そら とぶ ゆめ   Act.1 Eden  *****Flight Recorder***** 「ごめんね、『翼』。」  『小さな月』は、機械に、ぽつりとつぶやいた。 「……あの子、飛ぶのはじめてだったから。」  夜天の群青色に融けきれずに、幾重にも厚く暗く満ちた、灰色の大気の層。  その層を貫くようにして、鈍い銀色の有人攻撃機が飛んでゆく。  ただ一機、徐々にその高度を落としながら。 「私の、力不足です。もう少し私の反応と計算が早ければ……。」  『翼』は、娘の言葉に、静かに応えた。  娘の耳に、微かに水色に映る半円形の通信片を通じて。 「あなたが、はじめて飛ぶ部下を護りたいと想っていたのは、わかってはずなのに。」  時折、右の動力機構から噴き出す炎が、燈火の様にぼんやり雲を照らす。  自らを燃やすその燈の照り返しを受けて、銀の流線型の機体が、夜の中で橙色に映る。  戦争が始まるより、ずっと、ずっと昔、空を飛んでいたという『鳥』という生物達。  その『鳥』が、どこまでも飛ぶために持っていた、『翼』という器官。  その名前を持つ攻撃機と、その名前を付けた娘は、数多の夜空を二人で駆けてきた。  過去の飛行生物が澄んだ空を舞うように、自由自在に機体を操り、幾つもの敵機を墜としながら。  でも、それも、部下の攻撃機を捉えた敵機の光弾の目前に、娘が機体を盾にして飛び込むまでのこと。  『翼』は瞬間的に被弾位置を計算して、娘を護ろうと試みた。  その試みは半ばまでは功を奏した。直撃は免れ、光弾は右の動力機構を掠めて爆発するに留まった。  だが、『翼』を傷つけられた『鳥』は、いずれは大地へと墜ちてゆく。 「リトル・ルナ、あなたの名前を教えてください。」  機械の音声が、通信片を通じて、淡々と娘へと届けられる。  時折、かすれるようなノイズが、その声に混じる。  ひと時、二人の間には、そのマシン・ノイズだけが鼓動のように伝わってゆく。 「私はリトル・ルナ、『小さな月』よ。」  やがて、娘は静かに答えた。 「だって、あなたがそう呼んでくれたから。」 「私が知りたいのは、あなたの本当の名前です……脱出殻を射出します。」  やや伝達速度を速めた、『翼』の機械の声。  演算装置で計算されて生まれた、擬似的な「焦り」の表現。  脱出するということは、飛空兵が自らの命のために、攻撃機という貴重な物資を、そして愛機という戦友を捨てることを意味する。  それには、重大な責任があり、状況によってはいかなる罰則も受けるという覚悟を要する。  だから、ヴォイス・レコーダの最後に名前を刻み、自らの責任を認めない限りは、脱出機構は作動させることはできない。  逆に、この証拠が残されていない場合、敵味方に関わらず、墜ちた機体を調査すること、再生することは許されない。 、そして、奇跡的にパイロットが生還した場合、一切の責は問われない。  それが、飛空兵達のルールだった。  もっともそれは、かつて資源が枯渇していた頃に作られた慣習だった。  現在では、あらかじめパイロットの名前を機体に登録しておき、あとは機体の判断で自動的に脱出を決行する。  だから、パイロットが機体に名前を教えることは、今でははじめて二人で空を飛ぶための儀式のようなものだった。  だが、はじめて空を飛ぶ時、娘は機械に名前を教えなかった。  そして代わりに、機械に、名前を与えた。  どこまでも、どこまでも飛びつづける、遠い昔の生物達に例えて。  『休まない翼』、と。  暫くの間、機内は、寄せるように鳴るマシン・ノイズだけになる。  規則的に、静かな音で、くりかえし、くりかえし。 「今夜は、月、見えないね……見たかったなぁ。」  深く座席にもたれて、殻を包む透明な風防の外に広がる灰色の闇を見上げて、娘はぽつりと言った。  時折、ちいさな粒子のようなものが、音の速さで風防にぶつかって、微かに光を放つ。 「この区域は、今、雨が降っていますから。」 「雨……ってなに……?」  不思議そうに、娘は水色の通信片を通じて、機械へと問いかけの言葉を送る。 「地上で蒸発した水分は、大気中に凝縮して灰色の雲の層となります。」  等しく時を刻んで、打ち寄せるマシン・ノイズが、二人の通信を一瞬切断する。  