ、これで。本当にお世話になりました。」  観測艇まで三人で歩く、名残惜しい時間はあっという間に過ぎた。『燈火』の翼が見えた場所で、娘はくるりと振り返って、あえて事務的に感謝と別れを告げた。 「ユキノ、さん。」  そんな娘の後ろ姿を、少年はそっと呼び止めた。  今まで聞いたこともなかった少年の呼びかけに、驚いて娘が振り返る。 「僕はしばらくこの集落に留まるつもりだ。だから、またこの谷に来てね……きっと、あいつも、ユキノさんのことずっと待ってるから。」  少し照れくさそうに微笑んで、言葉を届ける少年。  そんな少年の言葉に、少年とあの青い髪の少女と過ごした日々の想いが、娘の胸に押し寄せてきて、返す言葉が見つけられなかった。  だから、言葉はなしに、ただ黙って微笑んで、頷いた。  ひとりになって、まだ胸に溢れてくるものを抑えながら、荷物を抱えて『燈火』のキャノピーへと近づく。  そこに見た光景に、ずっと我慢していた胸のうちが、くしゃっと溢れてしまった。   「……もう、これじゃあ離陸できないじゃないのよ……。」  娘の身体の内から溢れた、温かな雨の滴がひとつ、ふたつ、花弁の上にこぼれた。  いったい誰が植えたのか、『燈火』を囲むようにして何時の間にか一面に咲いていた、あの綿のような真白い花に。  暫くの間そろそろと静かに移動してから、娘を乗せた観測艇は、噴出音を残して空へと高く舞い上がってゆく。 「……少なくとも秋の祭りには、絶対来てくれないと困るけどね。」  飛翔してゆく『燈火』を目を細めて見上げながら、少年は悪戯っぽく呟く。 「秋の祭りには、同じ巫女が感謝の歌を捧げるのが決まりだからねぇ。」  少年に応えて、トキが張りのある声で笑った。  眼下に、集落の天幕が、麦畑が、南の峰の谷間が広がって、遠ざかってゆく。  ずっと眠り続けていた草達の種子があの雨で目覚めて芽を開いて、谷間は淡い黄緑の彩りに覆われていた。  そんな谷間に別れの挨拶を送るように、双つの翼のランプを明滅させて、しばらく谷間の周囲を巡回した。  まるで『燈火』のメモリにも、この谷の光景を憶えさせるように。 「『燈火』より、気象局観測艇コントロールセンターへ。本艇は長期観測任務を完了、これより帰還します。」  機種を都市へと旋回させ、通信電波を都市に送信してから、操縦を暫くの間オートコントロールモードにして、娘はそっと目を閉じる。  目を閉じると、今でも聴こえてくる気が、した。  青い髪の少女が、夕暮れの天幕の外で、あの降り注ぐ雨の中で歌っていた、雨を祈る歌の歌声が。 −−私、あなたを、あなたの歌と豊穣の雨を、ずっと忘れない。  静かに心の中で少女へと想いを伝えて、そのまま心地よい歌声に身を任せる。  豊穣の雨を降らせた少女の歌声は、娘の胸の奥で、まるで雪の結晶のように澄んだ形を結んで、遠くからずっと、ずっと聴こえていた。                                    Fin.