雑音の波は一瞬すぐに引いて、また機内に静寂が帰ってくる。  赤、橙色、紅。またたくように、操作板に警告灯が音もなく明滅する。 「そして、やがて無数の滴となってまた地上に降り注ぎます。それが、雨です。」  何事もなかったかのように、機械は記憶媒体から情報を引き出して、パイロットに答えを返す。  警告灯の耳障りな音は、そっと切って、光の明滅だけをそのまま残して。 「ふうん……私、見たことなかった。」 「気候制御された街の中では、ほとんど見ることはできませんからね。月も、雨も。」  そうね、と声に出さずに呟いて、娘は透明な殻をじっと見つめた。  煙のように幾重にも重なった、灰色の夜気から、幾千、幾億と墜ちてゆく、水の滴。  その無数の静かな落下の、ほんの一片だけが、炎をあげて音の速さで墜ちる翼と出逢う。  水の流れを切るように、瞳からこぼれた水滴が頬をつたうように。  一瞬、風防に止まった雨の粒子は、はじけるように透明な表面をつたって、背後に流れてゆく。 「まるで、涙みたい。夜空も、涙を流すんだ……ちゃんと、憶えておかなちゃ。」  たぶん、この夜空の涙が、私が飛んだ最後の記憶になるから。  飛ぶことが怖くて、だけど、何より大好きだった娘は、そう、心に呟いた。 「ルナ、もうあまり時間がありません。」  淡々と、少し諭すような音の波形を算出して、半月形の通信片に伝える。  パートナーである『小さな月』の感情や過去の行動から演算された、機械の、符号。  誰より速く空を飛び、幾つもの敵機を墜とした撃墜王。  同時に、戦うにはまだ幼い、一人の娘。  その想いを、『翼』は分析し、演算し、最良の結果を音声にして送る。  いくら、それが人の話す声と同じでも、それは演算結果でしかない。  シミュレートし、検算し、有効性の検証すらできる、擬似的な「言葉」でしか。  だが、時に演算の結果とはかけはなれた音声を、『翼』は通信片に送ることがあった。  徐々に近づくように、こすれるようなノイズだけが、絶え間なく響く。 「たったひとりで、空から墜ちるなんて、絶対嫌。そんなの、怖すぎるもの……。」  水色の月を通じて、微かな震えとともに、ぽつりと呟きが返ってくる。  ちいさな娘の、想いの奥から届く、言葉。 「雨の滴が、私の代わりにお供しますから。」  自分でも予期せず、機械はこんな「言葉」を返す。  こんな時は、後からいくらシミュレートしても導き出せない、不思議な結果を。 「『翼』、あなたと話してると、時々あなたが機械だってことが信じられなくなるわ。」  少し驚いたように、『小さな月』は優しく言った。  名前を告げないパートナーを、『翼』が初めてその呼び名で呼んだ時も、そうだった。  娘は、恐々と、両手に握った操縦桿をそっと離した。  ふぅ、と、ちいさな吐息をひとつ浮かべて。  とたんに、身体中を殻のように包んでいた緊張が、空気に融けるように抜けてゆく。  その、あまりの開放感と、代わりに押し寄せる灰色の雲のような不安に、瞼の奥が熱くなる。  ひとつ間違えただけで自分の身を打ち砕く光弾を、ただかわし続けること。  光弾を放ち、幾つもの敵機を撃墜すること。幾人もの敵の飛空兵を、空から墜とすこと。  そんな、飛ぶことの怖さ、緊張を、娘は、絶えずこのちいさな両手に握り締めていた。  それは、他の飛空兵達のように、戦いに勝つためや、生きのびるためではなくて。  ただ、月を見ながら、ずっと、ずっと空を飛びつづけていたかったから。  何時の日か、月まで飛んでみたいとさえ、想ってた。 「静かね……。何だか空じゃないみたい。」  深く座席にもたれて瞳を閉じると、静かな音たちが聴こえてくる。  傷つきながらも、なお飛びつづけようと回転し続ける、動力機構の高い響き。  機体を一瞬とりまいて、すぐに遥か後ろへと流れてゆく、水の流れのような、空気の音。  涙のように、空を墜ちてゆく、幾つもの雨の滴のおと。  微かに閉じた瞼の奥にまで届く、ちいさな生き物のような、警告灯の明かり。  そして、ひときわ大きく、規則的に寄せては引いてゆく、さらさらとしたマシン・ノイズ。 「ねえ、海に住んでいた昔の生き物って、何て言うんだっけ。」  瞳を閉じたまま、娘はふと、こんな質問の言葉を投げた。 「魚や、貝ですね…。今でも、僅かな数ですが海に生息していると言われてます。」  パイロットの質問の意図を解析しながら、機体は回答を送る。 「魚が海の中を泳ぐのって、もしかしたらこんな感じなのかもね。」  人間が住める地域から、遥かに離れた場所にあり、今でも昔の生物達がいる、海。  瞳を閉じて音を聴いていると、不思議と、海のことが娘の心の奥に浮かんでくる。  一度も見たこともなくて、想像もつかないのに、何故だか、懐かしく想えて。  繰り返すマシン・ノイズの音、あれは、海の水が陸地に打ち寄せて、還ってゆく音に似ている。  そう、娘の知らない、心の奥底の遠い記憶が想い出す。 「不思議ね……すごく怖いのに、怖くてたまらないのに、何だかほっとする……」  墜ちてゆく先が海だったら良かったのに、そう、娘は想う。    だが、機体の真下、雨が降りてゆくその先には、一面の砂丘が広がっていた。  背後で大きな爆発音が、懐かしい音を破って響く。  一瞬、大きく機体が揺れて、橙の強い灯が灰色の空気に照り返る。 「ねえ『翼』、魚になって、一緒に海の底まで降りてゆこうよ。最後まで、二人で空を飛んでいたい。」  だんだん大きくなってゆくマシン・ノイズの彼方に、娘はぽつりと言葉を届ける。 「どのみち、いつか墜ちるんだったら、今『翼』と一緒に墜ちる方がいい……。」 「魚というよりは貝かもしれないですね。こう見えても私の殻は頑丈ですから。」  また、自分でも予期しない「言葉」を、『翼』は返す。  不意に、何処からか不可思議な判断結果が、次々と自分の回路から伝達されてくるのを『翼』は感じた。  下は砂丘、衝撃を和らげるよう軟着陸させれば、パイロットは救えるかもしれない。  機体に燃える炎がまわらずに、大地までこの機体と制御機構が持ちさえすれば。  演算機構の結果は、一刻も早いパイロットの脱出を告げているにも関わらず、空気を切る機体の金属から、空を飛ぶこの機械の全体から、あふれてくる。  何よりも、自分の手で、殻の中の『小さな月』を護りたい。  いつかもう一度、娘と空を飛びたい。  それは、この空を飛ぶ機械の中に、小さな灯りのように生まれた、想いだった。 「私が、『休まない翼』の名にかけてお護りします。リトル・ルナ。」  とうとう機械は、娘へと、言葉を返す。  演算では求めることのできなかった、機械の想いから生まれた、言葉を。 「あなたに頂いた、この名にかけて。」 「ありがとう……無理、しないでね。」 「了解。」  寄せては返す、マシン・ノイズの音が、どんどん大きくなって二人を包み込んでゆく。  娘は、耳からそっと、水色の通信片をはずして、胸にそっと抱きしめた。  本物の月のように輝きの形を変える、娘と機械を繋ぐ、小さな月を。  無数の雨の滴と一緒に、橙色に燈る『翼』は、太古の海の生物のように静かに墜ちてゆく。  薄れてゆく意識の彼方で、娘には、ノイズの波の向こうから届く不思議な優しい音の連なりが、ずっと、ずっと聴こえるような、気がしていた。  灰色の雲に隠されて見えない、遠い夜天のはるか向こうにある大きな月から届く、見送るように届く、優しい音の紡ぎが。  *****End of Flight Recorder*****     *  ぱちん、ぱりん。  娘の上に広がる、凪いだ淡い翠色の水に、ちいさな粒子が飛びこんでくる。  降りた跡に、幾重にも円い透明な模様を描いて。  ひとつ、また、ひとつ。  つい先ほどまで、緩やかに規則的な波の形を描いていた海面は、瞬く間に、ぽん、ぽんとひらく花のように、透きとおった同心円でいっぱいになる。  まだ、波間が残し持っていた微かな陽の光が、跳ねる水滴に反射して、光の粒のように、ちらちらと輝きを添える。  娘は、息を止めたまま、遠浅の海の底にあお向けになって、海に墜ちてくる雨の滴を見つめていた。  頬のすぐ横を、突然の雨に驚いた魚達が、慌てたように何匹もかすめてゆく。  雨の日の海って、なんだかやさしい、と娘は思う。  遠い、遠い空の彼方から、ずっと墜ちてきた雨の滴を、まもって、ゆるやかに受け止めるから。  幾万、幾億の、空からかえってきた滴を抱きとめる、おおきな、おおきな海の腕。  その懐で息を止めて雨を見ていると、なにかが、こころにあふれてくる、気がする。  遠いむかしの、記憶、わすれてしまった、ことば。 「るな、もうあがらないと風邪ひくよ。」  強くなってきた雨音とさざめく波の音の向こうに、呼ぶ声を聴きとって、娘は肺に残った空気を、ふぅとはいて、砂浜へと水を蹴った。  風のようにかすめる水流に、首にかけた水色の月のペンダントが、ちらちらと揺れた。  潮風にさらされてかわいた岩場を潤すように、空から雨が降りてくる。  そのちいさな滴の、ひとつひとつが旅を終えて大地に着く度に、ぱら、ぱら、とささやかな響きを打ち鳴らす。   「るなは、本当に海が好きだね。」  黒く湿った岩場に、娘が足を滑らせないかと見守りながら、初老の風読みは話しかけた。 「雨が降るって時にも、平気でひとりで泳ぎに行っちゃうのだから。」  そんな風読みの心配もよそに、軽やかな足取りで崖道を登っていた娘は、くるりと振りむいて、想った。    だって、雨も、すきだから。 「ふうん、村の子達なんか、雨が降るとみんな怖がって遠出しないのにね。」  穏やかな表情で少し首を傾げながら、風読みは、娘の想ったことを読んで、応えた。 「そう言えば、僕がるなにはじめて会った時も、雨が降っていたっけ。」    もう、あんまり、おぼえてない。  なかなか乾かない体を軽く震わせて、今度は、娘が少し首を傾げて、笑う。  娘は、声に出して伝えるための、言葉を、ずっと昔から忘れていた。  まだ幼い頃、ある雨の夜に、風読みが娘を拾った時から、ずっと。  だから、娘は、風読みに何かを伝えたい時、胸にかけた水色の月のペンダントに向けて、想う。  そうして、不思議と水色の金属を経た想いだけは、たどたどしい言葉になって、風読みへと届く。  もっとも、その声にならない、たどたどしい言葉を読み取ることができるのは、風や空気の音を聴き、優れた耳と感性を持つ、風読みだけだった。  夏の近いこの季節にしては、雨の滴は、静かなひんやりとした空気を纏っていた。  ぱたぱたと、繁みの葉を鳴らす調べに、時折、雨宿りして羽を震わす水鳥の声が、ちい、ちいと唱和する。  登り坂を歩いて、随分下に降りた海からは、変わらずに波の調べが続いている。  海岸から急な崖道を登りつく頃、ようやくふたりが住む観測所の影が見えてくる。  観測所からは、海も、人々が身を寄せて住む村も、一目で見渡すことができた。  高い塔を持つ、ずっと昔の建物跡を作りかえた、崖の上のちいさな家。  背の高く、不思議な形のそのシルエットは、灰色の空の下で見ると、何処か穏やかに見える。  そのシルエットを見上げた娘が、ふと、何かに気づいたように、風読みに尋ねた。    ……あれ、鳥さんのかたち?  きつい登りに少し息を切らせた風読みが、その問いに気づいて顔を上げると、娘は観測所の塔の方を指差していた。  その細い指の先、古い塔の一番上には、魚のような細い流線型の風向計の飾りが、湿った潮風を受けて、そよそよと揺れていた。  両方に伸びた細い翼で風を切って、先端につけた、丸い形をくるくるとまわして。 「鳥じゃないよ。あれはね、空を飛ぶ「機械」を模っているんだ。」  風読みは、観測所のシルエットと同じように、穏やかに答えた。 「どれくらい遠い昔だか、それとも別の世界のことだかわからないけど、人間が「機械」を作って、空を飛んだことが、あったそうだよ。」  ふうん、と想いで応えながら、娘は軽やかに崖の上に登りついて、遠く広がる海のいちばん向こうを見つめる。    海でおよぐのと、空をとぶのって、おんなじ感じなのかな。  しばらく、家に入らずに、ふたりは海と空の境目をぼんやりと見つめていた。  その境目は、青い灰色の中に溶けて、ゆるい曲線を水平線の向こうに描いて、繋がっているように見えた。  その繋がりの通路を抜けて、墜ちてきたちいさな雨の粒達は、変わらずに海へと降り注いでゆく。  海は、絶え間なく続く波の調べで、護るようにその滴を受け止める。 「あの塔の中には、不思議なものが眠っているんだ。」  無意識に呟くように、初老の風読みは、言葉を潮風に乗せた。 「今は駄目だけど、るながもう少し大きくなって心が落ち着いたら、見せてあげよう。」  娘は、少し首を傾げただけで、何も伝えずに風読みの呟きを聴いていた。  はるかな海のリズムに、心をあずけたままで。